なぜ彼らは古典を読み続けたのか― 千年前の教育が問いかけるもの ―
第2部「ビザンツ人として生きる」#1
シリーズ:ビザンツ文明に学ぶ生き方
人はなぜ学ぶのでしょうか。
良い仕事に就くためでしょうか。
お金を稼ぐためでしょうか。
現代なら、そう答える人も多いかもしれません。
しかしビザンツ人は、少し違う考え方を持っていました。
彼らにとって学びとは、単なる知識の習得ではありませんでした。
ビザンツ人は「古い本」を読んでいた
現代人は、学校で古典を学ぶたびに「そんな昔の本を読んで何の役に立つのか」と感じることがあります。
しかしビザンツ人は違いました。
彼らの教育では、ホメロスや古代ギリシャの古典が重視されていました。
『イリアス』、『オデュッセイア』、そして古代の演説家や哲学者たち。
現代に生きる私たちは、「新しいものほど価値がある」と考えがちです。確かに、科学技術や医学に関しては新しい方が良いかもしれません。
しかしビザンツ人は、人間の生き方や倫理、人生の意味といった問題については、必ずしもそうは考えていません。
ホメロスやプラトンなど昔の人々は、自分たちよりも真理に近い存在であり、その言葉には長い年月を経ても色あせない知恵が宿っている。
そう信じられていたのです。
だから古典は、単なる古い本ではなく、
権威そのものだったのです。
しかも彼らは、古典を、「正解を覚えるため」の教科書として読んでいたわけではありません。登場人物の生き方に触れ、自分ならどう考えるかを問い続ける。哲学者の言葉に耳を傾け、自分自身の考えを深める。
それは、昔の偉人たちと対話するような営みでした。
人間とは何か。
勇気とは何か。
正義とは何か。
古典とは、それらの問いに一つの答えを与えるような本ではありません。何度も読み返し、何度も考え、自分自身の答えを探し続けるための本だったのです。
学ぶ目的は出世ではなかった
教育を受ければ出世しやすくなります。
役人になることもできます。
教会で高い地位に就くこともできるでしょう。
しかし、それだけではありません。
ビザンツ人は、学びを単なる知識の習得以上のものと考えていました。
学ぶとは、人間を磨くことでもあったのです。
良い判断ができる人間になる。
軽率に感情へ流されない人間になる。
物事を深く考えられる人間になる。
そうした人格形成そのものが教育の目的だったのです。
知っているだけでは足りない
ここで現代人には少し意外な話があります。
ビザンツ人は、学び得た知識を「知っている」だけでは不十分だと考えていました。
それを、どう語るか、どう伝えるか、どう相手の心へ届けるか。
そこまで含めて教養だったのです。
特に役人や聖職者、法律家など教育を受けた人々にとって、修辞学は重要な学問でした。
修辞学とは、単に文章を書く技術ではありません。
どのような言葉を選ぶのか。
どのように考えを組み立てるのか。
どのように相手へ伝えるのか。
そうした「言葉の技術」を学ぶ学問でした。

例えば、都市で穀物不足が起きたとします。
単に事実を伝えるだけなら、
「穀物の備蓄が減っています。節約してください。」
で終わるでしょう。
しかし修辞学を学んだ人なら、
「今は困難な時です。しかし先人たちも幾度となく試練を乗り越えてきました。互いに助け合えば、この苦境も必ず乗り越えられるでしょう。」
と語るかもしれません。
どちらも伝えている事実は同じです。
しかし後者の方が、人々の心を動かします。
現代で言えば、文章力やプレゼンテーション能力にも通じるものでしょう。
知識を持つだけではなく、それを適切に、効果的に表現できることも教養の一部だったのです。
なぜ言葉を磨いたのか
なぜそこまで言葉が重視されたのでしょうか。
それはビザンツ人が、人間社会は言葉によって動くと考えていたからです。
皇帝は演説によって人々を導きました。
司祭は説教によって信仰を伝えました。
教師は言葉によって知識を受け渡しました。
どれほど優れた考えを持っていても、それが相手に伝わらなければ意味がありません。
だから彼らは話す力と書く力を磨きました。
言葉とは単なる情報伝達の道具ではなく、人を導き、社会を支える力だと考えていたのです。
教養ある人間こそ自由である
古代ギリシャ以来の考え方に、「教育を受けた人間こそ自由である」というものがあります。
現代人が考える自由とは少し違います。
好きなことをする自由。好きな場所に行く自由。そういう意味ではありません。
ビザンツ人が考えた自由とは、
「自分で考えられること」でした。
誰かの噂に流されない。
権力者の言葉を鵜呑みにしない。
感情に振り回されない。
自分の頭で判断する。
それが自由な人間だと考えたのです。
逆に言えば、知識も判断力も持たない人間は、簡単に他人に支配されてしまうと考えられていたのです。
私たちは何のために学ぶのか
ここで少し現代を振り返ります。
私たちは受験のために学びます。
資格取得のために学びます。
仕事のために学びます。
もちろんそれらは大切なことです。
しかしビザンツ人なら、こう問い返すかもしれません。
その学びは、あなたをより自由な人間にしているだろうか
知識を増やすことと、人間を磨くことは、必ずしも同じではありません。
ビザンツ人は、その違いを見失わないように教育を続けていました。
おわりに
ビザンツ人にとって教育とは、単なる知識の習得や職業訓練ではありませんでした。
古典を読み、言葉を磨き、自分の頭で考える。
その先に目指していたのは、出世ではありません。より自由で、より成熟した人間になることでした。
そして彼らは、教養ある人間こそ自由であると考えていました。
「何を学ぶべきなのか」の前に、
「どんな人間になりたいのか」。
ビザンツ人は、まずそこから考えていました。
千年前の考え方ですが、この問いは、情報に囲まれた現代に生きる私たちに少なからず考えさせるものがあります。
その答えは、千年前のビザンツ人が読んでいた古典の中に、今も静かに残されているのかもしれません。
冒頭図版出典:ビザンツ時代の学校風景イメージ図。ビザンツの教育は、情報を覚えるためではなく、人間を形成するために行われた。古典を学ぶとは、知識を増やすことではなく、人生の指針となる徳や知恵を自らの内に育てることだった。(ChatGPT生成画像、2026年7月作成)
