ヨルダン見聞録
この文章は、あるメディアに掲載しようとしたものの、諸事情により「没」になったものです。けっこう力を入れて書いたので、勿体ないので、NOTE に掲載することとしました。
今年(2026年)の連休、私はサウジアラビアとヨルダンを旅した。
今の時勢で「中東を旅する」と言うと「危険なのではないか?」と思う人が大半だろう。しかし「サウジアラビア見聞録」に書いたとおり、私は「サウジアラビアとヨルダンの両国は安全だ」という確信を得たので旅立ち、実際に安全に楽しくこの両国を旅した。
この記事では、ヨルダンについて説明する。
観光資源に溢れる国・ヨルダン
「ヨルダン」と聞いてイメージの湧く人はほとんどいないと思う。
しかし「ペトラ遺跡」なら聞いたことのある方も多いだろう。映画『インディー・ジョーンズ最後の聖戦』(1989年)のロケ地として使われた、赤茶けた岩窟のある遺跡だ。
ヨルダンは、そのペトラ遺跡のある国だ。また首都のアンマンは紀元前13世紀頃からの歴史がある。ヨルダンは、とにかく遺跡の多い国だ。
またヨルダンには、身体が浮かぶ湖といて有名な「死海」もあるし、赤い砂丘と巨大な岩山が織りなすワディ・ラム砂漠もある。
旅の案内は記事の後半で説明するが、ペトラ遺跡は圧巻だった。また、死海はとても気持ちよく、ヨルダンはまた行きたい国の一つとなった。
そんなヨルダンがあるのは、中東のど真ん中だ。
西にはヨルダン川を挟んだすぐ対岸にイスラエルがある。そして北にはシリアやレバノンがあり、東はイラクと国境を接している。
かなり微妙な位置にある国、ということがわかるだろう。

しかしヨルダンは、こうした国々に囲まれながら、政治的にも安定し、また国内の治安も良好に保っている。
中東の緩衝地帯・ヨルダン
ヨルダンの西の隣国はイスラエルだ。
このあたりの歴史は、立場により複数の、ときには真逆の主張があるのだが、あえて簡単に説明すると、イスラエルとは、元々パレスチナ人が住んでいた土地に、第二次大戦後にここはユダヤ教の「約束の土地」であるとして、ユダヤ人達が入植してきて作った国だ。
そもそもの原因は、英国が第一次大戦中にアラブ人、ユダヤ人、仏露両国に対してそれぞれにパレスチナの地を分け与えると密約した「三枚舌外交」にあるのだが、これでは対立が起きないはずがない。
東西冷戦時代には、イスラエルが米国側、アラブ諸国の多くの国がソ連側について、対立を続けてきた。今まで4回発生した中東戦争、また現在も続くシリアやレバノンの内戦、また今年3月に起きた米国イスラエルによるイラン攻撃などは、こうした背景の上にある。
しかし、ヨルダンはこうした戦禍にほとんど見舞われておらず、国内政治も安定している。
ヨルダンは石油も出ず、水資源にも乏しい。経済的にも脆弱な小国だといえる。
だからこそ、生き残るためには「外交」が最も重要となる。
ヨルダンは、1994年にはアラブ諸国ではエジプトに次いで2番目にイスラエルと平和条約を締結した。また、米軍基地を置く代わりに、米国から(GDPの3%近くに相当する)年15億ドルの援助を受けている。
今回の戦争でもヨルダンは、イランからイスラエルに向けて発射されたミサイルを自国領内で迎撃した。
ヨルダンは、圧倒的な軍事・経済強国の米国とイスラエルとの関係を維持するという、現実路線を取っているのだ。
その一方で、イスラム諸国との関係も維持している。
現在のヨルダン王室は、イスラム教の預言者ムハンマドの直系子孫とされており、これがイスラム世界における宗教的正当性の源泉となっている。またパレスチナ問題では、米国とイスラエルの政策には、公然と反対している。
またヨルダンは、意見の異なる中東諸国の間を取り持つ役割も果たしている。近年でも、サウジアラビアとカタール断交(2017〜2021年)の調停や、シリアのアラブ連盟復帰(2023年)について、ヨルダンは仲介役として関与した。
このように小国ヨルダンは、どの陣営からも「敵」と見なされないよう、綱渡り的な外交をしつつ、生存しているのだ。
ヨルダンの難民たち
ヨルダンの外交で重要となるのが、難民の受け入れ政策だろう。
ヨルダンは、中東で紛争が起きるたびに難民を受け入れてきた。
中東戦争ではパレスチナ人を、湾岸戦争ではクウェートからの難民を、イラク戦争ではイラク人を、2011年からのシリア内戦では大量のシリア人難民を受け入れてきた。
現在ヨルダンに住む難民数は登録されているだけで50万人だ(国連難民高等弁務官事務所、2023年)。また多くの人は難民登録をせずにヨルダンに労働者として移住していおり、(移住者を含む広義の)難民数は400万人と推定される。
ヨルダンの人口は約1000万人、ヨルダンの人口の半分近くがこうした(広義の)難民たちだ。
難民というと、劣悪な難民キャンプでテント生活するイメージも強いが、そうした生活を余儀なくされているのは10万人ほどだ。難民の多くはヨルダンの大都市に住み、賃金の安い仕事について生活をしている。
私もヨルダンの首都アンマンのカフェに入ったとき、隣の席の若者に声をかけられて話をした。
彼はヨルダンの大学にも籍を置くシリア人で、内戦のためヨルダンに避難し、今はアンマンでインテリア・デザイナーの仕事をしているそうだ。こうした彼も広義の難民の一人だ。彼には美しい内庭のあるシリアの実家や家族の写真も見せてもらった。

難民を受け入れ必要な医療や教育のサービスを施すことは、ヨルダンにとって経済的に大きな負担となっている。しかし、仮にヨルダンが不安定化すると、中東全域が一気に不安定化になる。そのため欧米や中東諸国は、ヨルダンを経済的に援助している。
ヨルダンにとって、多量の難民の受け入れは、人道的な意味と同時に、大きな外交カードにもなっている。
賢明な国王による「綱渡り」のヨルダンの政治
ヨルダン王国は王政であり、権力は国王に集中している。現在の国王は、1999年に即位したヨルダン国王のアブドラ2世だ。国王は、英国と米国で教育を受け、西洋的価値観とイスラム的権威を併せ持つ稀有な指導者だといえる。
また王政だからといって、必ずしも強権的ではない。
たとえば、2011年に発生した「アラブの春」によりチュニジアやエジプトで政権が倒され、またその波及をうけてシリアで内戦が始まった。このときヨルダンでも王室に対する抗議行動が起こったが、王室は先手を打って改革を約束し、首相を交代させ、国民と定期的な対話を始め、憲法も改正し、国民の不満を解消した。
ヨルダン国民の7割近くがパレスチナ系だ。国民感情は当然、反イスラエルだ。ヨルダン自体はイスラエルを承認しているが、国民は「イスラエル」という言葉を口にせず、その地域を指すときには「パレスチナ」と呼ぶ。
ヨルダンを下手に民主化したら、イスラエルとの泥沼の戦争が始まる可能性も否定できない。西欧諸国が信奉する民主政がよいのか、賢明な国王による伝統的な統治がよいのか、ということを考えざるを得ない。
ヨルダンの産業と経済
ヨルダンの一人あたりGDPは、約4700ドルと高くない(2024年)。
日本の15%程度であり、インドネシアやベトナムとほぼ同じだ。なんと言っても石油という資源が採れない国なのだ。
その中で異彩を放っているのが、GDPの15%を占める、観光業だ。ペトラや死海といった世界的にも有名な観光地が、外貨を獲得する重要な産業となっている。
また「医療ツーリズム」も急成長している。ヨルダンの医療水準は高く、とくに心臓外科・がん治療・歯科では定評がある。これが近隣諸国からの患者を引きつけている。またジェネリック医薬品の製造も急成長している。
他にも、海外送金はGDPの約1割を占めている。出稼ぎ先は、米国やサウジアラビアといった豊かな国々だ。また首都のアンマンは、不安定な近隣諸国からの金融・不動産ハブとして機能していて、これがGDPの2割近くを占める。
このように、ヨルダンは「資源なき国が知恵と立地で稼ぐ経済」を回しているのだといえる。
もちろんヨルダンも、経済的には問題もたくさん抱えている。
最大のものは失業問題だろう。多量の難民を抱えていることもあり、若年失業率は4割近くもある。また、慢性的な財政赤字が続いていて、公的債務はGDPの9割に達している(2024年)。もっとも日本は250%あるので、これは日本の方が深刻だ。
あと今年の3月に始まった米国・イスラエルとイランとの戦争で、観光客が激減した。現在は「ヨルダンは安全だ」という情報も広まって、少し回復しているとはいえ、依然として低水準にある。
地域の平和は、観光業が成り立つための必要条件ということが言えるだろう。
ヨルダンと日本との関係
日本は米国の同盟国でありながら、イスラエルからもアラブからも「比較的中立的な国」として認知されているそうだ。イスラエルを国家承認しながら、パレスチナの併合は認めない、という日本の方針は、ヨルダンの方針とも近い。
王室との関係も良好で、首脳レベルでの対話も多く、2024年には1億ドルの財政援助を約束している。
また日本は、トヨタ、ODA、JICA、アニメの国として、好意的に捉えられている。
中東には極東系の人は少なく、よく「チャイナ?」と声をかけらたが、「ジャポン」と答えると、みな笑顔を返してきた。
ヨルダンを走るクルマは、韓国の現代自動車が一番多くほぼ半数を占めるが、それでもトヨタは最も信頼されるクルマだ。また、日本はヨルダンの水インフラや難民支援に積極的に援助している。実際に、ヨルダンの新国立博物館や、ペトラ遺跡の新しい博物館の入口にも日本の国旗が掲げられていて、私自身も誇らしい気持ちになった。
また人道援助では、JICAが活躍している。アンマンに事務所を構えるJICAから中東の各地に職員が派遣され、またヨルダン人の日本国内での研修も実施されている。
そして文化面でも、ドラゴンボールなどのマンガや、空手などの武術に人気があるそうだ。
ヨルダンは小国とはいえ中東の安定の要となる国だと言える。日本が、王室からとともに、国民からも得られている信頼の価値は、とても大きいと考える。
ヨルダン、旅の基礎情報
ヨルダンは、旅をするには安全な国だ。
普通の注意をしている限り、旅行者が大きなトラブルに巻き込まれることは、まずないだろう。今回旅した限りでは、ヨルダンの人達は人あたりも温和で、夜中の街歩きにも何も不安を感じなかった。
ただ国内の移動手段は貧弱だ。アンマンは440万人が住む大都市で、道路は悪くないが、地下鉄もトラムもない。市内の移動には、タクシーかUBERになる。タクシーは市民の足にもなっているので高くない。ただ料金は交渉制なので、UBERの料金を見せて、それより少し高い値段を言えば基本はOKだ。
長距離移動はけっこう大変だ。鉄道は存在せず、観光客が使いやすい長距離バスJETTは便数が少ない。(それに私が旅した時期は観光客が激減していた時期であり、JETTも運休していたのか予約サイト自体が動かなかった)
では市民は長距離をどう移動しているかというと、地元の小型バスだ。私もペトラからアンマンまでは、地元のバスを使った。このバスを旅行者が使うのは難しい。私はホテルで予約して、市内のバス停までタクシーで送ってもらった。このバスは発車時刻が決まっておらず、満員になったら出発するという仕組みで、私も乗り込んで1時間半くらい待った。出発時は空席も多かったが、途中で人を乗せ、アンマン到着時は満席になっていた。

またヨルダンの金融デジタル化は遅れている。クレジットカードが使えるのは、ペトラ等の観光施設(土産物屋を含む)とホテルと航空会社くらい。あとは全部現金だ。UBERも、予約こそスマホでできるが支払いは現金だった。
そして、現金の引出機(ATM)は数少ない。空港に2台(それも出発フロアに)、アンマン旧市街の金融街に1台、ペトラの入口と旧市街に計2台、ようやく見つけたくらいだ。いずれも現地の方が長蛇の列で並んでいた。また、引出し手数料も1000円ほど取られた。その代わり、WESTERN UNION など海外送金のオフィスはたくさんあった。ヨルダン経済が海外送金にいかに頼っているかを垣間見た感じだ。
また、中東のイメージと違って、ヨルダンはそんなに暑くない。私が旅した4月末で気温10〜20度くらいだった。
暑い国サウジアラビアだと、多くの店が昼は休んで、午後の16時頃に開店、夜の23時ころまで営業というスタイルだった。しかしヨルダンでは、多くの店は昼も営業しているし、夜は21時には閉店する。
あと観光名所は英語が通じるし、看板などに英語の案内も多いが、一般市民はアラビア語しか話せない。私もグーグル翻訳のお世話になりっぱなしだった。
アンマンの観光案内
今回の旅で私は、首都のアンマン、ペトラ遺跡、死海に立ち寄った。今回はこの3つについて案内したい。
まずは首都のアンマンだ。丘の多い街で、人口440人の大都市でありながら、全般的にかなりほのぼのした雰囲気がある。
アンマンは紀元前13世紀頃から繁栄した歴史のある街だ。
中心部にはローマ時代の劇場の遺跡があり、市民の憩いの場となっている。また、アンマンの丘の上にもローマ時代からビザンチン時代まで使われたアンマン城砦(シタデル)遺跡がある。
そこから歩いて10分くらいで、アンマン旧市街の繁華街となる。また20分ほど歩くと、日本の援助で建設された博物館がある。アンマンの中心部は小さく、上に述べた所以外には見どころもそんなにない。少し離れたところには遺跡もあるらしいが、なにせヨルダンは掘れば遺跡の出る街。今回は特に寄らなかった。
また中心部は軽食の屋台も多く、食べ物を探すには困らない。個人的には、どこでも売っていた、搾りたてのジュース(約200円)と鳥ケバブをクレープ生地で巻いた「シャワルマ」(約100円)がオススメだ。
また、中東の標準的なメニューといえるファラフェル・ピタ(ひよこ豆の揚げ物を半円形のピザに挟んだもの)やシシケバブ(羊や鳥の串焼き)、また油で炊いた米のパラウを味わうことができるし、都市や観光地なら、そうした食事に飽きても西洋風のメニューも多数ある。





ペトラ遺跡の観光案内
ヨルダンといったら、国名よりも「ペトラ遺跡」の方が有名かもしれない。ペトラ遺跡については国内の観光ガイドブックにも詳しく説明があるので、基本的な情報はそちらを参考にしていただきたい。
ペトラは紀元前2世紀頃から遊牧民であるナバテア人が建設した都市だ。ペトラの入口からしばらく歩き、険しい峡谷をくぐった先に見えてくるエル・カズネや、険しい山を登った頂上にあるエド・ディルが有名だろう。
砂漠の峡谷の中に建設されたペトラの水は、数キロ先の泉から焼物製の導水管でできた精緻な水道システムで供給されている。2000年前の驚異的な技術だと思う。ペトラ遺跡は、現在でも全体の2割しか発掘が進んでいないとされる。これからもすごい発見があるかもしれない。
ペトラ遺跡は、入場料(1日券で約1万円)を払えば、歩いてでも全部回れるが、エド・ディルまでの山道は急峻なので、ロバに乗るのもオススメだ。また、夜にはエル・カズネにプロジェクション・マッピングをする「ベトラbyナイト」に参加してもよいと思う。
ちなみにペトラで働いている人の多くは遊牧民のベドウィンとのことだ。ヨルダン政府は町への移住政策を取っているが、昔ながらに岩山に住んでいる人も多い。彼らは観光業で生活しているので、昨今の観光客の激減には相当痛手を受けているようだ。交渉力に欠ける私はベドウィンの思惑にはまって、言いたくないほどの金額をお土産に使ってしまったが、まあイスラム教の喜捨(ザガード)をしたと思っている。



またペトラから100km南には、砂漠の絶景地ワディ・ラムがある。私自身は今回寄らなかったが、ペトラからの観光ツアーも多数出ていると思う。
死海の観光案内
ヨルダンで個人的に最もオススメしたいのは、この死海だ。
アンマンから約50km、標高マイナス430m、アンマンからタクシーで1時間ほど山を下ると辿り着く。(JETTバスの路線もあるが観光客激減で運休中だったようだ)
死海は岩塩地帯に溜まった飽和食塩水の湖で、入ると身体が浮く。日本人的に言うと、いわばぬる湯の超濃厚食塩泉だ。とても気持ちがよく、延々と入っていられると思った。(タクシー運転手をあまり長く待たせると悪いと思ったが、それでも2時間くらい浸かっていて、全く飽きなかった。次は泊まりで行きたい)
死海には公共海水浴場もあるが、沿岸にはたくさんのリゾートホテルが立ち並び、日帰りでも海水浴を楽しめるプランを提供している。(食事無しで2000円くらいだった)
ただ私が行った時には、死海への観光客はほとんどいなくて、たくさんのビーチチェアが並ぶ前で、一人で死海に浸かることとなった。
私は30年前に対岸のイスラエルを旅して、そのときも死海に立ち寄ったが、ただ浮かぶ体験をしただけだった。シニアになったからこそ、温泉に浸かる楽しみを満喫できたものかもしれない。


また死海周辺のすぐ近くには、キリストが洗礼をした聖地ベタニアがある。その聖地近くを流れるヨルダン川を挟んで、10m先はイスラエルだ。軍事緩衝地帯内にある聖地なので、個人では勝手に入れず、軍隊のエスコート付きのバスで案内された。

他にも死海の南西30kmには、硫黄泉の滝が流れるマイン温泉もあって、とても気持ちが良いらしい。今回は機会を逸したが、死海と共にぜひもう一度訪れたい場所である。
このように、中東の小国ヨルダンは、観光資源に恵まれ、また安全に旅することができる。ぜひあなたも、魅力あふれるヨルダンを旅してほしいと思っている。
