三宅香帆『考察する若者たち』を元に若者を考察したがる人たち:ヘイトビジネスとしての若者論(2025.12.27)
三宅香帆『考察する若者たち』(PHP新書、2025年)。薄い。薄すぎる。ペラッペラ。とりあえず大まかな批判は小田切博氏が既に書いているとおりなんだけど、若者論方面だって、土井隆義とか伊藤昌亮とかちょっと話題になった若者論を継ぎはぎしているだけのもの。浅野智彦くらい読んでよ。
若者論の大部分は「若者に詳しいとされるこの人が言っているんだから間違いない!」みたいなただの受け売りであり、しかも過去数年、それも総合誌や新書レベルのものしか参照しておらず、あとは巷に流れる若年層への偏見を再生産しているだけ。
こんなものをありがたがる人間は最初から若年層に対する偏見を持っており、それに対して「その偏見は正しかったんだ!」とまさに「正解」を与えられる「考察」でしかない。むしろこういう本を出してしまう三宅及び社会への考察が必要なんじゃないか。
やたら令和人文主義への賛否両論が流れてくるので、もう少し三宅香帆さんの『考察する若者たち』(PHP研究所)の感想を書いておきますが、ひとことでいうと
— Hiroshi Odagiri (@smallboxman) November 29, 2025
「もう少しマジメにやってくれないか」
コレに尽きます。
小田切氏は《もう少しマジメにやってくれないか》と言っているけど、むしろ若者論はこういった若年層に対するチープな考察(!)を伝統的に許容してきた。例えば内田樹『下流志向』(講談社、2007年)は苅谷剛彦と諏訪哲二の新書の継ぎはぎでありあとは若年労働・経済関係のトピックや教育に対する偏見を開陳しているだけ。他にも三浦展や香山リカは主として新書で若者論を粗製濫造してきた。問題は、そういう粗製濫造本が若者論として出てしまうことだ。
そもそも「若者たち」というのは、人間によって構成される社会集団だ。それに対して単純な決めつけを書き連ねるだけで本が出てしまう。それはまさに差別ビジネスだ。差別ビジネスというと、婚活ライターが突如クルド人ヘイト本を書いたことが最近あったが、当然ながら猛批判を浴びた。しかし若者論はそういった批判すらなく、むしろその本を起点に若い世代を「考察」しましょう、という雰囲気が生まれ、批判を許さなくなってしまう。そういえば三浦も自分の本はあくまでも「仮説」であると言っていたが、その「仮説」とやらで現実の若年層が「考察」されてしまう。
その「考察」が行き着く先が「若者の右傾化」論だ。「若者の右傾化」論を起点として、「若者=アンチレフト」という空気が急速に形成され、2020年代にはついに左派・リベラル派がリベラルな若年層を排除するフェイズに入っている。
これこそ、私が若者論を「我が国で最も成功したヘイトビジネス」と呼ぶゆえんである。そして若者論というヘイトビジネスは、主として「本(もう少し言うと新書と総合雑誌)を読む層」を主なターゲットとする。その層に対して若年層を「自分」とは異なる異質な存在として提示して考察(!)を促すのだ。
これは三宅だけでなく、三宅本でも引用されている最近の伊藤昌亮にも当てはまる。伊藤は主として『世界』で「西村博之や石丸伸二などに熱狂する若者」を分析する文章を書いているが、それもまた「私たち」と「若者たち」の二項対立で後者が前者に対する脅威になっているという図式を採用する。そういった論考を乱発した伊藤はついに『週刊金曜日』の表紙になった。もうアイドル扱いだ。
今日発売の『週刊金曜日』で雨宮処凛さんと対談しています。「「右派」にどう向き合うべきか」。この雑誌の創始者である久野収はファシズムの研究をしながら市民主義の立ち上げを進めましたが、そうした視点から今を見ると何が見えてくるのか。なんと表紙に載ってしまいました! よろしくどうぞ。 pic.twitter.com/ATwsycRmqs
— 伊藤昌亮/Masaaki ITO (@maito1212) December 26, 2025
若年層が「新書や総合雑誌を読む層」をターゲットとしたヘイトビジネスの標的になるのも、最早そういったライトな知識層は若年層を「人間」と見なしていない証左なのではないか。いい加減差別で金儲けしている自覚を持ってほしい。
参考:小田切博氏による三宅批判(Threads)
