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【沖縄と歴代県知事】第2弾・平良幸市〜「730」と「平和宣言」いまに続くもの〜

ハイサイ!八重瀬町議会議員の秋田一成(あきた かずなり)です。

今年の9月、沖縄県では県知事選挙が行われます。沖縄の4年を、そしてこの先の沖縄のかたちを決める、とても大きな選挙です。
「歴代の沖縄県知事」を一人ずつ紹介するシリーズ。第1弾の初代・屋良朝苗(やら ちょうびょう)さんに続いて、今回が第2弾です。
※このシリーズは、特定の党派や立場を応援するものではありません。

第2弾は、第2代沖縄県知事・平良幸市(たいら こういち)さんです。

■ 平良幸市ってどんな人?
在任期間:1976年6月25日〜1978年11月23日(第2代沖縄県知事)

沖縄県公文書館所蔵
左:キャラウェイ高等弁務官・右:平良幸市

平良さんは師範学校を出て小学校の先生になり、その後、西原村(現・西原町)の村長を経て政治の道へ進みます。沖縄社会大衆党(社大党)という沖縄独自の政党のリーダーを務めた人で、1976年、初代・屋良さんの後を継いで第2代知事に就任しました。

前回ご紹介した屋良さんも、もとは教職員会の会長を務めた教育者でした。二人はともに「元先生」で、屋良さんが掲げた復帰の精神「基地のない平和の島」への願いを、平良さんはまっすぐに受け継ぎます。県政のバトンが、理念ごと次の人に渡っていく。第1弾を読んでくださった方は、そのつながりも感じてもらえると思います。

人柄は「土着の政治家」。大衆に寄り添う、実直で親しみやすい人だったと伝えられています。奥さまと共に沖縄戦や捕虜生活という過酷な体験をくぐり抜けており、その体験に裏打ちされた、強い平和への信念を持った人でした。手書きのメモやスピーチ原稿を克明に残す人でもあり、それらは今「平良幸市文書」として沖縄県公文書館に所蔵・公開されています。
平良幸市文書(沖縄県公文書館)

そんな平良さんのエピソードを、3つ紹介します。

■ ① 誰も経験したことのない大仕事「730」

沖縄の人なら、「730(ナナサンマル)」という言葉を聞いたことがあると思います。1978年7月30日、沖縄の車が右側通行から、本土と同じ左側通行に一斉に切り替わった、歴史的な日のことです。
7・30(ななさんまる)交通方法変更

これは、ただルールを変えるだけの話ではありません。信号機を付け替え、道路標識を直し、バスの乗り降り口まで作り変える。そして何より、それまでの習慣で運転してきた県民一人ひとりに、事故なく切り替えてもらわなければならない。前例のない、とてつもない大仕事でした。平良さんは、この「730」の準備に、誰よりも力を注ぎました。

ところが、切り替えの1カ月前、1978年7月2日。予算折衝のために上京していた平良さんは、東京で脳血栓に倒れてしまいます。そして7月30日、県民が見守るなか「730」は大きな混乱もなく成功しましたが、平良さん自身は、その悲願の瞬間を沖縄の地で見届けることができませんでした。東京の病床で迎えるしかなかったのです。結局そのまま公務に復帰できず、同年に知事を辞任します。

前例のないことに、必死に邁進した。誰も経験したことのない大仕事を、ものすごいプレッシャーの中で背負い続けたのだと思います。そして、一番力を注いだ仕事の、一番大事な瞬間に立ち会えなかった。本当に悔しかっただろうと、お察しします。それでも「730」が予定通り成功したのは、平良さんが積み上げてきた準備が確かなものだったからです。

730記念碑(石垣市)

■ ② いまも続く「平和宣言」を、初めて出した知事

毎年6月23日、沖縄の「慰霊の日」。糸満市の平和祈念公園で行われる沖縄全戦没者追悼式では、その年の知事が「平和宣言」を読み上げます。テレビでご覧になった方も多いと思います。

実はこの「平和宣言」、最初に始めたのが平良さんでした。1977年6月23日、沖縄県知事として史上初めて平和宣言を発表したのです。沖縄戦の犠牲者を追悼し、二度と戦争を繰り返さないこと、そして世界の恒久平和を、県のトップとして公に誓いました。
歴代知事の「平和宣言」を振り返る 反戦、基地問題 思い込め

第1弾で、屋良さんが「基地のない平和の島」という願いを建議書に込めた話を紹介しました。その願いを、平良さんは「平和宣言」という、毎年くり返される形にして残したとも言えます。

平良さんには、この言葉を語るだけの理由がありました。奥さまの平良梅子(うめこ)さんも元教師で、夫妻は沖縄戦のさなか、幼いわが子を飢えで失うという、あまりにつらい経験をしています。だからこそ平良さんは、平和への想いが人一倍強い方だったのだと感じます。

この平和宣言は、以降すべての知事に引き継がれ、半世紀近くたった今も続いています。先日、私も「慰霊の日」についてnoteを書きましたが、あの日の宣言の“始まり”に、平良さんの人生があった。平良さんのおかげで、毎年平和行事が行えているのだと思うと、絶対に無くしてはいけないものだと、あらためて感じます。

■ ③ 芯を貫いた人 「系列化しない」。そして産業まつり

平良さんが政治家として大切にしていた言葉に、「系列化しない」というものがあります。沖縄の政党が本土の大きな政党に組み込まれていけば、中央とのパイプは太くなる。でも平良さんは、そこに乗りませんでした。本土の政局の論理に飲み込まれれば、沖縄の切実な課題が「その他大勢」の中に埋もれてしまう。そう考えたのです。

この姿勢には、実は批判もありました。中央とのパイプが細くなり、沖縄振興のためのお金や実利を引き出しにくくなったのではないか、と。理念を守ることと、実利を取ること。この二つは、いつもきれいには両立しません。バランスは大事ですし、どちらが正しいかは、その人の政治理念にもよるので、とやかくは言えません。それでも、天秤にかけられたときに、自分の意見をまっすぐ言うのは、本当に難しいことです。芯の強い、まっすぐな平良さんの姿勢は、私も見習いたいと思います。

平良さんは、沖縄の自立した経済づくりにも力を入れました。地場産業を育てようと、1977年には「沖縄の産業まつり」(沖縄県工業連合会ほか主催)の立ち上げにも関わっています。県産品が一堂に並ぶこの祭りも、今や毎年恒例の大きなイベントとして続いています。

今年で50回目!
※ポスターは前年のもの

■ おわりに

「730」で沖縄のインフラを本土とつなぎ、「平和宣言」で沖縄の心を言葉にし、「産業まつり」で沖縄の経済を足元から育てる。平良さんが遺したものは、派手ではないけれど、平和宣言も産業まつりも、いまも私たちの暮らしの中で続いています。

そして、屋良さんが願った理念を、平良さんが受け継いで「かたち」にした。歴代の知事は、こうしてバトンをつないできました。一人ひとりを知っていくと、その受け渡しが見えてくる。これこそ、このシリーズを続ける意味なのだと思います。

歴史を知ると、選挙が少し立体的に見えてくる。次回は、第3代知事をご紹介します。どうぞお楽しみに!

【秋田一成からのお知らせ】

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