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短編小説『真紅の味 マリアの夏休み』 前編

「やっと終わったのか、真一」

夜の帷が下り、目を覚ましたノワールがリビングに顔を出しました。

夏になって日が落ちるのが遅くなったせいで、ノワールはみんなと一緒に夕食をとることができないのでした。

「ああ、すまなかったねノワール。今日からまたもとの部屋で寝てくれ」

マリアがバイオリンを始めたため、ゲスト用として使っていた部屋を防音仕様に改装していたのです。

その作業が行われていたこの三日間、ノワールは真一たちの寝室へ棺ごと移動していました。

「ノワールさん、ご迷惑をおかけしてしまってすみません。マリアからもちゃんとお願いしましょうね。バイオリンの練習で、これからもご迷惑をおかけすることになるのだから」

「ヌワールちゃん、お願いしましゅ」

マリアが畏まった言い方をするときに、なぜか語尾がおかしくなってしまう癖はいまだに治りません。

隣にいた真綾も、申し訳なさそうに頭を下げます。

「いや、迷惑だなんていわれてもね。居候の俺がそんなこといえるわけがないだろ。それに、俺は多少の騒音くらいじゃびくともしないから、そこまで気にしなくて大丈夫だよ」

ノワールはそういって肩をすくめて笑いました。

こうしてノワールの使っている部屋は、マリアのバイオリンの練習部屋としても使われることになったのです。



夏休みに入ると、マリアの一日は一層忙しくなりました。

朝からはフェンシング、午後からはバイオリンのレッスンと、習いごとのスケジュールがぎっしり詰まっています。

そして、それに付き添う真綾も、普段以上に忙しい毎日を送っていました。

朝食を済ませると、後片付けもそこそこにマリアを車に乗せ、フェンシングの練習場まで送り届けます。

マリアが防具に身を包み、練習に汗を流している間に、真綾は手早く健康志向の商品を取り揃えているセレクトショップで買い物を済ませます。

それから練習が終わったマリアをピックアップして帰宅すると、休む間もなく昼食の準備に取りかかります。

普段は給食があるため、土日以外は昼食を用意する必要がありません。そのため、真綾一人であれば簡単なもので手早く済ませられるのです。

しかし、夏休み中は育ち盛りのマリアのために毎日献立を考え、昼食を用意しなければならず、それが真綾の大きな負担になっていました。

朝食の後片付けを済ませて料理を仕上げると、マリアと一緒に昼食を摂るのです。

お腹が満たされて眠くなったマリアをベッドに寝かせると、一日の中で真綾にとって最も忙しい家事の時間が始まります。

洗濯機を回し、部屋全体に掃除機をかけ、昼食の食器を洗い、さらには夕食の下準備まで一気に済ませてしまうのです。

そして、目をこすりながら起きてきた寝ぼけ眼のマリアの手を引いて、今度はバイオリン教室へと向かいます。

マリアのレッスンが終わるまでのわずかな時間、教室の静かな待合室の椅子に腰かけ、うつらうつらと微睡むことだけが、今の真綾にとって束の間の貴重な休息の時間でした。



まだまだ強い日差しが、リビングのレースのカーテン越しに差し込み、キッチンのテーブルの上には香ばしい甘い香りが漂っていました。

マリアの前には、おやつのドーナツと冷たいミルクが置かれています。

しかし、マリアの小さな手は、まるで時計の針を止めてしまいたいかのように、ゆったりとした動きを繰り返していました。

指先で真綾お手製のドーナツの砂糖を少しずつ撫でては舐め、小さく一口かじっては、じっくりと噛みしめるマリアでした。

「マリア、いつもはパクパク食べ終わるのに、どうしてそんなにのろのろ食べているの?」

真綾が少しあきれたように声をかけると、マリアは上目遣いに真綾を見つめ、もっともらしい理由を口にしました。

「だって、ママー……このドーナツさん、すっごくおいしいんだもん。なくなっちゃうのがさみしくて……」

マリアはそういって愛らしく頬をゆるませましたが、本当の理由は違います。

このドーナツを食べ終えてしまえば、ついに夏休みの宿題に向かわなければならないことを、彼女の小さな頭はしっかりと察知していたのです。

伸ばせるだけおやつの時間を引き延ばそうとする、マリアなりの小さな抵抗でした。

しかし、どれほど時間をかけてもドーナツは少しずつ小さくなり、ついに最後のひとくちがマリアの口のなかへと消えていきました。

「やっと食べ終わったわね。じゃあ、マリア、今日の分の宿題をすませましょうか?」

真綾の容赦のない声が響きます。

「えーーっ! マリア、きのうもやったのにー! なつやすみ、はじまったばかりなのにー!」

「いいから、早く『夏休みの友』を持ってきなさい!」

「……なに、ママ? なつやすみのとも?……」

マリアが首をかしげて不思議そうに尋ねると、真綾はハッと気づいたように苦笑いを浮かべました。

「……そうだったわね。ごめんなさい、『夏休みのあゆみ』を持ってらっしゃい」

真綾が子供時代に通っていたのは田舎の公立小学校だったため、夏休みの課題といえばどうしても『夏休みの友』という呼び名が口をついて出てしまうのでした。

マリアの通う私立小学校では、別の名称で呼ばれていました。

「ああ、あゆたんね。かしこまりー!」

どういうわけか、マリアは『夏休みのあゆみ』のことを『あゆたん』と呼んでいます。彼女なりに、嫌いな宿題を少しでも好きになろうという気持ちの現れなのでした。

それにマリアは、何度真綾に注意されても、この『かしこまりー!』という口癖をよほど気に入っているのか、なかなか直そうとはしないのでした。

スカートの裾をちょんとつまんでお辞儀をするような仕草を見せると、パタパタと自分の部屋へ向かい、色とりどりのプリントが挟まれた『夏休みのあゆみ』を持って戻ってきました。

リビングのローテーブルに、大きな冊子と夏期課題のプリント集を広げると、真綾はラグに直座りし、マリアは座布団がわりにクッションに腰を下ろして、真綾の隣に体を寄せて座ります。

「さあ、今日は国語のこのページからね。文章をよく読んで、問いに答えましょう」

真綾が指し示したのは、小学一年生用のひらがなと簡単な読解問題のプリントでした。

「はぁ〜〜〜〜っ……」

マリアは鉛筆を握りしめると、わざとらしく大きなため息をつきながら、ゆっくりと文字を追い始めます。

しばらく静かな時間が流れたものの、すぐにマリアの集中力は切れかかり、鉛筆の柄をツンツンとテーブルに打ち付け始めました。

「マリア、鉛筆で遊ばないの。ほら、ここ」

真綾がやさしく指で指し示します。

「違うわよ、マリア。ここは、こうでしょ? 昨日も教えたわよ」

「えー、そうだったかな……」

マリアは鉛筆を持った手の甲で頬を支え、ぷっと口を尖らせます。

「『きょう』の『き』は、こっちの線が先よ。それに、さっき読んだお話の主人公は、どこに行きたがっていたのかしら? もう一度読んでごらん」

「うーん……うみ!」

「お話のなかに海は出てこなかったでしょう? ほら、ここに『お山にいきたいな』って書いてあるわよ」

「だってー、マリアは山より海に行きたいんだもん!」

「お話の主人公の気持ちを答えるのよ、マリアの気持ちじゃなくてね」

真綾は思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、根気強くペンをとって、マリアのノートの余白に丁寧な手本を書いて見せます。

マリアはそんな真綾の顔を覗き込み、その真面目な横顔に甘えるように肩をすり寄せます。

冷房が心地よく効いたリビングで、母と娘の微笑ましくも賑やかな学習の時間がゆっくりと過ぎていきました。



真一が玄関の扉を開けると、ふわりと出汁の効いた煮物の香りと、香ばしく焼けた醤油の匂いが漂ってきました。

真綾が手間暇をかけて作った手料理の温かな香気が、真一の一日の疲れを優しく解きほぐしていきます。

靴を脱いで廊下を抜け、リビングのドアを開けると、明かりの灯った暖かい空間が真一を出迎えてくれました。

「ただいま、真綾」

「お帰りなさい、真一さん」

キッチンからエプロン姿の真綾が柔らかな微笑みを浮かべて顔を出し、真一の上着を受け取ろうと手を伸ばしました。

するとその傍らから、トントンと小さな足音を響かせてマリアが駆け寄ってきました。

「あっ! パパー!」

「マリア、いい子にしてたか?」

真一は姿勢を低くして目線を合わせると、愛おしそうにマリアの頭を撫でました。

「うん、マリア、とってもいいこにしてたよー! ねえ、ママ?」

マリアは胸を張って真綾を見上げます。

真綾はくすりと小さく笑うと、マリアの頭にそっと手を添えながら優しく応じました。

「ええ、お勉強も自分から進んでやって、とてもお利口さんにしていましたよ」

そういって真綾は、少し悪戯っぽい意味深な眼差しをマリアに向けました。

実際はそうではなく、宿題の最中に何度も途中で眠ってしまったりと、マリアはかなり手がかかったのですが、こうして大好きなパパの前で褒めてあげることで、本当にそれに応えるようなお利口さんになってほしいという真綾なりの親心でした。

マリアは真綾の視線に一瞬ヒヤリとした表情を浮かべたものの、すぐに誇らしげな笑顔を取り戻します。

「そうか、偉いぞマリア。さすがはママとパパの娘だ」

すっかり親バカな真一は目尻を下げ、マリアの小さな体を軽々と抱え上げると、頬をすり寄せるようにしてぎゅっと抱きしめました。

マリアは「キャッキャ」と声を上げて喜び、真一の首元に小さな腕を回します。

真一がマリアを抱きかかえたままダイニングへと向かうと、食卓にはすでに湯気を立てるお皿がいくつか並べられていました。

しかし、そこには椅子にどっかと腰を下ろしているはずの黒い影がありません。

「けれど、ノワールさんがいない夕食はなんだか寂しいものね、真一さん」

真綾は少し寂しそうに配膳の手を止め、ノワールがいつも座っている椅子へ視線を落としました。

「そうなんだ。……僕は変にうるさくなくていいけどね」

真一は照れ隠しのように肩をすくめて応じます。すると、真一の腕のなかでマリアがふんと鼻を鳴らしました。

「ごはん たべるときは、ヌワールちゃん いなくて いいよ、マリアは。あそぶ ときだけ いてくれれば!」

マリアは大好きなパパとママを誰にも邪魔されず、自分一人だけで独占したいのです。

「まあまあ、マリアったら。ノワールさんが聞いたらスネてしまうわよ」

真綾が可笑しそうに目を細めると、真一も「そうだな、ノワールにも後で美味しいやつを分けてやらないとな」と笑いながらマリアを椅子に座らせます。

エアコンの心地よい冷気が満ちるキッチンで、真綾がよそった温かいご飯から立ち上る湯気と、家族三人の賑やかな笑い声が交差し、温もりあふれる夕食の時間が始まろうとしていました。



夕食が終わると、今度は真一とマリアによるバイオリンの自主練習が始まります。

窓の外が深い群青色に染まり、静かな夜の帳が下りた頃、部屋の片隅に置かれた重厚な棺の蓋がゆっくりと持ち上がりました。

ノワールが簡単に内側から開けられるよう、特別な細工が施された特製の棺です。

棺のなかからあくびを噛み殺しながら起き出してきたノワールの耳に、澄んだバイオリンの音色が飛び込んできました。

「おはよう、マリア、真一」

ノワールがしなやかな身のこなしで床に飛び降り、毛づくろいをしながら声をかけます。

部屋の中央では、柔らかいスタンドライトの光を浴びながら、真一がマリアのすぐ隣に寄り添うように立ち、バイオリンの手ほどきをしていました。

「そう、マリア。背筋をすっと伸ばして。弓を持つ右手の力を少し抜いてごらん。人差し指と中指で柔らかく弓の重さを支えるんだ。そう、上手だよ」

真一は真剣そのものの優しい眼差しでマリアの姿勢を確かめると、そっと小さな手の上に自分の手を重ねました。

左手の指先が正しく弦を押さえているか、肘の位置が下がっていないかを、ひとつひとつ丁寧に確認していきます。

「パパ、この音で合ってる?」

「ああ、完璧だよ。そのまま、弓を垂直に弦へ滑らせてごらん。音を怖がらずに、遠くへ届けるイメージで」

真一の導くままにマリアが弓を優しく引き抜くと、防音室のなかに温かみのある美しい高音が豊かに響き渡りました。

真一自身もバイオリンの深い知識と腕前を持っているため、弓の角度や弦へのプレッシャーのかけ方など、教え方は実に的確です。

「いい目覚ましがわりだな。マリアはなかなか筋がいいんじゃないか、真一」

ノワールが真一とマリアを見上げながら、感心したように尻尾をパタンと揺らしました。

「そうなんだよ、教室の先生からもなかなか筋がいいって目をかけてもらっているんだ」

真一はマリアの頭を優しく撫でながら、誇らしげに目を細めました。

五月末に始めたばかりのバイオリンですが、たったの二ヶ月でマリアは驚くほど上達していたのです。

簡単なワンフレーズをスムーズに弾けるようになったマリアは、ついこの間、オーストリアとのビデオ通話で、真一の父親でありマリアの祖父でもあるトムにその腕前を披露したばかりでした。

画面越しに一途な瞳で一生懸命に弓を引くマリアの姿を見たトムは、すっかり目尻を下げて大喜び。

「素晴らしい! まさにコステルタージ家の血筋だ!」と大絶賛し、あろうことか一族が所蔵している本物の『ストラディバリウス』を今すぐロンドン経由で日本へ届けさせると言い出したほどでした。

さすがにまだバイオリンを始めたばかりで体も小さいマリアには、あまりにも分不相応で恐ろしい代物だと、真一は冷や汗をかきながら必死に辞退しました。

しかし、孫可愛さにあふれるトムは諦めきれず、「それなら、バイオリンの練習曲を一曲でも完璧に弾けるようになったら、マリアの体に合わせた最高の一挺いっちょうをプレゼントしよう」とマリアと固い約束を交わしてくれたのです。

「トムおじいちゃまとのやくそくが あるから、マリア、れんしゅう がんばるの!」

マリアは小さな胸を張り、真一の顔を見上げました。

「ああ、頑張ろうね。じゃあマリア、もう一度最初から、今度はパパの指の動きをよく見ながら弾いてみようか」

「うん!」

真一の奏でる導きの音色に合わせ、マリアの小さなバイオリンが再び音を紡ぎ出します。夜が深まるにつれ、父と娘の心温まるアンサンブルが、穏やかに部屋を満たしていきました。



夜の静けさが家全体を優しく包み込み、エアコンの静かな稼働音だけがリビングに響いています。

夕食を終えたノワールは満足そうに毛づくろいをすませると、お気に入りのクッションの上で丸くなり、規則正しい寝息を立て始めました。

キッチンからは、真綾が手際よく食器を洗う水の音と、陶器がカチャカチャと触れ合う心地よい音が聞こえてきます。

洗剤の甘い香りが微かに漂うなか、真一とマリアは、ローテーブルの周りでゆったりとした時間を過ごしていました。 

マリアはラグの上にぺたりと座り込み、日課のバイオリンの練習を思い返しているのか、小さな手を弓に見立てて空中でゆらゆらと動かしています。

先ほど真一からバイオリンの演奏をたくさん褒められたことがよほど嬉しかったようで、その表情は誇らしさと満足感でキラキラと輝いていました。

そんな愛娘の愛くるしい様子をソファーから嬉しそうに眺めていた真一は、胸の奥から湧き上がるような満足感を覚えていました。

マリアが自分の教えたことをぐんぐんと吸収し、楽しそうに上達していく姿を見るのは、親として何物にも代えがたい喜びだったのです。

(バイオリンはこんなに筋がいいんだ。……だったら、あれも教えてみたらどうだろう)

自分の得意分野でマリアの才能を開花させたい、そしてもっと一緒に共通の時間を楽しみたいという親心と少しの欲が、真一の心をくすぐります。

真一はソファーから身を乗り出すと、マリアの目をじっと見つめて声をかけました。

「マリア、今度から時間があるときに、パパがフェンシングも教えてあげるよ」

その言葉に、マリアは弓を引く手をピタリと止め、丸い目をさらに大きく見開いて真一を見上げました。

「え! パパ、フェンシングできるの?」

驚きと好奇心が入り混じった声を上げるマリアに、真一は胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべて頷きます。

「ああ、もちろん」

「ほんと!? パパ、けん ふりまわして シュシュッて できるの!?」

マリアは目を輝かせ、立ち上がると身振り手振りを交えて真一に問い詰めます。

「剣を振り回すわけじゃないけどね。パパは昔、フェンシングのすべてをしっかり叩き込まれたんだ。マリアが今練習しているフォームよりも、もっとかっこいい突き方を教えてあげられるよ。」

マリアは真一の膝に飛びつくようにして顔を寄せました。

「パパ! マリアに『えいっ』て やるやつ おしえて!」

「パパの指導を受けたら、きっと次の練習で教室の先生もびっくりするくらい上手になるよ」

「やったー! パパと フェンシング やるー!」

マリアは両手を挙げて大はしゃぎし、リビングを小さく飛び跳ねました。

クッションの上で眠っていたはずのノワールが、その言葉を聞いて起き上がると、ピンと尻尾を立ててマリアに声をかけました。

「それじゃマリア、今から俺とフェンシングの練習をやらないか? 食後の腹ごなしにはちょうどいい」

「えーっ! ヌワールちゃん、フェンシング できるの、ねこなのにー?」

マリアは驚いたように目を丸くしました。ノワールはニヤリと不敵な笑みを浮かべます。

「もちろん、剣は持てないけどな。だが、マリアの剣を避けるくらいどうってことないさ。さあ、やろうぜ」

「パパ、やってもいい?」

マリアが真一へ確認するように視線を向けると、真一は苦笑いを浮かべました。

「ああ、やってもいいけど……」

真一には、やる前からどんな結果になるのかが見えていました。

「じゃあ、きまり! ヌワールちゃん、さっそくやろうよ!」

マリアは自分の部屋へ行き、プラスチック製の練習用エペを持ってくると、嬉しそうに構えました。

「マリア、いつでもいいぞ。俺の体を思いっきり突いてみろ。遠慮はいらないからな」

「でも、このけんでもあたったらけがするかも、ヌワールちゃん」

「大丈夫だって。少しくらいの怪我なんて唾でもつけておけばすぐに治るさ。もっとも、マリアの剣が俺の体に触れられればの話だがな」

吸血猫のノワールなら、少しの傷くらいすぐに治ってしまうのです。

ノワールはリビングのローテーブルの上で立ち上がると、右前足で手招きする仕草をしてみせました。

「……わかった。じゃあ、いくよー、ヌワールちゃん!」

気合十分のかけ声を上げ、マリアは勢いよく剣を繰り出しました。

しかし、何度鋭く突き出しても、ローテーブルの上のノワールの身体にかすりもしません。ノワールは最小限の動きで、ひらりひらりと剣先をかわしていきます。

その軽やかな身のこなしを眺めながら、真一は懐かしそうに目を細めました。

「相変わらずだね、ノワール。昔を思い出すよ」

遥か昔、真一もまた、今のマリアと同じようにノワールを相手にしてフェンシングの腕を磨いていた時期があったのです。

「えい、えい、やー! とおっ!  せいやっ! せいやっ! そいやっ!」

可愛らしい掛け声とともにマリアが何度も剣を突き出しますが、剣先は虚しく空を切るばかりでした。

必死に動き回ったマリアは次第に息を切らし、肩を上下させて疲れ果ててしまいました。

「えーっ! なんであたらないのー! ヌワールちゃんよけないでよ!」

「馬鹿をいうな、マリア! それじゃ練習にならないじゃないか。もう一回やってみろ!」

「えい、えい、やー! とおっ!  せいやっ! せいやっ! そいやっ!」

マリアは渾身の力を振り絞り、剣を繰り出します。

「ほれっ! ほいっ! よいやさっ!」

マリアの剣がかすりもしないのをいいことに、ノワールは面白がっておどけた変顔を作り、奇妙な声を上げながらひらりひらりとそれをかわし続けます。

「もうっ! ぜんぜんあたらないんだもん。れんしゅうにならないっ!」

ついに痺れを切らしたマリアは、プイッと横を向いて持っていた剣を床に投げ出してしまいました。

すると、こうなることを予想していた真一が、静かに立ち上がり、床に落ちた剣を拾い上げました。

「今度は僕が相手だよ、ノワール」

「おっ、久しぶりにやるか!」

真一が剣を構えると、一瞬にして場の空気が引き締まりました。

ノワールも真剣な眼差しに変わり、今までいたローテーブルの上からしなやかに床へと飛び降ります。

真一の鋭い踏み込みと突きに対し、ノワールはリビングの家具や床を滑るように駆け回り、間一髪でその攻撃をかわしていきます。

疲れ果ててラグにへたり込み、悔しそうに眺めるマリアの横で、二人の戦いは次第に白熱していきます。

最初はマリアの遊び相手のつもりだったはずが、いつの間にか大人の元凄腕剣士である真一と、驚異的な身体能力を持つ黒猫のノワールが本気になってしまい、リビングが即席の決闘場と化してしまいました。

シュバッ、シュバッと静かなリビングに鋭く風を切る音が連続して響き渡ります。

真一の手にするプラスチック製のエペが残像を描いてノワールの懐を穿うがとうとすれば、ノワールは壁やソファを跳躍台にして空中を舞い、目にも留まらぬ速さでその突きの軌道をかわしていきます。

ローテーブルの上のマグカップがカタカタと震え、エアコンの風とは違う熱気が部屋中に渦巻いていました。

しかし、その激しい熱戦も長くは続きませんでした。

「真一さん、ノワールさん、もういい加減にして!」

リビングに雷のような一喝が響き渡りました。

真一とノワールが振り返ると、そこには鬼のような形相で腕を組み、仁王立ちしている真綾の姿がありました。

真綾のその物凄い圧迫感に、部屋の空気は一瞬で氷点下まで冷え込みます。

怒りを込めたその声に、熱くなっていた真一もノワールも瞬時に動きを止め、まるで凍りついたかのように小さく縮み上がってしまいました。

真一はエペを突き出した体勢のままピタッと静止し、ノワールもソファの背もたれの上で片足を上げた格好のまま固まっています。

「二人とも……やりすぎよ!」

真綾の容赦のない追撃に、真一はゆっくりと構えを解くと、気まずそうに目を泳がせました。

「い、いや、真綾……ノワールの動きがあまりにも見事だったから、僕、つい……」

「言い訳にならないわよ、真一さん! ノワールさんもです! 」

「チッ……俺はこの男の自慢の剣技とやらを試してやっただけだってのに……」

ノワールも小さな声でボソボソと弁解を試みますが、真綾の鋭い視線に射抜かれると、すぐに耳を伏せて小さく丸まりました。

そんな二人の情けない姿を、安全地帯であるラグの上で見物していたマリアは大喜びです。手を叩いてころころと笑い転げました。

「やーい、おこられたー! パパもヌワールちゃんも、ママにめちゃくちゃおこられたー!」

「マリア、笑いごとじゃないの!」

「はーい……」

真綾の怒りの矛先が自分に向いた瞬間、マリアはピシッと背筋を伸ばして素直に返事をしました。

「はぁ……三人そろって……もう……」

真綾が溜め息をつきながらキッチンへ戻っていくと、真一とノワールは顔を見合わせ、深々と息を吐き出しました。

「……すまないね、ノワール。巻き込んじゃって」

「……フン、別にいいさ。真綾の雷には慣れてるんでな」

さっきまでの緊張感あふれる名勝負はどこへやら、真一とノワールは揃って肩を落とし、リビングにはマリアの無邪気なクスクス笑いだけが心地よく響いていたのでした。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

短編小説『真紅の味 マリアの夏休み』 後編は、8月3日(月)の午後7時頃の投稿を予定しています。

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