LINEが居場所を食い潰してく。
「居場所がない」っていうのは、
ただ物理的に座れる場所のことじゃない。
演じなくていい場所。
呼吸してるだけで認識される空間。
そこにいるだけで、誰かが自分を見つけてくれて、
自分もまた、誰かの存在を、ちゃんと受け止めている。
そういう、“存在の相互承認”みたいな場所のことだ。
でも、それがない。
今の子どもたちには、ほとんど、ない。
昔は、まだあった。
近所の誰かの家。
縁側、こたつ、誰かの母親の「ごはん食べてく?」という声。
意識しなくても「ここにいていい」と思える空気が、日常に滲んでいた。
けれど今はもうちがう。
家と学校しかなくて、その学校の人間関係が、スマホを通じて24時間、追いかけてくる。
逃げられない。
黙っていても、通知は届く。
ひとりでいたい時も、「返信まだ?」の圧が来る。
本当は、その部屋は静かなはずだった。
カーテンは閉じてて、雨音だけが響いていた。
ほんとは、深呼吸できる場所だった。
けど、スマホがある限り、
その空間は見えない糸で引っ張られている。
どこかのグループチャット。
どこかの既読の視線。
どこかの投稿。
全部が、同時にそこに入り込んでくる。
そして気づく。
「ここも、私の居場所じゃない」って。
今のつながりって、
“つながっていないと終わる”という前提の上に成り立ってる。
相手が自分のためにどれだけ尽くしてくれるかも選考対象になってる。
だから、ずっと手を離せない。
でもそれって、命綱じゃなくて、
首に巻きついたロープみたいなものかもしれない。
本来、居場所って
「手を離しても、また会える」って思える関係の中にあるはずだ。
返信をしなくても。
通話を断っても。
既読スルーしても。
「まぁそのうちね」と、受け止めてくれる空気。
それこそが、本物のつながりなんじゃないか。
でも、LINEのグループはそうじゃない。
返事が遅れたら、翌日が気まずくなる。
電話を断ったら、「あの子ノリ悪い」と言われる。
演じることがコミュニケーションの前提になると、
どこにも“素”の自分を置いておけなくなる。
ずっと“誰かに見られている感覚”の中で、
人は、少しずつ居場所を失っていく。
それがしんどくても、切れない。
「嫌われたくない」
「浮きたくない」
「このつながりを壊したら、学校が怖くなる」
それを無視したら、次の日の学校が地獄になる。
メッセージを返さないだけで。
返し方だけで人間関係が崩れる。
そのせいでいじめられるかもしれない。
友達じゃなくなるかもしれない。
私の居場所がなくなるかもしれない。
そんな恐怖が先にきて、
静かに、静かに、自分をすり減らしていく。
だから、こう思う。
「つながってること」って、
もう安心の証じゃない。
むしろそれが負荷になっている時代に、
わたしたちは、生きている。
じゃあ、本当の居場所ってなんだろう?
たとえば通話の誘いを断っても、
次の日ちゃんと笑って話せる関係。
既読をつけなくても、
「あの子きっと忙しいんだろうね」と流してくれる空気。
返信しないことで、
終わらない関係。
それは、「演じなくてもいい空気」のなかでしか、生まれない。
つながりは大事だ。
でも、切れてもまたつながる関係だけが、本当の居場所だ。
余白のある関係。
余白のある世界。
その中でしか、人は深く息を吐けない。
スマホの通知が致命傷にならない。
なんなら一緒にいるだけで。繋がっているだけで。
自分の存在を確かめてくれているような気がして、心地いい。
そして、その感覚には相手も含まれる。
だから、私も相手の存在を確かめる。
ゆる〜く。
言葉じゃなくても。
互いに存在を確かめ合う。
それが居場所だ。
スマホが一人一台持つ時代。
子供達の居場所は広がるはずが、
いつも気が抜けず視線が絡みつくようになった。
スマホの通知が、
関係の終わりになり得る世界。
そこに果たして居場所はあるのだろうか?
スマホの通知が、
ただの通知で終わる世界を、
わたしたちは、ちゃんとつくれるだろうか。
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