楚の都の変遷~楚の王族・熊氏の渡来
こんにちは。GWに突入した方もいらっしゃると思いますが、私にとって長期休暇は好きな「調べ物」に時間を投資できる貴重な休暇です。実は先月、本業の仕事が日経新聞一面に特集されてしまい…なかなか記事を書けずに悶々と過ごしておりました。気持ちの上では、もはや何が本業かわかりません。
さて本日は、楚について少し書いてみたいと思います。漫画キングダムでは、秦の中華統一の最大の敵として描かれると思います。また、これは私見ですが、私は楚の王族(熊氏)が日本に渡来して九州・熊襲のベースを作ったと考えてきました。
そんな楚という国のユニークな特徴があります。割と多めに都を遷都しているのです。楚が秦によって滅ぼされた後に、日本の九州に遷都して熊襲を名乗ったのかな?という疑問をずっと抱いていたことから、今回は古代中国における楚の遷都についてまとめてみました。
まずは、時系列でリスト化しましたのでご覧ください。

ざっと眺めてみますと、結構こまめに遷都してます。他国による侵攻など理由は様々ですが(後述します)、その都度、楚という大国を保っていることからも、国造りが上手いのかな?とも思わせます。
次に、都市を番号ごとに地図上にプロットしてみました。

同じ場所に遷都したり、まったく異なる場所に遷都したり、悪く言えば「せっかち」、良く言えば「機敏」、ということになるでしょうか。国を存続させるために、状況を見て素早く遷都したような雰囲気は伝わってきます。
※補足
楚の最初の都については、現時点では、湖北省秭帰県付近と河南省淅川県付近が有力な候補地と考えられています。近年、河南省淅川県で発見された楚の初期の貴族の墓である下寺楚墓(かじそぼ)など、重要な考古学的発見があり、河南省淅川県を最初の都としてリストに記載しています。今後の考古学的発見が待たれますね。
では、遷都の理由も見てみましょう。
丹陽への遷都:楚の初期の勢力拡大の拠点として、また北方の脅威から比較的安全な場所として選ばれた可能性があります。
郢への遷都:長江中流域の肥沃な土地と水運の利便性を求めて遷都されたと考えられます。郢は長きにわたり楚の中心として繁栄しました。
陳への遷都:秦の侵攻によって郢が陥落したため、一時的に東方の陳へ逃れたと考えられます。これは、軍事的な敗北による緊急避難的な遷都と言えます。
寿春への遷都:陳も秦の圧力に晒されるようになり、さらに東の寿春へ遷都しました。これも、秦の勢力圏から逃れるための遷都と考えられます。
陳から東へ遷都して最後は寿春で、楚は滅びることになります。国が滅べば、東へ遷都する=中国大陸を出ることになります。
楚が滅びたのが紀元前223年である一方、日本の熊襲は4~5世紀だと言われています。但し、熊襲に関しては考古学的発見がなく、記紀の記述がベースになっています。ここでも、記紀の記述を完全に信じて良いのか…という疑問は一生拭えないので、紀元前から熊襲の人々が九州で生活していたと考えても不思議ではないと思います。
最後に、荊州市・望山2号墓から発見された紋銅缶の画像を載せておきたいと思います。

巴紋の由来は様々な説がありますが、楚の王都があった荊州市から出土した甕にも似たような紋様が見えます。個人的には、「水」を統べた楚の王族が「波」を象った紋様だと考えていますが、日本の巴紋との関連性から見えてくるものがあるかもしれませんね。皆さんはどう思いますか?
本日はここまで。お読み頂きありがとうございました。
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