「自分らしさ」が過大評価されすぎてる件について
最近、自分ってなんだろって考えてまして。(まだ中学生)
ほら、よく聞くじゃないですか。
「私の私であればいい」
「自分は自分だけのもの」
思春期で心が変わっていく時期なので、そういう話はよく聞きます。
多分、失恋の次くらいに敏感になる時期なんじゃないでしょうか。
わたしも、もちろんその真っ只中でして。
これまでは「天上天下唯我独尊!!」でいても、周りも五条なので、その間に先生とか、大人が入ってくれてました。
ですが、中学生にもなると
「そろそろ他人との付き合い方考えろよ」って時期になります。
五条のままだとぶつかっちまいます。
てなると、自分が相手のために変わらなきゃならない。
すると、ぽっと思うようになります。
自分ってなんだっけ。
これまでは「天上天下唯我独尊!!」してたので、自分は「俺!」で良かったんですよ。でも、やっぱ生きてく上では、相手に合わせて変わらなきゃならないし、変わらせられることもある。
てなると、自分が急に不安定なものになって、自分が誰だかわからなくなっていく。
まだ、名前も、使命も、役割も与えられず、現界に降りることを許されてない透明な液体の気分です。
Mrs.GREEN APPLEとか聞いてると、
「あの子にはなれないし、なる必要もないから」
とか言ってくれるけど、その前に自分が揺らいでんだよ。
そんな1行で片付けてくれるな。この気持ちを。
「自分のままでいればいいんじゃない?」とか言うな。
それがダメだったから悩んでんだよ。
「考えすぎるのも良くない。」
だとしたら、私はいつまでもわたしになれない。思考停止は甘い蜜だ。
なので、自分はどうやって自分を定義するのか考えてみます。
1.身体では、定義できない
自分を定義するならば、なにか不変的なものがいります。
これまでの自分と、これからの自分で共通してるものを探さなくちゃいけない。
まず、最初に思い浮かんだのは、この体でした。
生まれてきたときからずっとお世話になってる、この身体。
この体は紛れもなく、これまで自分と一緒に歩んできたし、これなら自分を定義できるかもしれない。
でも、これは「テセウスの船」と同じ。
私達の細胞は、増えては死に。増えては死にを繰り返し、どんどん入れ替わってますよね。生まれたときからずっとある細胞なんてほんの一部しかありません。
となれば、私の体は今も変わってるし、昔とは違う。
身体で自分だと定義することは難しい。
まず、体は自分だと定義できるものではない。
2.精神では、定義できない
身体、とくれば対にくるのは、精神。
精神、つまり心や考え方ならば私を私と定義できるかもしれません。
これまで生きてきたなかで、脳が入れ替えられたことなんてないし、もちろん「いれかわってるぅ〜〜!?」な事件もなく。
入れ替わりという点では、自分を自分だと定義できるかもしれない。
と思ったけどやっぱりこれもダメ。
だって考えてみて。
赤ちゃんのときの自分は「オギャー」しか言えなくて、しかも「眠い、お腹空いた、気持ち悪い」くらいしか考えてなかった。
一方、今の自分はこうやって自分について悩んでたり、赤ちゃんと同じ精神ではない。
人生の師と呼べる人に出会ったなら、がらっと考え方が変わるかもしれない。
逆に、何にもおこらず今がIQの全盛期かもしれない。
ともかく、昔と今とでは考え方も本能も要素も違う。
精神が同じとは言い切れない。
3.他人に自分を定義してもらう依存
身体も精神も、自分のものでは、自分を定義できない。
となると、自分を定義できるのは他人。
両親だったり、親友だったり、あるいは写真だったり。
こういった人、物は、自分のこれまでの歴史を一緒に歩んでくれているので、「あんたはふみだよ」って言える。
なんせ、昔の自分と、今の自分を知ったうえで、「あっ。この人はふみだ。」って思い続けてくれてるんだから、他人には自分を自分だと認識できている。
写真もそう。
写真をみて「あぁ、こんなことがあったなぁ」と思い出せば、それは自分が過去に存在して、今も自分であるという証明になる。
なんせ、記憶はどんどん積み重なっていくから、昔の記憶は今も変わらず残っている。
それを自分と切り分けて保存してくれるのが「写真」
写真は自分を自分だと認識できる方法の一つです。
でも、こうも思ってしまいます(めんどくさいやつですんません)
その他人は、じぶんのことを定義できんのかな。
ここまでの流れで言うならば、できない。
だから、その他人も、また別の他人に「お前は〇〇だ!」って定義してもらっている…ッテコト!?
また別の他人も、また別の別の他人に…(以下略)
なるほど。
どんどんつながるシステムだったか。
っちょとまてよ。
もし、わたしが私を定義する人全員いなくなったとすんじゃん。
そしたら、私、どこにいっちゃう?
私は、だれが、私だと言ってくれる?
だれが、わたし?
否、そんな人はどこにもいない。
また作らなければならない。
だれかに「あなたはふみだよ」といってもらえるまで、自分の存在は保証できない。
資本主義や、人間関係、自立だけじゃない。
自分という大切なものさえ、私達は依存関係にあった。
人間は自分のことを自分だと理解することはできないから、他人に定義してもらっている。
そして、定義しあっているので、全員が誰かの依存関係にあると。
なんとも美しい世界です。
4.ただし、他人が決めれるのは枠だけ
だけど、考えていく中で「あれ?」ってなったんですよ。
「他人が見えてるのって、出てきたもんだけじゃね?」って。
他人を見分けるときに、みためで覚えると思う。
性格はその人が話している内容から。
てなれば、他人が「Aさんはこういう人!」って決めるときは、Aさんが出したものを見て決めている。
当然だけど、心の底までは知れない。
となれば、人間は自分のことを定義してもらうときに、完全な自分は定義してもらえない。あくまでも自分で出したものから、勝手に解釈して「こういう人」って定義する。
どこまで行っても他人軸だし、その人物像は大まかな自分像でしかない。
つまり、他人が定義できるものってのは、「Aさん」という大まかな枠でしかない。
その人の内面というか、自分の深いところとでもいいますか。
そこらへんを一度身にて取れるわけがない。
なので一生、自分のことを、自分よりわかって笑ってくれる人なんて出てこんのではない。
それをメリットとするかデメリットとするかはまた別のお話です。
まずは「自分のことを他人は完璧には定義できない」という事実があればOK。
自分を自分が決定すること自体はできないという話と合わせると、
完璧な自分らしさなんてこの世にねぇよ
ってことになります。
他人軸の話なんで「自分らしさ」で悩むのはムダ。
というか、「やってきたことが自分らしさになる」が正しい。
やってきたことを他人が見て決めてんだから。
5.自分で決められるのは、「ありたい姿」だけ
ここまでの話だと自分らしさは他人軸であって、自分ではどうしようもねぇぜキャッホー!ってディストピアになるのですが、自分で操作できることもあります。
それは、「ありたい姿」
将来像とでもいえばいいのでしょうか。ずっと考えてきたけど、自分ではこの部分しか変えようがない。
ありたい姿は、自分の中で練り上げられるから、これは他人軸ではない。
しかも、それに沿って行動することで、「自分らしさ」は「ありたい姿」に近づいてくる。
だとしたら、ありたい将来像をしっかりと把握することだけが、自分らしさを自分で作る方法かなぁと思います。
6.みんなが思ってるより、自分らしさって
というか、自分らしさに囚われすぎてるのかもね。
ここまで考えてちょっと思考の枷がハズレたかもしれん。
なんかさ。
みんな「じぶんらしさ」を神秘ちゅうか魔法みたいに考えすぎてる。
じぶんらしさがあれば、悩みが減って、行動が速くなって、幸せになるとか考えてそう。
んなわけねぇだろうがと。
ここまで読んできてくれたらわかる通り、自分らしさなんて他人の偶像なんで、それがあったところで人生なんて変わりやせん。
タブンネ。
みんな、自分が変化することを怖がってんだと思う。
そりゃそうだよね。
刻一刻と自分が自分じゃなくなっていくんだから。
でもさ。
それは「自分らしさもどき」を自分で決めてるから「自分が自分じゃなくなる」とか思ってしまってるじゃん。
それによって恐怖がやってくる。
それよか、自分の流動性を認めて、そのうえで、将来像という不変性を自分の中に作ってしまったほうがいい。
そしたらその不変性がある限りは、その他すべてが変わろうと、自分は自分であると信じれるでしょ?
しかもさ。
「自分らしさ」とやらを勝手に作って、それで自分の状態を固定すんのって、「成長できない」と同義やからな。
影響を受けれない、柔軟じゃない、成長できないともいうからな。
さっさと将来像作って、その他すべては成長のために変わっていい!!と思えるほうが絶対うまく行く。
将来像ってのはお守りみたいなもんだ。
てか、その将来像すら流動的でもいい。
めっちゃ怖いと思う。
だって自分の中から、不変性が消えるんだから。
でも、その恐怖を向き合って、自分の全ては流動性であるとか、思えるようになったら、活きてくのが楽なんだろうなぁと思う。
上級者用テクニックですな。
それを人は、悟りというのかもしれん。
まとめするで。
(なお、客観的にまとめてもらうためchatGPTに頼み、その上で修正しました)
1. 身体では
自分を定義できない
「テセウスの船」の例えの通り、体は常に変化している。
生まれたときの細胞はほとんど入れ替わっており、身体=自分とは言えない。
2. 精神(心)でも
自分を定義できない
考え方や感情も時間と共に変化する。
赤ちゃんの自分と今の自分では、心のあり方が全然違うので、精神=自分んとは言えない。
3. 他人に自分を定義してもらう
依存関係
他人や写真などが「あなたはこういう人」と定義してくれる。
でもその他人もまた他人に定義されている存在=無限依存のループ。
他人がいなくなったら、自分の定義も失われる。
4. 他人が定義できるのは
「外に出た情報」だけ
他人による定義は「自分の一部」や「表層」、「過去の言動」しか反映されていない。
完全な自分像を他人に理解されることは不可能と割り切ったほうが楽。
自分でコントロールできない。
5. 自分で決められるのは「ありたい姿」だけ
将来像や目標などの「ありたい姿」は、自分だけが決められる。
将来像へ向かう姿が、自分らしさをつくる。
6. 「自分=流動的な存在」でいい
自分を固定すると成長できなくなる。
変わることを恐れない。
不安定であることを前提に、将来像という不変性をお守りにする。
(将来像すら流動的になったら、生きてくのは楽かもしれない。)
よし。
書きたいことは書き終えた。
4500文字超えてるてマ?
我ながらちょっとキモイ
以上、風山文でした。
またね〜
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