とらさんの続き(罪人A)
十二月の校舎は
鉄の箱のようだ。
雨風を防ぐ代わりに、
それ自体が
保冷材のように冷気を帯びている。
足元から、壁の芯から、
僕の真ん中の熱まで奪おうと
手を伸ばしてくる。
無数の冷たい手から逃れるため、
僕はできるだけ廊下の中心を歩いて
部室へ向かう。
この季節、
入口の扉が閉まっていると
身構えてしまう。
部室の金属製のドアノブは、
人の手による干渉を
火花と破裂音で拒む。
誰か来やしないかと振り返るが、
灰色に染まった通路には
猫さえ見当たらない。
意を決して
火花を喰らおうとしていたときだった。
「川島くん」
背中から、鈴森春子の声がした。
ーーが、冷たい廊下には、
僕と、僕を呼ぶ声しか存在していない。
首を傾げる僕に、
その声は続ける。
「あ、ごめん。私、朝起きたら透明になってて」
ーーー以下、江田島海月ーーー
正確には、
背中あたりからだろうか、
鈴森春子の声が
僕の中で響いた。
声の落ちてきたあたりに
手を伸ばしてみるが、
冷たい空気が
指の間をすり抜けるだけだった。
「透明って、どういう、、、」
言いかけた僕の胸の前で、
空気がふっと濃くなる。
そこに、
“誰かが立っている”
としか思えない密度が生まれた。
「ねぇ、川島くん」
春子の声が、
胸の前の一点から落ちてくる。
「私ね、ほんとは、もう、、、
生きてない」
その言葉は、
廊下の冷たさよりも静かに、
僕の中に沈んだ。
「でも、川島くんが呼んでくれたから、、ここに来られたんだよ」
胸の前の空気が、
僕の息に合わせてふわりと浮き、
吐くと沈む。
まるで、春子が僕の呼吸に合わせて
揺れているようだった。
「ねぇ、川島くん。吸ってみて」
言われるまま吸うと、
胸の前の濃さがふわりと浮く。
「吐いて」
吐くと、
濃さが胸に寄りかかるように沈む。
「わかる? 川島くんの呼吸で、私、動くんだよ」
その声は、
どこか楽しそうで、
どこか泣きそうだった。
「こんなふうに、近くにいるって感じるの、久しぶり」
影のような気配が、
僕の胸のすぐ手前で揺れる。
「近づいたら、、どうなると思う?」
春子の気配が、
僕の呼吸の境界
ぎりぎりまで寄ってくる。
触れていないのに、
触れたときの熱だけが
胸に広がる。
「川島くんが息を吸うと、私、引っ張られるみたいで」
ふわりと浮く。
「吐くと、、寄りかかっちゃう」
そっと沈む。
それは、春子が生きていた頃、
僕の隣の机で眠くなったとき
あのリズムにそっくりだった。
「川島くんの前だと、こういうの、したくなるんだよ」
僕は、
胸の前の見えない春子に向けて、
ゆっくりと言葉を落とした。
「いま、ここにいる君は、生きてるよ」
空気が震え、
影のような濃さが胸の前で脈打つ。
「だって、僕の声に応えてくれて。僕の呼吸に合わせて揺れて、、近づいたら、近づいてきて、、」
言葉を重ねるたび、
春子の気配は濃くなっていく。
「それを、、“いない”なんて言えない」
廊下の冷たさが遠のき、
春子の気配だけが
胸の前に静かに残った。
「川島くん、、」
春子の声は、
もう震えていなかった。
「呼んでくれて、ありがとう」
影が、胸の前でそっと揺れる。
「こんなふうに近づいちゃいけないの。私もう、生きてないから」
影が薄くなる。
「川島くんの前に来ちゃいけないに。どうしても、、もう一度だけ、川島くんの前に“いたかった”の」
僕は静かに言った。
「君が死んだことは、、。わかってる。でも、いまここにいる君は、
“いない人”なんかじゃない」
影が震える。
「声がして、応えてくれて、僕の呼吸に合わせて揺れて。
“いない”なんて言えない。
離れなくていい。
ここにいたいなら。僕だって、、、
それは、生きてるってことだから」
影が深く脈打つ。
「川島くん、そんなふうに言われたら、、私ほんとに、ここにいちゃうよ?」
「いて、、ほしい」
その瞬間、
影は“影”ではなく、
春子の存在そのものとして
胸の前に留まった。
「川島くん、私、いまだけは生きてるみたいだよ、、」
「生きてるみたい、じゃなくて、、、、生きてるよ」
影がふわりと浮く。
「吸って」
僕が吸うと、影が浮く。
「吐いて」
吐くと、影が沈む。
ふたりの呼吸は、完全に重なった。
生と死の境界が、静かに溶けていくように。
「呼んでくれて、ありがとう。ここまででいいよ。私、もう大丈夫だから。、、、戻るね」
影はひとつ息をするように揺れ、
ふっと消えた。
残ったのは、
春子の呼吸が重なっていた
あの温度だけだった。
