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見逃された中国史 ― 『十國春秋』を読む第四回:「戦国時代ではなかった : 五代十国と生きるための国家」


王朝が滅んでも、人々の暮らしは終わらない


「五代十国」と聞くと、多くの人は紀元前の春秋戦国時代を思い浮かべるかもしれません。

群雄が割拠し、諸国が天下統一を争う時代。戦国七雄と言われた時代です。

しかし実際には、五代十国は、春秋戦国とはかなり性格が異なります。

春秋戦国時代の諸侯国は、もともと独立性の強い地域国家でした。
秦・楚・燕・斉など、それぞれが独自の歴史と領域を持っていました。

一方、五代十国時代は違います。

その前には、巨大帝国・唐が存在していました。

運河、科挙、税制、物流、官僚制、・・。

中華はすでに、「一つの文明圏」として深く結びついていたのです。

つまり、五代十国とは、
最初から別々の国だった地域が争った時代ではありません。

巨大帝国・唐が崩れた後、
地方が「生き残るため」に自立していった時代だったのです。

安史の乱 ― 唐帝国が変質した瞬間

唐滅亡の大きな転機となったのが、「安史の乱」でした。

反乱を起こした「安禄山」は、もともと唐の地方軍司令官
『節度使』でした。

節度使とは、
辺境防衛のために置かれた軍政長官です。

当時の唐の領土は広大でした。

北方などの異民族防衛、辺境統治、軍事維持、治安・・。

そのため中央は、地方へ大きな権限を与えざるを得なかった。

軍、財政、人事権まで握る節度使は、
次第に「地方の王」に近づいていきます。

そして安史の乱後、混乱した唐はさらに地方へ依存するようになります。

乱を鎮圧するため、
別の節度使にも大軍と権限を与えたからです。

その結果、唐後期の中国は、「統一帝国」でありながら、実態としては、

「半独立軍閥の連合体」


へ変わっていきました。

地方は「反乱」したのか?

ここで誤解してはいけないのは、地方勢力が最初から
「独立国家を作ろう」としていたわけではないことです。

むしろ逆でした。

中央が弱体化すると、各地の節度使たちは、
中央の統治が及ばない自分たちの地域を守らなければならなくなった。

治安維持
税の徴収
水運管理
治水
食糧流通
難民対策
経済対策

中央が機能しないなら、地方(自分たち)がやるしかない。

つまり五代十国とは、「地方の野心(独立国家)」だけではなく、

「地方による代替統治」

でもあったのです。

『十國春秋・呉越世家』には、
十国時代の呉越創建者・銭鏐(せんりゅう)について、

「授鎮海鎮東等軍節度使」

と記されています。

これは、
鎮海軍節度使 → 浙江省の西側(浙西)を治める軍司令官(主に杭州周辺)

鎮東軍節度使 → 浙江省の東側(浙東)を治める軍司令官(主に紹興周辺)

この2つを唐から同時に与えられる(任命)ということは、
浙江省全体(両浙)の軍事・政治の実権を握るということです。
銭鏐が唐王朝から正式に節度使へ任じられたことを意味します。

つまり彼は、

最初から目指した「独立国家の皇帝」だったわけではない。


あくまで、

唐王朝の地方統治機構の中で、
地域防衛と秩序維持を担う1地方の知事的存在だったのです。

しかし唐王朝末期の混乱が深まるにつれ、その地方統治機構そのものが、
次第に国家化していかざるを得ませんでした。

呉越 ― 天下を目指さなかった国

その象徴が、呉越でした。

建国者の銭鏐は、もちろん軍事力(節度使の名のもと)によって地域を掌握しました。

しかし呉越は、北方王朝のように
「天下統一」
を強く目指した国家ではありません。

むしろ重視したのは、

港湾・海運・治水・商業・寺院保護・農業維持

でした。

杭州を中心とする江南経済圏を、どう守るか?
それが呉越の地方国家戦略だったのです。

『十國春秋』には、
銭鏐が銭塘江の高潮被害を防ぐため、
海塘(堤防)整備を重視したことも記されています。

五代十国の天下争いの時代に、彼が優先したのは、北伐ではなく、
まず人々の暮らしを守ることだったのかもしれません。

北では、五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が争い、
皇帝が次々と入れ替わっていく。

しかし江南では、運河が流れ、市場が開き、
茶や絹が運ばれ続けていました。

争っていたのは王朝です。けれど、
人々の生活まで止まったわけではない。

特に江南では、

「誰が皇帝か」より
「誰がこの地域を安定させるか」

の方が重要だったのかもしれません。


そして宋建国時の呉越王・銭弘俶は、自ら宋へ帰順します。

『十國春秋』には、これを簡潔に、

「納土歸宋」―土地と人民を宋へ帰したとだけ記述があるだけです。


そこには、悲壮な玉砕も、激烈な抗戦もありません。

江南の秩序を壊さず、文明を次の時代へ接続しようとする、
静かな現実主義が見えます。

王朝は滅ぶけれど運河は残ります。

市場も、港も、人々の暮らしも、次の時代へ流れていく。

五代十国は、単なる唐滅亡の過渡期の戦乱の時代ではなく、

≪生き延びるための文明史≫

でもあったのかもしれません。

次回は、文化と美に生きた国・南唐

を中心に、文化と芸術・詞と亡国の美学について見ていきたいと思います。
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