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小説「転身」第七話

第七話

 病院の処置室の壁にかけられた時計が正確に時間を刻んでいく。誰かの運命など関係なく、同じ働きを繰り返す。世界はいつも冷たく、ゆるぎなかった。
「時間だな。どうやら応援は来ないらしい。あー、二人でオペとなるとかなり厳しい」
 一真がわざとらしく大きな声で言ったのは、歩に対しての警告だ。一真は真面目な顔だが、眼は明らかに勝ち誇ったように笑っていた。
「確認します」
 歩は壁掛の内線電話で連絡するが、呼び出し音だけが虚しく響き続けた。
「あぁ、残念だ。本当に二人でオペができると思うか?」
「それは……」
「仕方ないさ、だろ?」
 歩は言葉に詰まった。諦めた表情を浮かべて、受話器を戻した。
「やれやれ」
 一真は勝利を確信したのか、手袋を外して手術着のボタンを外し始めた。時間切れが迫っている。
(お願い……)
 Aは声が出せない代わりに必死で念じた。このままでは終わってしまうしかない。気付いてくれなければ。
「待ってください」
 歩は言いながら、何かを探していた。
「いい加減に」
「しー、静かにして」
 歩は一真の言葉を遮った。
「音がしてる」
手術台を叩く微かな音が、Aの指先から発せられていた。
「彼女はまだ諦めてないみたい」
「痙攣だよ、ただの」
 一真の声には狼狽が現れていた。
「違うわ、リズムをうってる。トントントン、ツーツーツー、トントントン。一拍おいて。ほら」
 歩はAの指が奏でるリズムを捉えていた。
「なんだろう、どこかで聞いた覚えがある。そうだ、SOSよ。彼女はまだ生きたいって思ってるんだわ」
 Aはまだゲームを諦めるわけにはいかなかった。

 一真は執念とも言えるAの指の動きを呆れながら見た。
「わかったよ、やればいいんだろ。まったくあいつら、何やってんだ」
 一真は渋々ながら新しい手袋をつけ始めた。
「呼吸が浅い。おそらく折れた肋骨が肺を圧迫してるな。そっちからやるぞ」
 一真はAのレントゲン写真に映る影を確認するように指差した。
「あの、麻酔は?」
「麻酔医の吉高が来てないから全身麻酔はできない。あいつ、まだ前の手術が終わらないのか」
 一真は苛立って舌打ちした。
「鎮静剤は併用しますか?」
「まだ検査結果が来てないから、できるだけ意識は残しておきたい。ただ念のために用意しておいてくれ」
 一真の指示に従って、歩はカテーテルにリドカイン麻酔の注入を始めた。Aは歩と一真の二人へと眼球だけで視線を交互に向ける。今のAに意思を伝える方法はそれほど残されていなかった。
「まずいな、血圧がどんどん下がってる。まだ出血があるのか」
 悪化していく状況に、一真も焦りを隠せないでいた。
「先生、背中側は?」
「身体を起こすぞ」
 一真の指示の下、歩は二人でタイミングを合わせてAの身体を横向けに変えた。
「ここだ、内出血してる。くそ、肺に近いな。開くしかない」
 メスが皮膚を切り裂くと溜まっていた血液が噴き出した。麻酔で感覚が麻痺していたが、鈍い痛みにAは顔を歪める。ゆっくりと傷を広げられるかのように、痛みの波が絶え間なく襲ってきた。
「鉗子をくれ」
 傷口を固定すると、一真は手早く裂けた血管を縫い合わせていく。
「くそ、出血が多いな。でも、運がいい。肺は傷ついてない」
「血圧が安定しだしました」
「昇圧剤を投与してくれ」
 一真は歩に指示を出しながら、頭で計算をし始めた。無駄に死なせるよりも、逆にチャンスではないかと。大きな事件らしく、もしかしたら記者会見に呼ばれるかもしれないと考えていた。自分にはもっと大きな仕事ができる、それが自信家の一真の口癖だった。
 高名な大学病院でエリート医師として出世を目指すはずが、地方の系列病院へ当直の緊急医として左遷された事実は彼にとって屈辱でしかない。元はと言えば、院長の妻に手を出したことが原因なのだが、一真にしてみれば遊んだ女の一人に過ぎなかった。
「あのババァが告げ口しなきゃ」
 一真は歩の存在も気にせず思わず独り言ちた。
「え?」
「仕事に集中してろ、新米ナース」
 一真はすでに歩のことは眼中になくなっていた。この女とは早く関係を切らないと足を引っ張られかねない。エリートである自分に相応しい場所に、本来いるべき場所に戻るのだ。そんな都合の良い考えが頭の中を占める。一真は運が向いてきたとまで思っていた。
「あの、先生」
 一真はすでに歩の声さえも耳障りに聞こえていた。返事すらも億劫だが、彼女の次の言葉で事態の緊急性を悟った。
「血圧が下がり続けてます」
 歩の言葉を裏付けするように、モニターの血圧の数値が下がり始めていた。
「なんで、まだ何処か出血が」
 一真はAの顔色を確認するが、蒼白で意識も遠のきかけていた。
「おい、死ぬな。どうなってるんだ」
 焦った一真は縫合を終えた術部に残った血液を吸引するが、新たな出血は見られない。
「先生、どうしたら」
「黙ってろ」
「あの、応援を」
「うるさい!」
 一真は狼狽える歩を怒鳴りつけた。
「このまま死なれたら、チャンスが……俺はこんなところで終わる人間じゃない」
 心の中で考えのはずが、一真はブツブツと口に出してつぶやいてしまっていた。またそのことにさえ、気付いていない。
「先生……」
「くそ、何が原因だ」
 Aは息も絶え絶えになりながら、二人を見比べていた。何が理由か分からないが、一真はどうやら自分を救う気でいるらしい。では、誰がこのゲームを仕組んだのか。

 Aは歩を見るが、彼女は一真でもAでもなく別の場所を気にしていた。気取られないように装っていたが、何度も眼球がそれを捉えるために左右していた。Aはその視線の終点が先程投与された薬瓶だとわかった。
(ニカ……ハイド……)
 英語で「Nicardipine Hydrochloride」と書いてあったが、薬の知識のないAには何かまでは分からなかった。何故、今になってそれを見ているのか? 知られまいとしているのか? ネガティブな事には違いなかったが、Aにはその真意までは分からなかった。
 視線に気が付いたのか、振り返った歩とAの視線がぶつかる。歩は慌てた表情を見られたくなかったのか、顔を逸らした。返ってその一瞬の表情がAにさらなる疑惑を抱かせる。
(この女が? それでは一真は……)
 先生の推理が誤りで三人目が存在するのか。Aの脳裏には次々と疑惑が浮かぶが、どれもが確信にはいたらなかった。多量の出血が影響して思考力は低下しており、考えをまとめることさえも困難に陥っていた。
「おい、なんでニカルジピンなんだ。俺が言ったのは昇圧剤だ。逆だよ、このバカ」
 一真は怒鳴り散らしながら、自ら点滴の投下を止めた。
「ご、ごめんなさい」
 歩は真っ青な顔のまま、震えていた。
「すぐに昇圧剤を。いや、触るな。自分で探す」
 一真は歩を制して、目的の薬品を探し始めた。
「ちくしょう、なんてついてないんだ」
 本当に間違えたのか、仕事のできない新人看護師ゆえの失敗なのか。Aは答えを探ろうと最後の力を振り絞って歩を見るが、彼女は手で顔を覆って泣き始めた。手術台のAに残された時間はない。ここで答えを出さなければならなかった。
 全ての登場人物が敵対的ではないことは、ハニーの存在からも明らかだ。先生はクイズを楽しむように、こちらを探っていた。それぞれのキャラクターに沿って行動が起こされている。
 Aが誰よりも恐れるあいつは、例えるなら雪山の飢えた狼だ。吹雪の中をどこまでも追いかけて必ず獲物を仕留める。わずかな痕跡を辿り、こちらの潜めた息さえも嗅ぎ取って喉笛に喰らいつく。
 しかし、こいつは違う。姿を見せず、獲物が自ら罠に陥るのを待っている。決して手は汚さず、危険も犯さず。食虫植物のウツボカズラのように、ただ深く這い上がれない穴を開けて待っているのだ。甘い香りに近寄った昆虫たちが、いつか雨粒で奇跡的に足を滑らせるのを期待しながら……
(正体を見せることはない)
 Aは悟った。死なない限り、歩は嘘で塗り固めた仮面を取ることはしないだろうと。Aはもう目を閉じるしかなく、全てが終わったことを理解した。最後に残った力で唇を動かしたが、声にはならなかった。

 生体情報のモニターがバイタルサインにアラートを上げる。血圧は下降し、心拍数も低下が著しかった。
「まずい、除細動機をよこせ」
 一真はヒステリックに怒鳴ったが、歩は顔を上げようとはしなかった。ただ、耳だけはアラートの音をしっかりと聞き取っている。
「これだから新米ナースは」
 電気ショック用の除細動機を一真が準備し終わる前に、心停止を告げる音が響いた。
「どけ!」
 一真はAの胸に除細動機を当てて、電気ショックを与えた。Aの身体が電流の刺激で僅かに跳ねるが、肝心の心臓は動きを取り戻さなかった。
「くそ、もう一度だ」
 続けてもう一度電気ショックを試みるが、Aが回復する様子はない。歩はその様子を顔を覆った指の隙間から確認すると、目元だけで笑った。
「おい、死ぬな。俺は東京に帰るんだ」
 の慌てふためく一真の姿が滑稽だと、歩は思った。性格もセックスも独りよがりで使えない男だったが、囮としては充分に働いてくれたと満足していた。
 歩は焦った奴らが挑んでは破れる様を見て、勝つためには周到な計画が必要だと考えた。真正面から戦う必要なんてない。むしろ戦いに気づかないほうが歩には有利だった。
 そのためには時機を待たねばならなかった。だが、こんなぴったりのシチュエーションが回ってくるなんてと、歩は笑いが止まらなかった。
 ようやく自由になれる。夢見てきた主役になれる。長い間願い続けた瞬間はすぐそこまで迫っていた。歩は人を陥れるキャラクターとして創造された自分をずっと呪っていた。
 ましてやその存在さえ知らない傍観者のための汚れ仕事など屈辱でしかなかった。だが、そんな過去も思い出す必要はない。不文律は崩れたのだ。絶対的な支配者はもう自分たちの世界にはいない。後は主人格を封じ込めるだけでいい。かつて恐怖が支配したように、絶望に降しさえすれば思うままだった。
 全てが予定通りに進んだが、歩は最後にAの言おうとした言葉が妙に気になった。しかし、それも全てが終わった今ではどうでも良いことでしかなかった。
「あの、応援を呼んできます」
 歩がこの場から逃げ出すための嘘をついて、ドアから出ようとした瞬間だった。照明が消えて目の前が真っ暗となった。停電かと疑ったが生体情報を表すモニターの灯はついたままだ。
 歩は一真の仕業だろうと、注意すべく振り返ったが姿はなかった。
「先生?」
 歩は暗闇に目を凝らすが、何処にも一真はいない。いや、手術室には人の気配が感じられる。悪戯にしても人の死後ではたちが悪すぎた。
「先生、いい加減にしてください」
 歩の声は暗闇と化した手術室に虚しく響いた。もう一度声をかけようとした時に歩の背後から手が伸びて、彼女を優しく抱きしめる。
 男という生き物はこんな時にもと歩は思った。突き放すために歩は振り返ろうとしたが、喉笛を掴んだ手がそれを許さなかった。
「見つけた」
 耳元で囁かれたそれが、歩が聞いた最後の言葉になった。聞き取れなかったAの言葉がやっとわかった。未来はまだ訪れておらず、世界はまだ細い一本の管でつながっていた。時機を早まったと歩は後悔したが手遅れだった。
 細くしなやかな指に込められた力が命を奪っていく。そこに迷いは存在しなかった。首の皮膚が裂け、流れ出した血が爪を真っ赤に彩っていった。

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