6月23日。慰霊の日に思うこと
ハイサイ!八重瀬町議会議員の秋田一成(あきた かずなり)です。
昨日、6月23日は慰霊の日でした。
この日は、私が関わっているハンドボールクラブの練習日でもありました。正午に合わせ、いつもより練習を早めに切り上げ、子どもたち、そして父母のみなさんと一緒に黙祷をささげました。平和を願い、そして81年前の沖縄戦で亡くなられた数多くの方々を思いながら、しばらく目を閉じる時間を持ちました。

子どもたちにとって戦争は、教科書の中の遠い出来事かもしれません。それでも、ハンドボールが楽しくできる当たり前の日常が、たくさんの犠牲の上に成り立っていること。それを一年に一度、考える日があることの意味を、あらためて感じました。
■ 慰霊の日とは
慰霊の日は、沖縄戦における日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日に、戦没者を追悼するために定められた日です。
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍の慶良間諸島上陸に始まりました。4月1日には沖縄本島に上陸し、激しい地上戦が繰り広げられました。そして6月23日、糸満市摩文仁で第32軍司令官が自決し、組織的な戦闘が終わったとされています。(沖縄戦概要・内閣府提供 )
この戦いで亡くなった方は、日米両軍と民間人を合わせて一般に約20万人とされています。沖縄県のまとめでは、日本側の死者・行方不明者だけで18万人を超え、そのうち多くが沖縄県出身の住民でした。戦前の沖縄の人口は約49万人。実に県民の4人に1人が命を落とした計算になります。
■ なぜ摩文仁に祈りの場があるのか
追悼式が開かれる糸満市摩文仁は、沖縄戦が終わりを迎えた「終焉の地」です。米軍に追い詰められた住民や兵士たちが本島南部へと逃れ、この地で多くの命が失われました。だからこそ、ここに県営平和祈念公園が置かれました。
園内にある「平和の礎(いしじ)」は、沖縄戦終結50周年を記念して1995年に建てられました。国籍も、軍人か民間人かの別も問わず、すべての戦没者の名前を刻む。それがこの礎の考え方です。「いしじ」とは「いしずえ」を沖縄の言葉で読んだもので、平和をつくる礎になってほしいという願いが込められています。今年も新たに95名の名前が刻まれました。
(平和の礎・県営平和祈念公園 )
■ 足元にある戦争。八重瀬とヌヌマチガマ
沖縄戦は、決して遠い場所の話ではありません。私たちの八重瀬町にも、その傷跡は深く残っています。
八重瀬岳の中腹には、当時、陸軍の野戦病院が置かれていました。その分院がヌヌマチガマです。ここには1,000名を超える傷病兵が収容され、薬も麻酔も足りないなか、軍医や看護婦、そして「白梅学徒隊」と呼ばれた女学生たちが昼夜を問わず看護にあたりました。負傷兵の治療や手術、切断された手足の処置。14歳から19歳ほどの少女たちが、想像を絶する任務を担っていました。
戦況が悪化し病院が閉鎖される際には、動けない傷病兵に青酸カリが投与されたと伝えられています。最後まで勤務した白梅学徒隊46名のうち、22名が命を落としました。私たちの町のすぐそこにある現実です。
(ヌヌマチガマ・平和ガイド )
■ 昨日の追悼式で。知事の宣言、14歳の詩
昨日、摩文仁で開かれた沖縄全戦没者追悼式で、玉城デニー知事は「平和宣言」を読み上げました。県民の9割以上が戦争を直接体験していない世代になった今、鎮魂と継承を続けることの大切さを訴え、辺野古の問題については「一方的な押し付けではない、日米両政府と県の対話による解決を求める」と述べました(平和宣言全文・沖縄タイムス )
そして、心に強く残ったのが「平和の詩」です。今年朗読したのは、豊見城市立豊崎中学校2年の亀谷琉奈さん(14歳)。曾祖母の沖縄戦の体験をもとにした「生きたいと願った証」という詩でした。爆撃から必死に逃げるなか、恐怖のあまり自分の右足を石で傷つけてしまった曾祖母。その傷を、亀谷さんは「『生きたい』と強く願った証」だと詠みました。「もう誰にも血だらけの道を走ってほしくないから」この言葉に胸がぎゅっと締め付けられました。(平和の詩全文・琉球新報 )
■ 総理の挨拶と、その場で起きたこと
来賓として出席した高市早苗総理大臣は、就任後初めての沖縄訪問となりました。挨拶では、沖縄戦で失われた20万人を超える命に哀悼の意を表し、「二度と戦争の惨禍を繰り返さない」という決然たる誓いのもと、平和を重んじる国家として歩んできた、と述べられました。
基地問題については、沖縄に負担が集中している現状に触れ、施設の整理・統合・縮小に取り組むこと、返還された駐留軍用地の跡地を有効に活用していく方針を示しました。あわせて、首里城正殿の復元完成式が今年11月に行われることにも触れ、困難を乗り越えてきた沖縄の歩みに言及しました
(挨拶全文・首相官邸公式ページ )
一方で、その挨拶の最中、会場からは「戦争反対」「9条を守れ」、さらには「24万人に謝ってこい」といったヤジが飛び続けたと報じられています。
(沖縄タイムス )
沖縄が長く背負ってきた基地負担への、切実な思いがあることは理解しています。声をあげたくなる気持ちや背景も、決して軽いものではありません。基地のあり方や政府の姿勢に、納得のいかない思いを抱く県民が多くいることも事実です。それでも私は思います。あの場は、亡くなった20万人を超える方々に手を合わせ、静かに祈るための場です。誰がマイクの前に立っていようと、その人の立場や考えに賛成か反対かを超えて、その時間だけは、参列した誰もが頭を下げ、鎮魂に集中できる。そういう場であってほしいと、私は強く感じました。意見をぶつけ合う場所は、ほかにいくらでもあります。慰霊の日の祈りの時間だけは、静けさのなかで犠牲者と向き合いたい。それが、命を落とされた方々への、いちばんの礼ではないかと思います。
■ 私の考え。手渡すということ
慰霊の日に考えたのは、「どう手渡すか」ということでした。
亀谷さんが曾祖母の記憶を詩にしたように。私が子どもたちと黙祷をささげたように。記憶や祈りは、誰かが意識して次の世代に渡さなければ、静かに消えていってしまいます。八重瀬の足元にある戦跡も、語る人がいなくなれば、ただの風景になってしまうかもしれません。
私の祖父母も、「鉄の暴風」と呼ばれた地獄を生き抜いてくれました。逃げ惑い、飢え、すぐ隣で人が亡くなっていくなかで、それでも命をつないでくれた人がいた。だから今の私があり、妻がいて、娘がいます。私が今こうして当たり前のように生きているのは、決して当たり前のことではなく、生き残ってくれた先人たちの上に成り立っている。そう思うと、この日に手を合わせる意味の重さが、また少し違って感じられました。
私はまず一人の沖縄県民として、この島で起きたことを忘れたくないと思います。そして八重瀬で育った一人として、また一人の父として、この町の子どもたちに、戦争を遠い話にさせたくないと思っています。難しい言葉でなくていい。一緒に目を閉じる。次の世代が、また次の世代へと手渡していけるように。それが、生き延びてくれた先人たちへの恩返しであり、私にできる継承の第一歩だと思っています。
戦後81年。平和は、誰かが祈り、誰かが語り継いでくれたからこそ、今ここにあります。その糸を、私たちの世代で途切れさせてはいけない。昨日の慰霊の日に、あらためてそう心に刻みました。
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