世界はもっと変なはず。
私が最初に「学問」というものに触れたのは、小さな図鑑だった。
海の底にいる生き物たち、空に浮かぶ星々、岩の隙間に棲む菌類。
ページをめくるたびに、知らない世界がこちらに手を伸ばしてくるようだった。
誰にも教わっていないのに、なぜか理解できる気がして、わくわくして、それを誰かに伝えたくなる。
その衝動は、まるで自分の存在がちょっと広がっていくような、そんな感覚だった。
本来、学問とはそういうものだったのではないでしょうか。
好奇心という名の灯火に導かれ、自分の内側から湧き上がる「なぜ?」に導かれて、
視点を変え、言葉を試し、時には問いそのものを作り直す。
世界に対して「私」という存在がどう関われるかを探る、そのための試行錯誤の総体。
つまり、世界を知ることは、自分を知ることでもあるのです。
けれど、ある日から、その感覚は急に薄れていった。
ノートには「ポイント」「まとめ」「語呂合わせ」、
先生の問いには即答、沈黙は減点対象、授業は45分で完結し、疑問は家庭で解決せよ——。
うん、息苦しいって思った。
だってさ、世界ってもっと変なんだよ?
木の葉の裏に棲む虫が、わざわざ自分そっくりな葉っぱを体に生やすとか、
1+1=2にならない世界が数学には存在するとか、
すごくヘンテコで、面倒くさくて、でもそれがたまらなく面白い。
それを、なぜこんなにキレイに「整理」してしまうんだろう。
どうしてこんなにも「効率的」に扱おうとするんだろう。
私はだんだん、学問に「触れる」のではなく、学問を「受ける」ようになっていった。
学校の勉強は、問いよりも答えを先に教えてくる。
自分の視点で見るよりも、模範解答に近づくことが評価される。
言い換えれば、「学ぶ」という行為が「型に沿うこと」へと変わってしまう。
もちろん、仕方のないことだとは思ってる。
大量の子どもを相手にし、限られた時間の中で「成果」を示さなきゃいけない教育現場。
その中で「個別の探究」なんて、なかなか扱いきれない。
でもさ、だからって、本質まで塗りつぶしてしまっていいのかな。
それじゃあ、世界は単に「覚えるべき事実の塊」になってしまう。
そのうち、「この知識はテストに出るか」が学ぶ動機になって、
「知りたいから」じゃなく「落ちたくないから」勉強するようになる。
……うん、それって、本当に「学び」なのかな。
私は、世界が「面白い」と思えなくなることが一番こわい。
「なんで?」って聞いたとき、「それ、試験に関係ないよ」って言われると、
自分の問いそのものが、否定されたような気がする。
誰にも届かず、ただ静かに消えていくその瞬間、
私はちょっとずつ、自分の内側を閉じる癖を覚えていった。
けどね、最近やっと気づいた。
問いって、奪われるものじゃない。手放すものなんだ。
だから、私は問いを離さない。
学校がどうあれ、試験がどうあれ、自分の「なんで?」を見逃さないでいたい。
たとえば、
「なぜこの公式はこの形をしているんだろう?」
「"歴史的事実"って、誰の視点から見た話なんだろう?」
「"日本語"で考えるこの感情って、英語でも同じように訳せるのかな?」
そういう問いを拾っていくと、どんなに退屈だった授業も、少しずつ世界とつながり始める。
ああ、これは「ただの単元」じゃないんだって。
これは私の世界の見方に影響を与えてくれる、大事な「視点のレンズ」なんだって。
学問って、視点を増やす道具なんだよ。
目に見えるものの奥に、目に見えないものを重ねて見るための眼鏡。
正解を一つに絞るより、「見え方」を無数に増やすほうがずっと豊かで、ずっと難しい。
でも、そこにこそ「知ることの快楽」がある。
……学校教育がその楽しさを削いでしまうことがあるのは、否定できない。
けれど、それを知った上で、自分自身の問いを大事にすることはできる。
「教わる」ことの限界を知ったとき、「自分で学ぶ」ことの面白さが始まる。
それはきっと、学問の入口に、もう一度ちゃんと立ち直すってことなんだと思う。
だから、どうか、あなたの「なんで?」をしまい込まないでほしい。
テストの点が取れなくてもいい。評価されなくてもいい。
世界は、あなたの疑問によって、もう一度見え方を変えていくんだから。
知ることに疲れたときこそ、学ぶことの本質に立ち返ってください。
「覚える」よりも、「気づく」ことを大切にして。
そして、あなた自身の問いに対して、誰よりも誠実でいてください。
世界は、まだまだ変なんです。
それを一番面白がれるのは、あなた自身なんだから。
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