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教育基本法改正へ導いた不毛な教育論:読売新聞の社説を中心に(旧ブログ復刻記事4本)

※本稿は、旧ブログ「新・後藤和智事務所:若者報道から見た日本」において発表した記事です。投げ銭用に有料記事にしています。

  • 「俗流若者論ケースファイル15・読売新聞社説」初出 2005年4月24日

  • 「俗流若者論ケースファイル72・読売新聞社説」初出 2005年9月28日

  • 「俗流若者論ケースファイル58・林真理子」初出 2006年8月17日

  • 「俗流若者論ケースファイル49・長谷川潤」初出 2006年8月8日


本論:2005年3月16日付読売新聞社説「元気がないぞ日本の高校生」

千石保氏が所長を勤める「日本青少年研究所」の調査結果が発表されるたびに、特に読売新聞はそのネガティブな結果を大々的に取り上げる。しかしその調査を仔細に読んでみると(同研究所のウェブサイトには、詳細な結果が一部公開されている)、問題設定はその時々のカレントな問題を中心に採り上げていることが多く、中には意図的に我が国の青少年に対する不安・不信を煽ろうとしているのではないか、というものも目立つ。

ただ、我が国において、青少年に関するゴミ社会調査が多い中で、少なくともサンプリングと経験だけは、その中でも数少ない、信頼できる部類にあると思う。まあ、他がゴミばかりなのであるが。これ以上まともなものといったら総務省の世界青少年意識調査ぐらいか(ちなみに「日本青少年研究所」の調査が最大でも日・米・中・韓の4カ国だけなのに対し、総務省のものはそれを大いに上回る数の国で比較している)。

さて、今年もその結果が公表され、3月15日から16日にかけて新聞やテレビなどさまざまなメディアで話題になったが、私の見聞した多くの報道が、その結果をただ鵜呑みにして垂れ流すだけで、それに対して疑うようなことはまったくしていなかったのが気がかりだった。

その中でも特に問題の多いものを紹介したい。2005年3月16日付読売新聞の社説、「元気がないぞ日本の高校生」である。この社説は、《勉強が嫌い。消極的で自信がない。将来に悲観的で自分の国に誇りが持てない――。これが現代の日本の高校生気質だとすれば、あまりにも寂しい》という書き出しで始まるのだが、この社説を読んでみる限りでは、結局この社説子は悲しみに浸りたいだけではないのか、と疑いたくなった。

というのも、調査の結果をそのまま嘆き、それを打開するための具体的な案は何も示していないからである。例えば読売社説子は、《日本の生徒が勉強しないことに驚かされる》《調査結果を見ると、授業態度も問題だ》などと、結局のところ単なる「憂国」だけで終わっているのである。まあ、これが新聞のまったく読み応えのない投書欄や辛口コラムだったら済まされるだろうが、これは社説である。このような「嘆き」だけで終わらせてしまう、というのは、あまりにも悲しすぎはしまいか。それしかできないようであれば、最初から採り上げるのをやめたほうがいい。記事の社会面の解説で済ませておくべきであろう。事実、読売のこの社説には、これが掲載された前日の社会面の報道以上のものがまったく掲載されていない。

他の国との数値比較(まあ、我が国と米国、中国だけで比較するというのも問題であるが。これに関しては後で述べる)も出さないで「問題だ」と嘆いている部分もある。例えば読売社説子は《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた。自分の将来を「だめだろう」「あまりよくない」と悲観的にみる生徒も16%と飛びぬけて多かった》と書くけれども、他の国との比較がないと、このような比較はまったく意味を持たない。最も勉強が必要なのは、この社説子ではないか。特に《「今の生活で何でもできるとしたら、何がしたいか」の問いに、「遊んで暮らす」の答えが3か国のうち日本が一番多く、38%もいた》という部分には笑ってしまった。どうしてそこまで問題視する必要があるのだろうか。この社説子には子供が大いに遊ぶことが「悪」であるととらえられているのだろうか。

この中でも特に問題があるのは、《がく然とさせられるのは、「国」に対する意識のありようだ》と述べた直後の文章である。これ以降の文章を全文引用しよう。

自国に誇りを持っているか、の質問に「持っていない」と答えた日本の高校生は半数以上に上った。国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ。
誇りも何も感じない、という日本の生徒が国旗で57%、国家で65%もいる。1989年の調査より増えた。学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る。イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか。
「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ。
調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ。

嗤うべし。私が《がく然とさせられるのは》、読売新聞のあまりにも短絡的、しかも現在の状況をまったく踏まえていない認識である。そして読売のそのような認識のありようは、《日本社会全体が重く受け止めるべき》ものであると私は考えている。

例えば《国旗・国歌を誇らしく感じるという生徒は米、中ともに5割前後いるが、日本では1割強だ》と社説子は書くけれども、この社説子は米国や中国の国歌がやけに闘争的であることを知っていて書いているのであろうか。しかも米中だけでなく、広く知られている通り、他のさまざまな国の国歌は極めて闘争的であるのに対し、我が国の国歌はそのようなことはまったく感じられない。また、例えば中国の国歌は、現在の中国共産党政権の存在意義にもなっている抗日闘争を歌っているものであるなど、その国歌は国家の成立や存立と密接に関わっているのに対し、我が国の国歌は明治時代に万葉集の一首にメロディをつけて成立させたものであるから、その歴史性を云々するのは難しい。このような基本的な認識も欠いているとは。

もちろん「日の丸」に関しては、諸説あれど、その歴史性は確認できる。それでも、国旗や国歌に「跪かない」だけで「問題だ」としてしまうのは、国旗や国歌の重要性を認知しておらず、ただそれらをイデオロギー闘争の道具としてしか使用していないことの証左ではないか。もう一つ、《1989年の調査より増えた》と言っているけれども、どれくらい増えたのか見せてくれ。それにしても私が意外に思ったのは、米国や中国の国旗や国歌に対する意識の低さである。《5割前後》というのは、私の予想に比べてやや低かった感がある。

《学校式典での国旗・国歌に「起立して礼儀を正す」ことをしない生徒は7割に上る》というのも、やや疑問を感じる。というのも、《規律して礼儀を正す》というのが、2重の質問になっているからだ。例えば、起立はするけれども、別に礼儀を正すようなことはしない、というのであれば、それはこの範疇には入らない。そんなことも考えずに、《イデオロギー的な嫌悪感を示す教師の存在が、背景にある一つの要因ではないか》とあっさりと述べてしまうとは…。

この文章の後、唐突に《「愛国心」を盛り込むことに与党内からも異論が出た教育基本法改正案は、今国会への提出が見送られた。自分の国を誇りに思い、素直に愛せないのは不幸なことだ》と切り出してしまう。しかし、この文章が出てくる文脈も、またこの文章の内容にも、論理飛躍がある。例えば、教育基本法の操作だけで、青少年に「国家」に対する誇りを持たせられるか、といえば私の答えは即刻「否」である。

なぜか。それは、読売の社説子他、教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに賛成する人たちの考える「国家」とは、結局のところ彼らの幻想の中にしかない「国家」に過ぎないからである。その最大の証左として、彼らは「今時の若者」の「問題行動」の「原因」を「国家」の不在、乱暴に言えば彼らの共同幻想としての「国家」に「今時の若者」が幻想を抱かないことに転嫁していることが挙げられよう。実態としての国家は歴史と現在の上に存在する。自らに都合の悪い歴史を排除した「歴史」のみの上に成り立つ「国家」など幻想でしかない。

このような記述は、はっきり言って単なるイデオロギー闘争の視点からしか書かれていない。すなわち、自らの信奉するものは何でも「善」であり、それに少しでも従わないようであればすぐさま「問題」のレッテルを貼り付けてしまっているのである。しかし、このような結果が生まれた背景をろくに考えもせず、ただ単に「問題」と騒ぎ立てているようでは、社説としての責任を果たしているのか、と疑問を投げかけられても当然であろう。

もう一つ、我が国の国歌に関して、もう「政治的な」文脈で語るのはやめよう、とする興味深い主張がある。明治学院大学非常勤講師の増田聡氏は、例えば精神科医の香山リカ氏に代表されるような、現代の若年層が君が代を「屈託なく」歌うことに関して排外的ナショナリズムの対等を危惧するような言説に関しては、そのような論理は《旧世代の政治的な枠組みからのものでしかない》(この段落に関しては、全て増田聡「軽やかに歌われる君が代ポップ」『論座』2005年5月号、朝日新聞社)と批判した上で、《むしろ君が代の「現在」が示すのは、そのような「二者択一的な政治意識」そのものを批判する、若い世代の社会意識なのではないだろうか》と言い、《君が代が明治期の対外儀礼で必要とされ……生まれたのとまったく同じように、……「グローバルな他者との出会い」の経験が、若者にとりあえず君が代を歌わせている。その歌唱に過剰な政治的意味を読み込んではなるまい》と論じている。面白いのは、増田氏が《今日の君が代とは、若い世代にとっては、単に「ニッポン」を指し示す音楽的記号に過ぎない》と語っているところだ。増田氏はここで引用した論文の冒頭で、君が代の歴史に関しても触れているのだが、君が代が明治期の「天皇礼賛」の意味も、戦後の教育イデオロギー闘争としての意味もまったくなくなった現在において、そのような文脈において君が代が歌われるのは、むしろ歴史的必然ではないか。このような正確な歴史認識・現状認識が、良心的な音楽社会学者と、イデオロギー闘争に明け暮れる新聞人を分かつ。

閑話休題、結局のところ読売の社説は、現在の青少年を嘆いてみせるだけで、なんら具体的な対策を示していないばかりか、青少年に対する認識も誤解の多いものであることを自ら証明してしまっている。しかし、もう一度述べるけれども、社説とは重要なオピニオン形成の役割を持っており、それゆえ執筆にも責任が必要である。「憂国」しかできないようであれば、最初から採り上げないほうが、よほど有益ではあるまいか。論じるべき問題は他にたくさんあるのに。

この社説は、《調査から浮かび上がった問題点を、日本社会全体が重く受け止めるべきだ》という文章で締めくくられている。しかし、《日本社会全体》なんて、どこまでを指すのだろうか?

おまけ1:2005年9月23日付読売新聞社説「なぜ「キレる小学生」が増えるのか」

2005年9月28日付の読売新聞は、小学生の暴力が過去最多になった、という報告(第一報は2005年9月22日配信の共同通信)を受けて、「なぜ「キレる小学生」が増えるのか」という社説を書いているのだが、突っ込みどころが満載である。

そもそも、読売社説子は、この調査が1997年から行われたことを忘れているのではないか。故に、それ以前のデータが存在していないのだから、昨年になって突発的に増えた、と認識するのは筋違いというものであろう。そもそも校内暴力が問題になったのは1980年ごろであり、その頃から手を打たなかった文部省(現在の文部科学省)の方針は、私は問題化されるべきだと思っている。

それはさておき、件の読売社説の言説分析をしていこう。例えば、以下のようなくだり。

短絡的な動機から、突発的に手や足が出る。文科省は「忍耐力不足、人間関係がうまく作れず、感情のコントロールがきかなくなっている」と分析する。

このような「説明」は、「理解できない」少年犯罪が起こるたびによく起こるものだけれども、しかし忍耐力があり、人間関係がうまく作ることができて、感情のコントロールが成り立っているはずの過去のほうが少年による凶悪犯罪は多発している。また、このような論法では感情は危険なものだからコントロールしなければならない、という論理が成り立っているのだが、そのような考え方こそが、昨今のカウンセリング・ブームを生み出したことを忘れてはいけないだろう。そもそもコミュニケーションとはそんなに薔薇色のものなのだろうか。読売社説子は平成16年に起こった佐世保の事件についても触れているが、これは読売は《暴力に対する抵抗感が薄れて来ているのではないか》という文脈で書いているけれども、これはむしろこの犯人の家庭環境(例えば、受験のためにバスケットボールクラブを無理やりやめさせられたこと)や、現実とネット上での常に監視状態にある友人とのコミュニケーションの息苦しさに起因した事件である、という分析のほうが説得力がある。

次のようなくだりにも、読売社説子の認識の甘さが垣間見える。

保護者にできることは何か。暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画などを、子どもの好き放題にさせてはいないだろうか。親の児童虐待、配偶者間暴力などが日常的に行われているようでは、子どもへの悪影響は目に見えている。

どうして読売は《暴力シーンが登場するゲームやテレビ、漫画など》を過度に問題化したがるのだろう?そもそもこれらのものが暴力を誘発する、ということは立証されたことがない。このようなものが問題化されるのは、単にスケープゴートにしやすいからではないか。しかもこのような論法では、読売社説子も軽く触れている、中高生の暴力行為が減っていることを説明することはできない。

それにしても、この読売社説には示唆的な一文がある。

1890件という数値には、疑問もある。都道府県別の報告件数(校外での暴力含む)を比べると、隣県同士で「0」と120件台と開きがあったり、300件を超す大阪府、神奈川県に比べ、東京都が43件と極端に少なかったりする。

このようなくだりは、要するに教師がどのようなことを「校内暴力」と見なすかによって統計に表出するデータが変わってくる、ということを示している。共同通信の配信記事の中でも、文部科学省の見解として《暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか》(2005年7月22日付共同通信配信記事)とも述べている。

私は、この記事に限らず、青少年の非行が「増加」していると見なされる理由については、実数もさることながら、マスコミや社会を構成する大人たちが青少年に向ける視線も無関係ではないように思える。今回増加分としてカウントされた中には、そのような、今まで「校内暴力」とみなされていなかった文も含まれるはずだと私はにらんでいる。今回の事件について、またぞろ教育改革の「失敗」がこのような形で表れたのだ、とか、そもそもこれは親や教師の権威をないがしろにしてきた戦後教育の「成果」である、というふうに訳知り顔で述べている人が多いと思うが、私は、今一度我々が青少年にどのような視線を向けてきたか、ということを検証すべきではないかと思っている。

子供の問題を自分で処理できなくなった教師が、結局は「校内暴力」としてカウントすることによって国家にすがっているのかもしれない。これは昨今における窃盗罪統計の「増加」の理由としても説明できる。

おまけ2:林真理子「この国の子どもたちは」『文藝春秋』2001年12月号、文藝春秋

どういうわけか、我が国のいわゆる「知識人」の間において、「教育」について語る=「今時の若者」を批判する、という変な図式が成り立っているらしく、ほとんどの自称「知識人」が「今時の若者」を反面教師とした教育改革を断行しなければ我が国の未来は危ない、という論調でまとまっているようだ。むしろこのような動機付けで「教育」という大きなテーマについて語っている人を反面教師としなければ我が国の未来は危ない、と私は言っておこう。

今回検証するのは、「文藝春秋」2001年12月号の特集「教育、教育、そして教育」の特集の中にある、作家の林真理子氏の「この国の子どもたちは」という文章なのだが、はっきりいってこの文章は最初から最後まで「私語り」に過ぎない。要するに、自分は素晴らしい親に育てられてきたから自分はこんなに素晴らしく育ってきたが、今の親はみんな無能だから、巷で見かけるような無気力な「今時の若者」を大量に生み出してしまった、そして「今時の若者」が国を滅ぼす、というお決まりの展開であり、はっきり言ってこれだけの内容なのである。従って、まともに評価するに値しない文章といってもいいだろう。蛇足だが、この林氏の論考(と言っていいのかどうかすらわからないのだが)が掲載されている特集のタイトルとなっている「教育、教育、そして教育」というのは、英国のトニー・ブレア首相の就任演説における発言を基にしている。

さて、本来ならば単なる「私語り」でしかないから検証するに値しない、と取り扱った林氏の文章であるが、ではなぜ私がここで改めて林氏の文章を採り上げるかというと、それは林氏の文章の不毛さがそのまま我が国における教育「論」の不毛さを映し出しているからである。

林氏は冒頭において、《私はこの原稿を引き受けたことを、かなり後悔している》と書いている。私としては、その意志を断固として最後まで貫き、できればこの文章自体を書かない、あるいはもっと考えを練った上で書いたほうがいいのではないか、と思う。なぜなら、先ほども述べたとおり、林氏のこの文章が最初から最後まで「私語り」に終始しているからである。例えば183ページの次の文章を見てみよう。

電車や街中で多くの少年少女や若者を見るたび、私はこの国の子どもたちがどうやらあまりよくない方向に行くことを感じていた。彼らの顔つきから、知的なものや真摯なものがまるで感じられないのだ。……
……戦争というものは、指導者が愚かな民衆を操ることによって起こる。戦争を拒否するためには、実に多大なエネルギーが必要だ。本当に強い意志と行動力を持っている人だけが、平和を持続させることが出来るということを、今回のことで実感した。
そうした視点から見れば、本当にこの国の子どもは大丈夫なのだろうか。ケイタイをぼんやりと押し続けている間に、国民番号制と同じように、徴兵制が法案化されても気づかないような気がする。
まったくどうしてこの国の子どもは、これほど悪くなったのだろうか。あたり前だ。親が悪いからである。またここで私の筆がにぶる。教育を語ることは、自分の親、自分、そして自分の子どもと三代にわたって肯定することに他ならない。……

この程度の文章で原稿料がもらえてしまうのだから、青少年問題に関してあれこれ考えてついでに新聞・雑誌の記事も文献も見たくない思想的現実(=俗流若者論)も読んで更にあれこれ考えて金にならない文章を殴り書きしている私はうらやましい限りである。それはさておき、この程度の文章でさえ、「教育」を語っている論考として、すなわち教育「論」として許容されることに、我が国の論壇における「教育」というものの位置づけを見取ることができるだろう。そもそも林氏は、この程度の自分の体験談と単なる強引かつ恣意的なアナロジーによって教育「論」を展開しているのであれば、最初から教育「論」など書くべきではない。この文章は明らかに低レヴェルな「憂国」エッセイであって、最初から「論考」として期待すべき質の文章ではないのである。

しかし――我が国の論壇においては、このような文章こそが「教育論」として受け入れられる。論壇にとって、「今時の若者」とは財政赤字や北朝鮮などと同様に深刻な問題であり、かつもっとも身近な問題であり、故にファースト・プライオリティーとして「解決せねばならない」問題として捉えられる。従って「今時の若者」に対する「対策」としての最も手っ取り早い政策として「提言」(現実には「提言」ということが憚れるほど下らない次元の議論なのだが)として「教育」が持ち出される。我が国の論壇において、「教育」とはまず「今時の若者」に対する「対策」として語られるのである。

だが教育の問題というのは「今時の若者」に対する敵愾心では語れない場所に本来はあり、例えば社会構造の問題などに対する幅広い関心が必要となるのだが、自称「知識人」は俗情に媚びた短絡的な「提言」しかしないので、我が国の論壇において教育とは限りなく上滑りなだけの議論となりがちである。

我が国において求められている教育論とは、そのような教育「論」ばかりが跋扈する状況に一石を投じるものであるはずだ。しかし我が国において、かような教育「論」はますます力を強め、ついにはプロフェッショナルであるべき人たちですら、最初から「今時の若者」を貶めることを目的とした「調査」までを行ってしまうほどである。

林氏の文章の紹介(検証とは言わない)に戻るが、林氏の文章は、ただ自分を肯定して現代の親と若年層と青少年を貶める文言がただ続くだけの文章なので、これ以上いちいち検証する気にはなれない。なので紹介だけにとどめておくと、例えば《こういう私にとって、現代の「友だちのような親子」というのは、本当に薄気味悪い》(185ページ)とか、《これだけ長いこと日教組に子どもたちを任せ、これだけ子どもたちが悪くなっているのに、よく変革が起こらないということだ》(186ページ)とかいった、いかにも思い込みと反射神経だけでしか語っていないことが良く分かる文言ばかりが並んでいる。そして最後に林氏が言うのが《クスリさえしなければ、売春さえしなければ、自殺しなければ、というマイナスの期待からは何も生まれないだろう。世の中のためになる人間になって欲しい。強く正しい人になって欲しい。この素朴な思いを、いったいいつ頃から私たちは口にしなくなったのだろうか》(168ページ)などという誰でも言えるような空疎な文言であるのが痛い。林氏は《マイナスの期待からは何も生まれないだろう》と書いているけれども、実際に子供に対する《マイナスの期待》ばかり親に、そして社会に押し付けているのは一体誰だ?青少年「問題」を針小棒大に採り上げ、「今時の若者」というイメージばかり肥大化させているマスコミや自称「知識人」ではないか。林氏はなぜこのような残酷なる言論体系を撃たないのか。

しかし、このような実にないよう空疎な林氏の「憂国」エッセイに、一つだけ意味を見出すことにしよう。それは、この文章が、『文藝春秋』2001年12月号の教育特集の一番最初に据えられていることである。これはすなわち、林氏のこの文章が、この教育特集の柱として据えられている、ということを意味するのではないか。林氏の、この程度の「憂国」エッセイが、一つの大きなオピニオン雑誌の教育特集の巻頭論文として据えられているのだから、我が国における、少なくとも『文藝春秋』における「教育」というものがいかなる位置づけを持っているのか、ということがわかる。林氏の文章の不毛さは、そのまま我が国の教育「論壇」の不毛さとして映るのが、ここで明らかになろう。

おまけ3:長谷川潤「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」『正論』2000年7月号、産経新聞社

教師とはなんなのだろうか。いや、私の問いかけをもう少し正確な言葉で表すなら、論壇において教師とはなんなのか、ということになる。少なくとも我が国のマスコミにおいて教師とは実践者として捉えられている。陰山英男氏や藤原和博氏を思い出していただければよい。この2人の教師(といっても藤原氏に関しては正式な教員免許を持っているわけではないが)の実践に基づく教育理論は、多くのマスコミで採り上げられている。この2人の名前を知らなくとも、「100ます計算」(陰山氏)や「[よのなか]科」(藤原氏)といった言葉を聞いた人は少なくなかろう(ただ、陰山氏は制度論や授業論に関しては秀逸なのだが、「ディスプレー依存症」なる概念について語りだすと限りなく疑似科学に接近してしまうから困ったもの)。

ところが我が国の論壇において一人の論客として教師が登場する場合は、実践者というよりは、むしろ「告発者」としての側面が強い。例えば都立高教諭の池ノ谷泰氏は、現在東京都において行なわれている教育政策が以下に教師を追いつめるか、ということを告発している(池ノ谷泰「際限なき都教委版「日勤教育」」『世界』2005年7月号、岩波書店)。この場合において告発されるのは東京都政であり、このようなスタイルの「告発」は、岩波書店の「世界」においてよく見られる。しかし、『新潮45』や『正論』における、教師による「告発」は『世界』の「告発」とは内容が全面的に違う。

それらにおいて教師が「告発」する場合、そこにおいて告発されるのは日教組か文部科学省のどれかである。それだけなら『世界』と同じだろう、と思われるかもしれないが、私が全面的に違う、と述べる所以は、それらが推し進めている教育政策によって青少年が「異常」になっている、という内容になっているからである。『新潮45』ではもっぱら樽谷賢二氏がこの手の文章を書いているけれども、この手の執筆者は現在の青少年や社会状況を「異常」と断定し、そしてその状況を作り出した「張本人」としての文部科学省や日教組を告発する。このような姿勢で書かれているわけだから、この手の文章に俗流若者論が多くなる。

『新潮45』においては執筆者は樽谷氏ばかりなのだが、『正論』では執筆者は多様だ。しかしそれぞれの論旨に関してはほとんどワンパターンといってもいい。今回検証するのは、そんな論文の一つである、大阪府枚方市立桜丘中学校社会科教諭・長谷川潤氏による「「ワガママ・テロル」の時代が始まった」である。

残念ながらこの論文の執筆者たる長谷川氏は、少年犯罪がここ最近になって多発化・凶悪化したと思い込んでいるのが痛いところだ。まず、長谷川氏は95ページにおいて、上智大学名誉教授の福島章氏の分析に文句をつける。福島氏は、この時期に多発した所謂「17歳の殺人」について、特に豊川における、所謂「人を殺してみたかった」殺人事件に関して、福島氏は《「純粋殺人」と規定し、サカキバラ(筆者注:酒鬼薔薇聖斗。1997年の神戸市児童殺傷事件の犯人。ただ、この「酒鬼薔薇聖斗」なる殺人鬼が本当にそこで逮捕された14歳の少年なのか、という疑問の声が、弁護士の後藤昌次郎氏などから提示されている)の快楽殺人と異質なものと結論づけた》と分析していた。しかし長谷川氏はこの事件に関して、《豊川の「経験しようと思って」は「したかった」と動議である。神戸事件と同様に、「殺したいから殺した」のである》と述べている。しかしここで疑問が残る。確かに豊川の事件のほうは「殺したいから殺した」という解釈ができそうだが、「酒鬼薔薇聖斗」事件のほうは「殺したいから」というロジックは成り立たないのではないか。少なくとも犯行声明文や調書など(マスコミで公開された範囲で)を読んでみる限りでは、単純に「殺したいから」という理由で割り切ることはできないのではないかと思われるのである。長谷川氏は、「酒鬼薔薇聖斗」事件の記憶が薄れているのを見計らってこのような的はずれな比較を行なっているのではないか。

さて、長谷川氏は豊川の事件のような殺人を《ワガママ殺人》とプロファイリングする。そして長谷川氏は95ページから96ページにかけて、このような犯罪は現在では例外ではない、とぶち上げる。しかし疑問なのは、過去との比較がないことだ。だが、長谷川氏はそのような行為を放棄して突き進んでしまう。例えば長谷川氏は96ページにおいて《筆者の授業中、余談の中で、ある生徒が「戦争になってほしい」と発言した》事例を紹介する。その生徒の発言の理由は《人が殺せるから》ということだそうだ。長谷川氏はこれにショックを受けたらしい。確かにこれにショックを受ける感覚は私にもよく分かる。しかし長谷川氏は更に妄想を強めてしまうのだから滑稽だ。96ページ2段目。

その筆者の体験は、決して極端な例外とは言えない。平成9年の神戸事件(筆者注:「酒鬼薔薇聖斗」事件)発覚後一週間たって生徒に実施したアンケートでは、サカキバラの「きもちがわかりますか」との設問に「よくわかる」と答えた生徒が実に7%もいたのである。

しかし、たとえその7%が「酒鬼薔薇聖斗」の気持ちが「よくわかる」と答えたからといっても、その理由が「人を殺したい」ということに結びついているか、ということは疑問になろう。そもそもこの手の「共感」において最もよく聴かれたのはむしろ「酒鬼薔薇聖斗」の「犯行声明文」における「透明な存在」なる文句だったと私は記憶しているのだが(それを逆手にとって教育改革論を喧伝したのは社会学者の宮台真司氏である)、少なくとも長谷川氏の決めつけがいかに暴力的であるか、ということを認識していただければ十分である。

97ページでは長谷川氏が、当時大流行りだった(しかし今ではすっかり聴かれなくなった)「人を殺してなぜ悪いか」という質問に応えられない人たちを罵倒する。しかしアメリカがアフガンやイラクに対して行なった惨状を目の当たりにしている現在の私は、長谷川氏にこれらの状況を以下に捉えているのか、と問いただしたくなる。

長谷川氏は99ページにおいて、長谷川氏が生徒に対して行なったアンケートを紹介している。とはいえそこにおけるサンプル数は188人、決して多い数ではない。しかし長谷川氏はこの程度のアンケートから現代の青少年の心理に関して述べたがるのだから救いようがない。長谷川氏は100ページにおいて以下のように述べる。

このアンケートで理解、再確認されたことは、少数とはいえ今回の二人の十七歳に共感を抱く者が少なからず存在するという事実である。すなわち「ワガママ殺人」の潜在的予備軍が全国に展開している事実を、私たちは認識しなければならないのである。

まったく、この程度のアンケートで《理解、再確認》理解していただきたくないものだ。

しかし長谷川氏はこの先から本格的に暴走してしまう。長谷川氏は広辞苑の初版におけるテロルという語句の説明《あらゆる暴力手段に訴えて敵方を威嚇すること》を引き、《「バスのっとり事件」こそ、まさに「テロル」そのものではないか》と書いている。しかし、なぜ初版なのだろうか。ちなみに私の電子辞書に収録されている広辞苑の第5版には《あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること》と書かれている。

長谷川氏は101ページにおいて、現在において「テロル」が激増していると書いてしまう。曰く、

これ以外にも、「京都小学二年生殺害事件」(筆者注:所謂「てるくはのる」事件)や「新潟少女監禁事件」、あるいは少し年月をたどれば宮崎被告(筆者注:宮崎勤)による「連続幼女殺害事件」などの青少年による凶悪事件が相次いでいるが、その社会的影響力の大きさを考慮すれば、それらはすべて社会への「テロル」であると考えられる。

このようなプロファイリングが許されるのであれば、全ての犯罪を《テロル》ということができそうではある。長谷川氏はこの直前において、件のバスジャック事件に関して《五月十三日になって、内閣、文部省などへよく声明を事前に送付していたことが判明》していたことを引き合いに出し、その点から見れば京都小学二年生殺害事件も1億歩ほど譲って《テロル》ということができる。しかしそれ以外の2つの事件は、1000兆歩譲っても《テロル》ということは到底できない。例えば新潟少女監禁事件があれだけ耳目を集めたのは犯人が「ひきこもり」状態に近い状態にあったからで、それが後に「ひきこもり」=犯罪、という歪んだイメージを結びつける走りとなってしまい、精神科医の斎藤環氏が必死に誤解を解消しようといそしんだ。少なくとも言えることは、長谷川氏が自らの勝手な定義に縛られていることであろう。

101ページから102ページにかけて長谷川氏はこのような状況を生み出した原因(そもそも長谷川氏の状況設定が間違いだらけなのだが、この際1兆歩譲って認めることにしよう)について述べるのだけれども、私にとってはデ・ジャ・ヴュの連続であった。何せ長谷川氏、その「原因」なるものを「児童の権利に関する条約」(子供の権利条約)に求めてしまうのだから。で、その条約が、管理教育を否定し、その結果学級崩壊や援助交際が激化して…どこかで聞いたことのあるストーリーだ。少なくともこのような手垢にまみれたストーリの正当性を一度は長谷川氏自身で検証してみてはどうか。私はもう検証・批判することすら面倒である。そして結びの104ページで訴えるのは少年法の厳罰化である。

この論考の結びは次のとおり。

今回、スペースの都合で教育問題は割愛させていただいた。当然ながら社会を正常化させるための最大のそして最も基本的要素は、正しい教育、就中朝日新聞のお嫌いな道徳教育の徹底が必要不可欠である点を最後に強調しておく。

まず、この論文で教育問題は割愛されていないと思う。ただし、これは私と長谷川氏が何を「教育問題」として捉えるか、ということの差異に起因していると思うので、これに関する突っ込みは避けておこう。だが散々不安を煽っておいて、結局この程度のことしか言えないのであれば、この文章全体が砂上の楼閣のようなものである、と罵られても仕方がないであろう。

この文章を読んで、私は改めて教師とは何か、ということについて深く考えさせられた。少なくともこの論文における長谷川氏は、自らの目の前の状況をまず解決しようとする意欲はまったく感じられず、単純にして短絡的な「憂国」を唱えることによって偽りの危機感や敵愾心を煽っているだけである。このような文章は、単純に現場をよく知っている中学校の教師が言っているのだから間違いない、という文脈で受容されるのかもしれないけれども、私にとってすれば長谷川氏の「理解」は偽りの理解であり、長谷川氏自身のイデオロギーに現代の青少年を当てはめているだけの話である。

目の前の問題を解決しようとせずに、徒に自らのイデオロギーに生徒たちを当てはめてその危険性を喧伝している長谷川氏の如き教師は、私は不要だと思った。仮にこの論文の執筆者が教師であることを意識しなくても、この文章は容易に読めてしまう。要するに、この論文は「正論」によく登場する俗流右派論壇人が書いたものとなんら変わらないのである。この論文が、執筆者が教師ということだけで権威を持っているとすれば、私はもう一度、教師とはなんなのか、ということを問いかけざるを得ない。

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