「死、のち殺人」第10話
精神的疲労が限界を超え、帰りの電車で泥のように眠った。
あのときの私は、末永の提案に肌が粟立ち、反射的に平手打ちを食らわせて全速力で逃げた。柚木優乃の足は思いの外速く、なんとかまくことができた。しかし、走り終わった後の体力の消耗はすさまじく、ふらふらになってしまった。
それにしても、恋人の報復をしようとした相手をデートに誘うなんて常軌を逸している。サイコパスなのではないかと疑ったが、自分の一番大切な人間が死んでしまったとしたら、普通の人間でも壊れてしまうのかもしれない。報復相手を恋人だと思い込むくらいに。
だけど彼の言うように、私がさりちゃんである可能性も否めない。一か八かさりちゃんの本名を呼んでもらえばよかったと、少しばかり後悔した。
浮かない気持ちで家に帰ると、柚木優乃の母親が泣きながら玄関から飛び出してきた。
「優乃! 優乃!」
「お、母さん……」
母親は私の戸惑いも意に介さず、思い切り抱きついてきた。
「心配したのよ……連絡もつかないし……警察に相談しようとしたの……」
彼女の言葉を聞いて、スマホを確認していなかったことに気付いた。末永と会っているときはそれどころではなかったし、帰りの電車では爆睡していた。
「ご、ごめんなさい」
「優乃……制服……もしかして、学校に行ってたの?」
「う、うん」
「優乃……!」
母親は私の体を力強く抱きしめた。玄関扉が開いており、通行人の視線が痛い。いたたまれなさを感じる一方、母親の無償の愛で胸が満たされた。
私も短期間ではあったけれど、彼女に負けないくらい凛花を愛していた。きっと我が子の無事を確認した母親は、周囲など気にせず、こんな風に愛情をぶつけるのだろう。それが母という存在なのかもしれない。
その日はリビングで晩御飯を食べた。チーズがけのハンバーグ、水菜としめじのバター炒め、ひよこ豆の入ったミネストローネ。「優乃の大好物よ」という言葉には、思わず涙腺が緩んだ。本当の母親ではないのに、その愛情には激しく心を動かされた。
その晩、私は初めて安眠することができた。
翌日は悲惨だった。ひ弱な体なのに急に遠出をしたせいで高熱が出てしまった。とても動ける状態ではなく、柚木優乃の母親の看病を受けながら、朦朧とした意識の中で焦燥感に駆られていた。
それから数日間は微熱と倦怠感が続き、生理が重なったこともあって動けなかった。無為に日々を消費していくことへの焦りが神経をすり減らし、余計に体調が悪化する悪循環が起こった。柚木優乃は心と体が直結するような繊細な人間らしく、自分の意志ではどうすることもできなかった。かろうじてスマホを確認することはできたが、鈴木萌桃からの返信はなく、それが余計に不安を煽った。
ようやく活動できるまでに復活したのは、憑依してから六日目。もう悪霊化はすぐそこまで迫っているのに、未練を晴らすどころか生前の記憶を蘇らせることもできていない。悪霊化直前の自死についても真剣に考えないといけない時期に迫っている。しかし、柚木優乃の母親を悲しませることはどうしても憚られた。
死ぬに死ねない。だけど、大切な人を殺したくない。股裂き状態だ。
気に病みすぎて狂いそうになったため、一度外に出ることにした。母親が出勤したことを確認し、私服に着替えて外に出た。もう末永に会うのはこりごりなので、森矢台高校に行く気はない。
電車を乗って向かったのは歌舞伎町。LINEの既読すらつかないことにしびれを切らし、鈴木萌桃の安否を直接訊きに行くことにした。昼間だから鈴木萌桃本人には会えないけど、猪熊店長ならいるはずだ。
「いらっしゃいま……あれ、勤務希望の人?」
「あ、いえ……その」
「高校生はお断りだ」
猪熊店長はぴしゃりと言い放った。私服なのに一瞬で高校生と見抜くのはさすがだ。
いかつい風貌をまじまじと見ていると、彼は眉根を寄せた。
「何か」
「モナミさんはいますか?」
「え?」
「その……生きていますか?」
猪熊店長の表情が固まった。なぜそのことを知っているのかと、表情が問うている。
「……キャストの個人情報は言えない」
「でも、勤務しているかどうかは、せめて」
「言えない。高校生は客でもないから」
にべもない言葉に心が締めつけられた。つい数週間前まで好意を寄せられていた相手に冷たくされることは堪える。もちろん、猪熊店長はモナミ本人に対して好意を寄せていただけだけれど。
大仏のように口を閉ざした猪熊店長を説得するのは諦め、やむなく店を後にした。さすがに鈴木萌桃の家に行くわけにはいかないから、本人からの返信を待つしかない。またも貴重な時間を無駄にしてしまい、激しい焦燥感に苛まれる。
悄然とした気持ちで歩いていると、いきなり肩を掴まれた。反射的に身震いした。
「さりちゃん、偶然だね」
ねっとりとした声の主は、間違いなく一番会いたくない人物だ。
「……ストーカー」
後ろを振り向かずに冷然と言い放つと、彼は「心外だな」と空笑いした。
「本当に偶然なんだよ」
彼の言葉は信用しがたい。中学が一緒だということは、末永が柚木優乃の家を知っている可能性はおおいにある。下手したら家を出たときから尾行されていたのかもしれない。
「……学校は?」
「今日は休みだけど」
ずっと寝込んでいたせいで曜日間隔を失っていた。観念して振り向くと、末永が満面の笑みを浮かべている。
「今日、ライブなんだ。一緒に見ない?」
「嫌だ」
「そんなに警戒しないでよ、さりちゃん。僕が記憶を思い出させてあげるから」
末永のべたついた言葉の一つ一つが生理的に受けつけない。しかし、もし自分がさりちゃんなら本名を呼んでもらえば記憶は蘇る。その機会をみすみす逃すわけにもいかない。
逡巡の末、「どうしてもさりちゃんと行きたいんだ」と連呼する末永の言葉に首肯した。
「やった! 実はもうすぐ始まるんだ」
「お昼なのに?」
「復活ライブだからね。会場の確保にも苦慮しただろうし」
「チケットは?」
「ちゃんと二枚あるよ」
あまりの用意周到さにぞっとした。やはりつけてきたのではないだろうか。二度目の平手打ちをすんでのところで止めたのは、末永の背後に会いたかった人物が現れたからだ。
「よう、末永。新しい彼女?」
「えっ、兄ちゃん?」
吉永だ。頬にある豆粒ほどの大きさのほくろをみて、思い出が蘇ってきた。胸の奥がじんわりと熱くなるのは、彼が私の中で大切な存在だからだろう。
しかし、吉永に今の私を認知してもらえる可能性はないに等しい。
「いや、ずっと彼女だよ」
末永の言葉に吉永は顔をしかめたが、すぐに明るい表情をこしらえた。
「デート中に悪いな。俺も今日ライブに行くんだ」
「邪魔しないでよ、兄ちゃん」
「いや、こっちも連れがいるし」
その言葉に心臓が跳ねた。吉永の相手は西宮マネージャーなのだろうか。果たして恋は実ったのだろうか。訊きたいのはやまやまだけど、今の私にその権利はない。
「じゃっ」
吉永はさっぱりとした笑顔のまま去っていった。これから女性と待ち合わせなのかもしれない。
「僕たちも行こうか」
末永がべっとりとした笑顔で私の手を握ろうとしたが、すかさず振り払った。「冷たいなぁ」と言う顔は、どこか嬉しそうだ。さりちゃん(と思い込んでいる人)と一緒にいられることが余程嬉しいのだろう。もしかしたら、下手に敵意むき出しにされるよりは好意を持たれているほうが幾分安全なのかもしれない。それにライブ会場には吉永がいるからもしもの事態に陥っても頼ることができる。加えて、吉永のデート相手も気になる。
私は末永がストーカー行為をした疑惑には目をつぶり、ライブに同行することにした。話の流れで本名を呼んでもらう気でいる。
「まさか僕の好きなバンドのライブをさりちゃんと見に行けるなんて夢みたいだ」
「そう」
「僕がギターを始めたきっかけは、そのバンドに憧れたからなんだ」
そういえば以前に吉永は、弟がギターをやっていると言っていた。
「ふうん」
「僕のギターも聴いてほしいな。あ、明日――」
「ねぇ、私の名前を呼んで」
末永の冗長な話に耐え兼ねて、何の脈絡もなく訊いてしまった。
「え? さりちゃん」
「違う、本名」
そういうと、彼は目を丸く見開いた。
「嫌だよ」
「へっ?」
「だってさりちゃんが、本名が嫌いだからさりちゃんって呼んでって言ってたから」
まさか、本名すら訊くことができないのか。絶望感が荒波のように押し寄せてくる。
「いや、今は記憶がないから、嫌とは思わないというか……」
「じゃあ嫌いな理由を教えてあげるよ。苗字は親が離婚した証だから嫌いで、名前はお父さんのお気に入りだったキャバ嬢の源氏名だから嫌いなんだって」
そういうことじゃない。そんなことはどうでもいい。しかし反論したところで、脳内お花畑の末永には通じそうもない。これで望みが一つ潰えた。
「着いたよ。ここの階段は急だから気をつけて」
末永が指し示したのは雑居ビルの地下だった。洞穴のような闇が下まで続いている。階段の幅は狭いのに、一段一段がやけに高い。末永はエスコートのつもりなのか膝まづいて手を差し出してきたが、無視して一人で階段を下りた。転びそうになりながらもなんとか地下に着き、店に続く重厚な扉を押し開けた。その瞬間、タバコと酒が入り混じった夜の匂いが鼻腔を刺激した。昼間とは思えないほど暗い。教室ほどの広さの閉鎖的な空間には、まばらに人が集まっている。
店員にチケットを渡して入ると、末永が嬉々として話しかけてきた。
「僕、ドリンク持ってくるね。何がいい?」
「えっと……」
「メロンソーダ好きだったよね。さりちゃん、緑好きだから」
末永は私の答えを待たずに、いそいそとドリンクを取りに行った。やはりどこまでも苦手なタイプの人間だ。
嘆息しながらステージのほうに視線を向けると、吉永がいた。
彼の隣の女性は――知らない人。
「西宮マネージャーじゃないんだ……」
つぶやいた声は周囲の雑談と大音量のBGMにかき消され、自分の耳にすら届かなかった。
吉永は西宮マネージャーにあれほど熱烈に好意を寄せていたのに、諦めてしまったのだろうか。心が落胆の色に染まる。
しかし注意深く様子を見ていると、どうやら熱っぽい視線を向けているのは女性だけで、吉永はぎこちない笑みを浮かべている。西宮マネージャーに向ける赤ら顔とは程遠い。もしかしたら、女性のほうからデートに誘ったのかもしれない。
「お待たせ! はい、どうぞ」
「ありがとう……」
受け取ったメロンソーダは毒々しい色をしている。勢いよく上昇しては消える無数の炭酸の粒を見て、命もこれくらい儚いものかもしれないと思った。
「あ、始まるよ」
BGMが小さくなり、ステージの照明がチカチカと点滅しはじめた。そういえば、何のライブかを訊いていなかった。どうせ知らないマイナーなバンドだろう。
「みんな、生きてるか?」
舞台袖から、派手な格好をした人たちが現れた。ドラムは、銀髪のロン毛をひっつめ髪にした威圧感のある風貌の男性。ベースは、長い前髪から切れ長の目が垣間見えるミステリアスな男性。
そしてギターは――
「柳楽直希……」
驚嘆のつぶやきは、柳楽直希の歌声にかき消された。何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌。最初に聴いたときは無感動だったのに、今は激しく心を揺さぶられている。
バンド、続けてたんだ。
この感動を誰にぶつければいいのだろう。きっと誰にもわかってもらえない。
私は紛れもなく柳楽直希に憑依していた。その彼が今、彼の一番好きなバンドを続けている。それが自分のことのように嬉しく、赤の他人であることがどうしようもなく歯がゆい。
「最高だ!」
末永はもはや私の存在すら忘れたように柳楽直希の歌声に熱中している。私はこのとき初めて、彼の純粋すぎる心を好意的に感じることができた。
柳楽直希はMCを挟むこともなく、あえぐように歌い続けた。ここにいる五十人にも満たない観客は、心から『今日シ』のライブを楽しんでいる。魂と魂のぶつかり合いを肌で感じている。
熱に浮かされたような心持ちのまま、あっという間にライブは終盤に差しかかった。柳楽直希は「最後の曲です」と言って、今日初めて語り出した。
「この曲を、俺は作っていません」
周囲がざわめく。
「正確には、俺の体に憑依した誰かが作りました」
今度は会場全体がどよめいた。私の心は漣のように揺れている。
「俺には十日間分の記憶がありません。きっと今流行している都市伝説のアレです。前は信じてなかったけど、自分の身に起きたら信じるしかないでしょ? 俺の頭がおかしいだけかもしれないけど」
柳楽直希は自嘲気味に笑った。
「歌詞はまあ、何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌です」
作った曲を誹られて顔が熱くなった。そっくりそのまま柳楽直希に返したい。
「だけど、メロディとの相性が最高。もう、たまんねぇ。ちなみにメロディつけてくれたのは大切な後輩です」
吉永が照れくさそうに笑った。隣の女性には見せていない素の表情だ。
「聴いてください。『生きたい』」
柳楽直希が歌い出した途端、会場がしんと静まり返った。それに反比例して、私の感情は迸っている。
確かに、何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌であることは間違いない。
でも、そんなことはどうでもいい。
この曲は、私が確かに存在していた証だ。
吉永と過ごした時間が、本物だった何よりもの証だ。
「『もしも生きられるなら 君を大切にしたい』」
柳楽直希が最後のフレーズを歌い終えると、会場が暗転した。万雷の拍手が徐々にアンコールを促す手拍子に変化していく中、私は嗚咽をこらえている。末永はそんな私に気付いていない。
ややあって、『今日シ』のメンバーがステージに戻ってきた。会場は歓声に包まれ、誰かの指笛が高らかに響いた。
柳楽直希は何度も「ありがとう」と繰り返すと、観客の手拍子をおさめて口を開いた。
「俺には大切な人がいました」
彼の声は震えている。
「でも、一年前に死にました」
会場が水を打ったように静まり返った。私の胸も苦しくなる。
「俺は抜け殻になりました。そいつとは元々ある事情で離れてたんだけど、生きてるのと死んでるのじゃ天と地の差だ。彼女が死んだときはもう、俺、どうしたらいいか……」
柳楽直希はさめざめと泣いた。彼が言葉に詰まっていると、誰かの「がんばれ」という声が響いた。吉永かもしれなかった。
「……ありがとう。だから俺、一年間ずっと腐りきってた。寂しさを埋めるためだけにマッチングアプリを入れて、どうでもいい女と会って、やっぱりどうでもよくて、最低だった。彼女が好きだった低アルコールカクテルとチョコレートばかり飲み食いして過ごした。だけど……だけどさ」
柳楽直希は言葉を切った。
「死んだらもう、会えないんだよ」
その瞬間、末永が嗚咽を漏らした。彼も最初に会ったとき、柳楽直希と同じようなことを言っていた。
――さりちゃんには、もう会えない。
残された人間は耐え難い苦しみを背負いながら、心が壊れてもなお、生きていかなければならない。それはもしかしたら、死んでしまうこと以上に辛いのかもしれない。
実際に私がそうだ。死んだことよりも、死んでしまうことよりも、大切な人が消えてしまうかもしれないことの方が何倍も、何十倍も怖い。
大切な人の命を悪霊化した自分の手によって奪ってしまうことを考えると、気が狂いそうになる。
「だけど俺は、誰かに憑依されたからこそ、信じられるようになった」
柳楽直希は腕で強引に涙を拭った。
「もう一度会える可能性を」
末永の嗚咽が止まった。
「聴いてください。『リリー』」
今度は私が、嗚咽を漏らした。
『リリー』を聴いてからの記憶があまりない。末永と何を喋ったのか、家までどう帰ったかも曖昧だ。気付いたら泥のように眠り、翌日には案の定高熱が出た。柚木優乃の体は一日活動するほどの体力を持ち合わせておらず、許容範囲を超えた精神の乱れにも耐えることができないのだろう。
私は丸一日寝込んでいる間に、残りの時間の過ごし方について考えた。
あと、たったの三日間。私はこの短い時間を未練晴らしに費やすのではなく、柚木優乃の大切な人と過ごす時間に充てることにした。柳楽直希の歌、そして自分の作った曲に感化されたのは言うまでもない。どのみち同じ結果になるなら、絶望するよりもささやかな幸福に包まれたかった。大切な人を大切にしたかった。
憑依してから八日目は、微熱がある中で一日中母親と過ごした。真夏に似つかわしくない万年こたつに下半身をうずめ、みかんをむきながら主婦向けの情報番組を見て笑い、しょうもない意見を二人で交わし合った。母親は昼なのに豪勢な料理をふるまってくれた。ごった煮みたいなパエリアは絶品だった。泣くほどおいしくて、母親に涙を掬われてまた泣いた。途中で母親のスマホに電話がかかってくると、彼女は「すみません、すみません」と平謝りした。もしかしたら娘のために当日欠勤したのかもしれない。罪悪感よりも、母親に大切にされていることの嬉しさが勝った。たとえそれが、本当の私に対する愛情ではないとしても。
九日目は、二時間半かけて学校に行った。改札での、決して偶然ではないであろう末永との再会を、私は甘んじて受け入れた。もし私がさりちゃんなのだとしたら、彼も大切な人にあたるからだ。
学校に着いたら、意外にも話しかけてくれる人がいた。あかりちゃんという、図書委員をしているまじめな子だ。初対面なのに他愛ないもない話で盛り上がることができて嬉しかった。一方、授業は少し辛かった。数学は異国の暗号に見え、物理は異世界の呪文にしか聞こえなかった。だけど、地理の授業だけは楽しかった。二年生になったら分離選択で楽になるだろうなと考えた直後に、私にはその機会がこないことを悟って切なくなった。
放課後になると、末永が教室の前で待ち伏せしていた。あかりちゃんとお茶をするからと断ると、彼は捨て犬みたいな悲しそうな表情を浮かべた。なんだか可愛らしく思えた。
学生らしい時間を満喫したあとは、二時間半かけて自宅の最寄り駅まで移動した。改札を出ると、駅の片隅のベンチでスマホを操作している吉永を見つけた。しばらく凝視していたら目が合ってしまった。吉永は爽やかな笑顔で会釈をしてくれた。それだけで終わらせるつもりだったのに、最後に吉永と無性に話したくなって思わず駆け寄った。彼は目を見開いている。
「えっと、君は確か、末永の――」
「柳楽直希です」
「えっ?」
「じゃなくて……柳楽直希さんに、憑依していました」
信じてもらえないかもしれない。でも、吉永と過ごしたあの時間をなかったことにはしたくない。私と過ごした時間を、吉永にも認識してほしかった。
「まさか……直希さんがライブで言ってたこと、本当だったんすね」
「信じてくれるんですか?」
「楽しかったすね、一緒に曲作った日」
吉永は柳楽直希に話すような口調で気さくに話してくれた。その何気ないふるまいが、涙腺をやさしく刺激する。
「ちょ、なんで泣くんすか」
「いや……嬉しくて」
「やっぱりあのときの直希さんだ」
吉永がしみじみと言った。気恥ずかしくてお互いにはにかむ。
「ライブ、すごく良かった。歌詞は何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌だけど、吉永の作ったメロディが最高だった」
私もつい、柳楽直希だったときのようにため口になる。
「照れるっすよ。歌詞も最高っすけどね」
吉永は鼻の頭をかいた。
「あ、あと、あの女子……そういうんじゃないんで。誤解なく!」
「告白されたの?」
「まぁ……断りましたけど」
「なんで?」
理由なんて明白なのに、つい質問してしまった。
「ポップコーンが爆破した日から、気持ちが変わってないんで」
吉永は恥ずかしそうに視線を逸らすと、「やべ、バイト」と言って立ち上がった。
「じゃあ、また会いましょ。末永に怒られない程度に」
「うん、楽しみにしてる」
きっと、もう会えない。そう思ったら、心の奥がずきずきと痛んだ。吉永は私の感情の機微を察したのか、小首を傾げた後にスマホを差し出してきた。画面にはQRコードが表示されている。
「連絡先、交換しません?」
「え?」
「なんか困ったら、いつでも連絡くださいよ。名無しの直希さん」
吉永は何でもないことのように言った。
名無しの直希さん。この世界に生きていても誰からも認知されなかった私を、初めて私として認められた気がした。泣くのを堪えながら、QRコードを読み込む。
「それじゃ、また!」
去り行く吉永の背中に、思わず声を投げた。
「吉永!」
「どうしました?」
振り向く彼に、精一杯の言葉を贈る。
「色々ありがとう。それから……」
こんなおせっかい、していいのかわからないけど。
「西宮マネージャーは、その……吉永のことが――」
「ダメっすよ。その後は、僕が本人から必ず訊き出します」
吉永は真剣なまなざしで私を見据えた。
「大切な人には、最後まで向き合うって決めたんで」
その言葉は、私の胸に深く刺さった。
