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極右政治家(石原慎太郎)に「若者の現在」を「ご注進」する若者論者たち:義家弘介/宮台真司(旧ブログ復刻記事 2027.02.01/08.26)

※本稿は、旧ブログ「新・後藤和智事務所:若者報道から見た日本」において発表した記事です。投げ銭用に有料記事にしています。

  • 「俗流若者論ケースファイル83・石原慎太郎&義家弘介」初出 2007年2月1日

  • 原題「俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎&宮台真司」初出 2007年8月26日



石原慎太郎、義家弘介「子供を守るための七つの提言」、「諸君!」2007年3月号、pp.124-138、文藝春秋、2007年2月

安倍晋三内閣が誕生し、「教育再生」を高く掲げ、その元に教育基本法が改正(というか改悪)されたけれども、この「教育再生」の元となっている理念とは、いったい何なのだろうか。

戦後レジームからの脱却?私はそういう大言壮語はいらないと思う。なぜなら彼らは、そもそも青少年問題に関して、定量的な議論を元にしていないからだ。つい最近発表された、教育再生会議の第1次報告を見てもそこには単なる精神論ばかりが並び、例えばいじめやそれに起因するとされる自殺に関しては昭和60年頃や平成7年頃にも問題化された(伊藤茂樹「「死にたい」気持ちを「わかって」あげるな!」、『論座』2007年1月号)、あるいは少年犯罪は増加ではなく減少している、などという事実認識は、これらの報告からは一切抜け落ちている。

本田由紀が指摘しているとおり(本田由紀「教育再生会議を批判する」、2007年1月29日付朝日新聞)、教育を科学したことのない人たちがインパクト重視で出した提言(インパクトすらあるかどうかわからない、という疑問もあるが)に過ぎないのである。それに関しては、執筆活動に当たって、教育社会学的なものを軽くかじっている程度の素人の私から見てもわかる。要するに、自らがもう公教育を受けないことにあぐらをかいて、教育という概念で遊んでいるだけに過ぎないのである。

で、そういうことを推進している人がどういう考えを持っているかと言うことを象徴するかのような資料を見つけた。『諸君!』2007年3月号に掲載された、石原慎太郎(東京都知事)と義家弘介(教育再生会議担当室長、横浜市教育委員会委員、自称「ヤンキー先生」)の対談「子供を守るための七つの提言」である。この対談は、「いじめはなくせるのか」という特集の枠組みで掲載されているのだが…。

はっきり言おう、こいつら何もわかってない。この「提言」なるものも、大半がいじめと関係ないものばかりだし、これらが子供を守るための「提言」と本気で言うのであれば、もう子供たちを侮辱しているとしか思えない。むしろこの対談を、今の「教育再生」に賛同している人がいかに短絡的な思考でもって教育を語っているかと言うことを示す証拠として、全国の親御さんたちに読んで欲しい(言い過ぎかな)。

何せのっけから、

1. 新たないじめを産むジェンダーフリーの是正

ですからね。なぜジェンダーフリーがいじめを産むかというと、なんと単に義家が聞いた事例1件だけで、そういう風に断言されてしまうのである。曰く、

―――――

 義家 (略)今のいじめの実態をみますと、これまでには考えられなかったようなケースが頻出しているんですね。たとえば、男子が女子を殴ったり、トイレで男子のズボンを脱がせて女子に見せたり、といったいじめが実際に起きている。
 石原 男が女を殴る?そんなことまで起きているんですか。それは全く論外だね。
 義家 男子による女子のいじめが起きる背景の一つには、近年進められたジェンダーフリー教育が考えられますね。(略)ジェンダーフリー論者に言わせれば「女を殴ることは男として恥ずべきことだ」というごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、というわけでしょうか。
 石原 それは浅薄きわまりない言い分で反論にも値しないが、肉体の優位性を持ったものが弱者を一方的に殴ってはならない、というのは、世界のどこでも共通する超えてはいけない最低限の規律ですよ。日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは。

p.125

すいません義家さん、誰がそんなこと言ってるんですか?少なくともそのような考え方は、義家のイメージするところの「ジェンダーフリー論者」はそういっているに違いない、というのに過ぎないんじゃないの?少なくとも義家がそのように主張するのであれば、いわゆる「ジェンダーフリー教育」が蔓延する「以前」と「以後」に比して、どのようにいじめが変質したのか、なおかつそれが本当にいわゆる「ジェンダーフリー教育」が主たる原因なのか、ということを提示しなければならない。義家はそういうことをやっておらず、ただ自分が聞いて驚いた事例を「ジェンダーフリー教育」なるものと安直に結びつけて、今の子供たちと教育を嘆いてみせている。

一兆歩ほど譲って、少なくとも義家の提示している事例においてはいわゆる「ジェンダーフリー教育」の影響が認められる、今までになかったタイプのいじめであるとしても、今度はそれが本当に全国で広がっているか、ということに関しても検証されなければならない。ましてや石原が《日本だけじゃないかな、若い人の間でこんな病的な現象が起こりうるのは》などと述べるためには、さらに世界各国に対する調査が必要となる。

さらに石原は126ページにおいても、このように述べている。

いまの「体・徳・知」のお話にも重なるけれど、コンラート・ローレンツという動物学者が「肉体的苦痛を左内頃に味わったことのない人間は不幸な人間になる」と説いている。(略)それが今では、冷暖房のないところではいられない、ちょっとでもおなかがすけば冷蔵庫を開けて間食、という環境に子供がおかれていますね。こうした物質的な豊穣が、人間を弱くしていることは間違いない。

p.126

「間違いない」は長井秀和だけで十分だ。それはともかく、今更ローレンツかよ、どうせならそこで戸塚ヨットスクールを持ち出してくれるとおもしろいのに。閑話休題、ここでもステレオタイプというか、一面的な青少年認識が語られているだけである。

2. 占領期の亡霊「体罰禁止」通達を廃止せよ

あーあ、こいつら、歴史に無知なことをさらけ出してしまったよ(笑)。はっきり言います、体罰は、戦前から禁止されていました!現行の法律においては、体罰を禁止しているのは学校教育法の11条、及び学校教育法施行規則の13条であるが、体罰は戦前から禁止されていた。

体罰をめぐる事例や制度に関しては、広田照幸による先行研究を参照することとしよう(広田照幸『教育言説の歴史社会学』、名古屋大学出版会、pp.189-224)。我が国で体罰の禁止が最も早く明文化されたのは、なんと明治12年の教育令である。明治18年から数年は体罰の禁止は消えるが、明治23年の小学校令の改正で、体罰は禁止され、さらに言えばそれは昭和16年の国民学校令の制定まで持ち越される。

さらに、大正4年1月29日、東京府のある尋常小学校において、教師が授業中にトラブルを起こし、生徒に怪我を負わせた。翌月1日、怪我をした生徒の父親が学校を相手取って訴訟を起こし、この事件は体罰「問題」として発展していくこととなる。そのあと、体罰をめぐって、新聞や教育の専門誌は侃々諤々の意見が飛び交った。裁判のほうも大審院まで持ち越され、翌年6月に被告の無罪が言い渡されるという出来事まであったりする。さらに体罰が裁判沙汰になったことは、明治30年と明治43年にもあった。

とりあえず、これだけ挙げて、ここは終わりにする。こういう事実を提示したら、こいつらの放言と、問題の多い文部科学省の校内暴力の統計を鵜呑みにした議論なんてなんの意味もないからね。

3. 携帯電話からの有害情報の遮断を

 少なくとも130ページにおいて、義家がフィルタリングソフトの存在について触れていることは評価できる。でも相変わらず、義家は、携帯電話に関して、悪い面を強調しているのであるが。ここで問題が見られるのは、やはり石原の発言であるが、相変わらず自分の青春を誇らしげに語っているだけなので割愛する。それにしても、石原はいい老後を過ごすことができて実にうらやましいね、自分を相対化できない酒場の愚痴程度の発言が、雑誌に載って衆目にさらされるんだから。

4. 「親こそ教育の最高責任者」という自覚を持て

ここも単に若い親に対する愚痴を語っているだけなので割愛。ここでは義家と石原が「ニート」に関して無知をさらけ出している発言を検証しよう。

 義家 (略)いまニートといわれる人々は、三十になっても親が生活費をくれる。それでは、「自分で生きていこう」「よし、戦ってやろう」などという気持ちにはなり小間線よ。これは、明らかに親が弱くなってしまったからだと思います。
 石原 まったくだね。動物の生態を見ていれば、あるところで子供は乳離れをして巣立っていく。つまり親が突き放すのだけど、ニートの問題をみると、親が子供に甘えていると言ったらいいか、子離れできない親の問題ですよ。

p.133

何でこういう人たちって、「ニート」及びその親を批判する際には、すぐに動物のアナロジーを出したがるのかしらね。はっきり言いますけれども、青少年の就業機会は近年増加傾向にあるとはいえ低いままだし、非正規雇用が増えているから賃金も低い。こういう野生回帰に見えるような思想こそ、厄介なのである。なぜなら、このようにいかなる状況においても親が子供を突き放さなければならない、と主張することによって、それこそ人間において特有の背景にある経済システムを語ることを放棄してしまうから。ああ、もう何が何だかわからなくなってきた。こういう、いわば「「教育教」の信者たち」(岡本薫)には何を言っても無駄なんだろうな。少なくとも、「ニート」に関する、本田由紀や中西新太郎や乾彰夫や田中秀臣や若田部昌澄などの言説くらい参照したらどうだ。

5. 教師は「聖職者」たれ

これも義家が精神論ばかりぶっているところなので割愛。

6. 職業体験を義務づける

石原。いやあ笑えました。

 石原 (略)実際に、高校で職業体験をさせると、子供たちが見違えるように生き生きし、いろんなものを掴んできますよ。たとえばガソリンスタンドやファーストフードでもいい、店員に混じって、お客の「ありがとうございました」と挨拶をする。その声が小さいと上役に叱られて、ヤケクソでも大きな声で「ありがとうございましたっ!」と頭を下げると、それは身体的なエクスタシーを伴った体験でもあるし、お客に声が届く、という点でコミュニケーションの快感を体得するきっかけにもなる。

p.136

《身体的なエクスタシー》《コミュニケーションの快感》って…行き着く先は自己啓発ですか。職業教育であるにもかかわらず、目的はこういう自己啓発的なことって、どこか間違っていないか。このあとに義家は、東京において奉仕の必修化を「大変な前進」と評価しているけれども、第一そういう政策は青少年に関する認識からして根本から間違っていて、って、もう何度も言ってきたので正直うんざりしてきた。

7. 土曜半ドン復活でゆとり教育脱却

えー、PISAの学力テストで成績が高かったクラスは、必ずしも授業時間が長いわけではなく…って、こういうことも無視しているんだろうな(まあそもそも、PISAのテスト自体、日本の学力概念とは違うところの学力をテストしているわけだけれども)。

それはさておき、私が吹いたのは、やはり石原のここ。

 石原 義家さんみたいに現場の経験があり、若い人の実態を知っていると、非常に具体的に、こうした対策が講じられない限り救われないという実感をお持ちでしょう。いま、教育についてあれこれ言っている識者には、現場を見た上で言っているのか、と問いたいね。(137ページ)

p.137

そういうことはまず教育再生会議の連中に言ってくださいよ、石原さん。そもそもあの会議に有識者として呼ばれている人自体、教育現場とはほとんど関係ない人たち、関係があったとしても、義家と陰山英男という、それこそメディアがこぞって採り上げるような人でしょ。そもそも義家自体、若年層の実態を知っているかと言うことに関しても、極めて怪しい。こういう人に対して、石原はこの対談の締めとして、《政府と横浜市はいい人を迎えたね》(138ページ)と義家を絶賛しているけれども、確かにいい人を迎えたと私は思う、ただし格好の批判材料として。

最後に

まあ、ここまで義家と石原の対談を批判した来たけれども、正直に言おう。少なくともこの2人に、教育政策を任せられるか、といったら、私は断固として任せてはいけないと思う。なぜなら、青少年に対するネガティヴな思いこみばかりを語り、それで立派な教育論を述べた、と思いこんでいるのだから。前提からして間違っているのではないか、ということを、こういう人たちは考えないのだろうか。

考えないのだろうな。そもそも彼らは自分にとって都合のいいように青少年の姿を構築しているだけであって、本当に子供のことを考えているわけでもなければ、リスクマネジメントをしているわけでもない。これは、教育基本法が改正(というよりも改悪)されたことにより、軍国主義的な青少年が増える、とか妄想している左側にも言えること。要するに、子供たち、若年層を、自らのイデオロギーの型に強引に当てはめて、その上で遊ぶことしか考えていないのである。この石原と義家の対談はまさにその典型だけれども、こういう右側の妄想じみた教育言説に関して、根本から揺るがすような証拠(少年犯罪の凶悪化を否定する資料の他、探せばいくらでも見つかるものだが)を提示してこなかった左側もまた問題である。

その証拠に、「教育再生会議」には、真に教育学の専門家といえるような人が一人もいない。これは、左派に属する論壇人や編集者の罪でもある。かの悪名高き「教育改革国民会議」にさえ、専門家として藤田英典が委員となっていたのだが、今の「教育再生会議」には、藤田のような役割を果たす人間がいない。この「再生会議」に限らず、教育基本法「改正」に関する審議においても、高橋哲哉や広田照幸などが承認として発言したものの、彼らの意見は受け入れられなかった。それどころか、昨年末における「オーマイニュース」の教育に関する特別企画さえも、発言者は全て専門家ではなかった。つまり、教育学の専門家の権威が、少なくとも政治とメディアのレベルで低下しているのかもしれない、ということだ。

だからこそ安倍政権の「教育改革」に反対するものは、本田由紀ではないがそれこそ教育を科学するという視点を前面に出し、そういう人がいないことこそ問題だ、というフェイズで批判していくべきである。菊池誠がNHKの「視点・論点」で「蔓延するニセ科学」という論説を発表して話題になったが、左派、特に左派メディアの編集者は、今こそ「蔓延するニセ教育学」という視点でもって、専門家をフルに活用すべきではないか。「軍国主義」だの「精神の支配を許すな」だのといった下らないイデオロギーよりも、「王様は裸だ」と叫び続けることが大事なのだ。左派メディアの受け手もまた、耳学問程度でいいから、教育社会学的な視点を学んだほうがいい。

石原慎太郎、宮台真司「「守るべき日本」とは何か」、『Voice』2007年9月号、pp.80-89、PHP研究所、2007年8月

世代論が権力を免責する、という構造を、私はこのシリーズの一つ前の回(「俗流若者論ケースファイル84・河野正一郎&常井健一&福井洋平」)で述べた。要するに、例えば若年層の労働環境をめぐる問題などに関して、非正規、派遣労働者の待遇や賃金の問題であるとか、あるいは学校から労働市場への参入の問題などが取り沙汰されるべきなのに、それをぼかして「日本人の働き方に関する見方が変わりつつある」と述べて、「根本的な」解決策や、「メタ的な」議論のほうが尊重されるという傾向は、まさにそれである。客観的に観測できるような問題を無視して、個々人の内面ばかりを問題視するというのは、根本的にもっとも残酷な日和見主義に過ぎない。

さて、ブログ開設2年9ヶ月、「俗流若者論ケースファイル」シリーズ85回目にして、ついにこの人を批判することになろうとは思わなかった。首都大学東京教授、宮台真司である。今回検証するのは、宮台と石原慎太郎(東京都知事)による対談「「守るべき日本」とは何か」(『Voice』2007年9月号)である。この対談は、どちらかといえば、東京都の青少年政策の宣伝という側面が強いが、それを推し進めるための前提として、現代の青少年が置かれている「現実」を語る、という趣旨のように見える。

ところが、石原も宮台も、青少年問題についての基本的な認識が欠落しているとしかいいようがない代物なのだ。本書で取り扱われている青少年問題は、「ニート」についてと、「セカンドライフ」に付いてであるが、のっけから石原と宮台は、以下のようにいってしまう。

 
石原 ニートがニートとして生まれた、いちばんのゆえんは何ですか。彼らはただの穀潰しだと思うね。要するに、抱えている家庭に余裕がなかったらあんな存在なんて成立しえないでしょう。
宮台 そのとおりです。でも、ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。

p.80

少なくとも私は、私と宮台と宮崎哲弥、そして内藤朝雄の対談において、宮台が「ニート」は疑似問題であり、むしろ「ニート」を、それこそ穀潰しであると批判している方こそ問題であると述べていたはずだ。以下、引用する。

宮台 (略)僕から付け加えると、まず旧来の「今時の若者は」的攻撃に加えて、昨今目立つのは、流動性不安がもたらす「多様性フォビア」としての若者フォビアです。処方箋は流動性フォビアの手当て。次に、本家英国と違い「失業者を含まない」日本版ニート概念は初期のフリーター批判と同じく怠業批判ルーツで、「こいつらが日本を滅ぼす」と言いつつ馬鹿オヤジが10年後の年金を心配する俗情がある。(略)最後に、スキル上昇(フリーター対策)から動機づけ支援(ニート対策)に自立支援策を拡げ、ポストと予算を獲得した公務員がいる。(略)

宮台真司、宮崎哲弥『M2 ナショナリズムの作法』(インフォバーン、2007年3月)pp.100-101

このような分析に、少なくとも私は大筋で同意する。また、宮台も『「ニート」って言うな!』を読んだはずであれば、我が国において「ニート」と呼ばれている人たちのおよそ半分が、「非求職型」すなわち就労意欲はあるものであるということも御存知であるはずだし、昨今増加した「ニート」もこの層の増加が原因であるということも知っているはずだ。

 さらに宮台は、《ひきこもりは人から「穀潰し」といわれ、自分でそう思っても前に踏み出せず、社会に復帰できません。彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです》と述べるが、少なくとも最近の井出草平の著書などに見られるように(井出草平『ひきこもりの社会学』世界思想社、2007年8月)、「ひきこもり」=「脱社会的」と安易に断じることはできない。井出は、むしろ規範に対して敏感であるからこそ不登校から「ひきこもり」に至った事例もある、ということを示している。

もう一つ言うと、「ニート」や「ひきこもり」について宮台の言う、「彼らは「反社会的」ではなく「脱社会的」である」という物言いは(ついでに言うと、このような物言いは、芹沢一也が指摘するとおり(浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』光文社新書、2006年12月)、1998年ごろから、宮台が少年犯罪を説明するために活発に使用していたものだ)、一見すると彼らに対して「理解」を示すようなそぶりを見せながら、実際には単なる説教(それこそ「穀潰し」批判みたいに)よりも実害が大きいと私は考えている。なぜなら、第一に、少年犯罪については、過去の事例を探せば「脱社会的」と言えそうなものなどいくらでも見つかる(例えば、昭和40年10月に起こった、中学2年生の少年が、異性に対する興味から近所の主婦を殺した、というもの。詳しくは赤塚行雄『青少年非行・犯罪史資料』などを参照されたし)。第二に、そのような「定義づけ」をさせることによって、例えば統計的な状況(少年犯罪は増えていない、など)を無視する口実として使われるからである。第三に、第二の理由を引き金として、根本的に間違った政策が構築されてしまう可能性があるからだ。

現にそのような危険性は、以下の発言にも表れている。

石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。
宮台 郊外化です。第一段階の郊外化が一九六〇年代の「団地化」。「地域の空洞化」を埋め合わせる「家族への内開化」が内実です。専業主婦の過剰負担ですね。第二段階の郊外化が八〇年代の「ニェータウン化」。「家族の空洞化」を埋め合わせる「市場化&行政化」が内実です。コンビニ化ですね。これに今世紀に拡大した「ネオリベ(新自由主義)化」が加わり「貧しくても楽しいわが家」どころか「豊かでないかぎりコミュニケーションから見放された環境で子供が育つ」。脱社会化の背景です。

p.81

少なくともそのような戯れに興じているのであれば、少なくとも多くの「ニート」論の多くが的外れであることを証明したほうがいいのではないか、と思うのだが。言うまでもなく、このような物言いは、例えば労働法をめぐる問題などを隠蔽する。

同様の危険性は、以下のような発言にも表れる。

宮台 それをどう呼ぶかは別にして、「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるかです。今期青少年問題協議会の冒頭、「ニート問題は規範や道徳の伝達の問題ではなく、伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題だ」と申しあげました。
 友達や家族と一緒に映画を見て、周りが「ダメな映画だ」と語り合うのを聞き、映画が再解釈される経験が年少者によくあります。そこに注目したのがクラッパーの限定効果説。「子供がもつ素因が刺激の有害性を決める」という仮説と「子供の周囲の人間関係が刺激の有害性を決める」という仮説の複合です。刺激が素因を育てるのではないとします。
 要は情報は単独で有害無害を論じられず、情報をやりとりする「社会的基盤=台」によって意味や意義が変わります。穀潰しだと非難しても、ニートが「穀潰しですが、なにか?」と非難の意味を理解できない可能性があります。道徳や価値を伝える言葉一般にいえますが、自分も相手も同じ台の上に乗っていると感じられるからこそ説教を聞く。そうした台がない「台なし」では道徳的説教は無効です。

p.83

要するに宮台は、「ニート」については、例えば若年層の過酷な労働環境を解決したり、あるいは「ニート」を問題化する方を問題化するのではなく、まず《「世間の空洞化と母子カプセル化を背景に、親に抱え込まれ、社会を生きる力を失った存在」にどう規範や価値を伝えるか》どうかの問題として考えていると言うことか。私が聞いた発言と、どちらが本音なのだ。そもそも宮台が、「ニート」について《規範や道徳の伝達の問題》と《伝達のベースになる台がなくなる『台なし』の問題》を対立軸に置いているのが気になる。また、以下のような発言もある。

石原 やっぱり僕は親子三代で住まなくなったことが、日本の家族にとって致命的な欠陥になったと思うね。
宮台 柳田国男ですね。日本の農村では両親が生産労働に生活時間の大半を費やすので、爺ちゃん婆ちゃんが孫を育てることで社会性が伝承される、と。広田照幸のいうように、日本には親が子供を躾ける伝統がなく、世間の空洞化と母子カプセル化でむしろ躾は増大してきた。でも同時に窓意性(世間と関係ない親の勝手)も増大するから、親のいうことに従わなくなるか、従った結果かえって社会を生きられなくなる。先の依存的暴力にも関連する問題ですね。

p.82

とあるが、少なくとも広田照幸を引き合いに出すのであれば、「家庭の教育力の」低下という言説が虚構であることくらい知っていると思うのだが。

この対談においては、宮台が石原に対して、青少年の「現実」を説明し、それを石原が解釈する、という形式で話が進んでいる。ただし、その宮台の「現実」の解釈が極めて恣意的というか、客観的、あるいは統計的な広がりや内容よりも、まず「現実」のヴィヴィッドさ、あるいは見た目の新奇性が優先するようで、それについては、以下に採り上げる「セカンドライフ」をめぐる言説にも現れている。少々長くなるが、引用しよう。

宮台 はい。ソニーが「ホーム」という新しいメタヴァースを発表しました。こちらはユーザーの自由度が小さい配給制的空間です。こうした事例は公共性論として重大な問題を提起します。「この社会に意味があるか」にも関連します。要は「この現実が嫌なら『セカンドライフ』に出て行け」「『セカンドライフ』が嫌なら『ホーム』に出て行け」といえるのです。すると第一に、この現実を公正なものにすることや面白いものにすることへの需要が減ります。それでよいのか。第二に、そのぶんセカンドライフに「逃亡」する人が増えますが、今日の物差しでは「ひきこもり」に該当する彼らをどう評価すべきか。
 石原 感覚的にはわかるけれど、バーチャルゲームだけやっていて食べていけるの?
 宮台 彼らは「セカンドライフ」上では活動的なのです。生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者もいます。二十四時間中睡眠に五時間、食事に一時間使い、残りを「セカンドライフ」内の経済活動に充てて専用通貨を稼ぎ、換金してカップラーメンを買ってすするという生活です。
 石原 しかし、バーチャルな世界で味わう満足感は結局、いつか崩れて消えてしまうでしょう。
 宮台 それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です。ニートには、「現実に怯えて前に踏み出せない者」と、「わざわざ訓練して社会に出ることに意味を認めない者」が含まれます。前者は、経験値を高める訓練で不安を克服すればOKです。後者は「自分が自分であるために社会や他者が必要」と感じないように育ち上がっており、簡単に引き戻せません。愛国教育や道徳教育が足りないのでもない。国にコミットする以前に、社会にコミットしないのですから。

p.85

ソースは忘却したが、少なくとも我が国の「セカンドライフ」についての評判は、広告や起業の盛り上がりばかりが先行しすぎて、我が国のユーザーはむしろ置いてけぼりにされている、という話が聞いたことがあるが、それはさておき、宮台は「セカンドライフ」を引き合いに出しておきながら、それをめぐる我が国の客観的な情報(加入率、評判など)を採り上げることは一切ない。

いや、それは以下に挙げる問題に比べればたいした問題ではないのかもしれない。この言説における宮台の最大の問題点は、例えば《生活保護を受けながら「セカンドライフ」で億万長者として暮らす者》がいることは採り上げるけれども、そこから一気に跳躍して《それでもこれからはそういう人が増えます。そうした流れを認識することがニート問題に近づく一歩です》などと語ってしまうことだ。要するに、宮台の「社会分析」みたいなものに必要なのは、客観的、あるいは統計的なデータよりも、自分が見聞きした(見た目的に)新規な事例のほうが優るということか。内田樹とどこが違うのだ。「脱社会的存在」をめぐる言説と同様、底が知れた、というべきか。

宮台の語る、「「ひきこもり」などに代表されるような「脱社会的」な人たちが、現実での承認に嫌気がさして「セカンドライフ」や「ホーム」に逃げ込む」という言説は、例えば香山リカの「精神的にも肉体的にも劣化した存在が、「セカンドライフ」に逃げ込む」などといった言説と同様に、利用者の社会的な属性などと照らし合わせて検証される必要がある(なお、既存のインターネット・コミュニティに関する研究については、例えば池田謙一(編著)『インターネット・コミュニティと日常世界』(誠信書房、2005年10月)や、宮田加久子『きずなをつなぐメディア』(NTT出版、2005年3月)がある)。佐藤俊樹だっただろうか、情報社会に関する未来予測というのは、それがいまだに実現していない未来を語っている故、未来に託して結局のところは自分の思想を語っているに過ぎない、という言説を述べていた人がいたが、宮台の「セカンドライフ」論はまさにそういうものだ。

ところで、この対談の終盤において、石原は以下のように語っている。

石原 やはり、日本文化の独自性、個性をどうやって抹消させずに維持するかという問題に繋がってくると思う。人間というのは、精神や感性、情念のある不思議な動物だから、それぞれ違った風土や文化を生み出し、それが時間と空間に撫でられることで文明がかたちづくられたわけだけれど、結局、文化までもが個性を喪失すれば、その国はキンタマを抜かれた男みたいな存在にしかならない。

p.88

このような認識は宮台にも共有されているようで、この直後に、

宮台 三島由紀夫がそんな状況を「博物館的文化主義」と呼びました。歌舞伎や能を残しても、魂を残さなければ意味がない。魂とは入れ替え不可能性であり、大英博物館に陳列できるような文物が魂であるはずがないというわけです。統治権力としての国家はクーデターや敗戦で簡単にひっくり返る程度の存在です。国家に連なる者でなく、国家によって守られるべき「何か」に敏感な者だけが国士です。「何か」とは日本人なら思わずミメーシス(感染)してしまうもの。だから国士に不可欠な要素は「感染力」です。
 都内のホテルで石原都知事とご面会したあと一緒に歩いていたら、おばさんたちが「慎太郎知事だ!」と黄色い声で騒いでいました。私なぞに目もくれず(笑)。これぞポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の「感染力」だと思います。そんな「感染力」をもつ人が昔は身近にたくさんいました。勉学動機も、自称保守が推奨する競争動機や、自称左翼が推奨するわかる喜びだけでなく、あの人みたいになりたいと感染して箸の上げ下ろしまで真似する感染動機こそ重要でした。そうしたコモンセンスの継承に鈍感な輩が保守を名乗る昨今は笑止です。彼らが文化から「感染力」を奪っています。「凄い奴」に感染して自分も「凄い奴」になる。これがミメーシスです。テクノロジーのネガティブ面を指摘しましたが、あえてポジティブ面をいえば「凄い奴」の数が減るなかでメディアが「凄い奴」を媒介する可能性ですね。

p.88

と述べている。この対談におけるコンセンサスとは、昨今の青少年問題が、我が国が国家としての「感染力」を喪失したことと、そのような状況に真剣に向きあおうとしないものたちの問題である、ということだろう(ついでに言うと、先の都知事選において、石原が当選したとはいえ前回よりも大幅に得票数及び得票率を減らしたのはどういう理由によるのでしょうね?)。然るに、冒頭でも述べたように、このような物言いなど、権力を免責するものでしかなく、大規模な文化的状況を語っているように見えて、実は何も語っていないに等しいのである。

それにしても象徴的というか衝撃的なのは、かつて宮台は、例えば「援助交際」をめぐる言説において、そのような行動をとる少女は一部だが特別ではない、という理由で、新しい状況がきている、と言って、上の世代に退場を促していたのだ。そして、この対談においては、同様のロジックが、権力にすり寄るための口実として使われている。これは宮台の得意とする戦略的な立ち位置の転換によるものなのか、あるいは単に首都大学東京のポストが恋しいだけなのか、またあるいは権力者として政治を動かす立場になりたいのか、それとも天然なのか、それは判断しかねる。しかし、このような宮台の「転向」(?)について、宮台をカリスマとして崇め奉っていた人たち――かつての私もその一人であったことは否めないが――は、いかにして宮台を捉えるつもりなのだろうか。

近年においては、例えば浅野智彦や本田由紀などに代表されるように、今までステレオタイプに捉えられてきた事象――例えば、若年層の道徳・規範意識や、自意識、あるいは就業、逸脱などの行動――について、できるだけ客観的に捉え、またその上でいかに若年層を社会学的に考えるか、という研究や著作が蓄積されている。そのような状況にあって、宮台などが行なってきた、何らかの新奇な「概念」をでっち上げて、そこから大上段から「現実」を語る、という行為が以下に相対化されていくのか、あるいはされるべきか、ということを考える必要があるのではないか、と思う。

まあ、とりあえず、このエントリーで言いたいことは、以下の一言に尽きるわけで。

「絶望した!宮台真司に絶望した!!」


宮台がらみで、もう一つ、おもしろい発言があったので、紹介しよう。2005年に行なわれたという、宮台と田口ランディとの対談だという。

宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=541

《殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか》とは…。単に「脱社会的存在」なる定義付けが間違っていた、という考えには至らないのだろうか?

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