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現代に生きる世捨て人② 黒柳徹子──世間の基準から外れて生きる

自分の好奇心を生きるという自由

人生には、いつの間にか決められた順路がある。

学校を出る。仕事に就く。結婚する。子どもを持つ。老後を迎える。

それが「普通の人生」と呼ばれることがある。その道を歩く人生には、深い意味がある。

けれども、すべての人がその道を歩くわけではない。

結婚しない人がいる。子どもを持たない人がいる。一人で生きる時間を大切にする人がいる。

その人生は、欠けた人生なのだろうか。

そうではない。標準から外れたからこそ開かれる人生もある。

そのことを、長い時間をかけて見せてきた人がいる。黒柳徹子である。


黒柳徹子という人は、独特である。

テレビの世界に長く立ち続けながら、誰にも似ていない。年齢を重ねても、好奇心が衰えない。自分の話し方、自分の服装、自分の関心、自分の速度を持っている。

世間の基準に合わせて小さくなった人ではない。世間の基準から外れながら、自分の世界を広げていった人である。

黒柳徹子の人生を見ると、「自分らしく生きる」とは何かを考えさせられる。

自分らしさとは、好き勝手に生きることではない。世間に反抗することだけでもない。

自分らしさとは、自分の中にある好奇心を粗末にしないことなのだと思う。

何に心が動くのか。誰の話を聞きたいのか。何を知りたいのか。どんな世界に触れたいのか。

その声を聞き続けること。


彼女の人生には、「結婚しなかった人」という見方がつきまとうことがある。

けれども、そこだけで語るのはあまりにも浅い。

彼女は、別の形で世界と深く関わってきた。

人と出会い続けた。話を聞き続けた。表現し続けた。子どもたちへの思いを持ち続けた。世界の苦しみにも目を向け続けた。

家庭という形だけではなく、好奇心と対話を通して世界とつながってきた人である。

世間は、ときに人生を一つの型で測ろうとする。

結婚しているか。年相応か。落ち着いているか。

しかし人間の豊かさは、そんなに単純には測れない。

誰かと深く話すこと。世界に関心を持ち続けること。年齢を重ねても驚くこと。聞くこと。知ろうとすること。

そこにも、確かな人生の豊かさがある。


黒柳徹子の魅力は、何よりもその好奇心にある。

人の話を聞く。知らない世界に驚く。相手の人生に関心を持つ。自分の中の子どものような感受性を失わない。

年齢を重ねると、人は新しいものに驚きにくくなる。「もう分かっている」と思いやすくなる。知らないものより、慣れたものを選びたくなる。

しかし黒柳徹子には、「まだ知りたい」という感じがある。

まだ聞きたい。まだ会いたい。まだ驚きたい。

人生後半を生きるうえで、この「まだ」はとても大切である。

もう遅い。今さら変われない。そう思った瞬間、人の心は少しずつ閉じていく。

けれども、好奇心がある人は閉じきらない。身体は老いても、心の窓が開いている。役割は変わっても、世界への関心が残っている。

人生後半に必要なのは「若さ」ではなく「好奇心」なのだと、彼女の生き方は教えてくれる。

若く見えることより、驚けること。年齢を隠すことより、その年齢でしか聞けない声を聞くこと。


黒柳徹子はまた、孤独を恐れすぎない人にも見える。

人と違うことを、不幸ではなく個性へ変えている。標準から外れた道を、自分の表現へ変えている。

これは、西行の孤独とも少し響き合う。

西行は、孤独の中で花を見た。月を見た。歌を詠んだ。

黒柳徹子は、孤独の中で人に会い続けた。話を聞き続けた。自分の言葉で世界に触れ続けた。

孤独には二つの方向がある。閉じていく孤独。そして、開いていく孤独である。

一人の時間があるからこそ、人の話を深く聞ける。自分の世界を持っている人は、他人の世界にも敬意を持てる。


世間の基準に合わせすぎると、人は自分の声を失うことがある。

こうあるべき。この年齢ならこうするべき。年を取ったらこうあるべき。

そうした声は、外からだけではなく、内側からも聞こえてくる。自分で自分を縛ってしまう。

しかし黒柳徹子は、その声に完全には従わなかった。

自分の話し方を持った。自分の装いを持った。自分の人生の形を持った。

それは強い反抗というより、自然な逸脱である。「私はこれでいいのです」と、軽やかにそこにいる。

世捨てとは、怒って世間を拒絶することだけではない。世間の基準を知りながら、それに呑み込まれないことである。

前回のタモリが、競争から半歩ずれる人だったとすれば、黒柳徹子は、標準人生から半歩ずれる人である。そして、その半歩の場所で、自分の花を咲かせた人である。


人生後半になると、私たちは自分の人生を振り返る。

結婚したか。しなかったか。子どもを持ったか。何を選び、何を選ばなかったか。

どんな人にも、選ばなかった可能性がある。あのとき違う選択をしていたら——そういう問いが静かに浮かぶ。

しかし、自分の人生を他の人生と比べ続けても、心は安らがない。

大切なのは、自分が歩いてきた道を引き受けることだと思う。

黒柳徹子は、自分の人生を誰かの標準に合わせて言い訳しない。

人と違う形で、十分に人生を生きてきた。その姿は、多くの人への励ましになる。


「自分の好奇心を生きる」という言葉は、簡単なようで深い。

好奇心とは、魂の向きである。何に惹かれるか。誰の声を聞きたいか。どんな世界に触れたいか。そこには、その人の本質が表れる。

若い頃は、好奇心より義務が優先される。仕事のため。生活のため。評価のため。それは仕方がない。

しかし人生後半には、もう一度、自分の好奇心へ帰ることができる。

本当は何が好きだったのか。何を知りたかったのか。どんな人に会いたかったのか。

人生後半に必要なのは、正解ではなく関心なのだと思う。

今日、何に心が動いたか。誰の話を聞きたいと思ったか。何を面白いと感じたか。

その小さな感覚を大切にする。


黒柳徹子の生き方には、子どものようなところがある。

幼いという意味ではない。世界に対して開かれているという意味である。

ニーチェが語った「子ども」のように、もう一度世界を新しく見る力。良寛が持っていた遊びの心。南方熊楠が持っていた終わらない好奇心。

多くを経験したうえで、なお世界を面白がれること。人生後半の成熟とは、すべてを知った顔になることではない。もう一度驚ける人になることなのかもしれない。


世間の基準から外れることは、怖い。人と違う道を歩くことは、不安である。

けれども、世間の基準に合わせすぎて、自分の好奇心を殺してしまうこともまた怖い。

自分の人生なのに、自分の声が聞こえなくなる。

人生後半には、もう一度、自分の基準を取り戻してよい。

自分の中に、まだ知りたいものがある。まだ会いたい人がいる。まだ面白がれる世界がある。

それなら、その人生は十分に豊かである。

黒柳徹子は世を捨てた人ではない。長く世の中の中心にいた人である。

けれども、世間の基準に自分を完全には預けなかった。

世間の外へ逃げるのではない。世間の中にいながら、自分の好奇心を守る。自分の形で世界と関わる。

人生の形は、一つではない。大切なのは、自分の魂が、そこに息をしているかどうかである。


今回の問い

あなたは今、誰かの基準に合わせるために、自分の好奇心を後回しにしていないだろうか。

そして、もし世間の標準から少し自由になれるとしたら、あなたは何を知り、誰と出会い、どんな世界を見てみたいだろうか。


Kashimono / Karimono
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