モノを持つということ
わたしには、特別なビー玉があった。
それは、私が小学1年生くらいのとき、当時仲良かった体操クラブのニコルという女の子が、自宅でお母さんと実験しながら、綺麗な割れ目を入れてくれたもの。今でも、私にそれを贈ってくれたときの彼女の満面の笑みを覚えている。自分のためだけに彼女が時間をかけて丁寧につくってくれたそのビー玉は、私にとっては世界でもっとも美しくて、かけがえのないビー玉だった。
そんなビー玉が、今日割れた。
息子と一緒にふざけていたときに、息子がビー玉の入った容器を倒し、勢いよくたくさんのビー玉がこぼれ出た。いくつかは階段むかってまっしぐら。その中に私の「特別なビー玉」も入っていた。他のビー玉は、お店で買ったものなので結構丈夫。だから、割れなかった。でも、ニコルが作ってくれた私の特別なビー玉は、もろく、階段の衝撃に耐えきれなかったのだ。
子供が生まれてから、同じように私の今まで大切にしてきたものがいくつか、ボロボロになってしまった。小学校の頃、ロシア人のピアノの先生にもらったマトリョーシカ。高校3年生のとき、受験勉強の気分転換にと自分のために初めて買った、朝と夜の青い空をいくつも捉えた写真集。大学時代に出逢った、大好きな挿絵画家メアリー・ブレアが描いた『ピーター・パン』の絵本。私が「一生大切にしたい」という気持ちで持っていた、自分の人生における大切なモノが次々と、子供に壊されていった。
正直、大切なものを壊されるたびに、結構落ち込んだ。でも、少しずつ私の中で変化が起きた。
私がマトリョーシカを大切にしていたのは、それを見るたびにピアノの先生のことを思い出せたから。写真集は、大学受験を頑張っていた日々を振り返り勇気づけられるから。メアリー・ブレアの絵本は、大学時代に熱中したピーター・パンを懐かしめるから。そして、ビー玉は、大好きだったニコルの満面の笑みが頭の中で鮮やかに蘇ってくるから。
そう、私が大切にしたかったのはモノそのものではなくて、そのモノにまつわる想い出だったのだ。
それに気づけてから、モノを壊されても、前よりも心のダメージが軽くなった。モノは有限で、いつかは壊れる。でも、想い出は私が忘れず、心の中で大切にしまっている限り、消えることはないのだ。壊れたモノは戻らなくても、想い出は自分の記憶の引き出しからいつでも取り出して眺めることができる。
そして、モノが壊れたことによって、新たな想い出も生まれたのだ。
赤ん坊だった息子が、写真集の美しい風景を一生懸命に見つめながらページをめくる姿。毎晩、ピーター・パンの絵本を読み聞かせながら、描かれている美しい装飾文字をキャッキャしながら指差していた姿。マトリョーシカを並べながら、家の中の色々なもののサイズを比較していた姿。そして、今回、ビー玉の隣で二人でくすぐり合っていた、温かな時間。
こうやって思い返すと、モノは壊れても、美しい想い出は増える一方なのだから、落ち込む必要はないのだ、という気持ちになれてきた。
来年は、よりモノへの執着を手放していきながら、自分の想い出たちだけは忘れないように、日記なり、noteになり書き留めていきたいと思った。
そしてそんなことを書きつつも、絶対壊されたくないものは息子の手の届かない場所にそっと置きなおしてみた。
