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「普通」に合わせるのがつらいと感じませんか?

先日、地元で開かれた
「通信制高校」についての座談会に参加してきました。

最近、全国的にも増えてきていますよね。

私にとって、フリースクール、オルタナティブスクールが
身近な存在であるからか、

公立高校も私立高校も通信制高校も、
子どもたちが自分に合った学校を自由に選べる
横ならびの選択肢という感覚があります。

でも、座談会で耳にした言葉は少し違っていて

「学校に行けなくなった子が選ぶ場所」
「高校を辞めたときの最終手段」

あ、そうなんだ。

世間の「普通」と私の「普通」のズレを
感じていました。


実は、これは
娘の行き渋りの経験とも重なります。

うちの娘は、外から見れば
「普通の子」「普通にできる子」です。

そんな我が子が1年生の頃から
「学校に行きたくない」という気持ちを示すようになりました。

学校とたくさんやり取りをしてきましたが
今改めて振り返ると

私が一番感じていたのは
「伝わらない、理解されない」という感覚。

「あなたなら普通にできるよね」
「これができたら、これも当たり前にできるよね」

娘の『感じているそのまま』を見るよりも
「普通」の枠で見られてしまう。

もちろん責めるようには言われないし
たくさんの対話を通して
理解を示してくださっているのも感じるのですが…


「普通」が隔てているものが
なんと大きいものなのか、と思います。


でも、そう対応してしまうのもわかるんです。

私も教員をやっていたし、
不登校の子の対応も同じようにしてきたし、

だけど、
「普通」の枠にとらわれず
そこにある『一人一人が感じているもの』の方を大事にする
そうなった原体験が私にはあって


それが休職をした経験です。


私自身も、教員として働いていた頃、
周りからは「普通にできている先生」に見えていたと思います。

でも、実際は心も体も限界に近づいていて、
ついには学校に行けなくなってしまいました。

そのとき、気づいたんです。

「普通なんて、ない。」

一見普通に見えても、普通にやれているように見えても、
誰もがそれぞれ違う感覚や葛藤を抱えている、と。



こうして書いてきて、
「普通」には二つの側面があると思いました。

ひとつ目は、
学校や社会が作り出した
「こうあるべき」「これが当たり前」

という外側の基準で語られる「普通」。

確認しなくても共通理解できているという
安心感をくれる一方で、
無意識に人を苦しめてしまったり
線引きや排除を生み出したりもしますね。

「普通に登校できる子」=いい子
「普通に働ける先生」=いい先生
「普通」じゃないと問題視される

今の世界は、誰もが「普通でなければいけない」
そんなプレッシャーを感じながら生きているようにも見えます。


ふたつ目は、
内側から生まれる「自分の普通」。

人とは違うけれど、
自分にとっては自然で心地よくいられる基準。

それが、その人にとっての「普通」です。

他人と比べて優劣をつけるものではなく、
一人ひとりが持つ感覚や価値観そのもの。

「早起きするよりも、夜の方が集中力が増す」
「人と関わるより、一人でいるほうが安心する」
「自分に合う学び方を自分で選びたい」

こうした感覚は、周りからは見えにくいけれど、
その人が自然に力を発揮できる大切な土台です。


私たちは、
この二つの「普通」の間を行き来しながら生きています。

外側の普通は、社会をまわすために必要な共通基準でもある。

でも、それだけに頼りすぎてしまうと、
誰かの内側の普通を押しつぶしてしまうこともある。

ということを認識しながら進んでいきたいですね。



今の世の中、生きづらさがあふれ、
教育や社会の「当たり前」も
変わるタイミングを迎えているように感じます。

そんなときだからこそ、
まずは自分が心地よくいられる感覚を大切にすることから始めたい。

そして、今に迷ったり悩んだりしている私たちだからこそ、
見える世界や届けられる言葉がきっとあると思うのです。


それが新しい未来を描くための最初の一歩になると信じて
発信を続けていきます!


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