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塵と十字架(7)

 

二 中国 ビースト

 目の前に走ったのは閃光だった。血の色が混じった鋭い光。彼にとってそれは実に見慣れた色彩であった。
 
 すぐ手前で女の悲鳴が。
「何するの、放して!」
 金切り声に近い。ちょうど彼の前で、女が両腕を振り回している。つかまれた腕を振り解こうとしているのだ。
「あなた知ってる! ニュースで見たわ。インターポール(国際刑事機構)から国際指名手配を受けて……」
 言葉は最後は悲鳴に消える。白衣の男の腕が振り上がったのだ。その手に光るのは、刃物よりも鋭い針。太い注射器である。叫ぶ女の首筋に躊躇いなく打ち下ろされる瞬間、白衣の背中がビクリと震えた。背後から衝撃。ビーストが体当たりしたのだ。男は足元をふらつかせ、その勢いを喰らって女が横に飛ばされる。次の行動に移ろうと腰を落としかけたビーストは、しかし「うっ」と呻いて自らの頭を両手で抱える。
「あぁ、また……」
 急速に視界が霞んでいく。
 ──また獣化するのか……。
 痛みはない。身体の奥で筋肉がうねる奇妙な感覚があるだけ。
 ──なぜこんな事に?
 獣化している間、彼に意識はない。だからその間、例え自分が何をしていたとしても罪の意識を覚える事もない。その必要がないからだ。何故なら自らの意志故の行動ではないから。彼はそう思っていた。それでも、だ。気付いた時、目の前に無残な死体があったら、そして己の手が赤く汚れていたら……。
 恐ろしくてたまらなくなる。
 ──なぜこんな事になった?
 答えは出ない。仕方がない。受け入れるしかないのだと。そう思っていた。だから目の前の白衣を着た中東系外国人の、おかしな発音の日本語も半ば聞いてはいなかった。
「──変質人工生命体(ホムンクルス)さ」
 ──なに……?
 聞き慣れない単語。目の前には白い影。ビーストの意識が一瞬だけ明瞭になる。
 同時に腕をつかまれる。チクリと刺されるような鋭い痛み。
 何? 誰? 今、何と言った?
 問う間すらない。ぐらりと頭が傾いで、全身から急速に力が抜けていく。獣化の予兆ともいえる筋肉の沸騰が嘘のように消えていった。そのまま目を閉じ、気を失いかける寸前の事だ。
「ワタシを覚えていないかい?
 煙のかかった意識が必死に警鐘を鳴らす。
「何、オレを知って……?」
 しかし男は答えない。太い眉を潜めてビーストを眺めるだけ。
「人工生命体って……?」
 心臓がばくばく音を立てた。嫌だ、何も聞きたくない。目の前の全てから目を逸らせてしまいたい。しかし心とは裏腹に、彼はこう尋ねざるをえなかった。
「おまえ、誰なんだよ……」
 国境付近、中国側のこの荒地。突然こんな所に現れて、オレの全てを知っているかのような顔をして!
 一瞬、動きを止めて男は甲高い声で笑った。
「ワタシはDr.カーンさ。本当に覚えていないのかい? オマエを造ったのはこのワタシさ」
 何言って……?
 何の事……? ああ、全ての事から目を……。
「ウソだ……」
 ドクターと名乗った男の笑い声が途切れた。
「ウソなもんか! オマエは……アア、記憶がないんだな。教えてやるさ。オマエはワタシが造った最終兵器だよ」
 発音のおかしな日本語が、酷く歪に聞こえる。今度は腕をつかまれた。抗う気力は、もうない。
 殺されるのかな。また腹を開かれるのかも。でもそれも仕方のない事だと思った。こんな変な体で、長生きできるとは最(ハナ)初から思っちゃいなかったから。
 ただ心残りは……。ちらりと視線を走らせる。ナオである。腰を抜かしてしまったのか、地面に座り込んだまま。恐怖に顔を凍り付かせている。当然ながらテレビで見たあの笑顔は微塵も見られない。
 オレが攫ってきたばかりにこんな目に……。ごめんね、と心の中で呟いた。
「ナオ……うっ」
 腕が悲鳴を上げた。ドクターの力が一瞬、強くなったのだ。
 何だよ、もぅ……。男の方に視線を転じて、ビーストの身もこの時ばかりは凍り付く。そこに、男の目に明確な殺意を認めたから。しかしそれは彼に向けられたものではない。視線の先には──ナオ。
 見た以上は生かしておけぬ。知った以上帰しはしない。強い目はそう言っている。
「駄目だ、逃げて」
 しかし女は動かない。目を見開いて、首を横に振るだけ。
 駄目だ。あの子を巻き込んじゃいけない。
 ドクターの殺意は明らかだ。その手が白衣のポケットに。銃? 薬? 中から何を取り出そうとしているのか。
 何かを握ったその手が露になるより前に、ビーストの全身が小刻みに震えた。血が沸騰する。筋肉が振動する。
 ドクターが何か叫び、ナオの悲鳴が遠くに聞こえ……そこから先は──闇。
 
     ※
 
 記憶がない──男の言葉が引っかかっていた。
 無意識下で──本当に意識を失った今の状態ですら彼は必死で考える。
 オレの記憶がないだって? 違う。記憶はある。オレの記憶はちゃんとあるんだ。しかしいくら叫んでも声は出ず、それは即ち悪夢となる。覚める事も出来ず、彼の意識は暫く夢の中をさ迷った。
 そうだ、オレは一九九八年に生まれて、中学を途中から行かなくなって。口うるさい親から逃げるように家を出てからは、パソコンを使って銀行の偽口座を作って、マルチ商法紛いの事をしながら生活してて……。褒められた事をしているとは思っていなかったけど、有り得ないくらいに稼げるもんだからやめられなくて。そうだ、折からの対米戦争で、諸外国の政府機関のコンピューターに侵入する──いわばハッカーであるオレは結構重宝されて……そっちでも随分稼いだな。毎日金を数えてた。ろくな暮らしじゃない。でもそれは大切な記憶だ。
 そう、そしてオレはその頃《赤き死》に夢中で……。イズミの赤い髪と大きな目。とんでもない行動力と、歯に衣着せぬ痛快な物言い。全てがかわいくて格好良くて……。ああ、チカゲが未だに姉の幻影から逃れられないのも頷けるな。
 チカゲと一緒に中国放送局に侵入して……そう、そこで見たのだ。あのビデオを。イズミを映したあのビデオ。彼にとってはそれは見慣れた映像。いつもイズミを見ていたから。しかしそこには彼女以外のものも映っていた。
 冷静に考えれば、それは《赤き死》を利用したプロパガンダ映像に他ならない。二〇三三年の国会議事堂テロ──あの映像の中に彼はあろう事か、自分の姿を発見したのだった。黒髪で短い髭を生やした背の高い男。それは間違いなく自分自身の姿だ。そうだ、あの中に潜り込みイズミの姿を撮ろうとカメラやビデオを隠し持っていたのを覚えている。いや、画面を見ているうちに急激に思い出したのだ。
 何かが不自然だった。彼は首を振る。それで? それからどうなったっけ?
 しかしそこで急に気分が悪くなって……チカゲを放ってビーストは逃げ出したのだった。夢の中ですら彼は胸を押さえる。国会議事堂テロ。《赤き死》の活躍の代名詞とも言えるあの事件現場にオレは居た……。それから?
 そこで彼は愕然とする。そこから先の記憶が、ない事に気付いたから。自らの足元を突き崩されるような衝撃。
 そしてもう一つの事実。大切な筈のそれを、彼は思い出せていなかった。
 ──オレは何だ?
 ──オレの名は?
 ビーストは静かに目を開けた。
 
「オレの名前は……?」
「え?」戸惑ったような女性の声。或いは彼の声が聞き取りにくかったのかもしれない。「あ、あたしはナオ」
 結局、彼女は自分の名を名乗った。
 ──それは知ってるよ……。ビーストは呟く。
「オレはビースト……」
 違う、オレの名前はビーストじゃない。便宜上そう呼ばれる事は構わないが、本当の名前でない事は確かだ。しかし肝心のそれが思い出せない事に、彼の感覚は恐怖に縛られた。だが不安を顔に出す事はしない。
「ここはどこ? あいつは?」
 ゆっくりと身を起こす。全身がだるい。獣化の後はいつもこうだ。しかしそれも決して表には出さない。
「怪我してるのよ。動いちゃ駄目」慌ててナオが腕を差し出す。「ごめんね、あたしを庇ったからこんな怪我……」
 言われて初めて気付く。肩から背中の辺りに痛みが残っている。しかし有り合わせの布で包帯が巻いてあり、手当てはされているようだった。上着もきちんと着せられている。それにしても相手がチカゲであれナオであれ、咄嗟に庇ってしまうなんて、自分は意外とお節介な人間だなと彼は苦笑する。
「これ、君が?」
 包帯を指差す。驚いたように聞こえたのだろう。ナオが初めて笑みをこぼす。テレビで見せる作り物のそれとは違い、はにかんだような小さな笑み。
「お母さんが医者だったの。あたしも小さい頃は側で見てたし」
「へぇ……」
 布が可愛すぎるところに一抹の不安が残る。しかし気にはならなかった。礼を言うと、ナオはまた笑った。
 泥が付いて乱れた髪。幼い顔立ち。原色のスーツで無理に大人びて見せようとしているのが分かる。何となく痛々しい。
「ごめんね、こんな所に連れて来て。危ない目に合わせて」
 ただ、つい……心細くて。誰かに一緒に居て欲しくて。
 周囲を見渡す。湿った暗い路地裏。獣化してドクターを追い払ってから、例の如く失神したのだろう。そんな自分をナオが必死に引きずって、とにかく人目に付かない所へと身を隠した先がここ。中国のスラム街よ。道路も入り組んでるから、後をつけられる心配もないわ。前に取材で来たのよと彼女は簡単に説明した。
 ごめん。何度目かのその台詞。オレが悪かったよ。巻き込んじゃいけない。すぐに帰って。オレも《塵》に戻る。チカゲが心配してるかも……いや、してないかな。
「とにかくごめ……」
 そう言いかけた時だ。ナオの手に口を塞がれた。意外と強い力だ。
「もういいよ。さっきから謝ってばかり!」少し口調が荒い。怒っているのだろうか。「もういいの。あたし、職場には帰りたくない。《塵》にだって戻りたくない」
「な、何で? じゃあ、どこへ行くつもり……?」
 ナオは俯く。沈んだ目の暗さを見て、ビーストは質問を後悔する。
「どうせ仕事はもう辞めるつもりでいたし。中国語って難しいのよ。あたしには無理。いつまで経っても上手く喋れないし、ニッポン人って馬鹿にされるし。天気予報だって来月から週二回から一回に減らされる事になったし。それに……」
 もう疲れたの、と彼女は呟く。まだ若い彼女が背中を丸め、酷くくたびれた表情だ。何があったのか? かける言葉を失う。
「でも、オレの……見たでしょ」ビーストの表情も曇る。
「ああ……」
 獣化の事を言っているのはナオもすぐに見当を付けた。目の前での獣化は相当衝撃的な光景だったに違いない。しかし彼女は平然と笑顔を見せる。
「平気」
 意外なくらいさばさばした態度に、ビーストの方が驚きを禁じえない。実に非常識な事態であるにも拘らず、他に頼るべきものが居ない故か、それは「事実」として案外あっさり受け入れられてしまったようだ。
「そりゃ驚いたけど」思い出したのかくすくす笑う。「だって突然、大きな犬になって……。まるで映画みたい。《塵》には映画なんてないでしょ。テレビは何してるの? 音楽番組とかしてる?」
「いや、それは……」
 そういう問題じゃないだろ。ビーストは口ごもる。気楽なのか、それともわざとそれを装っているのか。
「ビースト、って呼べばいい?」
 視線がぶつかる。彼女の目に、ビーストは怯んだ。ナオは続ける。
「病院へ行きましょ。中国の病院ならきっと治るわ。《塵》じゃ駄目よ。今はろくな医者が居ないもの」
「あ……」
 頷くより他ない。病院なんかでオレのコレが何とかなるものかと思うが、彼は何も言えない。治るものなら治したいと思うのも、また事実だから。
 こんな体で、治癒動くのこんな所にまで来てしまった。金も武器も持っていない。これからどうなるのか。どこへ行くのかも分からない。それなのに少し心が浮き立つのは……ナオが居るからであろうか。何となく安心するのは、彼女が笑っているから。だから未来になんか希望を抱けるのだろうか。
「分かった」ビーストは頷いた。「病院に行ってみるよ」
 ──だからオレから逃げないで。
 
     ※
 
 今思えば米軍の訓練用シュミレーション装置だったのだろう。核施設に潜入したテロリスト掃討作戦を題打ったあの戦闘装置は。つい何日か前、麻薬更生施設で放り込まれたあの体感ゲーム装置の事だ。ビーストとしては遊びにも似て面白かったが、敵を二人撃ったところで興奮して……後は例によって記憶がない。
 その時を思い出す。しかしあの時と比べ、事態は根本的に違っていた。
 緊迫感。
 民家を改造した狭い医院の廊下は、営業時間外の今は明かり一つない。一歩一歩、床の軋みにすら肝を冷やす。
 掌には汗が滲み、心音が耳元に鳴り響く。肌が粟立つ。意識が遠のく。このままその感覚に身を委ねてしまえば、獣化という結果に襲われる事は目に見えていた。或いは彼にとってはその方が楽なのかもしれない。
 しかし、今は──。
 ゆっくりと息を吸って、とにかく心臓を落ち着かせる。そうする事でアドレナリンの上昇を抑えるのだ。獣化が何を原因として行われるかは分からないが、長年の経験で彼はそのメカニズムをつかみつつあった。
「獣化したら無敵なのに」
 苦笑する。せっかく得た武器を、自覚した側から封じられてしまった気分だ。
 だが仕方がない。
 ナオと約束したから。
 ──二度とあんな姿にはならないで。
   誰も傷付けないと約束して……。
 血が止まらない。死の恐怖に震えながらも、彼女は自分にそう言った。だから彼もナオに約束したのだ。
 オレが必ず守るよ。信じて待っていて、と。
 
 しかし、現状。ろくに中国語(ことば)も解さず、武器も持たない自分に何が出来るだろう。心細さから、思いは否応なしに友人の元へと飛ぶ。
 戦闘シュミレーション装置のチカゲは凄かったな……とかそういう事。オレもあんな風に動けたら、今こんなにびくつく必要ないのにな。あの中の光景は全て外のモニターに映し出されていたのだ。ビーストは息を飲んで彼の戦闘に見入っていた。それは《赤き死》イズミに似ていたからかもしれない。今思えば姉から直接戦闘の手解きを受けたチカゲが《赤き死》そっくりな身のこなし、大胆な判断、行動を取るのは不思議な事ではなかった。戦闘に関して、驚異的な嗅覚を持っているに違いない。尤も《制御不能》という判定は、他の者が驚いたように戦闘能力の高さを単純に示したものではないだろうが。装置の判定基準を超える無茶をするから、コンピューターがフリーズしたに違いない。
 親しくなってみると、チカゲはイズミの弟という点を差し引いてもろくな人間ではなかったとビーストは思う。薬中のシスコン──彼を表す単語と言えばそのくらいのものか。後は短気とか、意外と神経が細いとか。中国国境の戦闘で咄嗟に彼を庇ってしまったのは、多分イズミに似ていたからだろうな……。
「いや、駄目だ」
 まるで逃げるように意識があらぬ方向へ飛んでいく。ビーストはもう一度大きく息を吸った。
「オレは今、ナオを守るんだ」
 あんなに血塗れになって、呼吸も辛そうで……。このままだと彼女は死んでしまう。
 
 何故こんな事態になっているのか。時間を半日、遡ろう。
 
 ビーストとナオはスラム街で医者を探すのは容易な事ではないと痛感していた。何時間歩いただろう。何となく恐怖感があって、住人に見付からないよう身を隠しながら行動したせいで余計に時間がかかった。
「もういいよ。病院なんて」
 どうせこの体は治んないよとビーストが弱音を吐くが、彼よりも疲れているであろうナオが黙って睨む。
 男は駄目ね、と言われているようでビーストは渋々足を動かす。ようやく小さな医院の建物を見付けた時は、陽の落ちる寸前であった。カダという医者がやっている内科病院みたい、看板を読んだナオが説明する。
「内科でいいの?」
 ビーストが言うと、ナオは一瞬顔を顰めた。今更ごちゃごちゃ言うなという事だろう。仕方がない。子供のように手を引かれて中に入ると、狭い待合室に溢れんばかりの人間を見る。二十名程居ようか。椅子はいっぱいで床に座る者、隅に立つ者まで居る。内科とはいえ、腕に包帯を巻いた者や歯痛を訴える者など患者は様々なようだ。ビーストが解さない中国語が飛び交っていた。受付もなく、二人は戸惑ったように入口付近に立ち止まる。
「……出直す?」
「今更びくつかないで。おとなしく順番を待ちましょ」
「うん……」
 敢えて逆らう事はすまい。ビーストは頷いた。
「でも、ナオ……オレやっぱり無理だと思う。捕まって変な研究機関とかに送られたらどうしよう」
「………………」
 愚痴を弱音と受け取ったのか、ナオは答えない。ビーストが何か言うたびに、微かに頬を引き攣らせる。
 そうだよ、確かにオレはこういう肝心な所で腹を括れない人間だよ。どうしようもない人間だよ。且つ、沈黙にも耐えられない弱い人間だよ。もっとも人間かどうかも怪しいところなんだけどね。
「あ、あのさ、ナオ。気になるんだけど。この間、あいつ……Dr.カーンは何か言ってた? オレ、途中から記憶が曖昧で……」
 しかしナオは答えない。「しっ!」と口に指を当てる。その様子があまりに切迫していたので、ビーストの愚痴も凍り付く。
 気付いたのだ。待合室に居る二十余名の視線が自分達に集中している事に。直視というより凝視に近い。口々に何か言っている。ビーストにはその言葉は分からないが、だからこそそれは余計に不気味に聞こえた。自分が何かまずい事を言ったのだろうか。隣りのナオの顔色を窺うに、只事ではないように思われた。
 突然、早口の中国語でナオが何か叫ぶ。彼等を鎮めようとしたのだろう。しかしそれは逆効果だった。彼女の言葉を合図にしたかのように、大勢の者が一斉に立ち上がったのだ。
 そこから先は、まるで暴動だ。
 いきなり初老の男につかみかかられ、ビーストは倒れた。その身を何人もが取り囲んで腹を背を、靴のまま蹴りつける。傘や棒切れで頭を打たれ、ビーストは悲鳴を上げた。叫んだ拍子に口の中を切った彼は、ぐっと奥歯を喰いしばった。
 ──ナ、ナオは?
 彼の名を呼ぶ彼女の悲鳴が微かに聞こえる。無事なのか? 顔だけを動かして周囲を見回す。群がる人々の隙間に黄色のスーツが僅かに見えた。
 彼女は壁に押さえつけられて暴行を受けていた。頬を張られ、服を破られるうちに、その悲鳴も徐々に弱々しく小さくなっていく。
「やめろ!」
 体中の血液が沸騰した気がした。弾かれたように立ち上がる。全身を力が走った。手足の感覚が違う。意識の喪失に獣化の速さが追いつかず、変異しかけるその姿でビーストは吠える。
 その時だ。
「駄目よ、ビースト!」
 絶叫に近い。ナオの声だ。ビーストは怯む。急速に進行しつつあった獣化も止まった。
「駄目、ビースト。我慢して……」
「ナオ……」
 彼の突然の変異に恐れをなしたか、周囲から人が引いた。その隙にビーストは滑り込むように彼女の元へ走る。
「ナオ、こっちだ!」
 彼女の服に、恐らくナオ自身のものであろう。血が飛び散っているのを見たビーストはその身を抱え上げると、人垣を破って飛び出した。
「ごめん、ナオ。オレが守る。オレが守るから……」
 食いしばった歯の間から、独り言のように漏れる言葉。悔しくてたまらない。多分自分のせいなんだ。こんな変な体の自分が、人間に紛れて暮らそうとするから、だから関係ない彼女まで巻き込んでしまうんだ。
 小柄な女性とはいえ、人一人を抱えて全力で走るのは相当体力を使う。まして裏道を縫って走り続ける事など。しかしビーストは休まなかった。獣化の際の体力の増大効果が今、物を言っているのかもしれない。
 
 ようやく人気のない廃屋に潜り込んだのは、数時間経ってからの事であった。
 暗がりの中、負傷したナオをそこに横たえる。意識ははっきりしている。何か言おうと口を動かしかけては、しかし咳き込んで途中で言葉を飲み込んでしまう。
「ナオ、もう大丈夫だよ。どこか苦しい?」
 ぎょっとした。落ちていたライターの火で照らすと、ビーストの上着は赤に染まっていたのだ。自分の血でない事は明瞭。薄闇の中、目を凝らすと、ナオの肩口からとくとくと音立てて血液が溢れ出していた。
「ナ、ナオ……」
「大丈夫、痛くない……」
 恐らく感覚を失くしかけているのだろう。痛みを通り越した痺れの中、しかし彼女は笑みを作ろうと必死で顔を歪める。
 小さなナイフを突き刺されたか、深く切りつけられた傷である。おかしいと思った。この程度の傷口なら、通常であれば血は直ぐに固まる筈だ。なのにその気配すらない。このまま例え微量であっても、血が止まらず流れ続ければ大変な事になるのは目に見えている。ナオの顔色がやけに白く見えるのは周囲の暗さの為ばかりではあるまい。
「何でこんな事……」
 呆然と呟いた。沸き上がる感情は──怒り。訳の分からないあの群衆に、そして力ない自分に。
 何故こんな事が?
 何故こんな事に?
 込み上げる感情は、怒り。それから無力感。
「……こ、殺してやる」
 あんな奴等、オレが獣化すれば全員一瞬で……。
 その時、彼の腕をつかんだのはナオの手であった。信じられないくらいに強い力で。
「駄目って言ってるでしょ。あの姿にはならないで……」
「でも、ナオ……」
 傷口を押さえて、彼女はその場に身を起こす。
「怖いのよ」と小さく呟いた。「テロを思い出す……」
 日本国内初の同時多発テロ──二〇一二年の事だった。ナオは家族と共に観光地で爆発に巻き込まれたと言う。幸い怪我はなく、家族共に無事だったそうだが。
 だから何だ、いきなり何を言い出す。訝しむビーストに向かって、彼女は静かに続ける。
「あたしは三歳だったけど、よく覚えてる。今でも人が叫んだり、大勢で暴れたり傷付けあったりするのを見たら……思い出して怖くなる」
 五年前──核の時も、あたしは本当に酷いものを見た。本当に怖かった。だから辞めて。それに……。
「それに?」
 何となくぴんときた。彼女が頑なに獣化を止める訳は……。
「あいつ……Dr.カーンに何か? オレの意識が飛んでる間に何か言われた?」
 だとしたら、それはオレのこの身体の事に違いない。ナオは言葉に詰まったように黙っていた。その沈黙こそが肯定であると。
 いいから言って。何を聞いても大丈夫だから。頼むよ。お願いだから教えてくれ。何度かそう繰り返すと、ナオは渋々頷いた。
「あなたが倒れて、それからその……獣化するまでの間のほんの短い時間なんだけど。すぐにあなたが起き上がってあいつに襲いかかったから、本当に聞く時間もなかったんだけど。しかも意味も分からない」
「いいから言ってくれ! 早く!」言葉がきつくなるのも居方のない事だろう。
 観念したようにナオは目を閉じた。
「あいつは戦闘用人工生命体を造るんだって言って。あなたはその成功例だって」
 何それ……?
 意味が分からない。戦闘用人工生命体だって? それがオレ? それともそれが獣化を指すのか?
 唐突すぎて衝撃すら受けず、ビーストは頭をぼりぼり掻いた。オレが人工生命体? 実感の湧かない話だ。とりあえず、チカゲだったら「胸糞悪ぃ身体だな」と悪態をつくに違いない、なんて考える。
「あ、あたし、あいつの事はニュースで知ってるの。国際刑事機構(インターポール)から国際指名手配を受けてるって。毒物製造とか武器密造や密売、誘拐に殺人に……。罪状が三十を超える極悪犯よ。だから中国の警察に訴えれば……」
 そんなのどうでもいいよ。ビーストは意外なほど静かに呟いた。
「今は君の怪我だろ」
 その場に立ち上がる。血を流しながらも人の心配をするナオを見ていたら、自分の身の事なんてどうでも良くなってきた。
「待ってて。医者を連れて来る」
 彼女が反対の声を叫ぶより前に「大丈夫だよ」と言い残し、彼は建物を飛び出したのだった。医学の知識はないが、彼女の容態が只事でないというのは分かる。恐らく一刻の猶予もあるまい。
 
     ※
 
 それにしても何故? と思う。言うなれば誘拐犯であるビーストを、ナオが何故受け入れる? 目の前で悲劇的な獣化を見て、彼を哀れんだのだろうか。そうかもしれない。優しいのか、それともあの笑顔の影で何かに絶望しているのか……それは分からない。
 
 他に行く所はなかった。ビーストの足は先程の医院へ向かう。他の病院を探す余裕はあるまい。医師をさらって来て、彼女を介抱させる。それが目的だ。
 そして今、彼は営業時間の終わった医院の暗い廊下に忍び込んだところであった。住居兼医院であるらしいから、カダという医師がここに居るのは間違いない。狭い屋内。しかし人の気配はない。待合室には先程の騒ぎが嘘のように静まり返っている。ビーストは躊躇った。医師が居ないのであれば、とにかく薬を……。廊下の棚に走り寄ったビーストの背後に、微かな気配。
「昼間の外人、か。悪かったよ」
 びくりと身を震わせ、ビーストは振り返る。何の気配もなかったのに、そこには痩せた老人がひっそりと立っていたのだ。
「い、いつの間に……」
 これがカダという医師なのか。さらってでもという意気は薄れ、ビーストの目は老人に釘付けになる。
「タイミング、悪かった」片言の日本語で、老人は続ける。「今朝、ちょうど、ニッポンの電波ジャックにやられた。ニッポンの英雄ブラッディ・デス、映った。彼が、何か、言った。中国とアメリカに喧嘩売るような、凄く挑発的なこと」
 ──ブラッディ・デス? イズミの事か?
 何であれ、カダは言い訳しているようだった。それで興奮した住民が日本語に反応してビーストとナオを襲ったのだと。すまない。
「病院で、暴れるなと言ったが、聞かなかった。怪我したなら、ただで診てやる。だから、すぐに、街から出て行け」
 カダは二千年続く名医の家系。街に一人の医者。だから何でも診る。早く見せろ。
「いや、オレじゃないんだ。オレはもういいから、彼女を……」
 非常に胡散臭い。何が名医の家系だ。こんなスラムのぼろぼろの家屋で医者紛いの事をして。どうせヤブに決まってる。しかし今はこの老人に頼るしかないのだ。ビーストはナオを抱えたように老人を背負うと、廃墟ビルの彼女の元へ再び走り出した。有無を言わせず、突然さらわれたカダは背中で悲鳴を上げている。
「お、下ろせ。人を……人を呼ぶぞ」
「うるさい!」
 怒鳴ると黙った。だが、その復讐からか、目的地に着いてナオの顔を見るや否や力なく肩を落として首を振ったのだった。
「間違いなく、すぐ、死ぬ」
 ビーストは恐怖に震えた。何とかしろと怒鳴り、老人の首を絞め、あげくに泣いて頼んだ。何とかして助けてくれ、と。
 しかしカダは首を横に振るだけ。
「ケガは大した事ない。しかし死の灰、浴びただろう。そんなニッポン人、何人も診た。皆、死んだ。病気で死んだ。殺されたりも、した」
「死の灰……」
 核の事か。ちらりと横目で見たナオは青ざめている。
「ま、待てよ。核だったらオレだって浴びてる。《塵》の人間は誰でも。でも別に何もないよ。何でナオだけ……」
 激昂したビーストをナオが止める。
「灰、いっぱい浴びたわ。灰塗れになった。母もそれで死んだ。よくあたしが生き残ったものだって、その時言われたのよ」
 やっぱり、今頃出てきたんだ……。
 人事のようにそう呟く。それからビーストを押し退けると、カダと何か言葉を交わし始めた。中国語なのでビーストにはほとんど理解出来なかったが、おそろしく冷静な口調だ。途切れ途切れに分かる単語は半年前から嘔吐がとか、病院で検査もできないとか。カダは、しかし首を横に振るだけ。
 さすがに気の毒に思ったのか、カダはそれから一日一度薬を持って遣って来るになった。そのおかげかナオは顔色も良くなり、一見健康そうに見えるまでに回復した。
 カダの片言の日本語から、彼女の症状が核が原因の血液の癌である事は間違いないようだった。
「《塵》に帰ろう」ビーストは言う。
 そりゃ、あそこにはろくな医者が居ないかも知れない。でもこんな中国の廃ビルにずっと隠れて暮らすわけにはいかないだろう。
「《塵》には友達もいる」
 ──相手(むこう)もこちらを友達と認めているかどうかは疑問だけど。
 しかもチカゲは病気に関しては全く無知。役に立たないだろう。しかしオキなら……。あの科学オタクならば意外と絶妙な知識を持っているかも知れないし、医者の知り合いだって居るかもしれない。さもなきゃ、自分とチカゲが収容されていた麻薬更生施設──あの施設そのものはただの収容所だが、そこから本国アメリカに送ってもらえれば。何であれ、ここに居るよりは可能性が……。しかしどんなに言葉を尽くして説得しても、ナオは頑として首を横に振る。
「しつこいわね。嫌よ! 《塵》には戻らない」
「ナオ、オレは……」
 そこまではっきり言われては引き下がるより他ない。病人を無理矢理引っ張って行ける距離でもないのだし。
「ごめんね、ビースト」
 きつい言葉を投げてしまったと後悔したのだろう。廃ビルの窓を開けて、ナオが微かに笑った。
「あたし、核の後すぐに中国(こっち)に逃げてきて。三年前になるかな、一回だけニッポン……《塵》に帰った事があるの。雪が降ってるって思って喜んだら、灰だった……」
 ビーストも慌てて話を合わせる。どんな状況であれ、彼女が笑っていてくれるのが一番嬉しかったから。
「あそこはいつも灰が降ってるね。薄暗くて……まるで世界中から見捨てられた場所みたいだ」
 ナオの表情が沈み、彼は焦る。
「も、もうすぐクリスマスだね。こっちはちゃんとした雪が降るのかな」
 ナオの居る窓辺へと身を寄せる。空の色は《塵》と変わらない。暗くて、灰色だ。それは絶望の色に近い。
「この五年、雪は見た事ないなぁ」
 ビーストの肩に頭を凭れさせながら、ナオ。うーんと唸った。温暖化のせいかしらと呟いている。ビーストは彼女の腰に腕を回した。俯いたまま引き寄せる。
「ビースト、何?」
「うん……」
 彼女の髪に顔を埋める。オレは震えているかな? そう思いながら、彼はナオを抱き締めた。
「最初はカワイイって思ったんだ。天気予報で見て」
「あ、あたしの天気予報見たの?」
 ナオが暴れる。やだ、あたしヘタなのよ。ダメ出しばかり食らって……。
 いいから聞けよ、とビースト。
「今はすごく大切に思うんだ。ナオのこと……」
「ビースト……?」
 彼女の抵抗が弱まり、ビーストはその頬に手を添える。
 温かい頬だ。その温もりを感じて、目の前が霞んだ。
「ビースト、泣かないで。あたしは……」
 彼女が何か言いかけた。その時だ。
 窓の向こうのある一点。スラム街の街頭に設置されたモニターだ。それが一際眩い光を放ったのだ。
「何……?」
 ひびの入ったモニターには今迄暗い色彩のニュース映像が流れていた筈だ。その映像が乱れ、黒と白が瞬く。そこに突如赤の光が混ざり込んだ。突然の事に、道行く人も足を止めて口々に何事か叫びながらモニターに群がる。
「あれは?」
 ビーストも窓から身を乗り出した。ちらりと横目でナオを見やる。彼女の顔がひどく青ざめているように見えたのは気のせいだろうか。
 一際眩い赤を放って、モニターは先程とは全く違う光景を映した。ビーストは息を飲む。ちらりと映ったのは赤い髪の女。
「《赤き死》イズミ……」
 放送局で見た国会議事堂テロの映像だ。もう少し場面が進めばビースト自身も映る筈だが、今回は映像はすぐに途切れた。続いて彼女自身がモニターに大きく映る。
「イズミ……いや、チカゲ?」
 実際目の前にすると全然違うのに。こうやって見るとこの姉弟はよく似ている。区別がつかない。映像の中の《赤き死》は黙っているのか、それとも群衆のざわめきに言葉を消されているのか、ビーストの元にその言葉は届かない。次いで映された映像にビーストは悲鳴を上げる。どこから映したのだろう。日本列島が吹き飛ぶ様を、それははっきりと映していた。十数発の核で土が吹き飛び、人が消滅する様だ。
 そこで映像は切れた。興奮した群衆がモニターを叩き壊したのだ。
「今のは……?」
 声が掠れて、言葉が上手く出ない。とんでもないものを見てしまったという思いが、彼を震撼せしめたのだ。ナオの方を見やる。しかし彼女は驚く程冷静だった。
「《赤き死》は滅亡したニッポンの英雄だわ。名声は今でも一人歩きするし、いくらでも利用価値はあるのよ」
「ナオ……?」突き放した物言いが、彼女らしくないと感じた。「ナオ、何か知ってるんじゃ……?」
 彼女は観念したように目を閉じる。
「だって、あれを編集したのはあたしだもの」
 どういう事……?
 記憶が警鐘を鳴らす。そういえば彼女と初めて会ったのは放送局の人気のない映像編集室だったっけ。
「何の為に肩身の狭い思いをしながら中国の放送局なんかに勤めていたと? 中国に、と言うより《塵》に、《赤き死》のプロパガンダ映像を流す為よ」
「イズミの事、知ってるの? じゃあ……じゃあ、チカゲは?」
 ナオは首を傾げた。イズミ? 《赤き死》の本名だっけ? チカゲ? 口の中で繰り返す。知らない事は明らかだった。
「ごめんね、別に隠すつもりはなかったんだけど。これがあたしの仕事だから……仕方ないの」
「仕事って……何で君が」
 その質問には答えず、ナオはいつもの笑顔を見せた。
「だから仕方ないの。あの映像で、この辺の人達の神経逆撫でしてるのはあたしなんだもん」
 だから病院にもいけない。襲われても文句は言えない。だからここでこのまま死を待つしかない。
「何言ってんだよ。そんな事、オレがさせないよ」
 反射的にそう言った。彼女は弱者だ。それは間違いない。それなのに、何故そんな事を? 政治的画策なんて、ナオには似合わない。
 今確かな事はただ一つ。
「言っただろ。オレが君を守るって」
 腹を括らなければならない。彼女を救う為に命を懸けると。困難かもしれない。だがこんな命、惜しくはなかった。
「ナオ……」
 ビーストは彼女の身体を抱き締めた。ただ、愛しさが込み上げる。
 
     ※
 
 誰かを憎みながら消えてしまいたくはないの、とナオは告白した。
 誰かとは愚かな戦争に邁進したニッポンであるか、核を落とした国であるか、受け入れてくれない中国人であるかは分からない。とにかく誰であれ、だ。憎みたくはないのだと。
 その妙な悟りのような心が、ビーストには不安で仕方がない。彼女はもう全てを諦めてしまっているのか。いや、させない。絶対死なせたりしない! 一歩一歩、己に言い聞かせながら歩かなければ押し潰されそうになる。
 カダから聞いて大病院の場所は知っている。決して外国人は診てくれないぞと彼は言ったが、医師を脅してでも、さらってでも看病させてやる。第一彼女は中国語に堪能だ。ローカル局とはいえ天気予報のキャスターとして顔も知られているわけだし、自分さえ下手な事を言わなければこの計画は案外上手くいくのではないかと思われた。
 ビーストが半ば無理矢理ナオを連れて行く形ではあるが、二人は翌朝すぐに病院を目指した。大病院とはいえ、国境近くの街の医院にすぎない。カダの診療所とは比ぶべくもないが、それ程大きな規模の建物ではなかった。
 しかし一歩中に入り、その人間の多さに彼等は呆然と足を止める。老若男女問わず広いロビーにひしめくその数は数百を越すであろうか。
「……仕方ないな。おとなしく待とう」
「うん」
 ビーストが小声で囁いた。目立たぬよう、なるべく会話もせぬようにと予め言い含めていたのだ。どれだけ待っても構わない。きちんと診てもらおう。
 しかしその願いは早々に打ち砕かれた。初診の申し込みをしていたナオが肩を落として戻って来たのだ。
「やっぱり駄目。あたし国民証持ってないもん。それがないと受け付けられないって」
「何それ……」
「もういいわ、帰りましょ」
 拒絶は予想通りだったのか、彼女はあっさりと出口に向かう。
「おい、待てよ!」
 思わず大声が出た。無論、日本語で。ロビーが一瞬水を打ったように静まり返り、ビーストの背に冷たいものが走ったが、カダ医院のような暴動は起きなかった。数秒後、何事もなかったかのようにざわめきが蘇る。
「何で……」
 その瞬間だ。ビーストの中で何かが弾けた。それは怒りであり、強烈な怒りであり、不信であった。
「お、おまえ等、何でそうなんだよ! オレ達が何をしたって……?」
「ビースト、何やってるの! やめて!」
 ナオが顔色を変えて走って来る。絶望に沈むその表情を見て、しまったと後悔したその時だ。
 ニュース映像を流していたロビーのモニターが異常音を放った。赤の点滅。これは……? 椅子に座っていた患者も一斉に立ち上がり、身構えるように画面を見つめる。
「《赤き死》か……」
 ビーストの囁きに答えるように、赤い髪をした人物が大きく映る。何を喋っているのか、口が動くのが見える。頭の中がぐるぐる回って、その人物が何を言っているかまでは聞き取れない。日本語か中国語かすらも判断出来なかった。強い調子の声が、しかし耳に心地好く響くだけ。
「ああ、イズミ……チカゲ……」
 誰でも良かった。まるで催眠術にかけられたかのよう。その声が背を押してくれているように感じられた。ナオが何か叫んでいるのも、ロビーの人々のざわめきも、何もかもが遠退いて行く。身体中の血液が逆流する感覚。手足が震え、筋肉が鳴動する。
「ビース……、やめてっ!」最後にナオの声が遠くに聞こえた。
 ああ、約束……破っちゃったな。
 その思いを最後に、ビーストの意識は途切れた。後は感情が、感覚が、本能が暴れるだけ。
 殺してしまえ!
 本能は叫んだ。誰も彼も殺してしまえばいいんだ。何もかも消えてしまえばいいんだ!
 眼前に赤が弾ける。何度も何度も。聴覚を刺すのは悲鳴と断末魔の叫び。両手には血の感触。
 獣化の間、彼には記憶がない。明確な意識も、恐らくない。
 
     ※
 
 気が付けば、ビーストは血溜まりに突っ立っていた。ロビー中の壁もソファーも人も何もかも、彼の爪でなぎ払われていた。噎せ返る血の臭い。
 ──ああ、またか。
 ナオと約束してたのに……。
 血の海に膝をつく。かつて感じた事がないくらいに全身がだるい。
 その時、ようやく彼は異変に気付いた。足が獣のように細く、しなやかだ。筋肉がしまり、びっしりと灰色の毛に覆われている。見下ろす腕もまた然り。体も、血溜まりに映った顔までも。
 ──これはオレ?
 
 人間に戻っていない?
 その事実に愕然とする。記憶がない事も手伝って、彼は獣(ビースト)と自分は別だと思っていた。獣化した時に意識があったら悲劇だよね、とも言った。
 その悲劇に今襲われたのだと自覚したと同時に、彼の足元に新たな悲劇が。
 血の中に突っ伏して、ナオが転がっていたのだ。獣の腕で抱き上げる。絶命しているのは明らかだった。その顔には、身体には深い爪の跡が刻まれている。
そして彼の手にはべっとりと赤い血が……。
 
 言葉すらない。叫ぼうとしても、喉から溢れ出るのは獣の咆哮。
 目の前が真っ赤に染まった。
 



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