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塵と十字架(9)

 

 三 《塵》オキ~チカゲ

 《塵》に灰が舞う。
 
 オキの行動はチカゲにとって裏切りでしかない。それは分かっている。
 五年もの間、何も言わずに自分を見張っていた事。イズミの件を何も教えなかった事。そう、それは裏切りでしかない。
 面と向かってそう言って、チカゲは黙ってしまった。喋らない。宥めようと話しかけても、謝ってみても決して答えてはくれなかった。キレやすく、気が短いもののよく喋る友人が自分に対して、まるで死体のように静かになってしまった。それは罵られるよりずっと辛い。
 チカゲの居た米系麻薬更生施設にアラカキが資金援助をしていたという事実も分かった。ていの良い監獄だ。《赤き死》の弟を拘束しておく場所として《塵》の中の外国施設──これ以上に安全な所はない。アラカキの準備が整うまでの五年もの間、ずっと奴の掌の上に居ただけなのだ。そう悟って、チカゲが面白いわけがない。
 
 オキは目の前の戦闘を眺めていた。戦闘というより、これは一方的な占拠だ。それを指揮しているのが彼の友人チカゲ、否、《赤き死》であった。やはり血だろうか。武装し、過激な号令を二、三声。それで兵士達はチカゲに従った。アラカキが流す《赤き死》のプロパガンダ映像を見て集まったチンピラ達だから、まるで心酔するかのような目でチカゲを見る。
 チカゲの発案した作戦に従って建物を占拠して、彼の指揮に添って中の人間達を拘束していく。その間、十分もない。二十人もの素人を使っているというのに、無駄のない行動を取らせるのは至難の業だ。大した腕前だと思う。軍隊の訓練──しかも指揮官コースのそれをみっちり受けた者でもなければ、こう鮮やかな手腕は発揮出来まい。
 しかし今──。
 そのチカゲの姿はない。オキは建物に入って行った。施設の廊下にはクリスマス用の飾り付けがなされている。この麻薬更生施設には仕事で何度も来たが、中に入るのは初めてだ。
 電気の落ちた廊下を恐る恐る進む。曲がり角で逃げる看護員とぶつかったが、相手は自分の黒ずくめの巨体を見て悲鳴をあげて座り込んでしまった。そこをチカゲの部下に拘束される。
 オキはその光景を黙って見ていた。いつもそうだ。何も出来ずびくびくしているだけの自分に、しかし相手はこの外観だけで怯える。感情の見えない強面の顔が原因かもしれなかった。いや、そんな事今更考えても仕方がない。逆に今はその方が都合が良いではないか。外観で相手が逃げてくれるならば、それに越した事はないだろう。好きな死体だけを相手にしていられる。
 廊下を進むうちに看護員の事務所のような部屋を見付けた。中からがさがさと音がする。
 ──居た。
 机の引き出しをひっくり返し、本棚の書類を床にぶちまける赤い髪の男。
「無ぇな」声は不機嫌だ。
「何を探している」
 我ながら感情を失った声だと思った。これでは相手の心なんてつかめやしない。
 案の定、チカゲはじろりとこちらを睨む。また無視されるのかと思ったら、手にした書類を投げ捨てて彼はこう吐き捨てた。
「ビーストのカルテがどこにもないんだ」
「ビースト……」
 抑揚のない声が繰り返す。オキの視線は友人(チカゲ)の足元に注がれたまま。
「ビーストは友達だからな。僕を庇ってくれた。怪我だってしてる。早く探さないと」
 行方の手掛かりがつかめるかもしれないから、だから施設の襲撃だって引き受けたんだ。さもなきゃ誰がこんな所に戻って来るかよ。尤も、五年間居たからって愛着も何もねぇんだけどな。
 オキは俯いたまま、チカゲが殊更ビーストを強調するのは姉、そして友人にも裏切られたから。もうビーストしか拠り所がないからなのか。それとも……単に自分に対しての当てつけか。
「本国(アメリカ)に応援要請した記録はある。僕達が逃げてから何回か……」
 旧式の電信設備を触りながら、独り言に近いチカゲの言葉にオキははっと我に返る。
 何故ビーストが施設(ここ)に拘束されたのか、経緯は分からない。しかし施設にとって、正直彼は手に余る存在であったに違いない。逃げたからといって、どうして良いか判断しかねたのだろう。当然、本国の意向を問う事になる。だが主権もない国の灰の土地の為に、大国は指一本動かさないのが現実だ。返信の記録は一切なかった。
「何であれ、今あいつがどこに居るかは分からない」
 それが結論だった。
 ビーストか……。
 オキは唸る。チカゲの態度は少々鼻につくが、それでも気になる事は確かだ。興味深い生物で、自分が腹を開いたという理由もある。
「《塵》の中で獣化したら、アラカキの耳に入らないわけがない」
 厄介な事になっていなければ良いがと思う。中国との国境付近で銃撃戦──それに反応してアローまで発射されたその騒ぎ。嫌な予感を覚え駆けつけた時、チカゲともう一つの外人の死体は見付けた。廃車寸前のRATTも。
「よく探したのかよ」チカゲが睨む。「ビーストだってそこに居たんだ。大怪我して倒れて……なのに……」
 なのにお前はと言われたようで、オキは顔を俯ける。
「す、すまない」
 オキにとっては酷な話だ。しかしこんな時、何と言えば良いのだろう。愛車(RATT)は使えないし、何とか動かせる車を確保してあんたを運び出すだけで精一杯だったんだ。それに俺はあんたを裏切ったわけじゃない。《塵》のどこに居てもアラカキには居所をつかまれる。必ず、だ。だから、どうせ逃げられないならと思って彼をアラカキの庇護下に連れて行った。《塵》の為にも、友人自身の為にもそれが一番良い事だと信じたから。
 そう言えば良かった。しかしオキは黙っている。何となく、口火を切り損ねたのだ。鉄面皮と言うのだろうか。表情すら変わらないこの顔も嫌で仕方がない。
「クソッ、何黙ってんだよ」苛立ったチカゲが舌打ちする。「脅してるつもりか」
 じろりと睨んだ先はオキの手元。S&W・M60。手が固まったようにグリップを握り締めていた事に気付き、オキは慌てて銃を隠した。これは扱いが難しく、相当な手練が持つ銃だという。慣れない物を──持っているのではない。持たされているのだ。
 暫く気まずい沈黙が続いた。それを破ったのはチカゲの行動でもオキの言葉でもなく、最悪な事に《赤き死》を探して駆けて来た兵士の足音であった。
「占拠が完了しました。五分後、本部から後続が到着する予定です」
 案外早くに決着しましたね、と言うその兵士もM60を装備している。
「……分かった」
 静かに答えるチカゲの声からも、感情が失せている事にオキは気付いた。
 
     ※
 
 ここ二週間、チカゲはアラカキの元で《赤き死》として──完全に傀儡として動いていた。《塵》から外国施設を排除したり、プロパガンダ映像を作ったり。チカゲが彼に似合わず、おとなしく従っているのはオキを始めとして何名かの兵士が銃を携えて常に彼の周囲に張り付いていたからだ。護衛と銘打つ事もしない。あからさまな見張りであった。チカゲとしても死にたくはないから、逃げ出す素振りは見せなかった。《赤き死(イズミ)》は一人だ。しかしその代わりはいくらでも居る。
 友人らしくない、いや、彼の事だ。もしかしたら何か考えているのかも。ある日突然「オキ、強力してくれ」と持ちかけてくるかもしれない。ここから逃げ出そう、と。
 その時を待ちながら、しかし今では彼が自分に助けを求める事など決してないように思われた。
 チカゲとビーストが拘束されていたアメリカ系の麻薬更生施設の占拠を完了し、オキはゆ人をRATTに乗せてアラカキのビルに戻って来た。塗装は剥げて見る影もないが、この車は実に頑丈に造られている。あれ程の爆撃銃撃に晒されながらも、簡単な修理を施せば動かす分には何の問題もなかった。チカゲが取り付けた大型火器もそのままにしてあるが、オキには使いこなせない。おそらくチカゲにだって、付けたものの扱い切れない代物なのだろう。あれ以来触ろうともしない。
 助手席で友人はずつとマリファナ煙草を吸っている。何本目だろう。相当焦って火を点けていた。アラカキから煙草(クスリ)はいくらでも手に入るとは言え、さすがに体に毒だろう。しかし後ろめたいオキは、面と向かって彼にそう言う事すら出来なかった。
 赤い鉄塔の下にRATTを止めると、二人は隣りのビルに入る。入口付近で兵士志望の若い男達が列を作っているのを横目に、裏口からエレベーターを使って上層階に直行した。
 ビルに入るなり、噎せ返るようなマリファナの匂い。使用階以外に土を運び、建物の中でこの植物を栽培しているのだ。資金稼ぎの為の官房長官の発案である。隣りを歩くチカゲをちらりと見やる。好きな香りの中に居る為か、その表情は穏やかだ。オキは複雑な思いを禁じえない。何であれ、自分はその売人なのだ。友人に脅され、無理矢理クスリを奪われたという言い訳は立つものの、彼を中毒にしてしまったのは他ならぬ自分なのだから。
 無言のエレベーターは上層階に到着する。
 扉が開くと、目の前に官房長官が立っていた。チカゲを迎えに出て来たのだ。その階にはモニターが幾つも設置されている。隣りの電波塔の完成に伴い、試験的に《塵》に流している映像が次々と瞬く。
 そのいずれもが《赤き死》の映る画面であった。オキの目を持ってしてもイズミかチカゲか見分けの付かない巧みな編集である。どこで撮ったのか、武器を駆使して戦闘を行っている場面が続く。
「まだ発信テスト段階だが、予想以上の反響だよ。昨日は三十人、今日は五十人近くが兵士に志願してきた」相変わらず覇気のない口調で、ぼそぼそ喋る。「さっきの施設制圧の映像もすぐに編集させよう。本格的に配信出来るようになれば、君からもメッセージを言ってもらうよ」
《塵》の無秩序な人間達を鼓舞し、国として立て直す。《赤き死》は復興の支えになるのだよ。
 そう言ってアラカキは赤い髪を眺める。愉悦の表情に見えなくもない。しかしチカゲはその前を無表情で通り過ぎた。一番大きなモニターの前に立つと、食い入るようにそれを眺める。姉の姿を探しているのだと、オキにはすぐ分かった。アラカキからは「ご苦労」と手を払われたが、彼はどうしても友人が気になってぐずぐずとその場に留まった。
「何なんだ、あれは」
 チカゲの目は今度は同じ赤に──窓から見える巨大鉄塔に向けられた。この位置からですら見上げる程の高さ。全体で四百メートル程になるだろうか。鉄材が赤に塗られている為、核で消えた東京タワーを連想させる。しかもただの塔と違うのは、五ヶ所にヘリポートのようなものが張り出してあるという点。
 ちょうどこの窓の高さにその一つが設置されているのだが、チカゲが訝しむのも尤もである。距離にすると三百メートルはあろう鉄板が、電波塔を串刺しにするような形で設置されているのだから。それは五層からなる空中の滑走路だ。更に、そこにある物といったら。玩具のような赤い戦闘機が数十機並んでいたのだ。
 ニッポン自衛隊が誇る二〇〇八年製戦闘機《ZERO》、それから特殊作戦用ヘリMH─6リトルバード。圧巻の眺めであった。
「何考えてやがる」
 チカゲがアラカキを睨み据える。その目が冷たい怒りに凍っているのを見て、オキは身を縮めた。止めるべきか、否、しかし……。僅かに恐れがあったのだろう。オキが一歩踏み出す前に、友人は官房長官に詰め寄った。無言で銃を突きつける。
「あっ!」
 声を上げたのはオキである。慌ててホルダーを見ると自分のS&Wが消えていた。いつの間に? 完全に囚われの身であるチカゲには余計な武器は持たせてはならない事になっていたのだ。しかしそんな企みはこの男には通用しないという事を、今正に見せ付けられている。
 銃口を喉元に当てられながら、しかしアラカキは慌てない。年の割に老成した男は、決してうろたえる事をしない。その落ち着きがチカゲの神経を逆撫でした。
 赤い髪、赤い塔、赤い機……全てが姉を連想させる。何故こんな事をするのだと彼は唸った。銃を持つ手に力を込める。お前なんて一瞬で殺せる。その目はそう叫んでいる。
「わたしを殺せば、街(ダスト)は完全に滅びるぞ」
 凄んだ声でないのが余計に怖い。アラカキは相変わらずの口調でそう言った。
「チカ……止めろ」
 オキの言葉など、この緊迫感の前に完全に掻き消えてしまう。
 チカゲが目を細めて官房長官を睨んだ。眼鏡の奥の目から表情を読み取る事は困難だ。
 この男が何故こうまで《塵》に、否、ニッポンにこだわるのか気が知れない。そしてその手段にも決して賛同出来ない。それでもチカゲは無言で銃を収める。《塵》なんてどうなっても構わない。しかし、だからと言って何も滅びの方向に引金を引く必要はないと思ったのだろう。
 アラカキキはそんな彼の背を軽く叩いた。
「気にする事はない、チカゲ。行政は全てわたしが担当する。君は軍事だけ考えてくれれば良いんだ。さあ、これから三者会議だ」
 行政、軍事、残るは技術だ。それぞれに自分、《赤き死》、それからもう一人をトップに据えてアラカキは構想を立てている。まるで小さな政府だとオキは思った。チカゲが投げ遣りな調子で頷くのが見える。
「……何が三者会議だ。まるでままごとだな」聞こえるように毒づいた。「もう一人はあのイカれた科学者か」
 それがドクター・カーンを指すのだという事はオキにも見当がついた。自分より背の高い人間はあまり居ない。しかしその科学者は、それでも見上げんばかりの巨人であった。白衣を纏い、最近よくここに出入りする姿も目撃していた。アラカキがチカゲに説明している。あの男はパキスタン人で有能な科学者だ。君に暴力を振るったのはいただけないが、休日は近所の子ども達相手にサッカーのコーチをするような気さくな男だよ。
 返事も寄越さずチカゲはその場のソファーに腰を下ろす。呼ばれていない気はしたが、オキもその隣りにちょこんと座った。尤も図体がでかい上に、無言なので決して遠慮勝ちな態度とは見えないだろうが。
 しばらくしてその大男が、例によって白衣を靡かせながらやって来た。ちらりとチカゲに視線を走らせてから、アラカキと談笑を始める。目的の物は手に入ったかとアラカキ。いや、無理だったとドクター。
 隣りのチカゲがもう何も聞いていないのは明らかだった。退屈し切っているのが分かるし、それ以上に赤い塔と部屋中のモニターが気になって仕方がないのだ。
 アラカキは葉巻をくゆらしながらドクターに答える。
「核のせいで手段はなくしたが、我々ニッポン人には技術が残っている。じきに出来るだろう」
 そんな事より──。いよいよ本題に入る政治家のように、アラカキはそこで一呼吸おいた。僅かに声に張りが出ている。
「《赤き塔》がいよいよ完成する」
「……悪趣味な名前だな」チカゲが呟いた。
「そうかも知れないな。しかし《赤き塔》を本格的な軍事拠点として、この街と住民を再編すれば主権国家(ニッポン)の復活も夢じゃない」
 異様にテンションの高いドクターが拍手する。
「しかし……」覇気のない口調に戻った。「差し当たっての問題が……」
 オキとドクター、チカゲすらもアラカキの方を見やった。三人の視線に晒されながら、官房長官は葉巻を灰皿で捩り消す。
「塔には常に何台ものカメラを設置している。それが壊された。その上警備の者が二人、夕べ殺された」
「殺された……?」
 誰に? との問いにアラカキは黙ってしまった。それが分かれば苦労はしない。
「何者かが侵入したようだが……。余程腕の立つ奴のようだ。夕べは総勢十名が警備に当たっていたのだが、全く異変に気付かなかったと」
「それは気に掛かることだな」そこでドクターがぽんと手を打つ。
「《赤き死》の彼に出てもらうというのは?」
 《赤き死》の活躍は、新参の兵士を鼓舞する格好の材料にもなろう。その彼に警備の指揮を任せようと言う。
 頼まれてくれるか? アラカキがチカゲを覗き込んだ。そんな頼み方で、この捻くれた友人が事を引き受ける訳がないとオキは知っている。しかし彼はそっぽを向いたまま、肩だけ竦めて答えたのだった。
「構わねぇよ。見張って、侵入してきた奴を殺せばいいんだろ」
「チ、チカゲ……」
 横から腕をつつくが、完全に無視された。友人がやけっぱちになっているのは間違いない。だが、彼にはもうどうしようもない。
「なら、俺も行く」
 小さな声で続けたが、この場の誰の耳にも届かなかったようだ。
 
 やがて、夜になる。
 
「プロの仕業だ。ナイフを抜き出す一瞬の動作で、相手の利き腕の腱を切断している」
 更に首を指差す。鮮やかに頚動脈が断ち切られている。
 死体の死体を運ぶオキに付いて来たチカゲはそう言った。それからちらりとこちらを見ると、呆れたように息を吐く。
「こんなものでも死体は嬉しいのかよ」
「い、いや……」
 意識はせずとも顔が緩んでいたのだろう。久々に見る新鮮な死体だ。塔の下に新しく作った死体安置所の中にまではさすがにチカゲも付いて来なかったが。
 夜、二人は鉄塔──アラカキが言うところの《赤き塔》に設置された滑走路のある最下層の階に来ていた。最上部には制御ルームが設置されている。モニターや警備システム等、塔に設えられてある装置一切を管理する場所だ。無論、それは隣りのビルからも操作可能である。
 エレベーターがまだ造られていないので、陽が落ちてから二人は階段を上ってきたのだ。しかし地上から一番近い滑走路まで来た時点で早くも音を上げた。それでも通常のビルにして十数階の高さはあろう。警備どころではない。二人はぜぇぜぇ息をついて、その場に座り込んでしまった。
「何だよっ、これは……!」チカゲが怒鳴る。
 怒鳴らなければ互いの声も聞こえないのだ。夜の塔に突風が吹き抜ける。叩きつけるような凄まじい風だ。大の男が、どこかにつかまらなければ飛ばされてしまうくらいの。今日は特に酷いらしい。見張りの兵士達も半数が塔を降りたと言う。
「やっぱり無理だ。オキ、戻ろう」
 こんな日に、誰も忍び込んじゃ来ないって!
「いや、しかし……」
 そうは言うがオキは首を振る。でも官房長官が……。口の中で呟いたせいか、チカゲの耳には届いていないようだ。
「そ、そうだ、あんたが気にしてたナオって女。官房長官の愛人の」
「はぁ?」
 こんな時に何を言い出す? そんな表情だ。元より引き止める為の必死の会話なのだから、唐突なのは仕方がない。
「あのまま見付かっていないらしい。中国放送局からそのまま行方不明になってるそうだ。これはビーストと一緒かも知れんな」
「何だよ、今頃……」
 ビーストの身を案じたのだろう。チカゲの表情が曇る。また、余計な事を言ったかも知れない。オキは顔を俯かせる。友人がまだ自分を許していない事は分かっていたから。すまないと謝ってみても、多分彼には届かないだろうと思うから、オキは何も言えなかった。
「いいよ、別に」再び、チカゲが怒鳴る。
「え……?」
 許してくれるのか? それともナオの行方に関してどうでもいいと言っているのか?
「今のはどういう……?」
 女々しく縋っているというのは自分でも分かっていた。オキが再び友人の名を呼ぼうと口を開きかけた時だ。異変に気付いたのは。チカゲの全身に殺気が走ったのだ。思わず彼の視線を追う。
 吹き荒ぶ風。赤い鉄梁の向こう。闇に溶け込むようにして、女が一人立っていた。女が身に付ける一点の赤がなければその姿を捉える事は困難であったろう。いつからそこに居たのだろう。突風をものともせず、聳えるように立ち尽くす。
 オキと同じく黒ずくめの衣服。短い黒の髪。硬質な右の視線はナイフのように鋭い。それから左目には真っ赤な眼帯。ゆっくりと近付いて来る長身のその姿には一部の隙もない。
「チカゲ……」
 声の震えを、オキは自覚した。背中を冷たい汗が流れる。これが夕べの侵入者? 只者ではあるまい。この女の醸し出す威圧感。これ程重い空気を、彼は感じた事がなかった。
「オキ、逃げろ……」チカゲの掠れた声。
「チ、チカ……」
 彼もこの女のただならぬ気配を、或いはオキ以上に強く感じ取っているかもしれない。ベルトに挟んでいたS&Wを握り締める。
「いいから逃げろ、早く!」
「しかし……」
 オキが何か言いかけたと同時に、女が口を開いた。
「貴様が《赤き死》を騙る者か」
 低い声。しかしこの風の中でもここまではっきり届く強さを、その声は持っていた。
「騙るって、何……」
 女はチカゲの反論など許さなかった。振り上げる手にはナイフが光る。鋭い光を認識した時には──風を裂く音と共にそれは女の手を離れていた。
 狙いはチカゲの額である。一直線に。彼が銃を構える間もなく。
 しかし一際強い風が細いナイフを巻き上げた。勢いは死なず、だが狙いは大きく逸れる。
 オキはチカゲの悲鳴を聞いた。同時に──恐らく反射的に指が引金を引いたのだろう──彼が撃った銃声を。女が舌打ちする音すらも、やけにはっきりと耳に届く。
 次の瞬間、胸に軽い衝撃が。バランスを崩したオキは風に煽られる。塔の外に飛ばされそうになったその時だ。咄嗟に伸びた手が自分の腕をつかむ感触。
 ああ、チカゲだ。そう思った。俺を助けようとしてくれて……?
「すまない、チカゲ……」
 そう呟いたつもりだったが、上手く言葉になったろうか。オキの意識は急速に暗闇に吸い込まれていった。まるで、この夜のように。
 
     ※
 
 まるで怪物のように《赤き死》が膨れ上がっていく。
 
 チカゲは唇を噛む。メイを思い出したのだ。それから夕べの眼帯の女。二人共、僕の命を狙った。恐らく姉──《赤き死》イズミと間違えて。
「何をしたんだ、イズミ……?」
 今もああやってまざまざと憎しみをぶつけられるくらいの事を? アメリカで何があった?
 今更ながらぞっとした。体の震えが蘇る。夕べの女……。
「殺意すら感じなかった。気が付いたらナイフを……。まるで義務みたいに簡単に、冷静に」
 無意識だろう。チカゲの指は自らの赤い髪を押さえていた。
「《赤き死》が狙われるのは仕方のない事だ」
 むしろそれだけ影響力を持ち始めたという事。成功だと喜ばなければ。
 葉巻を手に、アラカキが言う。隣りに居るチカゲにも聞き取りにくい声。俯いて、誰に向かって話しているのかすら分からないくらいの。或いはそれは独り言なのかも。
「自衛隊時代の《赤き死》は戦闘のシンボルだった。実際腕は立ったし、戦功も華々しいものだった。それにあの容姿だ。目立たない訳がない。そこに国会議事堂テロでの活躍……。ニッポンの人間に誰一人として彼女を知らない者は居ない」
 だからこそ彼女……否、《赤き死》の言葉は影響力を持つのだ。国土も人口も激減したこのニッポンだが、《赤き死》を中心として屈強の軍を創り上げて国土の防衛を担わせる。一丸となって復興へ向かえば十年後、否、五年後には必ず……。
 ご大層だな、チカゲは溜め息をつく。どんなに御託を並べたって、イズミはもう居ないのに。
 自分の立場がかなり微妙なものだという事はチカゲにも分かっていた。アラカキに利用されているのだという事も。それでも自分が姉に成り代わる事で、この国の為になれば……なんて殊勝な事を考えているわけでは、決してない。銃を持った兵士達に見張られ、他に行く所もないからここに居るだけ。彼はニッポンも《赤き死》も、どうでも良かったのだ。姉に裏切られ、生きる目的も失ったが、だからと言って死にたくはない。本当にどうでも良かったのだ。
「イズミだったら……」
 彼女だったらこんな時、どうするのだろう。徹底的にアラカキに反発する? それとも率先して復興に携わる?
 そこまで考えてチカゲは首を振った。もう止めよう、そんな事を考えるのは。イズミの事は忘れてしまおう……。
 それでも震えは止まらなかった。
「アラカキ……」
「官房長官と呼べ」アラカキが訂正する。
 ここはビルの上層階。アラカキの居室だ。一番安全な所にチカゲは匿われている──囚われているとも言えるが。部屋には銃を持った男が数人。アラカキの言は彼等の存在を慮ってのものだろう。ケツの穴が小せぇんだよ、とチカゲは毒づく。
「それで官房長官、あの女は何者なんだ」
 部屋中のモニターは夕べの一部始終を再生していた。塔に設置されたカメラはご丁寧な事に全て壊されていたが、隣接するこのビルから塔に向けられた物が一つ生き残っていたのだ。
 黒ずくめの長身の女、左目に赤い眼帯。軍隊経験者特有の正確な歩幅。突風にも上体は決して揺るがない。ナイフを取り出す確かな手元。強風をものともせずに投げる腕の力、正確さ。
「素人じゃない。プロだ。それなりの訓練を積んでなきゃこの動きは絶対出来ない。アラカキ、この《塵》にそんな組織でもあるのか」
 官房長官だ、と言い直してから彼は俯く。
「そんな《サイレンサー》みたいな組織がダスト(ここ)にあるとは思えないが」
「サ……? 何?」
 自衛隊の特殊部隊の一つだよ。結構有名な筈だが、とアラカキは簡単に続けた。
「要人暗殺部隊だ。その名の通り、音もなく殺す」
「銃の消音装置みたいな?」
「銃はいくら機械を付けても音はする。彼等の獲物はナイフだ。絶対に音が出ない」
 ナイフ、という言葉でチカゲの視線はモニターに戻る。眼帯の女が投げたナイフが突風に掬われ、オキの方に飛んで行く様が映っている。同時に自分が銃を一発、放っていた。音のない映像で幸いだ。この時、自分はひどくうろたえていたように思う。
 ナイフの柄がオキの腹に当たり、バランスを崩した彼が強風に飛ばされる。咄嗟にその腕をつかんだのだが、恐らくその衝撃で肩が外れたに違いない。モニターの中の友人は情けない顔で叫んでいた。その後、ぐったりと力を失くす。ショックで失神したのだ。
 眼帯の女は銃声で人が集まるのを恐れたのだろう。止めを刺す事無く踵を返した。電波塔のビデオデッキから《赤き死》のテープを取り出すと、画面から消える。階段の方にではない。鉄塔にロープを巻き付け、飛び降りたようだ。
「しかし《サイレンサー》は戦争で壊滅したし、《塵》にこんな者が居るという情報も入ってないしな」
 おいおい、頼りねぇな。こいつは絶対また来るぜ。
 チカゲの視線を感じたのか、アラカキはモニターの電源を落とした。
「鉄塔にカメラを新たに付けた。見張りの数も三倍に増やす。今夜から君はこの部屋に居なさい。護衛の数も増やすし、わたしも居るから」
 いざとなれば、わたしが命に代えても君を守ろう。アラカキはそう言った。いつもより声に力がある。
「《赤き死》はわたしの、そしてこの《塵》の切り札だ。必ず守るから」
 安心しなさい。アラカキが肩を叩く。貧弱な手には力がない。今ひとつ頼りがいはなさそうだが、この男が本気なのは分かった。
 でも──。
「でも、僕は《赤き死》じゃない……」
 小さな呟きは、しかし誰の耳にも届かない。
 
     ※
 
 こうなったら、一人になるのには逆に骨が折れる。昨夜の現場を見に行くという名目で、ようやくチカゲはビルを出た。それでも周囲には数人の兵士が張り付いている。
「マリファナ吸い放題ってのはいいんだけど」
 さすがに息が詰まる。ビルの中でその植物を栽培しているせいか、空気までが澱んでいるようだ。マリファナの中で暮らせるのは本望なのだが、たまには外気も恋しくなる。と言っても、この街の空は灰に覆われていて、澄んだ空気を肺いっぱいにという訳にはいかなかったが。
 チカゲは片手に抱えたサブマシンガンの重みを確かめる。MP5の最小ヴァージョンをくれと言ったら、アラカキはあっさり渡してくれた。護身用としては大きすぎる銃だが、今更その銃口を彼に向けようとは思わなかった。仕方がない。決して良い人間ではないし、信用も出来ない。単なる夢想家だとも思う。しかし……。
「ああ、鬱陶しい」
 チカゲは首を振る。ごちゃごちゃ思ってもどうなるものでもないだろ。先を考えても混乱するばかり。ならば、当面の目的を思い出せ。
「そうだ。ビーストを探して……。いや、その前にオキは?」
 怪我は軽症という事だ。それなのに今日は姿を現さない。
「どこ行きやがった、あいつ」
 あの陰気な男は側に居れば煩わしいが、居なければ逆に気になって仕方がない。またどこかで死体相手に、にやついているんじゃないかと思うとやり切れない。
 チカゲの鼻がピクリと動く。風に乗って嫌な臭いを捉えたのだ。これは、そう血の臭い。近い。この臭いのする所にあの男は居る筈だ。
「オキ、お前何やって……」
 勢い込んで扉を開けた。しかし語尾は途切れる。
 鉄塔の真下の地面に設けられた、物置小屋のような小さな鉄筋の建物だ。そこから確かに生臭さが漂ってくる。立入禁止のロープが張られているが、チカゲはあっさりそれを跨いだ。
 小屋の中は意外な程に煌々と明かりが灯されていた。あまりに眩くて立ちくらみを起こす程に。狭い部屋が一つきりという造りだ。部屋には幾つかのモニターが設置されており、鉄塔の各階の映像が順に映っている。
 扉を開けたと同時に鉄臭い生々しい空気が強烈に鼻孔を刺す。案の定、室内中央には手術台のような寝台が置かれており、その傍らには友人の黒ずくめの姿が。しかし彼の表情は死体を前にしたいつもの気味悪い笑顔ではなかった。見た事もない真剣な目。喰い入るように寝台に横たわるものを見詰めている。
 そしてその隣りには白衣の巨漢。ドクター・カーンだ。突然入って来たチカゲを見て、外国語で何か叫んだ。驚きというより、喜んでいるようだ。立ち竦む彼を手招きする。
「何をしているのさ? さぁ、こっちへいらっしゃい! よく見える位置へ」
「な、何……?」
 ちらりとオキを盗み見ると、普段無表情の彼が顔を顰めて俯いていた。悪いところを見付かってしまったという面持ちだ。
「お前ら、何やって……」
 さあ、こっちへ! ドクターに誘われるがままに寝台を覗き込んで、チカゲは絶句した。
 そこには確かに死体が横たわっている。血の気の失せたどす黒い肌。色素が抜けたような白金の髪。生きていた頃は小柄な品の良い青年だったに違いない。しかし至近距離から銃撃を喰らった身体は、無残にも穴だらけであった。
「待てよ、こいつ……」
 しかも額から上がぱっくり割れている。隙間から覗くコレは……脳の一部か? 切り口の鋭利さから、それがメスを持ったドクター・カーンの手によるものである事は容易に推察できた。
「こいつはまさか……メイ?」
 認識した瞬間、胸の奥から込み上げてきた。たまらずその場に吐いたチカゲの腕を、オキが引っ張って部屋の隅に連れて行く。
「オキ、お前何やって……。あの死体はメイだ。わざわざ国境から連れて来たのかよ。何でこんな……」
 最後まで喋れない。込み上げる嘔吐を堪えるので精一杯だ。
「ア、アラカキが言ってたぞ。あの男、母国パキスタンで大規模生物兵器量産施設の責任者をしてたって。それで国際機関に指名手配されてるって。核前の事だぞ。パキスタン軍部の分裂の余波を食らって、ニッポンに亡命してきたんだ」
 そうさ! ドクターが叫んだ。
「旧ニッポン以上にダスト(ここ)は隠れやすいさ。施設は乏しいが、アラカキが資金も提供してくれる。変な法律もないし、研究し放題さ!」
 でもアラカキは鼻持ちならなーい! 妙な発音で彼は叫ぶ。ダカラこの間、葉巻に痺れ薬を混ぜてやったよ。
 カカカと笑う。チカゲの吐き気は別のものに変わった。
「オキ、行こう」
 こんな所に、いや、こんな奴と一緒に居る必要はない。そう言って友人の手を取る。しかしそれはあっさり振り払われてしまった。
「オキ?」
 彼は俯いている。チカゲから顔を背けている為、その表情は見えない。
「チカゲ、あんたは感情でものを言っている。倫理というのは個人、或いは文化によってまちまちだろう」
「オキ……?」
 珍しく饒舌に、有人は語った。これも側に死体が居るおかげなのだろうか。
「しかし科学は違う。科学は常に未知の領域に向かって突き進むものだ」
 やけに自信に満ちた口調に、チカゲの脳が滾る。何言ってやがると怒鳴った。これでいつものオキなら怯む筈だ。しかし友人は恐れず言葉を続けた。
「ドクターを手伝って初めて分かった。これは必要な事だ。《塵》の武器になるし、《赤き死(あんた)》の力にもなる筈だ」
「よせ、オキ。何をするつもりだ……」いつもとは違う思い詰めた表情。抑揚のない言葉。「夕べ助けてやっただろ。この五年間の事だって、もう何も言わない。だから……」
 僕と一緒にここから出よう。
 何を言っても構わない。どんな思想であれ否定するつもりもない。それでもこの場所だけは嫌だった。ドクター・カーン、この男だけは得体が知れない。
 しかし友人は彼の腕を取らなかった。
 
 暫くの間、凍り付いたように二人はその場を動かない。ドクターが作業する際の微かな音だけが、静けさを必要以上に助長する。
 チカゲの視線は寝台のメイの死体の方にさ迷い、また友人の方へ戻る。見たいわけではない。しかし気になる。
「な、何やってんだ……?」
 いつのまにかメイの横にもう一つ、妙な動物の死体が並べられているではないか。金色の狼? それにしては手足が長い。
「これは……」
 あまりにも青いチカゲの顔を見て、ドクターが吹き出した。
「チガウチガウ! 死体じゃないよ。獣化体人工生命体さ!」
 最初は十センチくらいの魚のような形をした生命体なのさ。それを水中で育てる。数週間で人間の形に変じていき、後は大きくなるのを待つだけ。獣人になる。
「今の時代、どこの科学機関でも造れるさ。こんなモノ」
「ホムンク……造る……?」
 ドクターは更に声を上げて笑う。
「シカシ、その制御が難しいのさ。目的にもよるケド、兵士として造るなら人工知能では限界があるだろ。いくら優秀でも人間並みの感情は造れない。よく機械のように感情を消せと言うケド、戦場で感情、感覚ほど大切なものはないさ。キミなら分かるだろ」
 だからそれなりに優秀な人間の脳をこうやって……。
 人形に、メイの脳の一部がすっぽり収まった。まるで違和感なく……。
「そんな顔しないで! 考え方、チガウ! ワタシは生きてる人はゼッタイ使わないさ。死体の脳を使う」
 おぞましさに、反射的に指が反応した。引金を引く動き。しかし肝心の銃はとっくに床に落としていた。チカゲは呆然とそこに立つだけだ。
「アラカキは文字通り死の軍勢を造ろうとしている」オキがチカゲの腕をつかんだ。「それに、考えてみろ。死んでからでもこうやって復活できるんだ」
 俺達は真剣に考えなきゃならん。
「な、何を?」
 腕を振り払う。とてつもなく嫌な予感がした。
「よく聞け。新型の核は残留放射能が極端に抑えられている。落とした後の占領がしやすいようにだ」
 結局、あまりの破壊力にニッポンの国土そのものが消滅してしまった訳だが。
「だから、核後に再びここに戻って来たドクターには被爆の危険は殆どない。でも俺達は……」
 死の灰の直中に居たじゃないか。あんたが気分が悪いのは分かる。でも時間がないんだ。早く……早く、ニッポン人が全滅する前にこの技術を完成させなくては。ようやく確実性が出てきたんだ。もう少し発展させて……。
「何言ってやがる」チカゲの身体から嘘のように震えが引いた。床に落としたMP5を拾い上げる。「そんな事聞いてんじゃねぇよ」
 銃口はドクターに向けられた。いつでも撃てる。そんな体勢だ。オキが何か叫んだが、一睨みすれば黙る。
「聞きたいのはそんな事じゃない」
 縫合の途中でドクターは手を止めた。チカゲの殺気が本物だと悟ったのだ。
「聞きたいのはビーストの事だ」
 びいすと? ドクターが繰り返す。
 ビーストという名では分からないのか、それとも惚けてやがるのか。チカゲは舌打ちする。
「獣化するんだ。あいつは明らかに人間じゃない。あんたが関わってるんだろ」
 横でオキがはっと息を飲む気配。
「びいすと、獣化……ハッカーの事か?」
「何だって?」
 確かに奴は自分の事を天才ハッカーだと言っていたっけ。
「アレは最ッ高の成功例さ!」
 隠すかと思ったら、ドクターは嬉々として叫び始めた。もうチカゲの銃など目に入っていない。
 身寄りもない天才ハッカーの死体。ニッポンに亡命していた二〇三三年の事だ。実験の為に盗み出した。当時は生体実験に関しては規定が厳しく、なかなか思うような成功を収められなかったのだと言う。ハッカーの脳を少年型の人工生命体に装着し実験は一応、初の成功を見たかに思われた。
「戦闘能力アップの為にオオカミの遺伝子もスコシ加えてね。でも多分そのせいだ」
 当初、それは全く動かなかったのだと。
 理論は完璧だ。もう少し手をかければ必ず……。しかし彼は国際機関より追われていた。ニッポンの科学機関に身を寄せていたが、これ以上匿えないと言われた。仕方がない。一旦、国(パキスタン)に帰る。
「ハッカー……ビーストか? 本当の名は分からないがな。そのままにしておくのは勿体無いから隠したんだ。いつか戻って来て、実験の続きが出来るように」
 そう、ちょうどこの場所さ! 男は両手を広げた。チカゲとオキが思わす後ずさる。この塔に?
「当時は国技館だったがな。地下駐車場の車の中に隠したのさ。いつか戻って来て、実験の続きが出来るように」
 それから三年後──チカゲもよく知っている。核が落ちた。
 ニッポンは消失した。しかし両国は残っているという。居ても立っても居られなくなり、ワタシは戻ってきたのさ、とドクターは続けた。デモ遅かった。
 核のショックでビーストは動き出した。オキが言っていた旧国技館の幽霊騒ぎの原因はビーストだったのか。ウロウロしていたところを、米軍に捕らえられたようだった。とりあえずと拘束された場所が、チカゲの居たあの施設なのだ。米側は貴重な実験例として本国に持ち帰ろうとしたのかもしれない。しかし結局占領は上手くいかず、施設も収容者達もそのままに軍は撤退した。残ったのは極少数の民間の看護員のみ。ビーストをさぞ持て余した事だろう。
「それから後はキミ達の方がよく知っているだろ」
 ふぅ……と息をつく気配。黙って話を聞いていたチカゲは微かに首を振る。こいつは完全におかしいだろ? 彼は下ろしていた銃口を再び上げた。
「この男は今、殺しておいた方がいい」
 よ、止せ……。銃身を押し退けようとするオキの手は震えていた。今の話は初耳だったようだ。
「核だろうな!」突然、ドクターが叫んだ。「核の何らかの要因がビーストの身体には上手く作用した。だから意識を取り戻したのさ。最良の形でね。だけど残念ながらワタシには核の知識がまるでナイ。ダカラこの間、中国に行った。核は買い付けられなかったけど、でも……」
 そこで、彼を見たよ。
 
 その一言で全てが止まった。そして動き出した。
 チカゲは思う。彼? ビーストが? やっぱり中国側に……?
 同時に寝台の上のメイが起き上がる。脳の入った人工生命体の方だ。外観は金色の狼。以前の彼とは全く違う。しかし吹き放つ殺意は同じだった。予定された動きのように、突如チカゲ目掛けて躍り上がる。
 人間の跳躍ではない。凄まじい勢い、速度(スピード)。
「うわっ!」
 攻撃をかわして床を転がった時だ。部屋中のモニターが一斉に異常音を放った。侵入者の合図だ。反射的にそちらに目をやったチカゲの視線が凍り付く。
 モニターいっぱいにビーストが……。否、獣化したあの姿が映っていたのだ。何十と居るだろうか。鉄塔の滑走路一杯に溢れ返っている。
「な、何だ、これは……」
 その大量のビースト達の向こう。ちらりと赤が見え隠れするのを、チカゲの目は捉えていた。淡い期待と共に無意識に反応してしまう色だ。それは極小さな物である。銃でメイの動きを牽制しながら、更に目を凝らす。
 赤い眼帯──夕べの女だ。
 軽い失望が襲う。目を逸らした瞬間だ。女の向こうにもう一人の人物の姿が。長い黒髪、細身の姿。銃でビースト達を追い払っている様子。女か? 彼女がこちらを振り向く。
「まさか……」
 チカゲの喉が鳴った。唇が震え、それが微かに音を形作る。
 ──イ・ズ・ミ?
 自分によく似た顔。見慣れた、それでいて一番見たかった……それは彼の姉であった。
 MP5の弾丸をメイに向けてぶち撒けてから、彼は建物を飛び出した。赤い鉄塔を駆け上る。
 彼女がこの上に居る?
 そう思うと、足が縺れて。もどかしくて仕方がない。これが現実かどうかすら確信が持てなくなって。ただ気持ちだけが上に、姉の元に走って……。


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