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山川捨松に聞く🎤城は落ちても、未来までは明け渡さない――敗戦した会津の少女が、なぜアメリカへ渡ったのか🔯千夜一夜物語 日本語



ナレーション――少女が最初に見た「近代」は、砲弾だった

1868年、戊辰戦争。新政府軍と旧幕府側の戦いは東北へ広がりました。京都守護職を務めた会津藩は新政府から激しく追及され、鶴ヶ城は約1か月にわたる籠城戦の舞台となります。

城内には武士だけでなく、その家族もいました。負傷者の手当て、炊き出し、弾薬の運搬。そこに、わずか8歳の少女もいました。

名は山川咲子。のちの山川捨松です。

咲子は1860年、会津藩家老の家に生まれました。父は彼女が生まれる前に亡くなり、母や祖父、兄たちに育てられます。会津戦争では母や姉たちと鶴ヶ城に入り、弾薬を運び、自身も軽傷を負ったと伝えられています。

幼い少女にとって、政治とは教科書に書かれた制度ではありませんでした。砲声が響き、家族が傷つき、昨日までの暮らしが失われることでした。福島県男女共生センター「山川捨松」

会津藩は降伏し、旧藩士と家族の多くは斗南へ移されます。誇りだけでは空腹を満たせず、家柄だけでは明日の道を開けない。山川家もまた、敗戦後の世界で生き直さなければなりませんでした。

そのころ、明治政府は欧米の制度や技術を猛烈な勢いで学ぼうとしていました。1871年には岩倉使節団を派遣。開拓使次官・黒田清隆らは、近代国家を築くには女子教育も必要だと考え、5人の少女を官費留学生としてアメリカへ送ることにします。

政府が期待したのは、欧米の知識を身につけ、将来の日本を支える女性を育てることでした。ただし、そこには「近代的な母親を育てる」という当時の限界もありました。

扉は開かれましたが、女性がどこまで歩くかまでは、政府も想像していなかったのです。国立公文書館「第一部 女子教育の始まり」

選ばれた少女の一人が、満11歳、数え年12歳の咲子でした。

渡米に際し、名を「捨松」と改めたとされます。

「一度は捨てたつもりで送り出す。しかし、無事の帰国を待つ」

母の覚悟を「捨」と「松」に託した名だと伝えられています。

1871年末、捨松は津田梅子、永井繁子らと横浜を出港しました。つい数年前まで城内で砲弾を恐れていた少女が、今度は太平洋の荒波を越えることになったのです。

アメリカでは、コネティカット州ニューヘイブンのレオナード・ベーコン家に迎えられ、学校教育を受けました。その後、ヴァッサー大学へ進学。学級委員長を務め、成績は学年3位、優等で卒業し、「日本に対するイギリスの外交政策」を題目に卒業演説を行いました。

1882年、アメリカの大学を卒業した最初の日本人女性となり、さらに看護も学んで帰国します。ヴァッサー大学「Princess Ōyama ’1882」

帰国後は大山巌と結婚して大山捨松となり、鹿鳴館外交の場で語学と国際感覚を発揮しました。

しかし、彼女の本当の仕事は、舞踏会のドレスだけでは語れません。

女子英学塾の設立・運営を支え、赤十字篤志看護会などの社会活動にも関わりました。華やかな社交界を、女子教育と看護活動を前へ進めるための足場に変えた女性だったのです。国立国会図書館「大山捨松」

それでは、時代を越えてご本人に聞いてみましょう。

「敗戦した会津の少女が、なぜアメリカへ渡ったのか」

インタビュー開始――まずは自己紹介から

聞き手「本日は山川捨松さんにお越しいただきました。まず、自己紹介をお願いします」
捨松「山川捨松と申します。幼名は咲子。会津藩士の家に生まれ、8歳で鶴ヶ城の籠城戦を経験しました。その後、日本最初の女子留学生の一人としてアメリカへ渡り、ヴァッサー大学を卒業し、看護も学びました。帰国後は大山巌と結婚して大山捨松となり、女子教育や看護活動を支援しました」
聞き手「幼名、留学名、結婚後の名。お名前だけで、すでに三章ありますね」
捨松「時代の変化が激しすぎて、短い自己紹介では収まらないのです」
聞き手「履歴書の前半に戦争、中央にアメリカ留学、後半に鹿鳴館と女子教育。採用担当者も、どこから質問するか迷いそうです」
捨松「帰国した日本には、その採用担当者自体がほとんどおりませんでしたけれど」
聞き手「開始早々、明治政府に一本入りました」

八歳の籠城――戦争は少女を強くしたのか

聞き手「8歳で鶴ヶ城に籠城した経験は、その後の人生にどのような影響を与えましたか」
捨松「戦争を美しい思い出にすることはできません。砲弾は、敵味方を論じてから落ちてくるわけではありません。家族も家も日常も、一度に失われます」
聞き手「よく『苦難が人を強くする』と言いますが」
捨松「苦難が自動的に人を強くするのなら、戦場は学校になってしまいます。そんなはずはありません。苦難は人を傷つけます。その傷を抱えたあと、どう生きるかによって、初めて強さが生まれるのです」
聞き手「会津の敗戦は、捨松さんにとって終わりではなかった」
捨松「子どもの私には、終わりにしか見えませんでした。しかし大人たちは、終わった世界の外に次の道を探していました。アメリカ留学も、その一つだったのでしょう」

なぜ、敗者の娘が新政府の留学生になったのか

聞き手「会津は新政府と戦った側です。それなのに、会津藩家老の家の娘が、新政府の費用で留学する。かなり不思議な構図です」
捨松「昨日まで敵だった家の娘にも、明日の国を担わせる。新政府には矛盾もありましたが、必要な人材を旧藩だけで切り捨てる余裕もなかったのでしょう」
聞き手「能力の前では、敵味方の名札を少し脇へ置いた」
捨松「完全に置いたわけではありません。会津への視線は厳しく残っていました。ただ、新しい国をつくるには、古い身分秩序だけでは足りなかったのです」
聞き手「山川家にとっても、留学は敗戦後の活路だったのでしょうか」
捨松「そうだったと思います。会津で約束されていた将来は、敗戦によって消えました。しかし、何もなくなったからこそ、これまでなら考えなかった道が見えることもあります」
聞き手「城門が閉じたあとに、港が開いた」
捨松「ずいぶん詩的ですね。実際の港は寒く、船は揺れ、母との別れはつらいものでしたが」

十一歳の少女は、本当に自分で決断したのか

聞き手「ここが中心の質問です。なぜアメリカへ渡ろうと決めたのですか」
捨松「その質問には、少し現代的な響きがあります。満11歳の少女が留学先の大学案内を比較し、将来のキャリアを設計したわけではありません。国が制度をつくり、家族が応募を認め、母が送り出した。最初の決断は、私一人のものではありませんでした」
聞き手「最初から壮大な夢を抱いた天才少女、という話ではない」
捨松「子どもに大人の決断を背負わせてから、『本人が望んだ』とまとめるのは簡単です。私は多くを理解しないまま船に乗ったのでしょう」
聞き手「それでは、受け身の留学だったのでしょうか」
捨松「出発は受け身だったかもしれません。しかし、到着してから学ぶのは私です。与えられた選択を、自分の選択へ変えていくことはできます」
聞き手「船に乗るところまでは周囲が決めた。しかし、どこまで学ぶかは自分で決めた」
捨松「ええ。人生は、出発点の決定権だけで決まるものではありません」

「捨松」という名――捨てられたのではなく、待たれていた

聞き手「それにしても、『捨松』という名は強烈です。最初の一文字だけ見ると、かなり不安になります」
捨松「言葉は最後まで読まなければいけません。『捨』だけで止めず、『松』までお読みください」
聞き手「一度は捨てたつもりで送り出し、帰りを待つ」
捨松「そう伝えられています。母は私を捨てたのではありません。自分の手元から放し、時間と海の向こうへ託したのです」
聞き手「母上から娘へ渡された、十一年満期の定期預金のような名前ですね」
捨松「元本保証はなく、為替変動も激しく、途中解約も難しい商品でした」
聞き手「税理士が聞けば、目論見書を求めそうです」
捨松「母が読んだのは目論見書ではなく、娘の顔だったのでしょう」

アメリカ生活――英語より先に、常識を学び直す

聞き手「アメリカで最も苦労したのは英語ですか」
捨松「英語も大変でした。しかし、本当に難しいのは、言葉の奥にある常識です。食事、宗教、家族の会話、女性の振る舞い、意見の述べ方。正解だと思っていたものが、海を渡ると一つの選択肢に変わります」
聞き手「常識に時差があった」
捨松「太平洋より広い時差でした」
聞き手「ベーコン家で暮らした経験は大きかったですか」
捨松「学校だけでは学べないことを教わりました。家庭の会話の中で英語を覚え、異なる文化の人も家族になり得ることを知りました。教育とは、教室で知識を受け取るだけではありません。別の生き方が現実に存在すると知ることでもあります」

ヴァッサー大学――女性が考えること自体が、まだ挑戦だった

聞き手「大学では、どのようなことを学んだのですか」
捨松「語学、文学、歴史、哲学、数学、自然科学など、幅広く学びました。卒業論文のテーマは、イギリスの対日外交政策です」
聞き手「ずいぶん大きなテーマですね」
捨松「自分の国が外国との関係によって大きく変わり、その変化のために自分が海を渡ったのです。外交は遠い世界の話ではありませんでした」
聞き手「成績は学年3位、しかも優等卒業。遠慮のない成績です」
捨松「学問の場でまで、敗戦した藩の娘らしく小さくなる必要はありません」
聞き手「会津の『ならぬことはならぬ』が、アメリカでは『学ぶことは学ぶ』になったわけですね」
捨松「少々強引ですが、悪くないまとめです」

なぜ看護を学んだのか――知識を人の身体へ届かせる

聞き手「大学卒業後には、看護も学んでいます。なぜでしょう」
捨松「学問は頭の中だけに置いておくものではありません。傷ついた人、病んだ人へ、実際に手を差し伸べる技術も必要です」
聞き手「会津戦争で負傷者を見た経験も影響したのでしょうか」
捨松「一直線の因果関係として語ることはできません。ただ、幼い日に見た傷や苦しみが、まったく無関係だったとも思えません」
聞き手「後年、看護活動を支援したのは、留学で得た資格を飾りにしなかったということですね」
捨松「資格は額縁に入れると静かですが、社会で使うと人を助けます。私は後者を選びたかったのです」

帰国――国は留学費を出したが、働く席を用意していなかった

聞き手「1882年に帰国します。日本初の女性大学卒業者なら、各方面から引く手あまただったのでは」
捨松「残念ながら、国は女子留学生を送り出す計画は立てても、帰国後にその能力を生かす職場までは十分に設計していませんでした」
聞き手「最新の人材を輸入したのに、配属先がなかった」
捨松「人を舶来品のように言わないでください。ただし、状況の説明としては的確です」
聞き手「十一年も学ばせた国家としては、少々もったいない話です」
捨松「女性が学ぶことを認めるより、学んだ女性に権限と仕事を渡す方が難しかったのです。教育制度は変えられても、人々の思い込みは一夜では変わりません」
聞き手「海外留学より、国内の固定観念の方が遠かった」
捨松「太平洋には航路があります。固定観念には、航路図すらありませんから」

旧敵・大山巌との結婚――会津を忘れたのか

聞き手「帰国後、薩摩出身の大山巌と結婚します。彼は会津戦争で新政府軍側にいた人物です。山川家は大反対したそうですね」
捨松「当然でしょう。会津の家にとって、薩摩は地図上の方角ではなく、記憶の中の相手でした」
聞き手「ご家族との食卓は、さぞ静かだったのでは」
捨松「静かな食卓ほど、反対が強いこともあります」
聞き手「結婚は会津への裏切りではなかったのでしょうか」
捨松「過去を忘れることと、過去だけに未来を支配させないことは違います。私は薩摩という藩と結婚したのではなく、一人の人間と結婚しました」
聞き手「敵味方を越えた、と」
捨松「越えたからといって、傷が消えるわけではありません。それでも、次の時代を古い戦争の続きだけにしない選択はできます」

鹿鳴館の貴婦人――ドレスは目的ではなく、仕事着だった

聞き手「捨松さんといえば、鹿鳴館の華やかなドレス姿が有名です」
捨松「写真に残りやすいのはドレスです。会議や寄付集めや学校運営の苦労は、写真映えしませんから」
聞き手「鹿鳴館では、単に踊っていたのではない」
捨松「語学と西洋の礼儀を知る女性として、外交の場を支えました。同時に、そこで得た人脈や立場を、女子教育や慈善、看護のためにも使いました」
聞き手「ドレスが目的ではなく、仕事着だった」
捨松「動きにくい仕事着でしたけれど」
聞き手「機能性には難があった」
捨松「それでも、閉じた扉を開ける鍵になるなら着ます。改革は、いつも活動しやすい服装でできるとは限りません」

津田梅子との連携――自分が座る椅子より、次の女性の椅子を増やす

聞き手「津田梅子さんの女子英学塾も支援しましたね」
捨松「梅子は、自分の理想を学校という形にしました。私は、その理想が続くように支えました。表に立つ人だけでなく、資金、人脈、運営を支える人も必要です」
聞き手「ご自身が思うような職を得られなかったからこそ、後の女性には学ぶ場所と働く道を残そうとした」
捨松「自分のための椅子が用意されていなかった。それなら、次の女性たちが座れる椅子を増やせばよいのです」
聞き手「一脚を争うのではなく、教室そのものを広げる」
捨松「教育とは、席の奪い合いを減らす仕事でもあります」

敗戦した会津の少女が、なぜアメリカへ渡ったのか

聞き手「最後に、あらためてお尋ねします。敗戦した会津の少女は、なぜアメリカへ渡ったのでしょう」
捨松「一つの理由ではありません。明治政府は近代化のために女子教育を必要としました。山川家は敗戦後の未来を、古い身分の外に探しました。母は娘を手放す痛みに耐えました。そして私は、周囲によって開かれた道を、歩きながら自分の道へ変えていきました」
聞き手「最初から自分で選んだ道ではなくても、自分の人生にできる」
捨松「ええ。人は出発点を選べないことがあります。戦争も、敗戦も、生まれた時代も選べません。しかし、その経験にどんな意味を与え、次の人へ何を残すかは、少しずつ選べます」
聞き手「会津の敗戦は、あなたから多くを奪いました」
捨松「だからこそ、教育の価値が分かりました。土地も身分も家も、戦争によって失われることがあります。しかし、身につけた知識と、異なる世界を見た経験は、簡単には没収できません」
聞き手「結局、捨松さんが越えたのは太平洋だったのでしょうか」
捨松「太平洋は船で越えられます。もっと時間がかかったのは、『女性に高等教育は要らない』という海でした」

ナレーション――出発は他人が決めても、その先は自分で歩ける

山川捨松がアメリカへ渡った理由を、「幼いころから海外留学を夢見ていたから」と説明することはできません。彼女はまだ11歳でした。

出発を決めたのは、明治政府の政策、敗戦後の山川家の事情、兄たちの判断、そして娘を送り出した母の覚悟でした。

しかし、ここで物語は終わりません。

与えられた留学を、自ら学び抜く機会へ変えたこと。アメリカの大学で得た知識を、帰国後の肩書だけで終わらせなかったこと。自分のための職場が用意されていない社会で、女子教育と看護活動を支え、次の女性たちのための場所をつくったこと。

そこに、山川捨松という人物の本当の強さがあります。

鶴ヶ城は落ちました。会津藩もなくなりました。しかし、敗戦した少女の未来まで、戦争が決めることはできませんでした。

山川捨松が太平洋の向こうから持ち帰った最も大切なものは、英語や学位だけではなかったのでしょう。

人生の出発を他人に決められても、その先の意味まで他人に決めさせる必要はない。

それこそが、会津の少女が海を渡り、日本の女性たちへ残した、静かで力強い答えなのです。

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