ドロップ! ~ひったくったのは殺人の証拠物品でした~ 【4】
【4.津波】
奥森の家を後にする頃には、夜はすっかり更けていた。事務所への帰り道を、等間隔に並ぶ街灯が寂しく照らす。もう電車も動いていないような時間帯だ。通りを歩いているのは都倉と里見の二人だけだった。
「志波さん、かぁ……なあ里見、どう思う?」
「どうって?」
「志波さんはその……月宮ちゃんの死に関わってんのかな」
「……現状まだ判断できない、と答えるのが妥当だろう。結局、奥森が何を隠しているのかはっきりさせられなかった。聞き出せたのは志波遼一の存在だけだ」
里見が悔しそうに唇を噛む。一見穏和でボロも目立つ奥森だったが、それほどまでに手強かったということだろう。
「おっくん、こうと決めたら意志固そうだもんなー……」
「ああ。一種の使命感すら感じるほどだ」
暗い路地に二人分の靴音が響く。足元の影が街灯に近づけば後ろに伸び、遠ざかれば目の前に回り込んで、それを延々と繰り返していた。
「それでも彼は僕らがやっと辿り着いた情報源だ。その口から出た志波遼一には接触する必要がある。恋人という立場でしか知り得ない情報もきっとあるはずだ、そうだろ?」
里見がニッと笑って都倉を見上げる。思わず速まった心臓から意識を逸らしながら、都倉は尋ねた。
「あー……うん。でも接触するったってどうすんの?」
「それについては、彼から話を聞いた時に少し考えていたんだが……」
顎に手を当てたまま里見が路地裏の角を曲がる。ここを曲がれば事務所のあるビルはもうすぐだ。
「真犯人であるにしろそうでないにしろ、志波遼一はそろそろ僕らに辿り着く頃だ」
「へ? それってどういう……」
言い終わる前に足が止まる。真夜中の人気のない路地裏。事務所の看板が傾くビルの前に、全身黒ずくめの男が突っ立っていた。ゆらりと男の身体が動いて、都倉たちのほうを向く。手にはバットのような物が握られていた。
「……え?」
振り被られて、気づいた時には身体が真横に吹っ飛んでいた。バットを振り抜くように薙ぎ払われ、里見もろとも地面に転がる。
「……っな、なんだ!? 何が……」
咄嗟に受け身を取った都倉はすぐさま起き上がったが、里見はいつまでたっても動こうとしなかった。それどころか瞼はぴったりと閉じられ、目を開ける気配すらない。
「里見……?」
さあっと血の気が引くのが分かった。頭が真っ白になる。背後に男の気配を感じて、都倉は振り向きざま鋭い蹴りを放った。
「……ッこの野郎!!」
靴底に骨の砕ける感触。男は右腕を押さえてふらふらと後ずさると、そのまま逃げるように去っていった。思わず追いかけそうになったが思いとどまり、意識を切り離して里見の肩を掴む。
「里見、さとみッ……! おい、目ェ開けろって……!」
叩いても揺すっても、里見の反応はない。
「そ、そだ、こーいう時って揺すっちゃダメなんだっけ……えと、救急車、救急車……!」
「……軽い脳震盪ですね。じきに目を覚ますでしょう。すぐ帰れると思いますよ」
「そ、そすか……」
搬送先の病院で医師にそう告げられ、都倉は安堵の息を漏らした。医師が退室してしばらくすると、診断通り里見がうっすらと目を開けた。
「……ここは……?」
「っ里見!」
「都倉……? そうだ、僕らはたしか、襲われて……」
里見が焦点の定まらない目でベッド脇の都倉を見上げる。目が合った途端、思わず涙が込み上げた。
「よ……よ゛がっだあ~! おれっ……里見がこのまま目ぇ覚まさなかったら、まじでどうしようって……頭ん中真っ白んなって……」
取り繕う余裕もなく、みっともなくボロボロと泣いてしまう。見られるのが恥ずかしくて布団に顔を突っ伏せば、里見がぎゅっと手を握り返してきた。
「僕はもう大丈夫だ。心配をかけてすまなかった。きみは? なんともないのか?」
「っあ、いや……おれはその、なんていうか、だいじょぶ……」
今の今まで里見の手を握っていたことを思い出して、都倉はパッと手を離した。
「ていうか、俺のほうこそごめん……ごめんなさい。俺……っおれ、里見のこと、守れなかったっ……!」
あ、やべ、また泣きそう。
盛大に鼻を啜り何とか誤魔化そうとしていると、里見が病室のボックスティッシュを渡してきた。
「きみ自身は何ともなかったんだろう? 上出来だ。現に今、僕はきみに助けられてここにいる」
「でもっ……俺、用心棒なのに……全然、役に立てなくて。みすみすあんたに怪我させちまった」
「こんな職業だからな。自分が無傷でいられるとは思ってないよ。きみが無事なぶん、お釣りが来るくらいだ」
それに、と里見は鋭く目を細めた。
「僕らがやろうとしているのは、真犯人を社会的に抹殺することと同然だ。向こうも殺す気で来てもらわなければ張り合いがないな」
何者かに襲撃されて弱気になるどころか、里見の口元には笑みさえ浮かんでいるようだった。
「……なあ。里見はさ、なんで俺のこと信じてくれたの?」
ずっと心のどこかで感じていた疑問が、するりと口から滑り出る。
「こんな命懸けのことなのに……もし俺が嘘つきで、本当に殺人犯だったらどうしたの?」
事務所に駆け込んだ時を思い出す。あの時点では、都倉の話を信じる根拠は何もなかったはずだ。今にして思えば軽率に、里見は都倉を信用していた。
「……信じてくれて、嬉しかったんだ」
「へ? いや、今は俺がどう思ってるかって話じゃなくて……」
「きみが僕を信じてくれたからだ。探偵なんかいくら丁寧に調査をしても、依頼主の期待した結果でなければ不満を言われて他所へ行かれるなんてことも珍しくない。それもこんな若造が相手なら尚更な」
少し寂しそうに里見は笑った。それから何かを思い出すように瞼を閉じる。
「でもきみは、本当に僕にしか頼れないんだと真摯に訴えてきた。僕はこんなに誰かに頼りにされたのは初めてだ。力になりたいと思った。いっそ泥船でもかまわないとな」
「……じゃあ、もし俺が嘘つきだったら……」
「その時は一緒に沈むつもりだったさ。自分の運もこれまでだと。僕はきみに賭けたんだ」
再び目を開けた里見の表情は誇らしげだった。
「ありがとうな、都倉。僕が乗り込んだ船は、泥船じゃなかったらしい」
「……っそんなんズルいじゃん……! 今は俺が、あの時信じてくれてありがとうって、そういう話をしてんの!」
「そうか。それじゃあお互い様だな」
しれっと里見が流す。ずびびと都倉は鼻をかんだ。
「……里見、もう怪我しないでよ。おれ頑張るから」
「心配しすぎだ。この程度なんか別にしょっちゅうだぞ。犬飼にでも聞いてみれば分かる」
「えー……里見に怪我させたなんて聞いたら、アイツぜってー怒りそうだからヤダ……」
「はは、それもそうかもな。それじゃあ精々頑張ってくれ、ワトソン君」
本人がしょっちゅうと言うだけあってか里見の怪我の経過はすこぶる良く、その日のうちに都倉たちは事務所に戻ってくることができた。
「……なあ、俺らを襲ってきたのって……志波さん、なんかな」
「断言するのはまだ早いが……彼ならいずれ僕らに辿り着くだろうと思っていた」
「それ昨日も言ってたよな。なんで?」
「例の松風の動画だ」
里見がポケットからスマホを取り出す。
松風の動画はテレビのニュース番組にも取り上げられたらしく、以前にも増して再生回数が飛躍的に伸びている。今では警察の再捜査を望む声も多く、世論は完全にこちらの味方だった。
「志波遼一が真犯人なら、当然この流れは彼にとって面白くない。僕らを止めようと何らかの手を打ってくるだろう。一方で真犯人でないにしても、月宮薫子の恋人であるというのが本当ならば、彼女の死を不審に思うはずだ。調べるうちにこの動画に行きつくのは必然と言える」
「……でも、志波さんがただの恋人なら、俺らを襲う理由はない」
「ああ。志波遼一が真犯人なのか、それとも共犯者にすぎないのかはまだ分からないが……」
里見はため息をつきながら腕を組んだ。
「いずれにせよ、あの動画で僕らに寄ってくるのは敵か味方かの両極だろう」
「松風の野郎、余計なことしやがって……」
愚痴を言いかけて、ふと都倉は気づいた。
「待てよ、じゃあ……犯人は俺らのことが邪魔なんだったら、もう一度襲ってくるんじゃねえの?」
「その可能性は大いにある」
「はあ!? 早く言えよ! ここ危ねえんじゃ……」
その時、テーブルに置かれた里見の携帯から着信音が鳴った。画面に表示された相手は犬飼だ。
『あ、里見さん? オレです、犬飼です』
「どうした?」
『オレ月宮邸にいるんすけど、さっきちょっとゴタゴタがあって。知らせるほどのことじゃないかもしれないんすけど、一応耳に入れとこうかと』
そう言うと犬飼は声を落として、ひそひそと囁くような声になる。
『さっき、月宮の旦那さんが保険会社の人とお話してたんです。たぶん……薫子さんのことで』
里見がぴくりと反応する。黙って都倉と目を合わせると、スピーカーのボリュームを上げた。
『んで、その時の二人がえらく言い争ってて。そりゃ今回は判断が難しい案件でしょうけど、ちょっと普通じゃないですよ』
「……犬飼。その人は、今もそこにいるか?」
『いえ、さっき帰られました。十五分ほど前ですかね』
「い、犬飼! その人、もしかして右腕怪我してなかった!?」
たまらず割り込んだ都倉に、犬飼は驚いた声を上げた。
『たしかにそうでしたけど……都倉さん、なんでそんなこと分かるんすか?』
その言葉を聞き終えるのと、事務所のドアノブが回ったのはほぼ同時だった。
「……今すぐ調査は断念しろ。警察も自殺だったと言っている。これ以上はきみたちにとっても無駄足だ」
コツ、コツと革靴の音が近づいてくる。開いたドアから姿を現したのは、まさに今仕事帰りといった出で立ちの三十歳前後のサラリーマンだった。精悍な顔つきで都倉よりも上背がある。首からは包帯を巻いた右腕を吊るしていた。
「……ッ! 里見、危ねえから俺の後ろにいて」
咄嗟に立ち塞がった都倉の背後から、里見は臆した様子もなく告げた。
「お待ちしていました。志波遼一さんでお間違いないですね?」
「……」
男は黙っていたが、彼の全身から立ち上る殺気がイエスと物語っている。
「……なあ、志波さん。昨日のも、やっぱりあんたなのか?」
志波はやはり答えない。かわりに都倉を見て、右腕をさすってみせた。当事者しか知り得ないはずのその行為の意味に、都倉は彼が昨日の襲撃犯であるという事実を飲み込んだ。
「あいにく、僕らは調査をやめるつもりはありません。彼女は誰かに殺された。放っておくわけにはいかない」
「……彼女は自殺だ」
静かに、だがはっきりと志波が呟く。そして真っ直ぐに都倉たちを見据えた。
「これ以上事を荒立てるな」
向けられた純粋な敵意が、ナイフのように突き刺さる。志波はさらに言葉を重ねた。
「月宮薫子は自殺した。これは彼女の意思だ」
「……意思? 殺されたにも関わらず、自殺として処理されることが?」
ぴくりと里見の眉が歪む。思わず都倉も反論した。
「……ッふざけんな! そんなわけねえだろ!」
「きみたちは何も知らないから、そんなことが言える……!」
志波の表情が一瞬、痛ましげに歪む。
「……これは警告だ。まだ彼女の邪魔をするようなら、俺は何度でも、きみたちを止めに来る」
志波が一歩、距離を詰める。一歩、また一歩とゆっくり近づいて、都倉の目の前に立ちはだかった。
「……っ」
時間はたっぷり与えられたはずなのに、何故か逃げられない。冷ややかだが奥に絶対の不屈を感じる瞳が、威風堂々と都倉を見下ろす。ビリビリとした感覚が背筋を駆け抜けて、都倉は志波の覚悟を思い知った。
昨日とは比べ物にならないほどの威圧感。顔も名前も身分も全てさらけ出した志波は、何もかもを闇に覆い隠した黒ずくめの姿の時より余程凄みがあった。
「……あんたが手を下したのか、その仲間なのか分かんねーけど……あんた月宮ちゃんの恋人だったんだろ? ホントにそれでいいと思ってんのかよ……!」
「俺は、彼女の……恋人なんかじゃない」
志波はぐっと唇を引き結ぶと、射抜くように目を鋭く細めた。
「彼女は自殺だ。きみたちや世間が何と言おうと、俺はそう言い続ける」
そのフレーズに、都倉は思わず里見を振り返る。同じことを考えていたのか、里見もこちらをじっと見ていた。
「……都倉」
「ああ」
使命感すら感じる、盲目的な主張。何かを隠しているわりに、不器用さが垣間見える人柄。都倉たちと意見の食い違う者は敵のはずだが、彼らは決まって自分の心に蓋をして、痛みに耐えているように見えた。
「犬飼。ここまで聞いてたな」
『……はいッス、里見さん』
テーブルの上に置かれた、ずっと通話中の画面が表示されているスマホに志波が初めて注意を向ける。そのスマホを耳に当て直しながら、里見が彼の前に進み出た。
「……彼に会わせたい人物がいる。そこの使用人に、奥森灯夜という青年がいるはずだ。ここに連れてきてくれ」
「……おっくん、ここに呼んで大丈夫なのか? 志波さんとグルかもだろ?」
「それでもいい。今はとにかく情報が欲しいんだ」
志波とはテーブルを挟んで都倉と里見がひそひそと言葉を交わし合っていると、志波が向こうで顔を上げた。
「奥森灯夜……きみたち、奥森くんを知ってるのか?」
「え? あ、いや、知ってるっつうか……」
あたふたとボロが出そうな都倉に代わって、里見が答える。
「彼には、月宮薫子さんのことで話を聞きに行きました。あなたのこともそこで聞いたんです」
「……そうか。彼は何と?」
「あなたは薫子さんの秘密の恋人だと」
志波は驚いたように少し目を見開いた。そしてやや困ったように首を掻く。
「それで、俺のことをあんなふうに? 彼女は……俺のことをどんなふうに伝えていたんだろうな」
今となっては知る由もないが、と毒気を抜かれたように肩を落とす。
「……? ちょっと待ってください。あなたは彼と面識があるわけではないんですか?」
志波の言い方に引っ掛かりを覚えた里見が聞き返したが、志波は素直に首を横に振った。
「いや、俺が知っているのは彼の名前だけだ。彼女づてに、使用人に歳が近くて仲の良い子がいると。彼もそんな感じで俺のことを聞いたんだろう。あっちはもしかしたら立場上、俺の顔を見たこともあるかもしれないが」
里見と都倉は顔を見合わせた。
志波は嘘を言っているようには見えない。だとすれば、彼らに直接的な繋がりはないことになる。彼女の死後、示し合わせて意見を揃えるなどという芸当は不可能であるしその必要もない。ならば彼らの主張が揃ったのはただの偶然ということだが、そんなはずはないとでも言いたげに里見は眉間の皺を深めた。
「ごめんくださーい。里見さん、奥森くん連れてきましたよ」
重苦しい空気の流れていた事務所にノックが響く。無遠慮に開け放たれたドアから、犬飼と奥森が顔を覗かせた。
「……あの……僕に用事って、一体……」
おずおずと事務所に足を踏み入れた奥森は、道中何も聞かされずにここまで来たらしい。里見が志波を手で示した。
「実は、きみと全く同じ主張をする人が現れた。それで、きみにもう一度話を聞こうと思ったんだ」
「え……?」
奥森の視線がソファに座った志波を捉える。里見が紹介する前に、志波が立ち上がった。
「奥森くん……? 薫子さんからよく話は聞いてた。きみがあの奥森くんか……?」
「……志波さん? 志波遼一さん……?」
奥森のほうには見覚えがあったのか、志波の顔を見た途端目が見開かれる。そして彼は震える手で顔を覆い、ぺたんと床に膝をついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 僕は……っお嬢様を、守れなかった……!」
「奥森くん……!」
崩れ落ちた奥森に志波が駆け寄る。その手が優しく奥森の肩に触れた。
「きみは何も悪くない。謝らなきゃいけないのは俺のほうだ。俺が、彼女を守らなきゃいけなかったのに……!」
「そんなこと……! 僕は……僕には、あなたに合わせる顔が……!」
「……顔を上げてくれ、奥森くん。よかったら、俺の知らない彼女の話をたくさん聞かせてくれないか。俺も、きみに話したいことが山ほどあるんだ」
「志波さん……うう、お嬢様……!」
肩を震わせ合う二人を見ながら、犬飼が呟いた。
「なんか……聞き込みできる雰囲気じゃないっすね」
里見は何かを考え込むように黙って二人を見つめている。涙を滲ませて彼女を守れなかったと嘆く彼らにどこか数刻前の自分の姿が重なり、都倉は二人に駆け寄った。
「えと……おっくんも志波さんも、そんな泣かないで。俺に言われてもって感じだろうけど……」
奥森の背をさするうち、鼻の奥がツンとして声に涙が滲む。そんな都倉の様子に触発されたのか、堰を切ったように奥森が泣き出した。志波も自身の肩口に顔を埋める。結局慰めるどころか三人で涙と鼻水をひとしきり流し合って、ようやく落ち着いたころ志波が里見を見た。
「……そういえば、奥森くんと同じ主張をする人間が現れたって、それってもしかして……」
「ええ。それが志波さん、あなたです。見たところ、あなた方は初対面だ。それがどうして、意見が揃うことになったのか……」
志波が奥森を振り返る。衝撃を受けているのは奥森も同じだった。
「志波さんも、お嬢様が自殺だと……そうおっしゃっていたんですか?」
「……ああ。きみも、闘ってくれていたんだな」
奥森と志波の視線が交わる。それだけで、彼らは全てを察したようだった。
「……ずっと、一人きりだと思ってた。彼女が為したかったことを守ろうとしているのは、世界中で俺だけなんだと、そう思ってたんだ」
「はい。でも……お嬢様を本当に思うのならば……僕の他にも、味方がいるのなら……」
二人は頷き合うと、覚悟を決めたように都倉たちをゆっくりと振り返る。同時に発された言葉は、今までとは真逆のものだった。
「月宮薫子は、殺されたんだ」
