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神功皇后(大帯姫)の謎


■存在を消された神功皇后

神功皇后は、実在したとも実在しなかったとも言われる、不思議な人物です。

歴史作家の綾杉るなさんは、「神功皇后伝承を歩く」(不知火書房)の上下巻の著者。2009年から山口、福岡の神功皇后ゆかりの神社約110社と周辺を現地調査した結果、実在を支持する一人です。神功皇后は戦前、紙幣の肖像になるほど著名な人物だった。それが戦後に一転、神話の人物と位置づけられたことに、綾杉さんは「戦後は歴史学で皇国史観の反動運動が起き、神功皇后は存在を消された」とみる。

実は私も、神功皇后は「なぜか有耶無耶にされてきた」と感じていました。ひょっとして、偉業をかき消された呂氏と似ているのではないのか?と。そこで今回は、神功皇后について少しだけ掘り下げてみます。

■神功皇后とはどんな人?

西暦199年、熊襲(九州で強い力を持っていた一族)を討伐するため仲哀天皇と神功皇后は筑紫の地にやって来て、拠点を作りました。のちに香椎宮(後述します)と呼ばれます。

熊襲との戦いの途中、仲哀天皇は神様から朝鮮半島の新羅を平定せよとお告げを受けましたが、これを受け入れませんでした。神様の怒りに触れてしまったのか、仲哀天皇は熊襲との戦いによって崩御してしまいます。仲哀天皇の死後、神功皇后は筑紫一円の熊襲の残党を征討。次いで、自ら朝鮮半島へ渡り三韓征伐。しかも短期間で成し遂げてしまったのです。

<神功皇后・略歴>
■193年 立后
■200年2月 仲哀天皇崩御(香椎宮)『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったと言われる。
■200年3月 熊襲征伐、九州北部を平定。ヤマト王権の全国制覇?
■200年10月 三韓征伐(新羅・百済・高句麗)

■香椎宮とは?

香椎宮には仲哀天皇と神功皇后が祀られています。現在でも天皇家とのゆかりが深い勅祭社として知られており、全国16勅祭社(※)の1つなのです。

※勅祭社とは、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことです。伊勢神宮は別格とされて勅祭社に含めません。以下がその勅祭社の一覧です。因みに、宇佐神宮と香椎宮へは10年ごと、鹿島神宮と香取神宮へは6年ごとに勅使が遣わされ、御英霊を祭神としてお祀りする靖國神社には春秋二度の大祭に勅使が遣わされています。

勅祭社一覧

香椎一帯は古代遺跡が数多く分布し古くから開けていたことが知られ、『日本三代実録』では香椎宮と志賀島の海人とのつながりが深い様子も見られることから、海人族を通じた海外交渉の存在を香椎宮の起源を巡る要素として指摘されています。

なるほど…キーワードがいくつか出てきましたが、ここでは海人族に注目したいと思います。

■海人族とは?

海人族は、鯨面であった。『魏略』の中に「郡より女王国まで一万二千余里、其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(顔や身体に刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」と記載がある。これは無視できない。つまり、魏略の中に書かれていた倭国の人々は、海人族の特徴を持っていた。さらに海人族は、香椎宮との関連性が深かったことが、『日本三代実録』に記載されている。

海人族は魏略の「鯨面」記載から、中国の呉(江南エリア)の民がベースの渡来人であろう。呉の民は、黥面であった。海洋民族の風習である。

このことは、呉を統べていた呉太伯と繋がる。呉太伯は、天皇家の始祖。

「ここにおいて、太伯とその弟の仲雍の二人は、荊蛮(けいばん)にはしり、文身(※)断髪し(以下略)」

※文身とは、身体に入れ墨を入れることである。

史記・呉太伯世家より


■大帯姫と言われる所以

『宇佐託宣集』や『八幡愚童訓』では、香椎宮に祀られた神功皇后を「大帯姫(おおたらしひめ)」と記している。ここで改めて神功皇后にスポットを当ててみる。

 父:息長宿禰王(開化天皇の子孫:呉太伯=羌姓姬氏)
 母:葛城之高額比売(天之日矛の子孫:新羅系=秦氏)

以前考察したように、呉太伯が天皇家の始祖であると仮定します。

この場合、神功皇后の父親は、開化天皇の子孫である息長宿禰王であるから、呉太伯の子孫ということになる。呉太伯は、羌姓姬氏である。また、神功皇后の母親は、新羅系の天之日矛の子孫であるから、これは秦氏の子孫ではないか、と考えられる。神功皇后は、羌姓姬氏と秦氏のハイブリッド血統ということになる。

秦氏(=秦の始皇帝)の宿敵であった楚の王族(=熊氏)の末裔である熊襲を討伐したというのも、血の因縁なのではないでしょうか。個人的には物凄く腑に落ちると言いますか、これ以上の合理的な説明は見つからないのでは?と勝手に信じています。もう少し妄想を膨らましますと、「大帯姫」というのは、「大帯」と「姬氏」から取った造語なのではないでしょうか。

■秦氏と姬氏の深い関係

この仮説は本当に正しいのか。それは物的証拠が出ていない以上、確定することはできません。但し、日本にはこのことを上手く仄めかしている神社がいくつもあります。

大分県東国東郡姫島村南に「大帯(おおたらし)八幡社」という神社があります。姫島の「姫」は姬氏の「姬」ではないでしょうか。大帯八幡社の御祭神は…神功皇后、夫の仲哀天皇、子の応神天皇です。

また、秦氏が創祀した八幡神社の総本宮・宇佐神宮(大分県)には、三之御殿として大帯姫廟神社があります。宇佐神宮の主祭神は「八幡大神」こと応神天皇(神功皇后の子)、神功皇后、比売大神です。一之御殿に祀られているのは応神天皇ですが、実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置に配置されているのは比売大神(姫大神)です。誰もまだ気づいてませんが、日本における秦氏と姬氏の関係性が上手に表現されている神社だと思います。

秦氏が始皇帝の子孫であるならば、始皇帝は羌姓姬氏なので、姬氏が上位なのです。故に姫大神(姬大神)が主神の位置なのです。現時点でこれ以外の説明はありません。

『宇佐託宣集』や『八幡愚童訓』において、神功皇后を「大帯姫(おおたらしひめ)」と記しているのには、理由があるのです。

■結論

冒頭の問いに戻ります。「戦後は歴史学で皇国史観の反動運動が起き、神功皇后は存在を消された」と綾杉るなさんが主張し、私も疑問に感じる部分の結論を出して行きましょう。私は戦後の皇国史観よりもっと前、江戸時代にこの伏線があったと考えています。このあたりの事情に詳しい方ならもうピンと来ていると思いますが、「大日本史」が事の発端です。

誰かが神功皇后の存在を有耶無耶にしたかった理由ですが、1つは羌姓姬氏としての偉業を神話めいたものにしたかったこと、もう1つは、呉太伯から脈々と受け継がれてきた万世一系の血統否定、つまり天皇家は純粋な日本人の血統であると虚偽の主張をしたかったこと、この2つではないでしょうか。いずれも、水戸光圀が編纂をスタートさせた「大日本史」が、「周王朝の姓が姫であるから、天皇家も姫姓である」と主張した中巌円月の「日本紀」を否定したことが発端だと考えています。

ヘンテコな南北朝正閏論もそうですが(井沢元彦氏の主張もご参照)、日本を愛するが故に、また、天皇家を愛するが故に、事実と異なる主張がまことしやかに吹聴されてしまった部分もあると思います。但し、神社に残された痕跡や、文字として残っているものの中に、割と重要なヒントが隠されているのではないでしょうか。

最後に、熊襲が悪者として描かれる日本史も、本当に正しいのでしょうか?わざわざ討伐に出向いたのはヤマト政権であり、ヤマト政権に歯向かったかもしれませんが、口伝ベースの記紀を完全に信じることは出来ないですね。

本日もお読みいただきありがとうございました。


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