少子化──結婚、未婚、独身という選択
いい歳をして、私は結婚していない。
いや、まだ結婚していない。
できなかった、という言い方のほうが正確かもしれない。
少子化を論じる資格がもっともない人間が、少子化について書こうとしている。
だが考えてみれば、私はこの現象のサンプルとして、これ以上ないほど典型的なのではないか。
なぜ自分が結婚してこなかったのかを正直に言うと、世間で語られる「少子化の原因」の多くが、実は的を外していることが見えてくる。
念のため断っておくと、これは嘆きでも後悔でもない。
自分という一つの事例を、距離を置いて、冷静に眺めてみるというだけの話だ。
私は仕事柄、自分の行動の記録を一次資料として冷静に分析することに慣れている。
今回はその対象が、たまたま自分の人生になった。
それだけのことである。
世間で言われる「原因」を、まず疑う
まず、世間でよく聞く理由から潰していこう。
「子育てにお金がかかるから」。
よく言われる。
だが私の場合、子育て費用を計算した結果として結婚を見送った、という事実はない。
そもそも、その手前で止まっている。
費用が問題になるのは、結婚して、子どもを持つかどうかを検討する段階に入った人の話だ。
私はそのスタート地点にすら立っていない。
これは私だけの事情ではないらしい。
データを見ると、日本で結婚した夫婦が産む子どもの数は、長いあいだ二人前後で比較的安定してきた。
つまり「結婚した人が産まなくなった」のではない。
「そもそも結婚する人が減り、その時期が遅くなった」。
これが日本の少子化の、数字の上での正体だ。
子育て支援を手厚くすれば出生率が回復する、という話を私はあまり信じていない。
実際、保育を充実させ、給付を積み増した国々でも、出生率の回復は驚くほど限定的だった。
莫大な予算に対して、効果は小さい。
これは、人が「産まない理由」として口にするものと、実際に行動を止めている本当の原因とが、別物であることを示している。
アンケートに「お金がないから」と書く人は多い。
だがそれを取り除いても、たぶん多くは産まない。
私自身が、そうだろうと思う。
本当の原因は、何か
定番の理由を外していくと、では何が残るのか。
自分を見てみると、二つの層が見えてくる。
ひとつは、結婚という選択が「既定路線」ではなくなった、ということだ。
かつては、ある年齢になれば結婚するのが当たり前で、しないことのほうに説明が要った。
今は逆だ。
結婚するなら、なぜするのかを自分に問わなければならない。
独身でいることは、もはや欠落ではなく、ありふれた選択肢のひとつになった。
私はその選択肢を、積極的に選んだというより、選ばないまま日々をやり過ごしているうちに、気づけばここにいた。
もっとも、今まで誰とも付き合わなかったわけではない。
恋も、恋愛もした。この人となら、と思った相手もいた。
けれど、近づけば近づくほど離れていった。
うまくいかなかった理由を、今さら並べるつもりはない。
ただ、そういう時間が積み重なった果てに、私はいつのまにか、独りでいることのほうに馴染んでいた。
もうひとつは、手放すものの大きさだ。
仕事、自分の時間、身軽さ。
それらを差し出してまで結婚に踏み切る理由が、私の中でついに臨界点を超えなかった。
これは私が薄情だからではなく、たぶん、選べるものが多すぎる社会に生きているからだ。
豊かさとは、要するに選択肢の多さのことだ。
そして選択肢が増えるほど、そのひとつひとつの重みは下がっていく。
結婚も、そのうちの一票になった。
ここで奇妙なことに気づく。
豊かで、便利で、人が集まる場所ほど、子どもは生まれていない。
最新の数字では、日本でいちばん人とモノと情報が集まる東京の出生率は、3年続けて1を割り込んでいる。
いっぽうで全国でいちばん高いのは沖縄だ。
「貧しいから産めない」のではない。
むしろ「豊かだから産まない」。
この逆説の前で、私のような人間は典型的な一例にすぎない。
結婚と出産が、切り離されていく
最近になって、この「結婚しない」という現象が、さらに奇妙な方向へ枝分かれしはじめているのに気づく。
結婚はしない。
けれど、子どもは欲しい。
そういう人たちが、静かに増えている。
同じ「結婚していない」でも、この人たちは、私とはまるで違う場所に立っている。
私のほうは、結婚もせず、子も持たず、ただ一人で日々を送っている。
向こうは、結婚という手続きだけを飛ばして、子どもという結果のほうへ、まっすぐ手を伸ばしている。
片方は何も持たず、片方は選んで一つだけを取りにいく。
言葉にすれば同じ「未婚」の側に括られるのに、その中身は、これほど分かれはじめている。
かつて、結婚と出産は一本の線でつながっていた。
結婚し、家庭をつくり、その中で子をなす。
この順序はあまりに自明で、誰も疑わなかった。
ところが今、その線が切れはじめている。
精子提供、精子バンク、海外での代理出産。
技術と市場は、「結婚」という手続きを飛ばして、「子どもを持つこと」だけを取り出せる段階に入りつつある。
選択的シングルマザー、という言葉も、もはや珍しいものではなくなった。
これは、さっき書いた話の延長線上にある。
結婚が「数ある選択肢の一票」に降格したなら、当然、その票を投じずに別のものだけを手に入れたい、という発想が出てくる。
パートナーとの関係という、いちばん不確実で、いちばん手間のかかる部分を省いて、子どもという結果だけを求める。
考えてみれば、合理的ですらある。
ただ、私はこの流れを、手放しで進歩だとも、嘆かわしい退廃だとも言いたくない。
どちらの結論も、急ぎすぎだと思うからだ。
進歩の側から見れば、これは解放の物語になる。
結婚というかたちに縛られず、相手に恵まれなかった人や、従来の家族像に居場所のなかった人が、それでも子を持てるようになる。
誰かの許可も、制度の祝福も要らない。
これを前進と呼ぶ人がいるのは、よくわかる。
だが立ち止まる側から見れば、これは「分解」の物語でもある。
これまで人類は、子をなすという営みを、必ず誰かとの関係の中で行ってきた。
面倒で、不自由で、思い通りにならない他者と、どうにか折り合いをつけながら。
その「他者と折り合う」という、人間にとって最も古く、最も厄介な作業を、技術が省略可能にしつつある。
子どもは、二人の関係から生まれてくるものから、一人が個人として調達するものへと、性格を変えはじめているのかもしれない。
私はここで判断を保留する。
だが、ひとつだけ確かに思うことがある。
少子化を「結婚しないから子が減る」という問題として捉えているうちは、まだ古い地図を見ているのかもしれない、ということだ。
問題はもっと深いところまで進んでいて、私たちは今、「子どもを持つとはどういうことか」「家族とは何の単位なのか」という、もっと根本的な定義そのものが書き換わっていく時代の入り口に立っている。
私が結婚していないことなど、その大きな地殻変動の、ごく小さな一例にすぎないのだろう。
それでも、渡したいものがある
もうひとつ、自分について正直に書いておきたいことがある。
私は結婚していないし、子も持っていない。
それでいて、心のどこかに、奇妙な未練のようなものが残っている。
日本人として生まれたからには、自分が受け取ったものを、誰かに、後の世に渡したい——そういう願いだ。
子を持たない人間が言うのは、いささか虫がいいかもしれない。
だが、この感情は確かにある。
ただ、その願いを言葉にしようとすると、自分でつまずく。
私は何を渡したいのか。
「日本人のDNA」と言いかけて、立ち止まる。
冷静に考えれば、純粋な「日本人の血」などというものは、どうやら存在しない。
この列島の住民は、もともといた人々に、大陸から渡ってきた人々が幾重にも混ざってできている。
北にはアイヌ、南には琉球の人々がいて、遺伝的にも一様ではない。
「大和民族」という言葉も、私は長らく古来の呼び名だと思っていたが、調べてみると、国を一つにまとめ上げる必要があった時代に、強く押し出された観念だった。
単一の民族という物語は、血の事実というより、つくられた旗だったわけだ。
では「日本人」なら本来のものか、というと、これも怪しい。
江戸の人々は、自分を「どこそこの藩の者」とは思っても、「日本人」という一体感を強く抱いてはいなかったらしい。
私たちが当然だと思っている「日本人」という括りも、せいぜいここ百数十年の発明品なのだ。
血を確かめに行った私の話
実は、私はかつて、その「血」のほうに本気で手を伸ばしたことがある。
コロナ禍のさなか、検査のついでに、私は自分の遺伝子を調べてもらった。
確かめたかったのは、感染の有無ではない。
自分の中に、いわゆるYAP——日本人に比較的多いとされる、ある古い父系の系統の目印——があるかどうかだった。
結果は、あった。
正直に言えば、そのとき私は、かすかに誇らしかった。
自分は確かに、この列島に古くから続く何かを受け継いでいる。
そういう手応えが欲しかったのだと思う。
だが、いま冷静に振り返ると、あの誇らしさは何だったのだろう。
調べていくと、その系統は「日本人特有」ですらなかった。
海を遠く隔てたチベットや、アンダマンの島々の人々も、高い頻度で同じ目印を持っている。
大陸でいったん広がったあと、辺境に取り残された古い系統が、たまたま日本列島にも色濃く残った——その程度の話だった。
しかも、それは父をたどる一本の糸の目印にすぎない。
勤勉さや、和の心や、私という人間の性質を生むものとは、何の関係もない。
「この遺伝子が日本人の精神を作る」といった説明は、心地よいが、それ以上のものではない。
私は、自分が一番嫌っていたはずの、相関を因果と取り違える錯覚に、まんまと自分から飛び込んでいたのである。
つまり私は、「血ではなく心だ」などと偉そうに書こうとしておきながら、その手前で、検査結果の一行に胸を高鳴らせていた人間なのだ。
人は、自分が何者かであることの証を、これほどまでに血に求めたがる。
私自身が、その引力の強さの、生きた証拠だった。
だから、いまは前よりも確信を持って言える。
遺伝子には、人類が歩んできた長い道のりが刻まれている。
私の身体の隅々まで——背格好も、顔のつくりも、声も、肌の色も——その記録が及んでいる。
だが不思議なことに、私がいちばん渡したいと思うもの、振る舞いや、感じ方や、間合いのようなものは、その精密な記録のどこにも見当たらない。
血は、過去がどこから来たかを教えてくれるが、これからどう生きるかについては、何も語ってくれない。
血が未来を語らないのなら、私は何を、誰に渡せるのだろう。
そう考えたとき、胸の奥で、もう一つの問いが立ち上がってきた。
ここまで私は、自分一人のことを書いてきた。
だが、結婚しない私も、子を持たない私も、この国に同じような人間が大勢いるからこそ、少子化という言葉で括られている。
私の小さな選択は、たしかに、もっと大きな流れの一滴だった。
けれど、一滴をいくら見つめても、流れがどこへ向かうのかはわからない。
ならば一度、私から目を離して、流れそのものを眺めてみたい。
増えていた時代のほうが、特別だったのではないか

今、日本では人が減っている。
私たちは、人口が減ると聞くと、反射的に「大変だ」「異常だ」と感じる。
だがその感覚は、もしかすると、増え続ける時代に生まれ育った人間の、刷り込みにすぎないのかもしれない。
だとすれば、確かめる方法はひとつだ。
「増えるのが当たり前」という常識が、いつ生まれたのかを、辿ってみればいい。
幸い、日本にはその手がかりが、はっきりと残っている。
この国の人口の動きを、一本の線として眺めてみる。
すると、奇妙な形が見えてくる。
まず、意外な事実から始めたい。
江戸時代の日本の人口は、長いあいだ、ほとんど増えていない。
江戸時代の初め、17世紀のはじめには、日本の人口はおよそ1200万人だったとされる。
それが、平和な世が続き、各地で新田開発が進み、農業の技術が上がっていくなかで、18世紀の初めには3000万人を超えるまでに増えた。
ここまでは、急な増加だ。
100年あまりで、人口がおよそ二倍半になった計算になる。
ところが、そこで止まる。
江戸時代の後半、18世紀から幕末にかけてのおよそ150年、日本の人口は3000万人前後で、ほとんど動かなくなる。
増えもせず、大きく減りもせず、長い横ばいが続いた。
これは、考えてみると不思議な光景だ。
私たちは「人は放っておけば増えるもの」だと思っている。
だが江戸時代の後半の日本は、放っておいても増えなかった。
むしろ、ある水準でぴたりと安定していた。
なぜ、増えなかったのか。
答えのひとつは、単純で、そして残酷だ。
その土地で養える人の数には、限りがあったからだ。
田畑から穫れる米の量、使える土地の広さ、運べる物資の量。
それらが、その社会が抱えられる人口の上限を決めていた。
上限に近づけば、人は増えるのをやめる。
あるいは、増えられなくなる。
飢饉や病が、増えすぎた分を容赦なく削っていった時代でもあった。
日本の歴史の大半において、人口が横ばいであることは、異常でも何でもなく、むしろ当たり前の風景だった。
江戸は、独身男だらけだった
横ばいだった江戸の人口を、もう少し近くで覗いてみる。
すると、現代の私たちにとって、ひどく見覚えのある光景が浮かび上がってくる。
当時の江戸の町には、結婚できない独身の男が、あふれていた。
記録や研究によれば、江戸の町に住む男性の生涯未婚率は、5割近くに達していたともいわれる。
町に暮らす男の、およそ二人に一人が、生涯を独り身で終えた計算になる。
理由は、いくつも重なっていた。
まず、男が、女よりも圧倒的に多かった。
参勤交代で全国から武士が集まり、地方の農村からは、次男や三男が職を求めて流れ込む。
江戸は、地方から男ばかりが吸い寄せられてくる町だった。
時期や集計の仕方で幅はあるが、男女比は、およそ2対1に近かったともいわれる。
1721年の町人の数でいえば、男が32万、女が18万ほど。
そもそも相手の数が足りないのだから、全員が結婚できるはずもない。
次に、家の仕組みが、彼らを締め出していた。
武家も農家も、跡を継ぐのは長男だ。
次男や三男は、家を持たせてもらえる当てもなく、「余った者」として都会へ出るしかなかった。
彼らの多くは、一代限りの暮らしを送る、根なし草のような存在だった。
そして、金がなかった。
江戸に出てきた男の多くは、日雇いや奉公人として、不安定な仕事で食いつないでいた。
所帯を持つには、それなりの蓄えと見通しが要る。
そこに手が届かないまま、年を取っていった者が、大勢いた。
どうだろう。
この話のどこかに、聞き覚えはないだろうか。
地方から、若者が都会へ吸い寄せられる。
そこで激しい競争にさらされ、不安定な仕事のまま、結婚に踏み切れずに歳を重ねる。
これは、この文章の前半で私が書いた、現代の東京の話と、ほとんど同じ構造をしている。
近年、この江戸と現代の相似を、統計から丁寧にたどってみせる論者もいる。
幕末の江戸の一部の地域では、男の有配偶率は五割前後だったという記録が残っていて、未婚化が叫ばれる今の東京と、数字の上では、たいして変わらない。
私たちが「現代の病」だと思っているものは、150年以上前の江戸が、すでに通り抜けた道だったのかもしれない。
男余りが生んだ、吉原という装置
むしろ驚かされるのは、江戸の社会が、この大量の独身男を、ただ厄介者として持て余すばかりではなかったことだ。
あまりに独り身の男が多く、町の風紀が乱れがちだった。
そこで幕府は、吉原という遊郭をひとつだけ公認し、そこに営業の特権を与えて、性をめぐる秩序を一手に管理させた。
言い換えれば、あぶれた男たちを放置せず、一箇所に束ねて統治しようとしたわけだ。
結婚という形からこぼれ落ちた男たちのほうに合わせて、町の仕組みそのものが作られていった、とも言える。
そして吉原は、ただ性を売る場所にとどまらなかった。
花魁(おいらん)は、今でいうアイドルのように男たちを熱狂させ、その装いや髪型を、町の女たちがこぞって真似た。
歌舞伎、浮世絵、狂歌、流行のファッション——江戸の華やかな文化の少なからぬ部分が、この独身男たちの欲望と、彼らが落とす金を土壌にして育っていった。
ここに、見落とされがちな事実がある。
独り身の男が大勢いる社会は、ただ寂しく痩せ細っていくとは限らない。
むしろ、結婚や家庭の外側に、独自の文化や経済が立ち上がることがある。
「結婚するのが当たり前」は、いつ生まれたのか
ここで、ひとつの考えが頭をよぎる。
では、いったいいつから、日本人は「皆が結婚する」ようになったのか。
調べてみて、私は少し驚いた。
国民の大半が結婚する社会——いわゆる皆婚社会が成立したのは、明治に入ってからだという。
それ以前は、農村でさえ、生涯を独身で過ごす者が珍しくなかった。
家を継ぐ者や、ある程度の身分の者は結婚できたが、傍系の親族や、使用人として働く者の多くは、生涯未婚のままだった、という研究もある。
つまり、こういうことだ。
「いい歳になれば、誰もが結婚するのが当たり前」という常識は、日本の歴史の中では、それほど古いものではない。
せいぜい、明治から平成のはじめにかけての、100年あまりの現象にすぎなかった。
そして、この100年あまりの「皆が結婚した時代」こそが、日本の人口を爆発させた、いちばんのエンジンだった。
明治時代のはじめに3000万人台だった日本の人口は、ほぼすべての人が結婚し、子をもうけるという、かつてない状態のなかで、急速に膨らんでいく。
ここに、奇妙な逆説がある。
私はこの文章の前半で、「結婚が既定路線ではなくなった」ことを、現代の少子化の原因のひとつとして書いた。
だが歴史を遡ってみれば、結婚が本当に「全員の既定路線」だった時代のほうが、むしろ短く、特殊だったのだ。
結婚しない人間が大勢いる社会は、異常なのではない。
それは、日本がずっと見てきた、ありふれた風景のひとつだった。
私のような人間は、明治の物差しで測れば「結婚できなかった者」かもしれないが、江戸の物差しで測れば、ごくありふれた、町の独り身の一人にすぎない。
そして、人口は爆発した
明治時代からの100年は、日本の人口にとって、かつてない時代になった。
理由は、皆婚社会だけではない。
近代化が、人の死に方そのものを変えたのだ。
医療が進み、衛生という考え方が広まり、食糧の生産と流通が安定していく。
それまで、生まれた子の多くを奪っていった病や飢えが、少しずつ後退していった。
死ぬ人が減り、それでも生まれる人は多いまま。
このアンバランスが、人口を一気に押し上げる。
明治時代のはじめに3000万人台だった日本は、増加をほぼ止めることなく、1967年には、ついに1億人を突破した。
途中には、大きな戦争があった。
日清、日露、そして、あの大きな戦争。
多くの命が失われ、国土は焼かれた。
それでも、戦争が終わると、人口はふたたび、勢いよく増え始める。
焼け跡からの復興。
高度経済成長。
国全体が、上を向いて膨らんでいく時代だった。
戦後すぐ、1947年から数年のあいだに、途方もない数の子どもたちが生まれた——団塊の世代だ。
そしてその子どもたちが親になったとき、ふたたび多くの子が生まれた。
第二の波、団塊ジュニアである。
教室は子どもですし詰めになり、街は人であふれた。
増えることが、当たり前であり、希望そのものだった。
私たちの「人口は増えるものだ」という感覚は、たぶん、この時代に作られた。
だが、ここまで見てきた通り、これは日本の歴史の中の、ほんの一瞬の出来事にすぎない。
下り坂の途中で
そして、波は折り返した。
2008年、日本の人口は約1億2800万人で頂点に達し、そこから減少に転じた。
前半で触れた、東京の出生率が一を割り込むという数字は、この下り坂の、今いる地点を示している。
ここまで来て、最初の問いに戻ってみる。
人口が減るのは、異常なことなのか。
一本の線として眺めると、答えは、少し違って見えてくる。
江戸の横ばい。
明治からの爆発。
そして、今の収縮。
この爆発と収縮は、別々の出来事ではなく、近代化という一つの大きな波の、登りと下りなのではないか。
死亡率が急に下がり、人口が膨らむ。
やがて、社会が豊かになり、子の数が減っていき、新しい釣り合いへ向かっていく。
私たちは今、その釣り合いを探している、下り坂の途中にいるのかもしれない。
だとすれば、本当に問うべきは、「なぜ減るのか」ではないのかもしれない。
「あれほど増えた時代のほうが、なぜ特別だったのか」——そう問うほうが、たぶん正しい。
結婚していない私が、この長い坂の、どのあたりに立っているのか。
明治の物差しなら、私は坂を登りきれなかった者だ。
だが江戸の物差しなら、坂などもともとなく、私はただ、ありふれた町の独り身の一人にすぎない。
ただ、ひとつだけ、まだ分からないことが残っている。
江戸時代の後半、人口が3000万人で横ばいだった、あの長い安定の時代。
あれは、ただ限界にぶつかって止まっていただけなのか。
それとも、増えすぎないための、何らかの知恵が、あの社会には埋め込まれていたのか。
今は、まだ知らぬ余白としておこう。
