現代教育の基本が、学びを取り上げた説。

1. 「白紙説」が招いた書き手のすり替え

人間は生まれながらにして特定の観念を持たないとする「白紙説(タブラ・ラサ)」は、どんな人間でも適切な教育を行うことで成長できるという、現代教育の考え方の基礎を築いた。

この思想は素晴らしい。

だが、受動的な知識と結びついたことで、教育の現場に大きな矛盾を生み出していると思う。

「白紙だから、無駄なものを入れないようにしよう」という考えが行き過ぎた結果、学校以外が書き込まないようにするという、極端な管理思考につながっているのではないか。しかし、本来、心という白紙に一番線を引き、色を塗る一番の書き手は、本人自身であるはずだ。

人生は一生学び続けること。そのために必要なのは、知識そのものではなく、自分で学ぶ能力、つまり思考力である。それならば、教育は学ぶことを「楽しい」と感じてもらうことを第一優先にすべきだろう。


2. 意欲を削ぐ「詰め込み型」教育のメカニズム

それなのになぜ、今の教育は、学ぶ楽しさを奪うような詰め込み型になっているのか。

私は、その理由の一つに、学校以外の「書き手」のリストに、皮肉にも「本人(学習者)」を含めてしまったことにあると考える。

「知識を注入する側」と「知識を管理する側」が、子ども本人の自発的な学びをコントロールしようとした結果、詰め込み型の教育になり、子どもは「勉強が嫌い」になる。これは、学校という枠の外で自分で学ぶことをやめる、つまり本人が「書き手」じゃなくなるという恐ろしい帰結を招いている。

大人になってから、久しぶりに新しいことを学んで「面白い」「楽しい」と感じる体験があるのは、この時にようやく「書き手」の役割が自分自身に返ってきたからではないだろうか。

現代は、図書館やインターネット、スマホといった学習のための「ペンとインク」は豊富にある。それなのに、学習のための環境が整ってもなお、私たちがそれを持つ意欲=「書く手」そのものを、初期の教育段階で奪われてしまっているのが現状だ。


3. AIが立つ「能力主義の頂点」

さらに、現代教育が追い求める「最低限必要な知識」という枠組みは、AIの出現によって根本から見直されるべきだ。

社会で生きていく上で必須とされる計算能力や論理的な思考力は、すでにAIが人間と同じくらいの、あるいはそれを上回る数値を出してきている。これらの能力において、人間がAIに勝ることはないだろう。

私は、AIこそが能力主義(メリトクラシー)の頂点に立つ存在だと考える。私が大学を卒業する9年後(24歳)には、形式的な知識やスキルはAIが担い、人間は別の役割を求められる未来が確実に来る。

そうであるならば、形式的な知識を「白紙に注入」することに時間を費やす教育は、時代遅れであり、いますぐ変わらなければならない。これからの教育が目指すべきは、AIに代替されない「人間固有の書き方」を育むこと、そして何より、一人ひとりの「書く意欲」を絶対に削がないことにあるはずだ。

私たちはその転換点に立っている。

風山文


あとがき。

久しぶりに勝手に書きました。
読み手の読みやすさなんて考えてません。ごめんなさい。
ただ、いつも私が考えていることを人に伝えてみたいなと思ったためです。これが素の無加工の思考です。いかがでしたでしょうか。
追記:せめてもの償いで太字だけしました。


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