見出し画像

"書くこと"ってもっと気楽でいいはずだよね。

#読了 1/29 18:00

「書く習慣」は、「書くこと」ってこんなにテキトーでいいんだって思わせてくれる。

いつ書くかもテキトー。書けるときに書く。

内容もテキトー。書きたいことを書く。

どれくらい書くかもテキトー。141文字でいい。

とにかく、最初はテキトーで良い。

なんならその先も「反応」とか「すごい人」を考えるだけなので、本質はテキトーであるという基本のキは変わらない。

思えば私は、文章を見られるものという視線を感じて、自分自身が楽しく書けてなかった。

SNSで100日投稿します!
なんて宣言した時も、良くも悪くも他人の目を利用しようとしている。

それだけ力があるということだ。

だがやっぱり破るのは簡単で。(なんせ書かなきゃいいだけだもん)

自分で立てた目標を破ったことによって毎回毎回自己嫌悪。

何より誰かとの約束を裏切ったようで、それもまた自分を嫌いにさせる。



…うん?ちょい待ち。


こうやって文章にしてみると、誰かとの約束を破って自己嫌悪できる私、結構いいヤツやな。

(まぁ破らないのがもっといいヤツなんだけどね!)

話は戻すけど、これからはもっと良い意味でテキトーに書いて行こうと思う。

まぁテキトーとは、肩の力がぬけてるって意味で、自分のことを、自分の言葉で、自分の好きなように書いていこう。

だからテキトーってのはマナー以外が適当って意味ね。
めっちゃ失礼なことは言ってはならない。
もっというと特定の誰かを傷つけてしまうことは御法度。

そんなの幼稚園でのお手紙でみんな習ったと思うけどさ。

傷つけて発散しようとしたら「危ねぇ危ねぇ。心の器小さすぎて溢れかけたぜ」って思わんと。


でもまぁ、発信って肩の力入りがちよね。

学校や社会では、感想文、レポート、会議での発言とか…あと、面接なんて特に、自分の一言一句が見られている。

それがSNSでも続いている感覚になり、それが、普段noteを書くときに感じているような気がしてならない。

「読んだだけの価値があるコトを」
とかと考え過ぎちゃうよね。


でも、案外みんなお前なんざ知るかボケなので……。

そこまで気にしすぎる必要はない。

てかよ。

そもそもさ。

自分の思い、感じたこと、考えたことを言葉にするっていう行為は、本来、とても私的な行為でして。

書くだけで意味があるんだから、そこに他人が口出しする理由なんて1mmもないよな。そこに誰かの視線を入れてしまっているのがおかしいんよ。

だって人間はやっぱり誰かとコミュニケーションしたい生き物なんだから、それを享受してる。

しかもnoteとかいう場だったら特に誰かの迷惑になってるわけでもない。(もちろん公開するならある程度、マナーは必要。ネットはみんなの精神的公共の場だよ!)

だから言葉にすることに、論文くせー文体なんて必要ないし、誰か特定の人間を意図的に傷つけてしまうような内容でなければ公開しても問題ない(と思う。)

てか、誰かの個人的な(自分とは関係ない)つぶやきを拾い上げて見せしめにしている方々は幸せなんかな?とはいつも思わざるを得ないよね。

もっとリアルで幸せになろうぜ。みんなで自分を幸せにしてやろうぜ。ご自愛しようぜ。

そのためにも、しっかりと言葉にして整理してしまうってのは大切だと思う。なんかイライラしてたり、「クソやろー!!!!」って思ってたら「クソやろー!!!!」って書けばいい。

国語で習うような、お固い文章の作法なんざなんて一回忘れてとにかく書く。

書いて書いて、書くのが好きになって。そしたらようやく、読まれる文章を書ければ良い。

論文でも書いてんのか?っていう口調じゃなくてもっと話し言葉で、もっと楽しい文章で、自由に書いていく。

それは、周りにどう思われるかを気にしないことであり、自分にとって素直になれることそのものなんじゃないかな。

常時互いに監視し合うストレスフルな現代では(ホントみなさんお疲れ様です)自分に素直になれる「書くこと」って必要だよね。

つまり誰にも邪魔されず、気を使わず物を書くという孤高の行為この行為こそが現代人に平等に与えられた、最高の『癒し』と言えるのである。(某領域展開系サラリーマンの隣人)

日記、始めてみよ。

#書く習慣 #いしかわゆき

いいなと思ったら応援しよう!

ふみ|元不登校高校生の奮闘記 もしよければ15歳にお小遣いをあげてやってください。 いただいたお小遣いは挑戦と本に使います。