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「ユニパス」の見え方が変わった

先日、不登校の新たな呼び方として提示された
「ユニパス」について、記事を書きました。


唐突に名称変更だけが知らされたことへのモヤモヤ。
一方で、こうして話題に上がったこと自体には
意味があるのではないか。

そんなことを書きました。


しかし、その時の引っ掛かりが、少し解消しました。

名称変更を提言した
高校生本人の文章を目にしたからです。

見え方がだいぶ変わりました。

(その内容は、記事の最後にリンクを載せています。)



まず、私は無意識に、
この提案をしたのは男の子だと思い込んでいました。

実際は女の子。

なぜそう思い込んだか、
自分でもはっきりしませんが、

最近、教育関係で団体を立ち上げたり、
推進力をもって活動をしている若者たちが
たまたま男性だったからかもしれません。

そして、その印象のまま、
自分の意志をもって主張している姿も
無意識に想像していたかもしれない。

でも本人の文章からは、
悩みながら、行きつ戻りつしている様子が垣間見られ、
勝手に想像を膨らませていたことに気付かされました。

これは、小さなことでしょうか。

いや、その小さな思い込みの中に、
自分の無意識が透けて見えました。

私たちは、自分の中のイメージで物事を組み立ててしまう。
よく知らないまま、なんとなく判断し、
気づかないうちに評価までしてしまう。

私も例外ではありませんでした。
自分の思考の浅さに、はっとさせられました。



そしてもう一つ。

私はどこかで、
「名称変更だけを訴えた」と思っていました。

でも実際には、
不登校支援に関する三つの提案をしていた。
そのうちの一つが、名称のことだったということがわかりました。

学校に行けない子、その先の進路に迷う子たちを支えたい。
そのために何が必要かを考え、当事者の声を集め、整理し、
行政と対話を重ねていった様子がうかがえました。

「名前を変えればいい」という単純な提案ではなかった。

私も自分の記事で、
「もっと多くの声を拾い、時間をかけてほしい」
と書きました。

もしかしたら、そのプロセスに近いことは、
すでに行われていたのかもしれないと思いました。

私は、どこまで背景を知ろうとしていただろうか。



また、
記事を読んで、印象に残ったのは、
対話の場面でした。

最初は構えた表情だった大人たちが、
話を重ねるうちに、
「どう実現するか」という方向へと変わっていったこと。

お互いの譲れない部分を確認しながら、
少しずつ合意を探っていったこと。

理想だと思っていた対話の形が、
そこにありました。

困っていることがあり、
どうにかしたいと思い、
勇気を持って提案する人が目の前にいる。

その本気に、心が動かされないはずはない。

人間ですから。

そこまで対話を進める力が、
この高校生にはあった。

そして同時に、思ったのです。

自分にそこまでできるだろうか、と。

このプロジェクトに参加するところから考えれば、
どれだけの時間と労力をかけたのだろう。

課題とその解決策を整理し、提案し、
対話の場に立ち続ける。

その積み重ねを想像しないまま、
「言葉を変えても意味がない」と
外側から評するだけの大人ではいたくない。

そう思いました。

そして何より、
そこまでのプロセスを知ることができたことに、
私は救われました。

背景を知ることで、
見え方はこんなにも変わるのだと。



背景を知らずに評価することと、
知った上で考えることは、やはり違う。

私は、自分が思っている以上に、
無意識のイメージで物事を見ていることに気づきました。

今回のユニパスの議論は、言葉の是非だけでなく、
私たちの思考の癖や、見方の狭さ、
想像力の範囲を問い直す出来事だったのかもしれません。

その言葉が生まれるまでに、
どんな時間があり、どんな葛藤があり、どんな対話があったのか。

そこまで想像し、それでも考え続ける。

その姿勢は、手放したくないと思いました。


私は、言葉を評したいわけではない。
是非を急いで決めたいわけでもない。

子どもたちにとって、より良い道は何か。
その問いを真ん中に置いて、考え続けたいです。



参考:リバースメンター・もみじさんご本人の文章はこちら



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