SNS運用における不幸語りは「コンテンツ」にはならない、という話。
不幸語りはコンテンツにならない。
言葉は強い。
だが、まずは少しだけ内容を読んでほしい。
ここで先に断っておきたい。
私は、苦しさや悲しさを文章にすること自体を否定したいのではない。
リアルの人間に話すことが難しい人が、自分の心を保つために書く。
今の自分を見つめるために書く。
混乱した感情を整理するために書く。
そうした自己内省や自己俯瞰としての記述まで、「コンテンツにならない」と切り捨てたいわけではない。
私が指摘したいのは、別の話だ。
不幸を語ることで、慰め、ヨシヨシ、同情、注目、支援、あるいは何らかの感情的・物理的メリットを得ようとするための「不幸語り」は、コンテンツにはならない、という話だ。
少なくとも、長く人に愛され、信頼されるコンテンツにはなりにくいのではないだろうか、という内省を兼ねた思索だ。
私個人としては、むしろそういったネガティブな花火を上げるような運用は、長期的に見れば、一時に得るものより、失うものの方が大きくなる可能性が高い運用だと考えている。
現代社会において、SNSの個人アカウントとは、極小のコンテンツだ。
私たちは、他人をコンテンツとして消費しながら、同じように他人にコンテンツとして消費されている。
その目線をもって話を進めたい。
『不幸話』は、いいねやリプがつきやすい話題だ。
初期においては相互にメリットがある。
人は「大丈夫?」「無理しないで」「つらかったね」と言いやすく、且つ、慰めの反応をすることである一定の徳を積んだ気になれる。
かなり強めの皮肉を入れているが、私自身がそうであるからこそ、ここはそう言い切らせてもらおうと思う。
さらに、それを書いた側は、その反応で一時的に安心する、ないし、何らかの救済を得るだろう。
ここには一時的ではあるが、欲求と欲求の需要と供給による相互メリットが生まれている。
だが、
それは作品性や人間的信頼や、アカウントそのもの、コンテンツとしての価値評価とは限らない。
この意味を忘れてはならないということだ。
言うなれば、火災報知器が鳴ったから振り返った、ぐらいの話でしかない。
小火に対して水をかける善意の活動だ。
ようするに、
火災報知器は人を集める。
だが、店の常連は作らない。
ということを私としては語りたいのだ。
来店する度に火災報知器が鳴る店の常連になりたいと思うのだろうか、という話だ。
さらに場合によっては
『この形式で語ればメリットを得られる』
という成果を書き手側が学習してしまう可能性すらある行為だと思っている。
SNSの闇のようにも思う話ではある。
事実として、火急性がある場合ももちろんある。
けれど、その最も根幹に眠るのは一体何なのかを考えてしまう。
ひとえに承認欲求なのかもしれない。
注目を集めるための打ち上げ花火のようなものなのかもしれない。
私自身もその危うさを孕んでいるからこそ、この記事には重い自戒を込めている。
自制し続けている領域ではあるが、よくわかるのだ。
そこに一定の集客率があることは。
しかし、私は世にいう一般的に『不幸』とされる諸々をアカウントの話題の華とし、他者の注目を集めることには強い依存性がある行為だと考えている。
かつ、書き手の立場を歪め、信頼を損なう可能性があり、一時の集客以降は人から距離を置かれる可能性がある危険な行為だ、と思っている立場だ。
ここで大事なことを言う。
このアカウントのnoteでは、折りに触れては「不幸語りをするなという訳ではない」と繰り返し書いてきている。
それについて詳しく触れてこなかったが、ようやくといったところである。
あくまで私個人の結論として、ではある。
だが、語るにしても、「コンテンツ化」が必要だ、という話として今ここに帰ってきている。
ここで言うコンテンツとは、単に投稿物という意味ではない。
他者が自発的に読みたいと思い、何度も戻ってきたいと思い、読後に何かを得られるものくらいに考えていただけると幸いだ。
これは『読む』に限ったものではない。
もう一度あの人に何かを頼もうと思う、そういった信頼の基盤の話でもある。
その目線で見れば、書き手が慰めや同情、注目や支援を得ることを主目的とした不幸語りは、読者に与えるものが少なく、コンテンツとしての成立条件に欠けているように思えてしまう。
むしろ読者から反応、同情、安心、共感、同調といった何らかの反応を支払う側に回されがちになる。
そうなると、読者は「受け取る側」ではなく「支払う側」になり、そこにあるものはコンテンツではなく、読者からなんらかのコストを徴収する装置になってしまうように思うのだ。
繰り返しではあるが、世で俗に言う不幸を素材にしたコンテンツは成立するし、している。
エッセイ、闘病記、失敗談、体験記、創作、批評、社会分析といったものがそうだ。
これらは『不幸』がそのまま置かれているのではなく、読み手に渡せる形へ加工されているからだ。
例えば、経験から得た知見、同じ状況の人への手がかり、社会構造への分析、笑い、物語性、言語化による救い、自分を客観視する視点としてだ。
こういうものを織り交ぜ、形にすれば不幸や苦しみは他者のためのコンテンツになり得るし、それはある種の書き手のみが保持する強みですらある。
つまり正確には、無加工の苦しみそのものはコンテンツにならない、ということだと私は考えている。
苦しみをどう見つめ、どう相手が受け取りうるものとして加工し、何を読者や見る相手に渡そうとするかによって、初めてコンテンツとして成立するもの、のように思うのだ。
あくまで私個人の理念と定義ではある。
なぜなら、読者からの何らかのメリットを徴収することをメインとした運用を行った場合、いずれそのコンテンツ運営者である書き手への、人間的信頼は痩せ衰えていくように思えてならないからだ。
それはSNSという極小単位のコンテンツの運用を行っている私たちには、致命的な損失だと私は考えている。
だからこそ、私たちは己の発信する言葉に対し、どのような『加工』を施すのか、自覚的にあらねばならないように思う。
そして、コンテンツとして耐えうるものへと『加工』すること、そこにこそ、創作者の誇りがあるようにも思う。
まぁ、この意識を持てるようになったのは、私が歳を重ねてからではある。
つまり、こんなことを書いている私にも、頼むから早く消えてくれと願っているログインパスワードを忘れ果て、記憶の彼方に葬り去る事でなかったことにしている、今現在一体どうなっているか皆目見当のつかないブログという黒歴史的が私にも勿論存在しているって話でぇ…………!!!!!!orz
襟を正そう。
まあつまり、これが今回の話のオチである。
誰しも何らかはやる。やっちまうのだ。
にんげんだもの。
やっちまったら遠い目をするしかない。
そう思いつつも、ふと思い出してしまったあのブログ達に、頼む消えていてくれ、と願いつつ筆を置くのであった。
