【小説】Go.
noteでBL 第18弾 参加作品
ふと、振り返るとそこには男が座っていた。どうして僕は振り返ったのだろう、多分、その男がまっすぐこちらを見つめていたからだ。座っている男の目の前には紺色の布が広げられて、何か四角いものが並んでいる。男は僕を見つめ続けている。
「おにーさん」
男が言った。誰に言っているんだろうと思ったけど、男はまっすぐこちらを見つめて、招き猫みたいに手をちょいちょいとこまねいた。
「え、僕ですか」
「他に誰もいないよ」
確かに、新宿の繁華街なのに、僕たちの周りには誰もいなかった。そんな状況でさすがにそのまま無視して立ち去るわけにもいかず、僕は男の前まで歩いていく。
「今暇なの? 時間とか大丈夫?」
「え。ああ、はい。大丈夫、です」
「そっか。よかった」
遊ぶ約束をしていた友達が彼女ができたとかで急に予定をキャンセルしてきて、僕の今日の午後はぽっかり空いてしまった。でも、そのとき空いていたのはそれだけじゃなかったのかもしれない。街中でなんだかわからない露店みたいなものを開いている、耳にピアスがバチバチ空いた怪しい金髪の男と話すなんて、やっぱり僕は普通じゃなくなっているのかも。
「なんか買ってってよ。今日は全然売れないんだ」
男の前に並んでいるものはどうやら色紙だった。それは綺麗に並んでいて、手前に『言葉を売っています 奏司』と書いた小さい看板が立てられていた。
言葉。
色紙には、いろんな言葉が書かれていた。
『しあわせ』『笑顔』『生きよう』
ポジティブさに目がくらみそうだった。普段ならこんなの見せられたら嫌だなと思うくらいに。でもそのときの僕は、なんだかそれが素直に良いなと思えた。弱っているんだなと思う。
綺麗というか、独特な字だ。言葉の意味に合わせて文字のスタイルを変えている。僕は男(奏司さんと言うのだろう)の前にしゃがみこんだ。
「一枚いくらですか」
「え? そこに書いてるでしょ。五百円だよ」
「いや、書いてないですよ。どこにも」
「嘘だぁ」
そう言って男は立ち上がって、僕の近くの方を覗き込んだ。
「え、あれ? ほんとだ! あぁ、値札出し忘れてた」
それじゃさすがに売れないですよ、と言おうと思ったけど、傷口に塩を塗るようだからやめた。彼もそれをわかっているのか、
「あー、どうりで、ね……」
そう言いながらカバンを漁る。
「家に忘れてきちゃったのかも」
「それに書けばいいんじゃないですか?」
僕は彼の手元のまだ何も書かれてない色紙とペンを指差した。
「これはそういうためのものじゃないから」
そう言われる。そういうものかと思って、僕はまた色紙を眺めた。彼にもっとも近いところに、
『愛』
と書かれた色紙が置いてあって、僕はなんとなくそれを手に取った。
「シブいの選ぶね」
からかうように言われた。色紙を眺める。『愛』という文字が、並んだ色紙の中で一番素直に書いた文字に見えた。技巧を凝らしているわけでも、殊更に綺麗にしようとしているのでもない、普通の字。たぶんこの字が、この人が普段描いている字なんだろうと思った。
愛。愛。今日、彼女ができて約束をすっぽかした僕の『友達』。
――愛。
「それ、気に入った? あげるよ」
奏司さんが言う。僕は随分それに見入っていたらしい。
「え、あ、いやその、買います買います」
僕はショルダーバッグから財布を取り出して、五百円玉を男に手渡した。なんとなく恥ずかしくて、男の顔を見ないようにして。
「まいど」
そう言われて顔をあげると、奏司さんは嬉しそうだった。彼が色紙をビニール袋に入れるのを見ながら、
「愛ってなんなんですかね」
僕は思わず吐き出した。袋に差し込んでいた手が止まる。僕は視線を落として、並んだ色紙を見ていた。色とりどりの綺麗で美しい言葉たちが並んでいて、僕はへどが出そうな気持ちだった。
「今日、友達と会う約束してたのに、急に彼女ができたからってドタキャンされたんですよ」
僕は愚痴っていた。
「なんなんですかね、どうしてそんなことができるんですかね」
情けないと思ったけれど、別にいいや、とも思った。どうせもう二度とこの人には会わないんだから。
「それだけ君のことを信用してるってことじゃない」
僕は男を見た。
「そういうことをしても自分たちは大丈夫って思ってもらえてるって考え方はどう?」
その言い方は、この人自身そんなの信じてないって思っているのが透けて見えた。でも、慰めてくれているんだ、と思う。僕はそれが、少し嬉しかった。嬉しかったから、その親切に、その優しさに泥を塗りたくなった。そんなのは通用しないと教えたくなった。
「そういうんじゃないんですよ。だって、僕はあいつが」
喉がひりついて言葉が詰まった。言葉に詰まって、やっぱりあいつは特別だったんだと気づいた。でも、言ってしまえ、と無理やりに押し出すように僕は吐き出した。
「好きだったんです」
言葉にして、それが自分の耳に響くと、自分の今が思い知らされた。誰だかわからない男にしかこの感情をぶつけられない、惨めな自分。
「好きだったんですよぉ……」
絞り出した自分の声が思いの外に震えて、情けなさに涙が滲んだ。
視界の端で彼が色紙をもう一枚手に取って、何かを筆ペンでさらさらと書いた。そのまま、それもビニール袋に突っ込む。そして、
「特別サービスね」
僕に袋を手渡した。
「元気出しな」
きっといいことあるよ。
そう言って、僕にニッと笑いかける。なんとなくその言葉を信じてもいいかなと思えたのは、どうしてなんだろう?
袋からもう一枚を取り出そうとすると、
「あー、ダメ、ダメ、まだ見ちゃダメ」
奏司さんははそう言って勿体ぶった。
「まあ、元気出して。さ、こんなところで油売ってないで、素敵な出会いでも探してきな」
「あなたが呼んだんでしょ」
奏司さんはそれを聞いてそうだったそうだったと楽しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
僕が言うと、彼はこちらを見る。僕は続けた。
「おかげさまで少し元気出ました」
「そう、なら良かった。俺ももう今日は店じまいだ」
「え?」
「値札を忘れちゃったから、今日は終わり。一枚売れたからもういいや」
「そう、なんですか」
「そういうこと。ありがとね。このあと楽しく過ごせますように!」
奏司さんは「じゃあ撤収します」と言ってテキパキ目の前の売り物を片付け始め、僕を置いてあっという間にその場を去ってしまった。
鮮やかなまでの撤収劇に呆気に取られていたけれど、その背中が完全に見えなくなって、手元にある色紙の袋のことを思い出した。
僕は色紙を取り出す。二枚。一枚はやっぱりあの『愛』の文字、もう一枚には、荒々しい文字でこう書かれていた。
Don't look back.
★
「それで、いい出会いはあった?」
――数ヶ月後、僕はまた新宿に来ていた。前と同じ場所、同じ時間。ピアスの男――奏司さんはまた露天を開いていて、そこには今日もポジティブな言葉がきらきらと並んでいる。
「ありませんね」
僕が言うと、奏司さんは口をへの字に曲げる。
「まあ仕方ないね、でもまだ若いんだから――」
「振り返らない、前しか向かないって、難しいです」
言葉を遮るように言った。
「そう言われたって、あいつとの思い出はいっぱいあって、だから忘れられないんです。どうしても、いろいろ考えちゃう」
「そうかぁ。じゃあ、」
それを聞いた奏司さんは笑って、あの日みたいに手をこまねいた。訳がわからない僕に、奏司さんは自分が座っている隣を指差す。
「バイト代出すからさ、手伝って」
僕は、言われるがままに奏司さんの隣に座った。奏司さんは自分が座っていたクッションを僕に譲って、自分は地べたにそのまま座る。
「なんでですか?」
思わず問いかけた。あまりにも謎な状況だった。やっぱり不思議な人だと思う。
「なんでだろうねえ。まあ、気分転換にはなるでしょ?」
そう言われて視線を上げる。奏司さんの隣、低い姿勢から見る景色はいつもと全然違っていた。通行人の歩く速度は想像よりも全然速くて、みんなスマホを見たりイヤホンをつけたりして、完全に自分の世界に入っている。そんな通行人がほとんどで、こっちに視線を向ける人なんてまずほとんどいない。ようやくサラリーマンの男の人がこっちを向いたけれど、露骨に嫌そうな顔をしてすぐに視線を逸らした。またそれから誰もこちらに興味を示さなくて、僕は行き交う人をただぼんやりと見ているしかできなかった。それから制服姿の女子高生二人が通りかかって、こちらを指さして何か言葉を交わしているけれど、それはきっとポジティブなものじゃない。それでも僕の隣で奏司さんはにこにこ笑ってそちらに手を振っている。女子高生はかえって気まずそうにその場を去った。
「ダメだねぇ」
奏司さんが平然と言う。僕は少なからずショックだった。視線を落として、目の前の色紙を見た。
――『元気』『楽しく!』『友だち』。
そして視線を上げると、またこちらに興味のなさそうな群衆たち。
「……奏司さんって僕が想像する百倍はすごい人かも」
「はは、ようやくわかった? 俺の偉大さが」
おどけるその言葉を聞いて、僕は用意してきた言葉を言おうとした。でも、言えなかった。断られるのが怖いんだ。断られて、失ってしまうのが怖い。さっきのサラリーマンみたいな顔みたいな顔で断られて、この気持ちを別の色で塗りつぶしたくない。僕はこれを大事にしていたい。だから、きっと今日も言えないだろう。
今日は隣に座っているけれど――それでも、言えないな。
そう思うと心が軽くなった。言えない自分、いつも通りの自分、変われない自分。今日だって、明日だってそれが続いていく。情けないけれどそれが僕だ。僕はそう諦めて、ようやく本当に前を向けた気がした。視線をまた色紙に向ける。僕から一番遠いところに置かれていたある『言葉』が目に入った。
――『Go.』
あ、欲しい、と思った。僕の持っているあの色紙とくっつければ、とても良い感じになりそうだ。
――Don't look back, Go.
すごく、すごく素敵だ。それはきっと、とても収まりの良いペアになるだろう。
「奏司さん、今日のバイト代って」
僕が思いつきを口にしようとしたとき、ある夫婦が僕たちの前でベビーカーを止めた。お父さんだろう男性が赤ちゃんを抱いていて、女性は押していたベビーカーから手を離し、こちらの楽しそうに覗き込んだ。
ようやくやってきたお客さん。
「見て見て、すごい。かっこいい」女性は嬉しそうに色紙を指差す。男性も覗き込んで、幸せそうに微笑んでいる。僕はお客さんが来てとても嬉しい。女性が奏司さんに「あなたが書いたんですか?」と訊いている。その横で、男性が色紙を手に取った。『Go.』と書かれたあの色紙だ。男の人は随分まじまじとそれを見つめている。僕は生唾を飲み込んで、男性がそれを買わないことを願った。それに興味をなくして、そのままそれをその場に置いて欲しい。女性と奏司さんが話すのを聞きながら、そればかりを願っていた。
――じゃあ、これ買います。
女性はそう言って、『家族』と書かれた色紙を奏司さんに手渡した。
――じゃあ、僕はこれを。
男性は追いかけるように言って、『Go.』の色紙を差し出した。
僕はなにも言えず、奏司さんがそれを受け取って、二枚の色紙があの日と同じようにビニール袋に収まっていくのを、ただ見ているしかできなかった。
「ありがとうございました」
奏司さんが言って、僕も慌てて「ありがとうございました」と横で言う。女性は袋を振りながら歩いて、僕たちから遠ざかっていく。僕はそれをただ見つめていて、見つめるだけしかできなくて、隣で奏司さんが何か言おうとしたのがわかって、
「ようやく、わかりました」
と言った。
「うじうじしないでちゃんと前を向くべきだし、気持ちは言葉にしないと伝わらないし、そして何より、」
奏司さんの方を向いた。
「欲しいものは早い者勝ちなんだって」
奏司さんは僕を見ている。真面目な顔だった。
――さあ、行け!
「僕、貪欲になりますよ。全力で欲しがりますから。――バイト代、くれるって言いましたもんね。僕の一日分の労働、甘く見積もらないでくださいよ」
僕がそう言うと、奏司さんは不敵な笑みを浮かべた。
(完)
