見出し画像

南方熊楠に聞く🎤森羅万象を相手にした、在野の巨人🌙千夜一夜物語第121夜|日本語版


始めに


南方熊楠:
わしは、南方熊楠。読みは、みなかた・くまぐす
慶応3年、いまの暦でいえば1867年5月18日、和歌山城下に生まれた。旧暦では4月15日ともいう。
明治のはじめ、日本が「西洋に追いつけ、追い越せ」と息を切らして走り出したころ、わしもまた、妙な方向へ走り出した男である。
聞き手:
妙な方向、ですか。
南方熊楠:
そうじゃ。普通なら、学校へ行き、試験に通り、役所か大学に入り、肩書を磨く。
しかし、わしは東京大学予備門を退学し、19歳でアメリカへ渡り、その後イギリスへ行った。およそ14年、海外で本を読み、植物を採り、標本を集め、考え、書き、また考えた。
肩書よりも、森羅万象のほうが面白かったのじゃ。
聞き手:
博物学者、民俗学者、生物学者。いろいろな肩書がありますね。
南方熊楠:
肩書は、あとから人が貼る札じゃ。
わし自身は、この世にあるものを、できるだけそのまま見たかった
粘菌、菌類、淡水藻、地衣類、コケ、植物、動物、昔話、伝説、ことば、宗教、風習。
人間が勝手に「これは理科」「これは文科」と分けても、森や村や人間の暮らしの中では、全部つながっておる。
聞き手:
いまの言葉でいうと、かなり学際的ですね。
南方熊楠:
いまの言葉でいうと、そうじゃろうな。
ただ、わしに言わせれば、学問を細かく分けすぎると、肝心の「つながり」が見えなくなる。
粘菌を見るには森がいる。森を見るには土地の歴史がいる。土地の歴史を見るには神社や村の祭りがいる。祭りを見るには人間の心がいる。
つまり、粘菌を追いかけていたら、いつの間にか人間社会まで見えてくる。
これを面倒と思うか、面白いと思うか。
わしは、面白いほうを選んだ。

明治という時代――国が急ぎ、人が置いていかれた時代

聞き手:
熊楠先生が生きた時代は、幕末から明治、大正、昭和初期にかけてですね。
南方熊楠:
そうじゃ。
わしが生まれたころ、日本は江戸から明治へ移ろうとしていた。
武士の世が終わり、近代国家が始まる。
鉄道、新聞、学校、軍隊、役所、大学、制度、法律。
日本中が「文明開化」という看板を掲げて、西洋式の近代化へ進んでいった。
聞き手:
華やかな時代のようにも見えます。
南方熊楠:
華やかではあった。
しかし、華やかな看板の裏では、古い暮らし、村の信仰、土地の記憶、自然の森が、しばしば「古いもの」として片づけられた。
近代化は必要じゃ。だが、近代化という名の大掃除で、宝物まで捨ててしまってはならん。
聞き手:
そこで出てくるのが、神社合祀反対運動ですね。
南方熊楠:
うむ。
1906年、明治39年ごろから政府は神社合祀を進めた。
簡単にいえば、各集落にあった多くの神社を整理統合し、「一町村一神社」を標準にしようという動きじゃ。
特に和歌山県では、かなり強く推進された。
聞き手:
神社をまとめるだけなら、行政効率化のようにも見えます。
南方熊楠:
それが、机の上で考える者の発想じゃ。
村の神社は、単なる建物ではない。
そこには、村人の信仰、慰め、祭り、古伝、史跡、共同体の記憶が宿っている。
さらに、神社の森には、貴重な植物や菌類や粘菌が生きている。
神社を潰すと、森が伐られる。
森が伐られると、生き物が消える。
生き物が消えると、土地の記憶まで細っていく。
だから、わしは反対した。

大英博物館で鍛えた「知の筋肉」

聞き手:
熊楠先生は海外でも大きな足跡を残していますね。
南方熊楠:
アメリカでは、学校よりも自然と図書館が師匠だった。
その後、ロンドンへ行き、大英博物館を拠点にした。
大英博物館の円形閲覧室は、わしにとって巨大な知の森だった。
木の代わりに本が生え、鳥の代わりに世界中の言葉が鳴いておった。
聞き手:
表現が熊楠先生らしいですね。
南方熊楠:
本の森で迷子になるのは、わしにとっては最高の散歩じゃ。
ロンドン時代には、科学雑誌『Nature』にも投稿した。
1893年には「東洋の星座」が掲載され、帰国までの間だけでも『Nature』掲載論文は30編にのぼったとされる。
さらに、大英博物館では「日本書籍目録」の編集にも協力し、膨大な読書と書き抜きを重ねた。
聞き手:
大学教授でもなく、官僚でもなく、それで世界的な雑誌に投稿していた。
南方熊楠:
学問は、椅子でするものではない。
もちろん椅子も大事じゃが、椅子に座っただけでは学問にならん。
読む、見る、採る、書く、比べる、疑う、また読む。
これを続ける者が、学問をする者じゃ。
聞き手:
まるで、巨大な個人データベースを頭の中に持っていたようです。
南方熊楠:
それは面白い言い方じゃ。
わしの頭の中には、粘菌の標本、古今東西の文献、昔話、宗教、方言、植物、新聞記事、書簡が、蜘蛛の巣のようにつながっておった。
現代なら、検索エンジンやAIがやるようなことを、わしは紙と記憶と執念でやっていたのかもしれん。
ただし、わしの検索エンジンは、たまに酒も飲む。

粘菌――小さな生命から、大きな世界を見る

聞き手:
熊楠先生といえば、やはり粘菌です。
南方熊楠:
粘菌は面白いぞ。
動物のようでもあり、植物のようでもあり、菌類のようでもある。
分類の枠を笑うような存在じゃ。
人間が「お前はどの箱に入るのだ」と尋ねると、粘菌は「箱のほうが狭い」と答える。
聞き手:
それは、熊楠先生自身にも通じますね。
南方熊楠:
わしも、箱に入るのは苦手だった。
生物学者か、民俗学者か、博物学者か。
どれでもあり、どれだけでも足りない。
特に心血を注いだ研究対象は、菌類、粘菌、淡水藻であった。
17歳ごろに六千点の菌類標本集の存在を知り、それを超える収集を志したともいわれている。
聞き手:
粘菌研究は、単なる珍しい趣味ではなかったわけですね。
南方熊楠:
もちろんじゃ。
小さな生命を見れば、自然の仕組みが見える。
森の湿り気、木の倒れ方、土の状態、光の入り方、人間が森に何をしたか。
粘菌は、小さいが、自然の履歴書のようなものじゃ。
だから神社林が伐られることは、わしにとって研究対象が失われるだけではない。
自然が書いてきた長い文章を、途中で破り捨てることだった。

神社合祀反対――熊楠はなぜ怒ったのか

聞き手:
熊楠先生は、神社合祀反対でかなり激しく行動しましたね。
南方熊楠:
怒るべきときに怒らぬ学者は、標本箱の中の虫と同じじゃ。
わしは新聞に反対意見を書き、役人を批判し、中央の学者にも協力を求めた。
『牟婁新報』をはじめ、『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』などにも反対意見を送ったとされる。
聞き手:
今でいうと、メディア戦略ですね。
南方熊楠:
まあ、そう言えなくもない。
わしは筆で戦った。
ただし、筆が少々暴れ馬だったので、周囲は困ったかもしれん。
聞き手:
反対運動の本質は、環境保護ですか。それとも文化保護ですか。
南方熊楠:
両方じゃ。
自然と文化を分けるから、問題が見えなくなる。
神社の森は、単なる木の集まりではない。
村人の祈りがあり、祭りがあり、昔話があり、地名があり、生き物がいる。
自然を守ることは、文化を守ることでもある。
文化を守ることは、自然を守ることでもある。
ここを切り離すと、人間は土地から浮いてしまう。
聞き手:
近代化の中で、熊楠先生は「待った」をかけたわけですね。
南方熊楠:
近代化そのものに反対したのではない。
わしは海外にも行ったし、西洋の学問も学んだ。
だが、近代化とは、古いものを全部壊すことではない。
新しい知識を得た人間ほど、古い森の価値を見抜かねばならん。
文明開化の名で、文明の根っこを切ってはならんのじゃ。

柳田国男と並ぶ民俗学の巨人

聞き手:
熊楠先生は、民俗学でも重要な人物とされています。
南方熊楠:
わしは、昔話や伝説や風習にも強い関心を持った。
人間は、食べて寝るだけの生き物ではない。
人は物語を持ち、禁忌を持ち、祭りを持ち、言い伝えを持つ。
そこに人間の知恵と恐れと願いがある。
聞き手:
民俗学というと、柳田国男の名前がよく出ます。
南方熊楠:
柳田君は、体系を作る力があった。
わしは、あちこち掘り返す力があった。
田んぼの畦をまっすぐ作る人と、山の中で妙なキノコを見つける人。
どちらも必要じゃ。
熊楠は、民俗学の分野でも柳田国男と並ぶ重要な人物とされている。
聞き手:
熊楠先生の民俗学は、比較のスケールが大きいですね。
南方熊楠:
日本の伝説を、日本だけで見ていては狭い。
似たような話が、中国にも、インドにも、ヨーロッパにもある。
人間の想像力には、地域差もあれば共通性もある。
そこを比べると、人類の心の地図が少し見えてくる。

昭和天皇への進講――キャラメル箱の粘菌標本

聞き手:
有名な逸話として、昭和天皇への進講がありますね。
南方熊楠:
昭和4年、1929年6月1日のことじゃ。
神島で昭和天皇をお迎えし、御召艦「長門」の艦上で、粘菌や田辺湾の生物についてお話しした。
そのとき、粘菌標本などをキャラメルの箱に入れて献上したという話が残っておる。
熊楠は約25分間、標本を示しながら進講し、粘菌標本110種などを献上したとされる。
聞き手:
普通なら桐箱では。
南方熊楠:
桐箱は立派じゃ。
しかし、標本を見るには、開けやすく、扱いやすいほうがよい。
中身が大切なのであって、箱が威張ってどうする。
まあ、相手が天皇陛下でもキャラメル箱を出すあたり、わしも少々、いや、かなり変わっておったのじゃろう。
聞き手:
しかし、いかにも熊楠先生らしい。
南方熊楠:
学問において大事なのは、形式ではなく中身じゃ。
ただし、礼儀は大切じゃぞ。
奇人と呼ばれても、無礼者であってよいということではない。
奇人にも、奇人なりの作法がある。

南方熊楠の意義――なぜ今、熊楠なのか

聞き手:
では、現代から見て、南方熊楠の意義は何でしょうか。
南方熊楠:
第一に、知識を分断しなかったことじゃ。
自然科学と人文科学を分けず、粘菌と神社、森と祭り、標本と伝説をつなげて考えた。
現代は専門化が進んでおる。専門は大事じゃ。だが、専門が深くなるほど、隣の山が見えなくなることがある。
わしは、山と山を勝手に歩き回った。
聞き手:
第二は。
南方熊楠:
在野の力を示したことじゃ。
大学に属さなくても、役所の肩書がなくても、世界と勝負する学問はできる。
もちろん、在野は楽ではない。金はない。理解者も少ない。資料集めも大変じゃ。
しかし、自由がある。
自由とは、好き勝手をすることではない。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の責任で書くことじゃ。
聞き手:
第三は、環境保護の先駆けでしょうか。
南方熊楠:
そうじゃ。
ただし、わしの自然保護は、きれいごとの自然愛護ではない。
森には生物がいる。森には歴史がある。森には人の暮らしがある。
だから守る。
熊楠は、地域の自然保護に力を注いだエコロジストの先駆けとしても注目されている。
聞き手:
第四は、情報の扱い方かもしれません。
南方熊楠:
それは現代人にとって大事じゃろう。
現代は情報が多すぎる。
しかし、情報が多いことと、知恵があることは違う。
わしは、文献を読み、標本を見、現地を歩き、手紙を書き、記録を残した。
つまり、情報を身体に通した。
画面の上で流れていく情報を、ただ眺めるだけでは、知識は根を張らん。

熊楠先生、現代人に一言

聞き手:
最後に、現代人へ一言お願いします。
南方熊楠:
スマホの中ばかり見るな。
たまには、木の根元を見よ。
落ち葉をめくれ。
虫を見よ。
近所の小さな神社を見よ。
昔から残っている道を歩け。
そこに、大学の講義にも、インターネットにも出てこない知がある。
聞き手:
学問は、遠い世界ではなく、足元にもある。
南方熊楠:
その通りじゃ。
わしは世界を歩いたが、最後には熊野の森に深く根を下ろした。
世界を知ることと、足元を知ることは矛盾しない。
むしろ、足元を深く掘る者ほど、世界とつながる。
聞き手:
熊楠先生の人生を一言でいうなら。
南方熊楠:
一言では無理じゃ。
わしの人生は、粘菌のように広がりすぎておる。
聞き手:
では、無理にまとめると。
南方熊楠:
そうじゃな。
「森羅万象を、分類する前に、まず驚け」
これでどうじゃ。
聞き手:
名言ですね。
南方熊楠:
名言にするかどうかは、後世の仕事じゃ。
わしは今日も、森の中で妙なものを探す。
人が見落とすものの中に、世界の秘密はよく隠れておるからな。

まとめ

南方熊楠は、単なる「奇人」ではありません。
彼は、明治以降の近代化の中で、世界の学問を吸収しながら、同時に足元の森、村、神社、伝承を見つめ続けた人物です。
粘菌研究者であり、博物学者であり、民俗学者であり、自然保護運動の先駆者でもありました。
その意義は、現代風にいえば、専門分野を横断する知性在野で学び続ける力自然と文化を一体として守る視点にあります。
南方熊楠のすごさは、知識量だけではありません。
小さな粘菌から、森を見て、村を見て、人類の文化まで見た。
つまり彼は、虫眼鏡で宇宙を見ようとした人だったのです。

いいなと思ったら応援しよう!