見出し画像

新解釈|陳勝・呉広の乱

今回は、秦が崩壊するきっかけにもなった陳勝・呉広の乱を取り上げたいと思います。

陳勝・呉広の乱は、紀元前209年に秦の始皇帝の死後に発生した中国史上初の農民反乱であり、その背景には厳しい法治制度と社会的不満があったとされています。

通説

  • 厳しい法制度:秦の始皇帝は、厳格な法治主義を採用し、些細な違反でも厳罰が科される体制を整えていました。このため、多くの農民が圧迫され、生活が困窮していたと言われています。

  • 徴兵と大雨:陳勝と呉広は、秦政府に徴用されて漁陽に向かう途中、大沢郷(安徽省宿州市)で大雨に遭遇し、目的地に期日内に到着できなくなりました。秦の法律では、期限に遅れた場合、斬首されるため、彼らは絶望的な状況に追い込まれました。

  • 反乱の決意:陳勝は「どうせ死ぬなら、刑死よりも反乱を選ぼう」と考え、仲間の呉広と共に反乱を呼びかけました。この決断が、陳勝・呉広の乱の始まりとなります。

  • 反乱の波及効果:陳勝・呉広の乱は、その後の多くの反乱を引き起こすきっかけとなりました。乱の後、項羽や劉邦などが現れ、最終的に秦を滅ぼすことにつながったことが、歴史的な視点から再評価されています。

そもそもきっちりした法律がなかった時代を経て、秦が法による統制を敷き、かつ、様々な国を併合して統一した背景があったわけで、私は「秦が悪い政府であった」とは考えていません。むしろ、秦が大変だったことは想像できますし、民衆も難しい立場にあったと思います。特に秦以外の六国の地では、感情的に秦を受け入れることが困難だったと考えています。

実際の法律を勘違いした?

期限に遅れた場合、責任者が斬首される「失期法皆斬」という厳しい規定は、実は軍事の規定(軍律)に基づくものだったことが分かっています。一般の労役に適用される労働法(徭律)では、遅延に対しては罰金や期間延長が科せられることが多かったとされています。つまり、軍事的な状況下では厳罰が適用される一方で、一般的な労働者にはそれほど厳しくなかった可能性があります。

■秦の法律文書(睡虎地秦簡)から判明した規定:
・徴用者の遅延時には「1日につき笞打ち50回」が基本罰
・重大な任務(軍事行動など)の遅延のみ死刑適用
・天災などの不可抗力時は減刑対象

陳勝・呉広が「どうせ死ぬなら、刑死よりも反乱を選ぼう」と考えたのは、もともと蜂起を計画していたか、または軍律と労働法を勘違いしたのか…あるいは、その両方であったのか。

ここから垣間見えるのは、秦が定めた法律が、中華全土に浸透していなかったのでは?という点です。非常に細かな法規定があったと思われますが、民衆にとっては隅々まで理解できるものではなく、ましてや弁護士が近くにいるわけでもありません。秦が法を浸透させることに苦労していた中で、陳勝・呉広または管轄官(役人)が法を誇大解釈してしまった…ような気がします。大雨が理由なのであれば、減刑できたわけですし。

秦にとっては、何と皮肉な蜂起であったことでしょう。「秦の圧政」という後世の印象も、「法の誇大解釈(ちゃんと分かってなかった=とにかく法が怖いものだと思っていた)」がベースに存在していたのではないでしょうか。そういう人たちが国外に逃亡した結果、「秦は怖い」というイメージだけが先行したような気がしなくもないです。

蜂起から分かる歴史

陳勝と呉広は引率役の尉(秦の役人)3名を殺害し、直接指揮下の900人を糾合して反乱を開始しました。前述の通り、中国史上初の組織的農民反乱で、秦滅亡のきっかけになりました。

たった900人の蜂起で国が滅ぶということを、中国の政治家は歴史から学んでいるはずです。故に、新疆ウイグル自治区や香港でのテロ組織撲滅に心血を注ぎ、新疆ウイグル自治区では人口増にも繋がっているわけですが、西側諸国はそれを「弾圧」と表現しています。

たった900人で国が滅んだ歴史を経験していない国には、ことの重大さが理解できないのかもしれません。ましてや他国の政権転覆に資金提供する国もあるわけで、ご存知ない人が多いかもしれませんが日本でも内憂外患罪は死刑のみです。これを弾圧と言うのは、お門違いも甚だしいということになります。

歴史を理解し、お互いを認め合うこと。歴史の役割は、実はかなり大きいと感じています。

本日もお読み頂きありがとうございました。




いいなと思ったら応援しよう!

ZUUMA|新解釈キングダム・中国古代史妄想局 サポートありがとうございます。独自の取材・考察に使わせていただきます。