終戦記念日は、私にとって先祖を祭る日である(耳ビジnote部)
毎年、終戦記念日になると決まって思い出すことがある。戦争体験ではない。褒められた話でもない十代の記憶と、そこに重なる祖母の話である。
実は私は、中学校を留年している。理由は本稿では述べない。学校のトラブルに巻き込まれ、留年を余儀なくされたとだけ書いておく。
※知りたい方はこちらを参照ください。
高校へは一年遅れて入学した。世間でいう有名校だったので、両親はたいそう喜んだ。一年の回り道が報われたと思ったのだろう。ところが、その反動が出た。
14時開店のディスコ
毎日のように、新宿のディスコに入り浸るようになった。実家は中野坂上である。新宿までは歩いて行けた。
当時のディスコは14時開店だった。1000円でフリーフード、フリードリンク。喫茶店に入るより安い。ホールは大きく、各地域の高校生グループがひしめき合っていた。
私は当時から身長が180センチあった。流行りのDCブランドを買い込んでは身にまとい、薄暗いフロアのなかで、自分がモテることにはじめて気がついた。はじめて彼女ができたのも、このころである。彼女は年上で、すでに働いていた。高校生の私が借りられる部屋は、上野にしか見つからなかった。
そのまま学校に行かなくなり、中退寸前まで追い込まれた。やがて父に居場所が知れる。叱責を覚悟した。しかし両親は怒らなかった。ひとことも責められなかったことのほうが、はるかに応えた。
財布は3日で消えた
当時のディスコのお約束は、他グループとの乱闘である。私のグループは近隣では人数が多く、負けることはなかった。
私自身が手を出したことはない。ただ、先輩から戦利品の財布をもらい、喜んで全財産を移し替えたことがある。いま思えば、受け取った時点で同罪である。
3日後、その財布を紛失した。バイト代を含めた全財産が入っていた。似たようなことは、その後も何度もあった。偶然かもしれない。ただ、何度も続けば、そうは思えなくなる。楽をしたり、人のものを掠めたりすると、必ず何倍ものしっぺ返しがくる。私の人生の帳尻は、いつもそうやって合わされてきた。
池上本門寺の住職に叱られた
いま思えば、当時の私は死者というものを、まったく軽んじていた。
肝試しで、ホテルの廃墟を訪れたことがある。若さというのは度し難いもので、私たちはその廃墟のなかで鬼ごっこまでして帰った。翌日、一緒に行った一人がバイクで事故を起こした。その翌日、もう一人が事故った。
そのあと、当時の彼女と友人とで冬休みに旅行に出かけた。部屋でたくさん写真を撮った。現像すると、半分ほどの写真に、人とは思えないものが写り込んでいるように見えた。
さすがにまずいと思った。伝手をたどり、日蓮宗の大本山・池上本門寺の住職を紹介してもらった。事情を話すと、まず叱られた。
「霊がいるかいないかはわからないし、そのことを話すつもりもない。しかし、もし君がそのような霊の立場だったとしよう。遊びに来た不謹慎な連中がいたら、呪いたくならないか」
そして、こう続けた。
「今後もそのような場所に行くなら、いますぐに帰ってくれ。二度と行かないと約束するなら、祈祷をしよう」
祈祷は、私と友人が一緒に受けた。読まれたのは、法華経の陀羅尼品(だらにほん)である。問題の写真とネガも、あわせて祈祷していただいた。読経のあいだ、涙が止まらなかった。
心に残っているのは、心霊現象そのものではない。あの住職が最後まで「霊はいる」と言わなかったことである。いるかいないかは語らず、ただ、死者の側に立ってみろと言われた。信仰とは人を脅すものではないのだと、そのとき知った。それ以来、テレビの肝試し番組さえ見ないようにしている。
祖母は、群馬の疎開先で亡くなっていた
死者の側に立て——その言葉の本当の意味を知るのは、数年後である。
私の祖母は後妻だった。血はつながっていないが、父はずいぶん可愛がってもらったらしい。そして戦時中、群馬の疎開先で亡くなっている。戦火にではなく、戦争の時代に、静かに。
そのことを知らされたのは、大学1年のときである。しかも、どこに埋葬されたのかもわからないという。
それはよくない、と思った。群馬県庁に足を運び、役所の方にも手伝ってもらいながら探した。埋葬先は判明した。上野にある、ある寺院だった。あまりに年月が経ちすぎ、引き取り手のない無縁様として葬られていた。それでも、祖母は間違いなくそこにいた。
驚いたのは、その場所である。上野のあの部屋から、100メートルほどしか離れていなかった。
思い当たることがあった。仲間たちは、その寺院の前を通るのを嫌がっていたのである。薄気味悪い、と口を揃えた。私だけは、何度その前を通っても、まったく怖さを感じなかった。
住職に当時の話をすると、こう言われた。
「おばあさんは心配で、あなたを近くに置いていたのでしょう」
1600グラムで生まれた
そういえば私は、生まれたときから運が強かった。
超未熟児で生まれている。1600グラムだった。両親は「覚悟をしてくれ」と言われたという。保育器の精度も悪く、未熟児網膜症が多発した時代である。小児喘息で小学校時代は苦しんだが、その後は寛解し、中学3年で180センチになった。
死ぬはずだった子どもが、そうはならなかった。祖母は、疎開先で亡くなった。私は、死ぬはずのところを生き延びた。同じ家系のなかで、生と死がすれ違ったように思うことがある。私が遊び呆けていられたのは、その順番がたまたまそうなっていたからにすぎない。
私にとっての終戦記念日
祖母は、戦争で亡くなった一人である。空襲でも戦地でもない。疎開先で息を引き取り、身元も引き取り手もわからぬまま、無縁様として葬られた。そういう死に方をした人は、この国に数えきれないほどいる。名前を呼ばれることのない死者たちである。
終戦記念日は、お盆の時期と重なっている。だから私にとってのこの日は、平和への祈りとともに、ご先祖様を思い出し、祭る日である。
今年もすでに、お参りに行ってきた。生きている限り、年に数回のお参りと法要は欠かさないつもりでいる。呼ぶのは、祖母の名だけではない。私に連なるご先祖様のすべてである。ただ、手を合わせていると、真っ先に浮かぶのはやはり、あの上野の寺である。
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