小説「転身」第九話
第九話
まるで太陽を忘れたかのように、重い雲が空を覆っている。女は天から降り注ぐ雨に気づいて顔を上げ、立ったまま雨に打たれた。あの日のことを思い出し、悪意のある微笑みを浮かべる。塞がった傷口を指でなぞり、準備が整ったことを確認した。
「さぁ、始めよう」
女は誰かに聞かせるようにゆっくりと呟いた。
女は男のことを調べ始めたが、近づくのは容易ではなかった。男は目が見えないせいなのか、誰よりも気配に敏感であった。一度、後をつけたが男は忽然と姿を消した。数十メートル先からも気配を感じられるように見える。
女は方法を変えた。尾行はやめて、小型GPSを傘に仕込んで家の前に返したのだった。GPSで増えた重さだけ傘の柄を削ったが、それでも男は気づく可能性がある。しかし、気づいても持って歩く確信が女にはあった。
マンションの玄関外に傘を置こうとした時、女は男が扉一枚隔てたところに立っているのを感じた。おそらく女の足音を覚えているに違いない。お互いに誰かを理解するのに言葉は不要だった。女は声をかけずに黙って立ち去った。
例年になく雨の多い梅雨となったおかげで、男の行動確認は容易だった。男は時計のように規則正しく同じ時間に家を出て、同じ時間に家に帰ってきた。歩くルートもまったく同じであり、寄り道をすることさえなかった。
女は男の会社が二つほど先の駅にあることを掴んだ。立地は歩いて五分の駅前と言えるが、ターミナル駅の一つ手前のせいか華やかというにはお世辞が過ぎた。
不景気のせいか十階建のビルには空きが目立っており、主にオーナーらしき企業が入っているばかりだ。男の会社もその一つであるようで、確かにお金には不自由してはいなさそうに見えた。
「不動産、建設、街金……地方の暴力団関連。もしくは企業舎弟」
女は入居している企業を見て、呟いた。何日か観察を続けると面白いこともわかってくる。昼間はサラリーマンらしき男や女が多いが、人気の少ない夜には堅気には見えない人間が出入りしていた。
女は確認のために、その中の一人を捕まえてみることにした。標的にしたのは居なくなっても不自然さがない人間。組織の純粋な構成員ではなく、金やクスリにだらし無さが見て取れるチンピラ。幸いにも人の出入りは盛んで、対象を見つけるのに時間はかからなかった。
「クスリを買いたい」
女が相場より高い値で声をかけると、チンピラは疑いもせずについてきた。女は隙を見てチンピラを建物の陰に引き込むと、容赦なく腹に一撃を叩きこんだ。
「弱いな。どうにも手加減が難しい」
チンピラは嘔吐まみれになりながら、地面にはいつくばった。あまりの弱さに女は処分する気が失せてしまうほどだった。
「た、助けて」
這いつくばっているチンピラの名は武本と言った。見立て通りに盃も交わしておらず、組織の末端でクスリの売人をしていた。とりあえずの情報源としては充分だと、女は思った。
「簡単に口を割りすぎ。我慢がない。才能もない。腕力もない」
女は途中で呆れて、喋ることをやめた。
「こんなことしてただで済むと思うなよ。うちの組はなぁ、泣く子も黙る東和会系の」
女は武本が喋り終える前に頭を踏みつけ、口を閉じさせた。
「東和会? あぁ、侠仁組のところか」
女は武本の言葉で先日の武闘派ヤクザを思い出した。
侠仁組は関東最強と謳っていたが、東和会のナンバー3で一番の実力者と言われた組長は、女の足に縋り付いてみっともないほどに命乞いをしてきた。
どれほど屈強な鎧を着飾ろうとも、女から見れば人間は水とタンパク質と脂でしかない。引き裂き、壊すものであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
男と出会う前はそうとしか考えなかった。先生あたりなら、人間は類似性を好む傾向があるなどと言うに違いない。そう考えて、女は珍しく笑みを浮かべた。自分以外の誰かの言葉を気にしたことがなかったからだ。
(まずいな、近づいているのか)
女は休眠の周期が近づいている可能性を考えた。女は数ヶ月に一度、ブラックアウトを起こして強制的に意識が眠った状態となる。主な原因は異常なまでの身体能力の酷使であり、強い力ゆえの代償だった。
休眠期間は数日の時もあれば、数年に及ぶ時もあった。今回は傷の回復に費やしたエネルギーが大きかった。
「面白いものが見れそうな時に」
女は珍しく感情を口にした。休眠中もレム睡眠のように意識の一部はあるが、身体のコントロールはできない。別の人格が動かしているのを黙って見ているしかなかった。
女の中に同居する人格は二十を超えていたが、認識できているのは半分ほどだ。女がいる間は主人格でさえ姿を見せないのだから、当然かもしれない。当てにもできないが、誰ならこの状況に対応できるだろと考えを巡らせた。
(先生、花、隠者……)
思い浮かべたものの、選択できるわけでもなかった。またその行為にもさほど意味はない。
「さて、これをどうするか」
女は武本を見下ろして、処理を考えた。武本は失禁し、身体を震わせて逃げようのない罰を待っていた。
「いつでも待っていろ。時と場所を問わずだ」
女がそう伝えて足の力を緩めても、武本は動かなかった。恐怖が身体に根を下ろし、逃れることができなかったからだ。女はゆっくりした足取りで、その場を離れた。
「忘れていた」
そう言って振り返った女の視線がAを捉えた。実際に誰かがいるわけでもない、何もない場所を女は見つめているに過ぎない。しかし、Aは射抜かれたように動けなかった。
「傍観者、お前だ。何もしない。いや、何もできないお前もいたな」
女は視線を戻すと、そのまま闇に姿を溶け込ませてAの前から消えた。
Aは改めて自分の立ち位置を思い知った。あの化け物にとっては、道端に落ちた空き缶と代わりなく、その存在すらも忘れてしまう程度だった。
頬を伝って落ちた涙が服を濡らした。怖れや否定された悲しみからくるものではなかった。存在を認められない世界に縋り付くしかない、自らの哀れさへの訣別だった。
物語はさらに数日進み、悲劇の始まりとなる深夜を迎えた。最初は雑居ビルの地下で小さな火が揺らめいた。場所はボイラー室の隣に置かれた倉庫だ。時限性の簡易な発火装置が生み出したその火は、瞬時に床に巻かれていたガソリンに引火して炎となった。荒れ狂う火の光は壁に大きな影を作る、あたかも死神の姿が具現化されたかのように。
計画は少しの乱れもなく、整然と列をなして進んでいった。ドアには人の手によって目張りがされており、閉め切られた室内の酸素は急激に下がって大量の一酸化炭素が発生した。
後の現場検証で判明したことだが、天井の一部は人為的に剥がされていた。セントラル空調の配管が剥き出しとなり、本来はあるはずのない吸気口までが配管に設てあった。
それが空気よりも軽い一酸化炭素を雑居ビル内に効率的に充満させ、多くの人間の命を奪う成果を果たした。色も匂いない死神は、無防備な人々を易々とその手中に収めたのだ。
「犯人は人間じゃない。これは周到に計画された惨殺です!」
連日のワイドショーでは専門家が悲痛な顔でそう嘆いた。犯人は全て計算の上で行ったに違いないと語っていた。
現場検証が進んで証拠があがると、その残忍さが白日のもとに晒される。火災は廊下に設置されていたスプリンクラーによって、倉庫から外部への延焼を食い止めて鎮火していた。犯人は自らを危険に晒すことなく悠々と逃走したに違いないと、人々はこぞって自分たちの考察を披露しあった。
しかし、その推理は少し違っていた。事実は小説より奇なりと言うが、犯人にはそうせざるを得ない理由があったからだ。犯人は盲目のあの男であり、ある人物を殺すためにどうしても確実な方法を取る必要があった。
そのために何人が犠牲になっても気にはならなかった。ましてや、相手が社会の理の外にいる人間であればなおさらだ。
盲目の男は死体を確認するため、地下一階にある違法カジノのドアにゆっくりと手をかけた。重さに軋みながらドアが開くと、黒煙を含んだ空気は先を争うように一斉に外へ吐き出された。
室内にはまだ一酸化炭素が充満している可能性があり、男は濡らしたタオルを口に当て姿勢を低くして中へと入った。目的の部屋の位置は記憶していたが、有象無象に床に転がる死体たちは男が進むことを困難にした。
(想定よりも人数が多い。あと一時間遅らせたほうがよかったな)
男は計画の詰めの甘さを思った。仕方なく壁に手をつけながら進み、屍は踏み越えた。時折、うめき声も聞こえたが、男にとっては小さな問題でしかない。
目的の部屋の前まで来ると、男はドアに耳をつけて中の音を聞いた。ドアの材質は思っていた以上に厚みがあり、防音仕様のせいで数百メートル離れた物音さえ聞き分ける男の能力を持ってしても確認が出来なかった。
こういった事態も予想はしていたが、リスクは格段に上がったと言えた。全ては中にいる者を殺すためであったが、相手は狙われ続ける生き方ゆえに、異様なまでの用心深さを身につけている。この静寂が何を意味するのか。
(わずかな失敗が影響したな)
男は冷静に状況を分析した。だが、次のチャンスはなく、後戻りも出来ない。男は手にした合鍵でドアを開けた。わずかな隙間から漏れ出るものに聞き耳をたてるが、静寂が確認できるのみだった。
瀕死の相手を確実に仕留めるために用意したナイフが小さく感じられた。武器と呼ぶには心許ない。
室内へと一歩踏み出した男の足が正確に狙われた。短い銃声と同時に放たれた弾丸が、ふくらはぎを貫通する。相手から行動力を奪うための攻撃だった。
転倒した男に向かって、部屋の奥からくもぐった低い声がかけられた。
「とうとうお前も俺を殺りに来たか。やはり母親と同じ血が流れてるな。俺は成長した息子を喜ぶべきか」
ガスマスクをつけた影がゆらりと立ち上がる。
「そんなにまでして生きたいんだ。安藤さん」
男は父親と呼ばずに、敢えて苗字を口に出した。
「何不自由なく与えてやった。組の跡目を継げないお前への憐れみだ。父親として当然の行為だろ」
安藤は傷ついたことを示すように、わざとらしい大きなため息を吐いた。
「おもちゃに反撃されて、プライドが傷ついたってこと?」
男の言葉に安藤は頭を振った。
「いや、惜しいと思ったのさ。俺の命を狙いにくるような男でなきゃ、代紋は任せられん。だが、お前は片端者だ」
男は思い出した、安藤を殺す理由を。最初は母親の仇打ちであり、同じ血が流れていることへの憎悪だった。
しかし、そのどれも動機とはほど遠かった。真実は自身に向けられるこの憐れみだ。どれだけ努力しようが、結果を出そうが籠の鳥としてしか見られない。そんな父親を乗り越えるために必要な行為だった。
「簡単には殺さん。次は右手、左足。一つずつだ。順番にお前が悲鳴を上げるまでは、ゆっくりな」
安藤は銃を構えると引き金を引いた。言葉通りに右手の甲を打ち抜く。だが、男は言葉一つどころか、表情も変えなかった。
「眉ひとつ動かさんか。どこまで耐えられるか、見ものだ。心配するな、お前の母親も最後には殺してくれと懇願した」
絶望的な状況だったが、まだチャンスはあると男は考えていた。左手にはナイフがある。何よりまだ死んだわけでもない。
「その小さなナイフがお前にはお似合いだ。俺には届かん刃を後生大事にしてるがいい」
安藤に意図は見抜かれていた。容易には近づいてこないと男は悟った。
「余裕を見せずにさっさとやることだ。映画ではお前のような奴ほど先に殺される」
部屋の奥から響く女の声に驚いて、安藤は視線を向けた。
女は暗闇から靴音を立てながら歩き、開け放たれたドアから差し込む照明が当たる場所へと姿を見せた。一酸化炭素の濃度はまだ高いはずだが、女はマスクもせず悠然と歩いていた。
「お前……うちの弟分を襲ったやつだな。どこに雇われた?」
安藤は女の顔に見覚えがあったと言うよりも、その破壊の痕跡を忘れられないでいた。侠仁組の隠れ家はまるで重機で無理矢理に破壊されたかのようだった。証拠の防犯カメラ映像がなければ、安藤も一人の女がやったとは信じられなかった。
「次は俺って訳か」
安藤は銃で女の眉間に狙いをつけた。
「言ったろう、さっさと殺れと」
女は安藤に蔑んだ視線を向ける。それは獲物として物足りないことを伝えるに充分だった。
「なめやがって!」
恐れ慄かれるはずの存在であることを否定される。それはこの世界に生きる人間のメンツの問題でもあった。安藤は怒りを隠すことなく引き金を引いた。
至近距離のため、銃声よりも早く、女の顔が弾かれる。
「ふん、馬鹿な女だ」
安藤が言い終わる前に、女は退けぞった状態のまま笑い声を上げた。
「ば、化け物が!」
「力のない者は勘違いする。自分の手にある刀が、銃があれば誰かを殺せると」
女は身体を起こすと、指に摘んだ銃弾を安藤の前に突き出した。
「だが、違う。殺すのはここだ」
女は頭を指差した。
「意志こそが武器であり、破壊を生み出す源泉。それが分からないお前に、私を殺すことは不可能だ」
「こ、この」
安藤の放った言葉は最早悲鳴に近かった。無我夢中で引いた引き金は、次々に銃弾を繰り出したが女の身体に擦りさえしなかった。
「そんなものがあっては見えんだろ。ほら、狙いをつけやすくしてやる」
そう言った女の手には、安藤のガスマスクがあった。
「ひっ!」
安藤の無意識に吸い込んだ呼吸が、一酸化炭素を大量に肺へ送り込んだ。見る間に呼吸困難となり、喉を抑えてのたうち回った。
「楽にしてやったらどうだ?」
女の言葉に、男は頭を振った。
「そんな優しさは必要ない」
男が悔しげな顔をしたことを、女は見逃さなかった。
「殺してはないぞ」
「……何故、ここに?」
「面白いものが見れる気がした」
女の言葉には微塵の同情もなかった。
「まぁ、いいさ。目的は果たした」
男は身体をゆっくりと横たえる。意に沿わない結果にせよ、目的は果たせた。このまま死を迎えることは最初からの計画通りとも言えた。
「つまらない選択だな。踏み潰してやりたいが、こっちも電池切れだ」
女は男の意志を無視して、一方的に告げた。
「待ってくれ」
「悪いがしばらく眠る。助けられるのはお前だけだ」
女はそう言うと自分勝手に意識を失った。
「おい」
男に揺さぶられて、目覚めたのはAだった。
「私は……」
Aは言いかけて途中で咳き込んだ。Aに女のように肉体をコントロールするような特別な力はない。瞬く間に身体は一酸化炭素という猛毒に侵され、思うように動かすことさえ困難な状態に陥った。
「初めましてと言うべきかな。それもここを脱出できての話だね」
Aは男の差し伸べた手を取った。満身創痍の二人は互いに支え合いながら、ただ生き抜くために歩くしかなかった。
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