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【読書と雑考】小原晩『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』

タイトルを初めて見た時、書店で思わず足を止めたことを覚えている。

『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』

どういうことなんだろう?
どうして食べちゃダメなんだろう?

京都の丸善、レジ前の話題書が集められている棚の前で、私はその文字列の不思議な魅力に引き寄せられた。
弁当を買うとなると唐揚げ弁当を選びがちな私にとって、一度見たら忘れられないタイトルだ。

おかげでその後、SNSで話題になっているのを見かけた時も「あの本だ」とすぐに分かった。そうこうしているうちに、たくさんの人がおすすめしている投稿に毎日のように出くわすようになり、まさにこのエッセイが話題書であったことを知ったのだ。丸善の言う通りだった。

それが去年の秋のことである。

そんな風に気になっていたこの本を、1年越しにようやく読んだ。
ようやくと言えども「人生うまくいかんなぁ」と、ちょっと立ち止まっている”今”の私が読んで正解だったと思う。

本にはそれぞれ、自分にとってベストなタイミングがある。


人生の緩急

生きていると何かといろんなイベントが起こる。環境の不可抗力で起こることも、自分の選択で起こすことも、予期せぬ原因で降りかかってくることも……。

このエッセイは読み始めて数ページで、「めちゃくちゃいろんなイベントが起こってるやん!」と著者の激動の日々に驚き笑いが出る。(人間、驚くと思わず笑っちゃうことってある。それです)

厳密な時系列は分からないにしても、本文からなんとなく察せられる著者の年齢を鑑みるに、そんなに長くないであろう期間にいろんな事――しかも結構なドラマが伴うような出来事が起こっている。
とにかく疾走感がすごい。

「ここで唐揚げ弁当を食べないでください」という貼り紙を発見してしまった著者が、弁当を手に咄嗟に駆け出した時のような(その姿は読んだ私の脳内で勝手に展開された想像でしかないけれど)(そしてきっと表紙に描かれているイラストの後ろ姿の印象に引っ張られている)、そういう疾走感。アバンからオープニング曲へ突入するような勢い。
序盤の印象はこれだった。

落とした唐揚げ弁当を拾い上げて、走った。逃げた。どうしよう。どうしよう。どうしよう。息は上がり、身体中の毛穴から汗が噴き出る。唐揚げ弁当を抱きしめて、表参道を遮二無二駆け抜ける。
 斯くして、私の東京生活が始まった。

「ここで唐揚げ弁当を食べないでください」p.9

しかし読み進めていくうちに、かといって著者は生き急いでいるわけでもないということに気付く。
著者は日々の「余白」に魅力を感じながら深夜の街を映画館を目指して歩いていたり、喫茶店でコーヒーとトーストをお供に買いたての本を「でれでれ」と読んだり、夜にブランコを漕いでストレスを解消したりしている。

深夜とは余白です。余白とはぼんやりです。余白の美しさ、素晴らしさをどうか手放さないで。深夜の映画館にはぼんやりしているものだけが手にできる、きらめきがあります。

「眠らない夜のきらめき」pp.62-63

この緩急が、自分にも心当たりのある人生そのものに思えた。
人生って、劇場版みたいな毎日が続いたかと思えば、ゆるい4コマ漫画のような凪の期間もあるものだ。
このエッセイにはその両方が詰まっていて、さらにどれも著者の魅力的な筆致に彩られているから面白い。
過度なポジティブさもなく、けれど淡々としすぎているわけでもなく、ちょうどよい温度感。劇場版の時も、4コマ漫画の時も、著者の語り口は軽快で清々しい。

こんなはずじゃなかったけれど、何度だってやりなおせるね。悲しいことばかりでもあるし、うれしいことばかりでもあるね、きっと一生。

「大人になって」p.36

この文章を読んだとき、”今”読んでよかったなという気持ちがじんわりと湧いた。


不思議な親近感

もうひとつ、本書の魅力は不思議な親近感だと思う。
著者の具体的な体験はどれも私の日々とは重ならないのに、読んでいる間は「分からんけど分かる」とページをめくり続けた。
もちろん、「分かる」もあるのだけれど。

人生に疲れるたび、「パンとか焼いて生きていきたい」と思っていました。パン屋さんの生活を想像すると、ふくふく豊かな気持ちになるんです。

「パンとか焼いて生きていきたい」p.71

例えば私にも「パンとか焼いて生きていきたい」がある。
「来世は言語学者になりたい」である。
(特に人文系の研究者として生きることのシビアさというものを近い距離で見てきたので「来世は」なんて予防線を張っているが、そこは許してほしい)

温泉行きたいと同じような感覚で私は「来世は言語学者になりたい」とよく言っているけれど、きっと私も実際の言語学の研究者を前にしたら口が裂けてもそんなことは言えないだろうなと思う。

読んでいる私とぴったりはまる共通点が無くても「分からんけど分かる」と思いながら、自分の日々に立ち返りたくなる。
それって素敵なエッセイの条件の一つなんじゃないかと思う。


人との関わりと、孤独

本書には著者が関わってきた、たくさんの人々が登場する。
職場の先輩、上司、友人、ルームメイト、恋人、家族。
著者によって語られる彼らは激しいドラマを生んだり(「兄はガニ股」などがそれだ)、永遠にキラキラと輝く思い出を残すちょっと切ない後味を生んだり(「幡ヶ谷の三人暮らし」のこと)する。

そんな多様な人々との交流のエピソードが並ぶのと同じくらい、ひとりで過ごしている時間にもスポットライトは当たる。
印象的なのは、著者が松屋で「東京の孤独」について思考しているエピソード。

孤独はおもしろい。なにを見て、なにを感じても、だれにも責められない。それがとてもおもしろい。

「黄昏時の松屋」p.69

この文章に垣間見える個と個の距離感が都会の孤独っぽくて、興味深かった。
それに同じ都会の中でも、顔馴染みの常連客だらけの店にひとりで入店したときには感じられない、チェーンの牛丼屋だからこそでもある。

世界が自分のことを放っておいてくれることで得られる安心というものはあるのだ。

私がひとりで旅行に行ったり、喫茶店を訪れたりすることでほっとする瞬間がある理由はこれなのかもしれないと、腑に落ちた文章でもあった。

社会に生きる以上は人とまったく関わらずに過ごすことは(よほどのことがない限り)不可能で、完全に孤立したいわけではない。自分の周りにいる人々を大切に想いながら、孤独も愛していきたい。
そんな欲張りを著者は上手に飼い慣らしているように思えて、私は羨ましいとも思った。

ほっといてもらいたい時があるのだ。ひとりになりたいわけではなく、誰かにほっといてもらうのがちょうど良い時があるのだ。

「日高屋ふらふら」p.154

母親のことを、父親のことを考える。どこかにいる兄のことを考える。地元の友だちのことを考える。あいつはいまどうしてるか、とかそういうことでなく、ただぼんやりとしあわせでいてほしいとかそういうことを思う。だれかのしあわせをねがうとき、私はしあわせなのだとおもう。

「日高屋ふらふら」p.155



かつて存在した日々

最後に私の日々に立ち返った話を少しだけさせてほしい。

昔勤めていた職場には、ロッカールームと倉庫を兼ねている小さな部屋があった。
そこは滅多なことがない限りは人が来ないという最強の場所で、ひとりになれる私の最高の逃げ場所でもあった。
飲食していいのか微妙なラインの場所だったのだけど(禁止とは言われなかったが……)、いつからか私は毎日そこで昼食を含め休憩を過ごし、立てこもっていた。

ご飯を終えると、パイプ椅子に座ったまま側にある縦長のロッカーにもたれかかり、ちょっと高いところにある窓からぼんやり空を眺めた。
鳶がゆったり飛んでいるのがよく見えて、いいなぁ、私も飛んできたいなぁ、早く仕事終わらんかなぁと考えていたことを思い出す。

私がその職場を辞めるまで、あの部屋に「ここで昼ご飯を食べないでください」という貼り紙が掲示されることはなかった。
昼ご飯を食べていたことは当然バレていたと思うので、見逃してくれていたのだろう。
おかげで私はスーパーで買ったおにぎりを片手に走り逃げる展開を迎えることはなく、あのロッカールームは私の「劇場版 人生」のアバンにはならなかった。
でも、心の拠り所として最後までずっと在ってくれた。

そういえば、かつてそんな毎日があったなぁ、と本書を読んで久しぶりに思い出した。
懐かしい。
今、私の代わりにあのロッカールームに立てこもっている人はいるのだろうか。
『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』は、そんな何年も前の些細な記憶を蘇らせてくれた。


参考:小原晩『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』(2024)実業之日本社

#読書の秋2025 #ここで唐揚げ弁当を食べないでください

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