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思考の安定状態と不安定状態。

私はnoteを書き時は大抵、何を書くか決めるよりも先に書き始めるようにしている。だってそうでもないと書けないんだもん。

ちょっと前のnoteで書いているのでこれについては詳しくは書かないけど、この投稿ボタンを押さない限り、「考えよう!」ってなんない。

まぁ要するに、noteの編集画面開くことで無理やり思考スイッチオンにしてるので、それ以外の方法でも思考スイッチを押せればいい。

私の場合、それが新年早々始めた「散歩」にあたる。

今日も5km走ってきたんだけど、その中で思考について色々考えが巡ったので、それを今日は固形化していこうと思う。

「考え」ってみんな当たり前にしているけども、めちゃくちゃ不思議だなぁとふと思った。

だって非物質的で、頭の中でずっとぐるぐるしてる。でもってときにそれは大発見をもたらし、物事見え方を変え、ちょっと人生が良くなったりする。

そんな「考え」の中でも、わたしの「考え」には二つの状態があるって気づいた。

それはnoteに書いた思考と、まだ書いていない思考の二つで、それぞれちょっと性質が違う。

その性質とは「不安定性」だ。

noteに書いてしまった思考は、もはや固定化されてしまっていて、土台としてその上に思考を積み上げることはできるのだが、それそのものをこねくり回すのが難しい。

一方、まだ書いていない思考は、めちゃくちゃ流動的で、いろんな思考や知識と結びつくことができ、常時姿形が変わっていく。

メタファーであったり、同じ性質を持つ別の現象であったり、全く違うアイデアであったり。

そういったものと結びついて、また新しい思考へと変わっていく。

だが、それは言語化した思考の上に積み上げるのとは違って、考えていることがより鮮明に削り出されていくように、どんどん「芯」が見えてくる。

どんどん新しい姿になるけども
それは無駄なものが剥がれ落ちているだけで、そこから真の姿が見えてくる。

って考えているとふと

「ギブズ自由エネルギーに似てるな」

と思った。

ただほとんど直感でひらめきに近い。

頭の中で考えている「思考の種類」が不安定だからこそ、こうしたことが起こるのだろう。

何が似てるのだろう
と考えてみると、ギブズ自由エネルギーは化学反応が自発的に起こるかという指標に使われることを思い出した。

ギブズ自由エネルギーが高いときは、よく山頂にボールがある状態とたとえられるように、少しの刺激で、もしくはなんの刺激がなくとも化合してしまう。

つまりは不安定で振れ幅が大きく、何かと反応しやすい。(と理解してる。間違ってたら教えて。)

不安定性が新しいものに変化しやすいことを表しているのが、似てるなと思った所以なのだろう。

不安定な状態は新しい思考の状態になりやすいのかもしれない。

その状態であれば関連する情報が、ギブズ自由エネルギーを思い出したように近づいてきて、安定している思考よりも簡単に化合し、変化できる。


となると、こうして言語化してしまうことの危険性も考えれる。

それは、その思考そのものが安定し、疑いにくくなったり、新しい思考へと状態が変化しにくくなってしまうことだ。

アウトプットいいよね
ってのが言説だが、思考そのものの変化が起きにくくなるというデメリットもあるのだろう。

アウトプットすること
例えばこうしてnoteに書いてしまうことは、真空パックの冷凍保存だ。

私はこれまで500ほどnoteを書いてきた。
一記事あたり500〜5000文字と幅が広いので、大体1000文字が平均だとしても(この記事はすでに約1500文字)、大体50万文字も書いてきたことになる。

それだけ書いていると、やはり、書いたことはすぐ忘れる傾向があるように思える。

なので、前のnoteを自分で読んでみるとまるでタイムカプセルを開けたかのように「そういえばそうだったなぁ」となつかし〜く思える。noteなどに書き残すことで脳が「保存できたな」と思って、「忘れてもいいや」ってなるんだろう。

でも忘れてもギブズ自由エネルギーの時のように、表層から見失っただけで、何かしら関連することを考えたらまた浮かんでくるからいいかとも思ってる。

言語化することでピリオドが打たれ、意識からは忘れられ、完全に忘れらさることはなくなり、安定する。

その安定した土台の上で新しい思考を生むことができる。その新しい思考を言語化すれば…と言った風に自分の「思考の領土」をどんどん広げられる。

だがそれは、思考そのものが変化しにくくなったということでもある。

なんでも思考を言語化してしまうとその時点で真空パックの冷凍保存になってしまい、変化が起きにくくなる。

note書いている人はネタが欲しいのとの葛藤があると思うが、深く熟成された味わいのある思考は育てるものだと思って、じっくりと考え、言語化を早まらないこともまた必要だと思う。


これは私個人の話だが、言語化していない状態はあまりにも化合しやすいので、不安定で曖昧な言語化されていない情報(感情や勘とか)とも化合できる。

これもまた言語化しないことのよさだ。

だけどもやはり言語化していない状態だと、するりと手からこぼれを落ちるように消える。

今書いていることを考えいるときは、何度も見失い、何度も掬い上げ、なんとか書くまで忘れずに済んだ。

この頭の表層に浮かばせ続けることがほんっとにめんどくさい。

忘れては思い出し、忘れては思い出し。

何度か「もうむり」って思ったもん。ほんとに言語化したかった。今こうして文章に起こせていることが嬉しくて仕方ないもん。もう頭の片隅に居候させなくても済むんだもの。


今日は言語化することによる思考の安定について書いてみた。

メモをとかはギリギリまだ不安定性を保てる(と思ってる)が、こうしてnoteや日記で言語化し切ってしまうときには、また考え直すことがめんどくさいけど…と考えてみてほしい。

あと、考えずに頭の中に放置する期間も意味があるように思える。

ずっと撒き餌を流し続けているようなものなので、似ている情報が撒き餌に引き寄せられた魚のようにたむろする。

だけどもやはり、頭の中に居候されるとそのスペースが使えなくなる。

これがワーキングメモリというやつなのかなぁとも思った、思考体験でした。



ちなみに私は、100日連続投稿挑戦中に書いてしまい、2500文字分後悔している。


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ふみ|元不登校高校生の奮闘記 もしよければ15歳にお小遣いをあげてやってください。 いただいたお小遣いは挑戦と本に使います。