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韓王安と昌平君と繋ぐもの

本誌キングダムでは、成長した李信の「武」により、韓攻略戦の初日から大勝利した秦。大将軍・騰もかつての王騎将軍を思い出すほど頼もしかったことでしょう。そして対韓攻略戦の第2戦、東砂平原での戦いも、たった1日で秦軍が勝利したようです。

さて、一方の韓は、いよいよ滅亡のカウントダウンが始まりました。新鄭は阿鼻叫喚でしょうね。

今回は、以前書いた記事の続きになります。

ずっと気になっているのが、下記の睡虎地秦簡・編年記の記述です。韓王安・昌平君・昌文君の名前が出てくることから、かなり重要な出来事であったか、全て関連したものであったか、そんな雰囲気が漂ってきます。

<編年記>
始皇20年(紀元前227年)韓王居□山。 / 韓王、■山に居る
始皇21年(紀元前226年)韓王死。昌平君居其所、又死■属。
始皇23年(紀元前224年)興、攻荊、■■守陽■死。四月 昌文君死。
始皇24年(紀元前223年)■■■王■■。

「睡虎地秦簡・編年記」より


その中でも特に下記の記述が気になります。

韓王死。昌平君居其所、又死■属。

韓王安は呉房に幽閉されたことになってますが、そのあと、■山に移されたようです。このことは、前述した記事にも書きました。

改めて、史記の記載も交えた時系列を記載しますが、史記は編年記と時期が異なったり名前が異なったりしているので…そのあたりをとりあえず気にせずに書いておきます。

■紀元前231年頃 秦、韓王安を呉房に幽閉
■紀元前230年 秦が韓を滅亡させる。
■紀元前226年 新鄭(韓の王都)で韓の旧臣による反乱。韓王安を処刑。
■紀元前226年 昌文君が平輿県で死去。
■紀元前226年 昌平君が郢陳へ。
■紀元前225年 秦軍が楚へ侵攻開始。郢陳で反乱発生。

呉房(現在の中国河南省遂平县)
この地域は、当時の吴王闔閭の弟である夫概が反乱を起こし、楚に逃れた際に封じられた土地であり、そのため「吴房」と呼ばれるようになりました。吴国と楚国の関係が複雑であった時期に、地理的な要所として機能していました。楚の時代に滅ぼされ、その住民は楚国に移住させられました。

これらの主要な出来事を、地図上にプロットすると…面白いです。

この広大な中華の大陸で、3つの出来事がこれだけ近いエリアで発生しているのです。ただごとではない雰囲気がより鮮明になりますよね。

睡虎地秦簡を「正」とするのであれば昌文君、史記を「正」とするのであれば昌平君が、楚のラスボスということになるのですが、反乱の地も死亡した地もかなり近い位置関係にあるので、このエリアは秦・楚にとって要所だった可能性が高いです。様々なドラマが生まれたエリアだったに違い有りませんが、史書に残っているのがわずなか情報であるため、想像するしかないのが現状です。

想像するに、このエリアは「滅亡させた国の民」を無理やり移住させたエリアだったのではないでしょうか。また、捕虜を幽閉したエリアでもあったと考えています。故に、新鄭(韓の王都)で反乱が起きて秦が鎮圧した後に、郢陳で「人心が惑う」ほどの騒ぎになったのでしょう。反乱は厳しい刑に処されたはずで、捕虜たちも「次は我が身では」と不安になり、死ぬくらいなら反乱を起こそう!と考えるのも不自然ではありません。

そのような地に送り込まれた昌平君と、そのような地で死んでいった韓王安、昌文君。一体、何が彼らの運命を決めたのでしょうか。

新しい発見が待たれますね。

本日もお読み頂きありがとうございました。


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