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考えすぎる人間は犬を飼えない

私は人生を条件式で考えすぎる。
一見するとそんな性格には見えないらしいが、私には「ちゃんとしなければ」という呪いでどうにもこうにも動けなくなることがある。ある程度、先のことを考え、見通しを立てて行動しなければいけない、だから行動に移すまでに大層時間がかかる。

今日は最近起こった話をしたいと思う。
あの日は、野暮用があり役場へ足を運んだ。役場のロビー付近には「譲ります・欲しいです」という掲示板があり、毎度小さな発見や驚きがあるので、この掲示板の前は必ず通るようにしている。その日目を引いたのは一件の「譲ります」だった。

【譲りたい動物の伝言票】
種類:犬、豆柴
性別:メス
生年月日:R3.3.3
名前:こうめちゃん
飼い主の氏名と電話番号
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夏から何年か預かっていただける方を探しています。

この票をパチリと写真におさめ、すぐさま夫へLINEした。こんな日に限ってスマホをチェックできないくらい忙しいらしい。

自分の人生ははっきり言って停滞気味だった。仕事を休むことになって半年、来月から徐々に復帰することが決まってはいたが、もし8月から新しい家族を迎えることができたら、人生が少しだけ前に進むんじゃないかという淡い期待があった。
いっそ電話してしまおうか、「もう決まっちゃったんです」それならそれで諦めがつく。

うちの夫婦は、主に私に原因があり子供を持つのが難しい。妹一家が保護犬を家族に迎え入れた経緯があり、我が家も保護犬団体に問い合わせをしたことがあった。住環境(ペット可か)、働き方(在宅ワークの勧め)、将来生まれた子供にアレルギーがあったらどうするか、など保護犬譲渡の条件を丁寧に教えてくれた団体があり、これを受けて我が家ではゆっくり時間をかけながら、迎え入れる準備をしようと夫婦で話し合った。これが半年前の話。

そうは言っても、具体的に床にクッションフロア張らなきゃね、ここの段差危ないね、みたいな行動には移されず、なんとなく時間だけが過ぎてしまっていたことに焦りがないわけではなかった。もし仮にこうめちゃんを迎え入れるなら、3ヶ月というカウントダウンは妥当なように感じていた。

この時の私の頭の中で、唯一、引っ掛かりがあるとすれば枠外に書かれた「何年か預かっていただける方を希望しています。」の一言だった。
帰宅した夫の第一声は「お別れすることが決まってるなんて寂しい」だった。私はこの夫のこういうところが好きだ。
とりあえず電話で事情を聞いてみて、判断はそれからにしようと、私は電話をかけるところまで夫を丸め込んだ。まず2人で質問リストを作り、それから飼い主の氏名をGoogle検索した。

電話をかけると4コール目に繋がった。まだ譲り先は見つかっていないようだった。
どういう経緯で、この掲示を出したか聞いた。なんでも仕事の都合で一家で渡米するという。夫が横から差し出すメモを読み上げた。「帰国後はどうなりますか?」「そのまま引き取ってもらうか、一家のところに戻るか、相談・交渉・状況次第だと思います。」
ある程度話したところで、「家族とよく話し合い、エントリー(手を挙げるか)決めたいと思います」と伝え、その日は電話を切った。

夫は連休明け労働の疲れに耐えきれず、寝室にスーッと消えていった。
私は掲示板の写真を見返した。こうめちゃんは、家族からの愛情を一身に受けた甘えん坊の目をしていた。
その後、夕食前にのっそりと起きてきた夫と相談し、愛犬家の妹の意見も聞くことにした。
「赴任期間だけ、預けるだけと言って体よく捨てるつもりかも」
「5歳という年齢的に病気がわかったのかも」
「そもそも家族で帯同するのに犬だけ置いていくなんてありえない」
「渡米ってこと自体、本当か怪しいよ」
憤りのこもった声で、この飼い主への批判と、私たちへの厳しい忠告が飛んできた。
それらを受け取ったり、受け取らなかったりしながら、私はぼんやり考え始めた。
Googleによればこの飼い主は市内の大学で教鞭をとっているようだった。
未来を担う若者と向き合う【ちゃんとした】職業の人が、いちばん近くて小さな命を軽んじている(ように見える)ことが少なからずショックだったのかもしれない。教壇を降りたあとも、同じように誠実であってほしいという身勝手な期待を、自分の中に見つけてしまった。


18歳まで、私は医師を志していたのだ。

初めに断っておくと、医師になるだけの勤勉さが圧倒的に足りなかった。これは当時期待をかけてくれていた両親や祖父母に謝らなければいけないことだ。

命を強く意識した時の話をさせてほしい。

それは一匹の小さなハツカネズミだった。
春休み中の気のたるんだ高校生を対象に地元の国立大学で、1週間ほどかけて行われた公開講座。ウニの卵子に磯臭い精子をかけて、できた幼生を顕微鏡で覗くところから始まり、最終日にはマウスを人工授精させるという内容だった。
前日にシャーレの中で受精させた卵を、メスのマウスの子宮に移植するのだが、体の小さなラットへの麻酔は加減が難しいらしく、私のマウスは移植中に目を覚ましてしまった。女子高生による「開腹手術」の最中なので、当然のことながら、マウスは大パニック。受精卵そっちのけで慌てて縫合するのだけど、手の震えは止まらなくて、助手の人に手伝ってもらいながら、どんどん冷たくなるハツカネズミに私の血の気も引いた。その後しばらく鶏肉の匂いが受け付けなかった。

自分の手の中で冷たくなっていく命を決して見捨てるものか。そっと心に誓った16歳の春だった。
(翌日、稲藁の中で温められて回復したネズミをみて安堵から涙を流した)

言い訳は色々できるけど、履歴書を通して見える私は【ちゃんと】していない。
人の揚げ足を取るわけじゃないけど、夫婦がいて、その間に子供がいることが自然だと感じる価値観の人からすると、私たち夫婦は【ちゃんと】していない。
仕事、生活基盤、将来設計、(保護犬の譲渡条件で言うと、留守番時間、子供の予定)など、私は【ちゃんと】したいと思って生きてきたけれど、【ちゃんと】している側には入れなかった。

私は「ちゃんとしてからでないと命を迎えてはいけない」と思っている節がある。
【ちゃんと】していなければ【命に誠実】でいられないのか?
【ちゃんとしている】からと言って【命に誠実】とは限らないよな。

けれど、どっちがPでどっちがQだとか、必要条件だとか十分条件だとか、
人の人生ってそんなに整ってから始まるものでもないらしい。

「お世話になります。古田です。先日はお電話でお話を聞かせていただき、ありがとうございました。家族で相談した結果、今回は見送らせていただくことにいたしました。こうめちゃんに素敵なご縁が見つかりますように。」

追伸:私は、それなりに。

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