「校則」から考える学校の民主主義。
最近参加させていただいた、「探究タウン」で面白そうな通知が来ました。
探究タウンとは?↓
どうやら、「U-18サミット」を主催された曽田 柑さんというとんでも高校生が、今度はnoteで「教育noteコンテスト」を開催されるそう。
内容としては
中高生〜20歳以下の人が今の学校に思っていることをnoteで投稿し、そのいいね数とか好き数とかの人気度、あと学生ならではの鋭い視点かどうかで優勝を決めるコンテスト。
もうね。
やるしかないっすよ。
こうして大義名分を得て、「中学生のくせに語るなや」という意見を完全否定できる状況なんですから、本気で書かせていただきます。
不登校中で暇で暇で仕方がないので、書きまくります。
とはいえ書きたいことがありすぎるので、毎回テーマを変えて書いていこうと思います。11/5から11月末までは教育monthだぜ!!
20歳以下の方、正直、モヤってることありませんか?
書きましょ。
noteで書いて言語化すればちょっとモヤモヤが晴れるかもしれないし、
では、同じく教育noteコンテスト参加記事が集まってるので、読むだけでもヒントになるかもしれない。
とりあえず、今日は私が書きます。
読んだ感想でもいいので、書いてみてください。
コンテストに応募せずとも、私が楽しみにしてます。
コメントにでも教えに来てください🙇
以上、全くもって運営でもなんでもない不登校中学生からお誘いでした。
校則について
さて、今日は昨今色々と問題視されている校則というテーマで書きます。
私は生徒会に不登校になるまでは参加してました。
そして、私の活動の一つが服装の改訂、
つまりは、校則の変更です。
私の学校は、体操服と制服があって、体操服が結構生活しやすいんです。
で、暑さ対策もあり、体操服で登校する期間があるんですね。
その期間があまりにも短く、
猛暑日超えても7月からしかダメという鬼畜仕様。
どう考えても温暖化してて、あっつい日本では6月から釜茹で状態。
だから早くしてくれ!って意見から、校則改訂をすることになりました。
校則を変えるために、先生方と色々とお話ししたり、職員会議でプレゼンしたり(生徒初らしい)する中で
校則はなんのためにあるのか?
という疑問を問いかけたことがあります。
やっぱり帰ってくるのは
「生徒同士のトラブルを減らすため」
ルールを作るのはたいていトラブルを減らすためです。
多様な人間が同じ社会の中で、それぞれが生きたいように生きると、どこかで衝突が生じます。
それはやりたいことが違うからであり、生きたいように生きようとすると。
つまり自由に生きると、違う考えや目的を持った人間と衝突します。
同じような考えや目的をもった人間同士で集まることで、衝突の回数は減ります。
ですが、違う考えや目的を持つ人間同士でも集まるので、集団同士の衝突となり、衝突の規模が大きくなっていきます。
こうして長きにわたって人間は争いを続けることになります。
ただ、自由とは、生きているという前提に基づく。
当たり前だけど死んでしまうと、
自由に生きることが叶わない。
そこでルールの出番。
ルールによって衝突していた互いの自由を、互いに一部制限することによって、衝突をできる限り減らことで、争いを減らした。
これは、互いの自由を、互いが最大限保障するためだ。
自由になるために、トカゲの尻尾切りのように互いに自身の自由を制限し、残りの自由を生き残らせる。
そして、ルールは民主主義の「みんなで作る」という原則によって、関係する誰もがルールを作ることの一役を担うことで、全員に理解と義務を発生させ、全員の自由を保障した。
ただ全員の意見を聞いていると、
そもそも意見を聞くことに膨大な時間がかかってしまう。
だから、
総理や大統領といった「国の代弁者」を
それぞれの集団から決めることで、みんなの総意とした。
支配とルールの違いは
私はここにあると思っている。
支配は、
一部の支配側の人間がルールを作り
被支配側にそのルールを強要する。
一方、ルールは全員がそのルールを作ることに参加することで、そのルールを全員の総意とする。
そして、「作ったからには」という理解のもと、
ルールを守る義務を発生させることで、
一定の不自由を与える代わりに、
一定の自由を保障する。
これは民主主義によって回る社会において、
基礎に当たる部分だと思う。
つまり、ルールとは、
社会で最大限自由になるためのルールであり、
それは民主主義に則って作らなければ、
ただの支配になる。
そして、校則を見てみよう。
校則を決めているのは、生徒が決めているか?
悲しいことに、そうではない。
大抵、入学した時には決まっている。
「覆せないもの」という常識を刷り込まれ、学校内では学校での校則やルールを強要されている。
実際、校則を変えたり作った人は
この文章を読んでいる中にどれだけいるだろうか。
学校の校則はルールではなく、支配だ。
「いやいや強要してねぇじゃん。だってふみも校則変えたんでしょ?」
と思った方、
それは、中学生にもなり、
あらゆる本を読み、
校則に対する疑問を持ち、
あらゆる大人と出会い、議論し、
ちゃんとプレゼン資料を作って、質疑応答に答えたから変えられた。
もし、小学生の間、毎日6時間×6年間、まだ正常な判断力や知識もない状態で、ルールに従い続けた中学生にできるだろうか?
私は小学校の時から、探究的な活動が多く、自分の興味関心や疑問を持って調べることをしており、それを親が支えてくれていた。
家にはあらゆる分野の図鑑が十冊以上あり、今も時々増える。
恐竜に興味があれば、
福井恐竜博物館へ。
科学に興味があれば、
名古屋市科学館へ。
鉱物に興味があれば、
洞窟や博物館、ジオパークに連れて行ってもらえた。
時々キャンプに連れて行ってもらい、
自転車で5分のところに図書館があるから、調べることも容易で、虫に興味を持った時には、自宅の広い庭が最高のフィールドだった。
その過程で得た知識と思考力があったから、テストも100点を取り続け、塾に行くことも強要されなかった。
今でも理科は、勉強しなくとも点数が取れる。
中学生になってからは、キャンプイベントの共同代表として主導し、高校生と議論する場に飛び込み、同じ中学生に向けて講師として立ち、中学生の目線から学校の先生へ子供の居場所について語った。
大人との出会いもいい大人ばっかりで、最近参加した探究タウンも最高の大人と学生ばっかりだ。
つまり、私はずっと、探究をしてきた。
させてもらえる環境にいた。
でもそうでなければ、ルールに従い続けていただろう。
小学校からの今までで、私はルールにあまり当てはまらなかったからこそ、こうして支配の強要に違和感を覚えることができた。
そして、私自身、そんな環境だったことは運が良かったと思っている。
行ってしまえば親ガチャは大当たり。
しかも、中学生になってから出会った大人も運命とも呼べるような大当たり。
つまりとんでもなく幸運だと自覚している。
だからこそ、こうして校則に違和感を感じれるのは少数派だと思う。
学校は、自由になる力を得る場所だ。
それは教育基本法、
それも大前提である第一条で次のように決められている。
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
「平和で民主的な国家及び社会の形成者」とある通り、多様な人間のいる社会で互いの自由を保障し合う「民主主義」の体験的な理解と、その方法を学ぶ場所のはずだ。
そのはずなのに、学校にあるのはルールではなく、支配であり、まるで変えることのできないような絶対的なルールのように校則がある。
ルールは変えられる。
変えられるものでなくてはならない。
そのはずなのに、
小学校から高校まで12年間、毎日6時間、ルールを強要され、先生の言うことをしっかりと行うことを良いことと定義し、塾を親に指図される環境にい続けて、どうやれば民主主義のための社会を共創できる人間になれるだろうか。
むしろ、自分の興味関心や関心を持ち続けることでさえ困難で、現状のルールや構造に対して違和感を感じることなんてもう不可能に近い。
もう怖すぎる。
自由の異なる相手とルールを作ると言うことはここまで話したが、その始まりはトラブルだ。大きくなると武力による戦争、小さいことだと喧嘩と呼ばれるだけで、トラブルに含まれる。
トラブルこそ、「互いの自由を理解・承認し、ルールを作る経験」のスタートと言えるだろう。
だが絶望的なことに、学校で起こるトラブルは、多様性があるからこそのトラブルとは違う。
トラブルは、回避のしようがない状況で、どうしても許容できない自由を相手が押し付けてきた時に起こる。
だが多様な人間いるので、大抵、コミュニティや他の場所へ移動することによってトラブルは避けられる。どうしても回避できず、かつ、許容できないとてつもなく大きい不満がある時にしか起きない。
学校では、まず学年学級制によって、似た人間が集まる。
もちろん根本的なところでは違ってくるが、見ているテレビであったり、ゲームであったり、流行りは共通してくるのだから、同様の人間が集まる。
こう考えると、トラブルは起きにくいように見えるのだが、実際は毎日のようにトラブルが起きている。
その代表格はいじめだ。
いじめの原因として言われているのは自己肯定感の欠如と言われている。また、いじめられる人が特に何かしたわけでもなく、いじめている人との関係性が薄いこともよく知られている。
実際に、いじめによって不登校になった友達、そして、いじめグループの一人に話を聞いてみると、いじめた原因は、どーでもいいことで、正直、理不尽すぎる理由だった。
全くもって、いじめた人へ危害を与えたわけでも、自由を侵害したわけでもなく、強いて言うなら気分だった。
つまり、学校のトラブルは、自由の違いではない。
自由の相互承認を行えるように成長できるのり越えるべきトラブルは、いいトラブルだろう。
だが、学校でのトラブルは、成長につながらず全く意味のないしょうもないトラブルで、悪いトラブルだ。
今不登校になって、学校から離れた視点から考えてみると、前に述べたようなルールの強制による支配された環境は、どう考えてもストレスが高まる。だからこうして、誰かに発散しているのかもしれない。
ルールの強制による支配はもちろん、
学校で起こるトラブルすら、意味がないどころか悪影響だ。
ここまでで、
・互いの自由を最大限守るためにルールを作る
・ルールと支配の違いは、みんなで作ったか
・学校の目的は民主主義の土台だが、あるのは支配という矛盾
・自由を放棄させる環境で、6歳から12年間過ごす
・民主主義の経験になるトラブルは好ましいトラブル
・学校のトラブルは好ましいトラブルではない
ということを考えた。
ここまでは現状への疑問やモヤモヤを、事実として明らかにした。
じゃあこれからどんな学校であるべきなのか。
私の未来の学校図、つまり夢について語っていこうと思う。
だからこの先は、あなたも読みながら、あなたなりの学校の未来図を描いてほしい。私の意見を丸呑みしてしまうと、これまた学校と同じく支配になってしまうから。
では早速、未来の学校について語ろう。
私は「まち化+授業のオープン化+独自の探究プロジェクトを持つこと」すべきだと思っている。
というのもここまで述べた通り、現実の民主主義社会と学校は乖離していて、全くもって民主主義の土台としての役割がない。むしろ監獄的だ。
そこで学校をもっと、現実の社会と繋げ、社会の一部の学校へと擦り合わせた学校にする。もはや学校なんてものじゃなくて、公民館とかに近いセンターになる。
そして、今の学習指導要領の授業をインターネットでオープンにした上で、1人1つ、独自の卒業制作的な探究プロジェクトを持ってたら面白い。
つまり
・地域とつながり誰でも入れる学校
・授業をネットでオープンに
・1人1つの探究プロジェクト
が最高だと私は思う。
なぜ最高かというと、(理由はいくらでもあるけどここまでで課題とした話だと)いじめなどの悪いトラブルも減るだろう。
なぜなら街の一部なのだから、そもそも物理的にいじめに行くことが大変になるし、学校以外のコミュニティが増えるからだ。
また、プロジェクトによって、そこで協力している人(生徒だけではなく、先生や街の人など)とコミュニティが作られ、居場所を作ることになる。
そのプロジェクトが、調査・実行しやすい地域に根付いたプロジェクトであるなら、自分に役割ができるので自己肯定感・自己効力感も生まれる。そんな心理状態では悪いトラブルなんて起こりようがない。
それでも起こるトラブルは、自分のプロジェクトの中で自身の知識や思考が深まった上での自由の衝突だから、良いトラブルだ。
そして、生徒同士のランクづけも減る。
なぜなら、成績という観点が、それぞれ探究プロジェクトを持っていることで、一つの観点でしかなくなるからだ。
プロジェクトに対してそれぞれ思考を持っているはずで、そこに自分の役割を持つことができる。だから、討論・議論もできるし、独自のプロジェクトなのだから、優劣のつけようがない。
そのため、落ちこぼれや浮きこぼれ(勉強ができてつまらない人)という概念の持つ意味も減る。
何なら、落ちこぼれや浮きこぼれも、教育をインターネットによってオープンにすることで少なくなるだろう。
浮きこぼれは、先に進め、
落ちこぼれは理解できるまで何度も聞き返せ、
まち化しているのだから、浮きこぼれに質問できる。
先生の役割は、それでも授業で触れられなく理解できなかった部分について質問できること。
そして、答えのない探究プロジェクトが行き詰まった時に「う〜ん、どうしようか」と解決法をともに考えるパートナーだ。
授業する時間がなくなり、質疑応答の時間だけになるから勤務時間の問題も解決できるかもしれない。
…と挙げればキリが無いほどにメリットはある。
実は、この三つが合体している場所はまだない。
だが、それぞれで見ればあるからあとは、合体させるだけだと私は思ってる。
だけど、この未来の学校作りは、私だけが夢を語っても仕方がない。だって、それは支配になってしまう。
民主主義の土台であるなら、校則以上に学校作りも、みんなでやっていかなければならない。それは、私の描く未来の学校についてもそうだし、実現するための方法に対しては、実際に教育を作っている人と話さなければならない。
学校の中で小さく始めるのか。
学校外にそれに近しいコミュニティを作るのか。
地域の人や学校の先生、教育委員会、保護者や生徒と、議論することで、ゴールを見つけ、教育について考えるきっかけを作り、実行するための方法を討議する。
つまり、あらゆる立場の多様な人との議論・未来の学校についての対話が、実現へのスタートになる。
おっと、
今見ている20歳以下の人。
若者のあなたも含まれてるからね?
まるで社会作りが大人の特権のように
日本の若者はとらえている風潮がある。
日本財団の調査でも、「自分の行動で国や社会は変えられると思っている17〜19歳は日本が最も少なく、半分もいない」とわかっている。

若者が参加しない未来の学校づくりでは、意味がないと思っている。
だって、違和感を感じて、一番被害にあっていて、未来を作るのは私たち若者なのに、その意見が反映されないから。
そして、校則と同じくただの「他人事」で「与えられる支配」になってしまいかねない。
若者こそ、当事者であり、主役だ。
若者がいなければ、意味がない。
私は学校で、未来の学校の話ができない。
なぜか?
ー誰も違和感も意見も持たないからだ。
教育は私たちが主役で、当事者だということを忘れてはならない。
この教育noteコンテストを見た時、私は希望を感じた。
すでに投稿された応募noteは全部読んだ。
全部読んで、その希望は確信になった。
ここから教育が始まるって。
私はそのために、あらゆる人に、学生に問題提起するつもりだ。
最初にも言った通り、これは「校則」という一つのテーマで、他のテーマでも書こうと思っている。
それを読んで、ちょっと考えたなら、参加してみてほしい。
当たり前で、
日常で、
心を作り、
人間を育て、
未来を育む。
誰もが大切だと知っている。
でも、疑問を持つことはない。
ただ受け入れるだけになった教育について。
読もう。
考えよう。
書こう。
伝えよう。
語ろう。
さて
教育について
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