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「鎌倉できるだけ無銭ぐらし」 第1回 和賀正樹 


谷戸へ

 天神、心斎橋、元町三宮、四条河原町、名駅前、渋谷・・・。どこでもそうだ、繁華街をあるくと、息ぐるしくなってくる。
 新宿区曙橋の集合住宅から、鎌倉の山中に引っ越して4年になる。山林付きの土地を10年ちかく探していた。さいわい、谷戸やとに杉林とぼうぼうの藪、300坪が手に入った。陽当たりがよくない。まわりの山からしみだす水で年中湿っている。湿地を好むミョウガが自生。手元の辞書で[谷(やつ)]をひくと「(関東地方で)低湿地。やち。やと」とある。夏場の湿気は尋常ではなく、靴、ベルト、かばんに一面、白い粉のカビがふく。革製品はほとんど捨てたと近所の方。革のランドセルで通学している小学生はすくない。
 谷戸は、指を開いて机に置くとわかりやすい。指が山。指と指の間が谷戸。市域の北半分に弧状となって大小の谷戸が点在している。

  谷戸谷戸に友どち住みて良夜かな 

 永井龍男の句だ。師の横光利一に「俳句は小説の修業に必要だ」と助言された。友どちを虫たちに置き換えてもいい。ゲジゲジ、ヤスデ)の王国。晩春からはアシダカクモ(巣をつくらないクモでは日本最大種)がゴキブリを捕食するため、初秋からムカデが暖気をもとめて家のなかに侵入してくる。背後の杉林から黄色の花粉がはらはらと降りしきる。大雨のあとは体長20センチをこえるドバミミズが這い出してくる。足もとをアオダイショウがすりぬける。傾斜地警戒地域で、落石を食い止めるフェンスが敷地の中央を二分する。 

裏山に自生するミョウガ

  どおりで売れ残っていたはずだ。ここにマッチ箱ほどの家を建てた。
 山中といっても、自宅の敷地はもと畑。畑以前は、清凉寺が建っていた。鎌倉中期の創建。真言律宗の開祖・叡尊が滞在し、江戸時代に廃寺になった。ながながと600メートルのびる羊腸のような谷戸のなかほどで、裏山はなだらかに海抜100メートル前後の起伏をくりかえし、源氏山、北鎌倉の瓜が谷、台峯緑地につながっている。裏山に棲むタヌキの親子はミミズやカブトムシの幼虫が大好きで腐葉土置き場を掘り返し、フクロウは断末魔の叫び声をあげ、樹上からウズラのひなを狙っている。玄関脇の電柱が発火し、消防車がきた。タイワンリスが電線をかじったらしい。消火栓を開けたため、水道の濁り水は半日つづいた。

ドネルカバブの肉棒は語る

 お江戸まで横須賀線で1時間。しかし、縁はうすくなった。
 きらびやかなショーウインドー、工夫をこらした電飾看板、店内にながれる販売促進の音楽・・・。さあ、おカネをつかおうね。おしゃれに消費しましょう。モノによって幸せになれるよ。巧妙に仕掛けられた罠のかずかず。高額な商品を手に入れるためにローンを組み、返済のために懸命に働き、気がつくと老境に。消費するために生まれてきたかのようだ。臓器移植用の人間を繁殖・飼育するディストピア小説を思い出す。消費のために、ただ生かされている人間の群れ・・・。
 資本主義の論理からすれば、そういうイノセントな大衆こそが経済を回し、資本家を太らせてくれる。儲けのためなら、中高生にも、高齢者にも容赦はしない。
 ドネルケバブの店頭。肉塊の棒をみるたびに、資本主義を連想する。たゆむことなく回転させ、脂のたぎる熱々のおいしいところを、鋭いナイフではねていく――強欲資本主義。中国、東南アジアの市場が飽和点に達し、ロシアの先行きは怪しい。残るはアフリカか。地球に桃源郷はなくなりつつある。
 カラーテレビをみた人は、もう白黒テレビには戻れないらしい。iPhoneはいつまでバージョンアップを重ねていくのだろう。マイナーチェンジをくりかえし新基軸を装い、人びとの消費欲をたえず喚起し、なけなしのおカネをつかえと使嗾する。
 経済思想家の斎藤幸平はスニーカーのコレクターだったという。ナイキが異業種の企業とコラボして新商品を出すたびに心がうごいた。ゴムは加水分解するのでやがて価値はなくなると、目覚めてやめたらしい。幸平さんすら、手玉にとるマーケティング戦略の怖ろしさ。
 いかにお金を使わないで、鎌倉の海、山、川から、ときには人から恵みをいただき、暮らしていくか。いかに企業が仕掛ける消費(≒収奪)の罠からのがれるか。のがれられないか。おカネをつかう以外に食べ物を手に入れる術をもたない心細さ。山口瞳は、大地にしっかり足をふんばって立つ農夫の姿にあこがれていた。
 21世紀なんぞ当分、こないと高をくくっていたら、本当にやってきた。
 地球ももって、あと3、4年だろう。
 いまのうちだ、おカネから遠い暮らしをするのは。自分でたべるものは、できるだけ自分でつくる。できるだけモノを買わないで我慢する。
 素人が無理なくできる自給自足――児戯にひとしいかもしれないが、反近代の暮らしを試みたくなった。 

稲垣尚友さんのゴム長くつ

 きっかけは、ゴム長靴だ。
 あるとき、外房鴨川の稲垣尚友さんの自宅にお邪魔した。山裾の一軒家。母屋と客人の雑魚寝用の別棟。
 尚さんは竹細工師で、南島民俗の研究者。ガリ版刷りの「痴報 籠屋新聞」の主筆でもあった(同紙は有志によってPDF化。閲覧できます)。都立城南高校から、外交官をめざし国際基督教大学に進む。ときは60年安保のまっさかり。学園闘争に加わり、大学本館前庭の芝生をはがしサツマイモの苗を植えて退学。土木作業員や行商、旅館の住み込み従業員で日銭をかせぎ、各地を放浪。尾瀬の鳩待峠ではカルピスの氷水を売り、大儲け。人吉で竹細工を習得。鹿児島県の吐噶喇とから列島にたどり着き、一家で平島に13年間暮らす。隣の諏訪瀬島には、コミューン「部族」の友人長沢哲夫(ナーガ)がいる。やがて鴨川に移住。朝起きると、山にむかって塩ビのパイプに孔をあけた尺八を吹いていた。冬の食料がとぼしいときは、田のタニシとセリでしのぐ。ときには鴨川で漁師になった長男が、定置網にかかったブリを一匹まるごと届けてくれた。
 そんな尚さんが自力で廃材利用のトイレ(ぼっとん式)を建て、落慶式に参加した。落語の「長屋の花見」のような酒宴のさなか、軒下の妙な黒のゴム長靴に目がとまった。
 ゴム長は長年使用すると、円筒部の下でひび割れてくる。鴨川漁港の草地にうち捨てられたゴム長。靴底のしっかりしているものを拾ってきては、かかとの上でカットし、ハーフブーツにしているという。イギリス製の園芸ブーツに似ている。
 古くなる→捨てるという従来の公式にあてはまらない。なんて自由な発想なんだ。わたしもやってみた。足の指が伸ばせて、着脱しやすい。この春、那須岳ふもとの一軒宿、北温泉旅館にいった際も、山道で重宝した。昭和5年、フランスで流浪の生活をおくった金子光晴。靴いっそくを買う余裕もないほど困窮し、足を黒く塗ってパリの石畳をあるいた。そう自伝にある。金子さんに「漁港に行ってみれば」と教えてあげたかったなあ。

改良長靴 入る

めざせ、茶人

 本来、人間は多機能な存在だった。「人材」とおなじく、ひとに「機能」という言葉を付すできではないなあ。もとへ。多様な役わりができた。
 たとえば、文人。いまでは小説や詩文をものする人の総称。江戸期、明治のころまでは、いたのだろう。風月をめで、茶の湯を楽しみ、俳句をひねり、温泉や名勝地に杖をひいていた(もちろん、そうでない室内型の物書きもたくさんいただろうけど)。
 茶の湯を例にあげよう。最良のもてなしは、すべてを自分の手でなすことだろう。6畳ほどの小屋を建て(兼好法師が自分で方丈を編んでいたらなあ)、わら灰をこしらえ炉を切り、茶碗や皿を焼き、茶掛けの画を描き、ちいさな庭をつくり、茶杓や箸をけずり、活ける草花を植え、懐石料理に供する菜を育てる。豆腐は大豆からこしらえる。庭先の茶の新芽を摘んで、石臼で挽いて抹茶をつくるむきもいただろう。
 デンパサールのホテル。夕方、プールの落葉を網ですくっている従業員の青年がいた。かれは「もうすぐ、満月だ」と幸せそうに月を指さす。それがどうしたの。
「満月の夜の2日間は、お祭りなんだ」
 きけば、村の祭りで、かれはかならず楽器を演奏するらしい。月に2回、満月ごとに祭事があり、村人は正装して寺院に詣でる。ガムラン奏者として奉仕する満月の祭りは年間70日。それ以外に稽古日があり、お盆の盛大な祭り、各寺院の開基の祭りなどを加えると年間100日ほど。
 かれの本分、アイデンティティは、ホテルの従業員ではなく、村の楽団員にあるらしかった。ほかに田植えや用水路の補修など村の雑用も。いくつもの職能をこなしているわけだ。
 百姓もそうだ。網野善彦が目からウロコを何枚も落としてくれた。
 いわく、百姓とは農民ではない。百のかばね(姓・職業)をもつ人びとをいう。
 稲を刈ったら稲藁でわらじや縄をい、売り歩く。魚もとる。竹細工もする。麦や豆がとれたら味噌・醤油をつくって売る。馬があまっていたら運送業もする。綿の花から糸をより、布を織る・・・。
 農耕民であり、多様な商工民だったと氏はいう。網野史観に学界からの批判はいまも根強いが、視座をひろげてくれることはたしかだ。
 練馬区の網野さんの自宅前をとおりかかったことがある。道路から、鉄道員官舎のような木造の建物と庭のコンポストがよく見えた。「住まいは人の気を移す」と孟子。このひとは信じられる、とおもった。
 蛇足だが、横浜山手をあるいていたとき、ヒキガエルが坂道のまんなかにいた。自動車もよく通る道だ。つれの女性が大人のこぶしほどのヒキガエルを木の枝で脇の茂みに追いやった。そのときも、この人は信じられる、とおもった。彼女は30歳年上のスコットランド人と結婚し、エジンバラに暮らしている。 

水上勉の無念

 水上勉の『土を食う日々』を好きになった女性に贈る友人がいる。すてきな女性が現れるるたびに文庫版を謹呈する。読後感を尋ね、人物をはかる。「好反応のひとは、きどっただけの店につれていかなくてもいい」と、かれなりのものさしになっていた。川柳の「レストランめしや屋台と恋すすむ」。途中をはしょろうというわけか。かれは中年期をすぎ、はや50代半ばに。まだ独身でいる。
 水上さんは京都の相国寺(臨済宗)の小僧だった。禅宗では、日々の暮らし即、鍛錬、修行。『土を食う日々』は少年時代の日常茶飯が基礎になっている。食べ物をとおした思想書であり、レシピ本でもある。
 水上さんの随筆や小説に、グジ(アマダイ)の話が繰り返しでてくる。吝嗇な住職夫妻が蒸してよし、煮てよし、刺身によし、1匹の高級魚のグジをなかよく分けあい、住み込みの小僧にはまわってこない。自分は漬け物と野菜と豆腐の日々。住職たちは最後に骨スープにし、残りは寺の畑にすきこむ。肉食禁止はタテマエだけだ。水上さんのうらみ、くやしさや禅寺の世間へのおもんぱかりがよく伝わってくる。しかし、もっともわたしが共感したのは、グジをきれいにたべつくし、あらや骨を畑に埋めるくだりだ。ものを最後まで使いきる姿勢がなんともよい。 
 禅語に「後生大事」がある。揶揄してつかわれることが多いが、本当の意味は「モノをとことん大切に」。京都のある寺の石庭。枯山水の庭石に東司とうす(トイレですね)の礎石が置かれている。モノはすべからく使い尽くすという禅の教えを具現化したものという。
 いくつかの禅寺で、がっかりしたことがある。
 夕方の北鎌倉駅。グリーン車に乗り込む僧侶がいる。宗門も組織です。えらくなると、それなりの待遇を得るのでしょう。葬儀で見うける法衣は正絹、袈裟は金襴緞子きんらんどんすでふちどられ豪奢の極み。死者は白衣・・・。タイやラオスの僧侶は、みな僧階(身分)にかかわらず黄土色の糞掃衣だ。弱者、大衆のため、いつでも汚れ仕事ができるように、木綿のいわば作業着を着ている。仏教発祥の地・インド。不可触民の救済に半生をささげたインド仏教界の最高指導者・佐々井秀嶺。かれもつねに橙色の糞掃衣をまとっている。
 上座部仏教(小乗仏教)は自力救済を唱え、個人の悟りが最終の目標だ。他人は眼中にない。さいわい日本列島に到達した仏教は、ご存じのように大乗仏教。一切の衆生――つまりわたしたちですね――の救済を目標とする。いいやつがきてくれたのだ。

そうだ、インドにいこう

 大乗仏教のありがたさを切に感じたことがある。
 熊野新宮から上京し4年間、調布市の和歌山県奨学会東京学生寮ですごした。6畳ひと間に2人。50部屋に100人の男どもが集団生活。
 東京には各道府県が県出身者のため学生寮を置いている。山形県は東京興譲館、やまがた育英会駒込学生会館。愛媛県は南予明倫館、東予学舎。ふたつもつ県もある。
 なじめない。哲学の読書会をひらく寮生をしりめに、寮の裏庭で農大生と一緒に大麻?を3株ほど栽培した。背丈ほどに育ったとき、寮母のおばちゃんから「これ、なに?」と尋ねられ「麻の新種。学術研究ですわ」と農大生。新宿の街角で買ったらしい。麻の実は七味唐辛子につかわれている。ハムスターや小鳥用の配合飼料にも入っていて燻蒸が不十分なものは発芽する。
 乾燥させて吸ってみたが、青臭いだけでなにも変化がない。タネはガセだったのか。
 ある晩、例の農大生はサッシ取り付けのアルバイトのかえり、新宿で泥酔。街娼にさそわれて、大久保の安旅館で一夜をすごしたことがあった。聞くと――敵娼(●あいかた)は避妊具の有無を尋ね、持っていないと答えると「ハイ、1000円!」と手をのばし、帳場に向かった。彼女は、「やせてて恥ずかしい」と終始、胸にさらしを巻いていたという。朝、目がさめるとひとりきり・・・。寮生たちは、そいつは男や、コンドームを要求するのは女性と信じ込ませるテクニック、またパッチもんをつかまされたと気の毒がった。
 しかし、インドブームはたしかにあった。インド帰りの寮生はマリファナ吸引の経験を披瀝していた。雑誌「popeye 」がアメリカ西海岸発のカルチャーを賞賛。なにがucla(ウクラと発音してください)かよと、反発する手合いがインドに流れた。
 インド帰りから、現地では右手で手づかみで食べるのだと教えられ、学食でカレーのルーと米飯を指先でまるめる練習をした。三島由紀夫の「インドには行けない者と行ける者がいる」という台詞に触発されたのだ。「おれは行くほうに回る」と発奮した。後年、この文言は正しくないことを知った。「インドには行くべき時期があり、その時期はインドが決める」と三島が横尾忠則に告げたのだった。
 大学3年の春休み、コルカタの目抜き通り、真昼のチョーロンギ―ストリートで、日本山妙法寺の平和行進に出会った。年配者もいれば同年代の男もいる。ひびきわたる南無妙法蓮華経のお題目。汗をかきかき無私、無償、他利の行脚。これぞ、大乗仏教だ。素直にえらいものだと感心した。
 日ざしを避け、体力を温存し、今日一日をどう快適に、楽しく、節約してすごすか。シク教の総本山アムリットサルの黄金寺院にいついこうか。付属のランガル(共同食堂)では無償のカレーが三食ふるまわれ、宿坊もただらしい――本当です。宗門、国籍、年齢不問。いまも5000人収容の食堂で毎日10万食がふるまわれています。最大何日間、お世話になれるのかなあ・・・。
 当方はこんな煩悩のかたまりなのに・・・。核廃絶、非武装、非暴力を訴え、日本山の行者たちはうちわ太鼓一本で生きている。ひとはかくなる抽象に殉じ、崇高な理念に人生を賭けられる。藤井日達に会った拓大の寮生も「あのひとの目は温かかった。本物かもしれない」といっていたぞ。
 無一物でも生きられる。今夜は日本山に泊めてもらい、様子をみて仲間に入れてもらおう。でも和歌山の親は泣くだろうなあ。出家する気もちは確かか。もっと別の世界も知りたいのでは。安宿街サダルストリートのモダンロッジにもどり、まだ覚悟はできていないと、凡夫中の凡夫はため息をついた。 

救いの調布インター

「愚行こそ叡智の殿堂に通じる」
 北杜夫の『ドクトルマンボウ青春期』の一節だ。
 この言葉に天啓を得た思いの学生時代だった。いや、まてよ。鎌倉できるだけ無銭ぐらしだ。いまだつづいているともいえる。
 コンパ(死語ですか。寮祭やストームもあったなあ。旧制高校の遺風がまだ残っていた)の帰りには、必ず低い位置でタックルし鋳鉄製の赤い郵便ポストを押し倒していた(高校時代はラグビー部だったもんで)。
 薬局の店頭からゾウのサトちゃん、洋菓子店からはペコちゃんの像、飲み屋からは赤ちょうちんをいただいてきて、自室にかざるやつもいた。
 4月、恒例の行事がある。新入の寮生に、角のパン屋まで「ヘッペ」を買いに行かせる。「関東ではコッペパンのことをヘッペパンというんや」とひとこと添えて。毎春、パン屋の娘さんの顔はサクラの花に。ヘッペとは北海道の地方言語です。興味ある方はwikiをひいてみてください。
 ・・・万事におおらかな時代だった。
 でも、くりかえしますが野郎だらけのセミ飯場。年中、強化合宿です。稠密さがたまりません。寮の外に出たい。学校には行きたくない。春夏秋冬、4回は調布インターにむかう。学生寮から中央高速道の調布インターチェンジにあるいて15分。ヒッチハイクにうってつけ。
 駐車場で目的地のナンバーをつけたトラックを探して、運転手さんにお願いする。一発で秋田まで行けたときは爽快だった。正月の帰省どきは、和歌山ナンバーをさがす。紀州みかんを積んで帰るトラックが狙い目だった。食事はだいたい運転手がおごってくれた。ただし、けっして助手席でうたた寝てはいけない。話を聞く。これが最低限の仁義だ。
 こうしてたどりついた札幌で、真宗寺院の門を叩いた。「ユースホステルに泊まるおカネがありません。ひと晩、軒先をお借りしてよろしいでしょうか」。家族といっしょに夕ご飯をいただき、お寺の車で藻岩山まで夜景を見にいった。利尻島のお寺でも同じようにして泊めてもらった。夜、居間のストーブのそばで、一升瓶のサッポロソフトをごちそうになる。道民ごひいきの札幌酒精。同社金看板の甲種焼酎だ。ソフトになみなみと甘いシロップを足して、さあ飲め飲めと寺の奥さん。
 かずあるご恩はわすれません。しかし、問題は鎌倉です。
 山門のまわりの下草を造園業者が刈っているのも残念だ。銘木や苔の手入れなら、専門家に任せるのも手かも。しかし、観光寺院とはいえ、修行の場でもある。草むしり、落ち葉はきを自分たちでやらないのか。
 「一掃除、二信心」という。「掃除からすべてが始まる」と、曹洞宗の僧侶である枡野俊明(造園家)もいっている。信心より前にやることがある。うちにある沖縄のことわざ日めくり。1日目は「ぬちどう たから」(命どぅ宝)。14日目は「そーじえー ちとうーだい」(掃除は祈祷代)。<掃除をして清潔にすることは、福を呼び神仏に祈るのと同じこと>と説明文にあるぞ。
 大本山の各堂の廊下は、朝4時からの拭き掃除で顔が映るほど磨き込まれている。厳冬もはだしで雑巾がけする。そういう修行を課しながら、門前の下草は業者まかせ。分業化の根は深い・・・。

人間、全人的なるもの

 近代の悲劇はたくさんある。そのひとつは先に述べた分業ではないか。
 車好きの青年が念願の自動車メーカーに就職し工場に勤務しても、担当できるのは全工程のごく一部。シャーシの組み立てだったり、パネルの取り付けだったり、塗装だったり、朝から晩まで、一年中おなじ仕事(いまやその多くが産業用ロボットの手に。人間が担う作業はもっと細分化されている)。自動車一台ができあがるまでを俯瞰することはむずかしい。分業しないと、効率が落ち、生産性が下がる。利益がでない。自明の理だ。
 これがおれがつくったクルマだ! わての分身だ。そんな誇りがもちづらい。労働からたのしみ、おもしろみが削除されていく人間疎外・・・。モノをつくる悦びはどこにいってしまったのだろう。――自己表現の延長線上に、成果物がある。そんな仕事は近代では珍しくなった。
 さいわい自由業で時間はとれる。全人的なるもの、つまり百姓に生活をもっていきたい。どれだけ、百の姓になれるか。このコラムは、野生に暮らしを近づけたい男、つまり野暮(・ ・)な男の記録です。 

宝所在近

 谷戸のどんつきから金宝山の尾根をたどると、浄智寺の脇に出る。鎌倉五山の四位。朝比奈宗源がながく住職だった。浄智寺の山門の扁額がいい。「寶所在近」。注意深くまわりを見渡せ。宝物はごくそばにある。
 秋、たしかに宝物は、ちかくにあった。たとえば、葛だ。

   葛の花踏みしだかれて色あたらしこの道をすぎし人あり

 歌人でもあった折口信夫は、赤紫の花房が山道におちている閑寂な情景をそのままにうたった。後半は、わたしなら「この道にうまし花あり」となる。
 真夏、クズはヤブガラシとともに、遠慮なく野山をおおいつくす。嫌われものだ。しかし、花は文句なしにおいしい。
 根っこからは葛粉がとれる。漢方薬の葛根湯のもとにもなる。しかし、根を掘り返す作業はひと苦労だ。葉はウサギの大好物。初秋に花だけをいただく。
 稲村ケ崎の坂道。ガードレールをおおいつくすばかりに茂っている。お盆すぎから十五夜までの一か月が好機。その朝に咲いた花を摘む。ザルをよく振って虫を落とす。かるく水洗いして、酢につけて半日置く。うす紫の妖艶な液体になる。米飯にまぜてちらし寿司に。ソーメン、冷やっこの薬味に。飛騨地方では疲労回復の万能薬として愛され、蜂蜜とまるめて丸薬をつくる。

浄智寺脇の水樋 入る。

すべてを疑え

 マルクスは「すべてを疑え」といった。無銭ぐらしの大きな支えになる言葉だ。
「日本のため、地域社会のため、未来ある子どもたちのため、日夜、粉骨砕身し・・・」。立派な台詞をしゃあしゃあと口にする権力者・政治家ほど、疑わなくちゃ。「家族のため、一族のため、取り巻く仲間のため・・・」と公言する世襲議員がいたら・・・なかなかのもんだ。
 いままで、見過ごしていた、捨てていたものも食料になるのではないか。
 カボチャの実がなった。畑の隅でうち捨てたタネが芽をふき、勝手にそだった。実をたべるのは当たり前。葉も食べられる。細かい毛がはえているが軽くもめばいい。フキと同じように筋をとり、ゆがいておひたしに。しゃきしゃきして、
 佃煮にもなる。豚肉を巻いても焼いてもいい。韓国では生で焼肉や米飯をくるんで食べるらしい。
 疑う精神に気づいてからは、バリエーションが増えた。

スベリヒユの油いため

 鎌倉駅から徒歩3分。若宮大路の農連市場で「ヒユウ」と名札が置かれ、ひと束100円で並んでいた。
 この市場は、近在の農家7、8軒が自家でとれた野菜や芋、花、漬け物などを台にならべ手売りしている。売り場は交代制で、コの字型に並んでいる。奥より入口付近がよく売れるらしい。ちなみに書店などのレジは奥ではなく、できるだけ人の目のある道側に設ける。強盗などの不測の事態にそなえるためだ。
 「ヒユウ」とは、スベリヒユではないか。
 松葉ボタンに似た多肉性の雑草荒れ地、公園、道ばた、工事現場・・・。日あたりのよい土地に自生している
 店のひとにきくと、酸っぱさとぬめりが特徴で、ゆがいて水にさらして、おひたしや油いためにするという。
 家ちかくでさがしてみる。ありましたね、庭先に。
 ざくざくと切り、油いために。シュウ酸が多いらしいが、ゆがかずそのままで。酸っぱさはない。空心菜、モロヘイヤに似たぬめりはある。一方、独特のしゃきしゃきした感触もたのしめる。もう、モロヘイヤを買う必要はないなあ。

スベリヒユ
スベリヒユの油炒め

 トルコやギリシアでも亜種が食用とされ、沖縄では「ニンブトゥカー」(念仏鉦)といい、ゴーヤとともに夏場に重宝されるらしい。
 いままで、四方八方に茎をのばし、けしからぬ雑草だったのに。見直しました。
 知恵をさずけてくれた農連市場よ、ありがとう。

市場あっての都市

 鎌倉のこの市場は通称、農連。連売ともいう。農連といったほうが、那覇の農連市場を想起させ、個人的に好ましい。
 那覇は牧志の公設市場を核に市場本通り、市場中央通り、並行して平和通り商店街、むつみ橋通り商店街。ねじれ、ときに合わさり、くねくねと這うアーケード街。そのはてに農連市場が控え、通りをはさんで、よへな種苗店。那覇に行ったら、島野菜のタネをさがしに、かならず立ち寄る。配達で店を閉めていたら、もう一度のぞく。ホテルなどに置く観葉植物の鉢物もあつかっているので仕方がない。常連の飲み屋はないが、行きつけのタネ屋はあるのです。
 おもえば、市場あっての都市ではないか。古代中国では、都市は市場からはじまった。――字面どおり、市場があるのが都市ですね。藤原新也は『全東洋街道』で「市場があれば国家はいらない」と喝破している。

おばあの商法

 いつだったか、青いパパイヤの薄切りを、那覇の市場本通りのおばあの露店でもとめた。若いパパイヤの実は、サラダや漬け物、酢の物にして食べる。
 おばあは、背後の店と賃貸の契約しているのかなあ。していないのかなあ。そんなことを考えながら、パパイアを手にとった。
 ――店先を貸す。上海、広州、アモイ・・・。横浜中華街にもある商習慣だ。大通りに店舗をかまえるオーナー・業者が、空いている店頭、ときに公道を別の商人(多くは零細)に時間制で貸す。借りた小商人は、屋台、露店、ワゴンで饅頭や串焼き、土産物、果物などを売る。ドバイのスークでも、あそんでいる店頭を貸す「出祖」の貼り紙をみかけた。
 露店のおばあが、いつ沖縄を発つのかと尋ねる。明日、朝の便で羽田へ。そう答えると、奥から別のビニール袋を出してきた。
 買おうとしたパパイアはすこし古い。今晩なら、まったく問題がないけど、明日ならば、こっちのほうがいい。
 おばあに、反資本主義の心意気を感じた。手もとの時間のたったパパイアから売っていけば儲かる。奥の商品は明日、売ればいい。商売の常道にそむいている。
 かなうものならば、沖縄のおばあの精神性をわたしめにも。
 百姓はむりでも、十姓をめざしてみよう。合理性や効率を超えたところに、生活の豊かさはないのか。先端の技術は体の外にあるが、知恵は体内にやどるという。
 次回は、耕すくらし、拾うくらしから、フリーエコノミーの糸口をさぐってみたい。(文中、ときに敬称略) 

 著者プロフィール
和賀正樹(わが・まさき)
和歌山県新宮市のうまれ、そだち。早稲田大学教育学部卒。文藝春秋に入社。雑誌、書籍の編集者を長年するも、ベストセラーとは無縁。旅先のスリランカで「タミールイーラム解放の虎」、中国で長春市警察により身柄拘束をうける。ただいま神奈川大学国際日本学部で非常勤講師を務めるも不人気で、閉講を思案中。著書に『ダムで沈む村を歩く 中国山地の民俗誌』(はる書房)、『大道商人のアジア』(小学館)、『熊野・被差別ブルース 田畑稔と中上健次のいた路地よ』『これが帝国日本の戦争だ』(ともに現代書館)。

 

 

 

 

 

 

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