見出し画像

ペリーに聞く🎤黒船は、日本を脅したのか、目覚めさせたのか🌙千夜一夜物語第149夜 日本語版


黒船は、眠っていた日本を起こしたのか

1853年7月8日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた。蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号は、黒い煙を吐きながら風に逆らって進んだ。日本人が「黒船」と呼んだその姿は、単なる外国船ではなく、産業革命と海軍力を背負った移動要塞だった。(国立公文書館)
学校の歴史では、しばしば「ペリーが来航し、日本に開国を迫った」と短く説明される。しかし、ペリーは突然、日本に興味を持って訪れた旅行者ではない。その背後には、中国貿易、捕鯨、太平洋航路、蒸気船の燃料補給、カリフォルニア獲得後のアメリカの膨張があった。黒船は一人の提督の思いつきではなく、太平洋へ広がろうとするアメリカ国家の意思を載せていた。
一方、日本も完全に眠っていたわけではない。ロシア船、イギリス船、アメリカ船が以前から来航し、幕府はアヘン戦争で清国がイギリスに敗れた事実も知っていた。1842年には異国船打払令を改め、外国船に水や食料を与えて帰らせる薪水給与令へ転換している。1852年にはオランダ商館長から、翌年アメリカ艦隊が来航するとの情報も伝えられていた。(国立公文書館)
日本は眠っていたのではない。外の嵐を知りながら、扉を開けるか、補強するか、迷っていたのである。
そこへペリーは、扉をノックしに来た。
ただし、その手には招待状ではなく、大砲が握られていた。

インタビュー開始

――まず、自己紹介をお願いします。
ペリー:マシュー・カルブレイス・ペリーです。1794年、アメリカのロードアイランド州に生まれ、長く海軍に勤務しました。米英戦争や米墨戦争に参加し、蒸気船を海軍に導入することにも力を注ぎました。そのため「蒸気海軍の父」と呼ばれることがあります。(海軍歴史センター)
――日本では、「黒船で突然やって来た怖い人」として知られています。
ペリー:私の海軍生活は数十年ありましたが、日本の教科書では数行ですか。
――しかも、たいてい似顔絵付きです。
ペリー:実物より威圧的に描かれていませんか。
――かなり眉間に力が入っています。
ペリー:外交官は笑顔だけで国書を受け取ってもらえるとは限りませんからね。

アメリカは、なぜ日本へ来たのか

――なぜアメリカは、日本を開国させる必要があったのでしょうか。
ペリー:一つの理由ではありません。まず、中国との貿易です。アメリカは1848年にカリフォルニアを獲得し、太平洋に大きな港を持つ国になりました。西海岸から中国へ向かう航路が重要になり、その途中にある日本の地理的価値が高まったのです。
――日本は、太平洋航路のサービスエリアとして便利だった。
ペリー:ずいぶん現代的な表現ですが、概ねそうです。
――蒸気船には石炭も必要ですね。
ペリー:帆船は風を利用できますが、蒸気船は燃料がなければ動きません。太平洋を横断し、中国まで航海するには、途中で石炭、水、食料を補給できる港が必要でした。日本は位置的に非常に魅力的だったのです。(歴史省)
――捕鯨も関係していたのですか。
ペリー:当時、アメリカの捕鯨船は北太平洋や日本近海まで進出していました。鯨油は照明や工業用の油として重要でした。船が難破した場合の避難港や、乗組員を保護する仕組みも必要でした。日本沿岸に漂着したアメリカ人が厳しい扱いを受けたという話も、国内で問題視されていました。(歴史省)
――つまり、人道目的だけでも、貿易目的だけでもなかった。
ペリー:国家の行動には、通常いくつもの目的があります。商人は市場を求め、船乗りは港を求め、海軍は拠点を求め、政府は影響力を求めます。
――全部まとめて「友好を結びたい」と書く。
ペリー:外交文書とは、国益に礼服を着せたものです。

アメリカの膨張政策

――当時のアメリカには、西へ領土を広げる思想がありましたね。
ペリー:アメリカでは、自国の制度と領土を北米大陸の西へ拡大することを当然視する考えが強まっていました。カリフォルニアを獲得し太平洋へ到達すると、次に視線が向いたのは海の向こう側です。
――大陸の端まで来たので、今度は海を渡った。
ペリー:地図の余白は、拡大する国家には空白に見えます。
――日本側から見ると、勝手に余白扱いされては困ります。
ペリー:そのとおりです。しかし、当時の欧米列強は、相手国の都合より、自国の航路や市場を優先しました。
――かなり率直ですね。
ペリー:歴史上の人物は、後世のインタビューでまで建前を並べる必要はないでしょう。

なぜ長崎へ行かなかったのか

――日本側は、外国との交渉は長崎で行うよう求めました。なぜ拒否したのですか。
ペリー:長崎へ行けば、私は従来の日本の外交制度の中に組み込まれます。私は、オランダ商人と同じ立場で扱われるために来たのではありません。アメリカ大統領の正式な使節として、江戸幕府に直接国書を渡す必要があると考えました。
――そこで、浦賀から動かなかった。
ペリー:それだけではありません。艦隊を江戸湾内へ進め、測量も行いました。幕府に、こちらが簡単には引き下がらないことを理解させるためです。日本側の抗議を受けながらも湾内へ進入し、海軍力を示したことは事実です。(国立公文書館)
――それは、友好的な態度とは言いにくいですね。
ペリー:私は友好を求めましたが、友好の申し出を拒否できない状況も作りました。
――つまり、握手を求めながら、もう片方の手を大砲に置いていた。
ペリー:適切な表現です。

黒船外交は乱暴だったのか

――率直に聞きます。黒船外交は脅迫ではありませんか。
ペリー:武力を背景にした外交であったことは否定しません。私は、日本が従来どおり要求を拒絶する可能性を想定していました。そのため、軍艦を率い、技術力と火力を見せました。
――やはり「砲艦外交」ですね。
ペリー:現代の基準で見れば、そう評価されるでしょう。
――当時なら許されたのですか。
ペリー:許されたというより、列強がそれを実行していた時代です。イギリスはアヘン戦争で清国を破り、不利な条約を結ばせました。日本側も、その結末を知っていました。
――「私と話さなければ、もっと悪い相手が来る」と考えていた。
ペリー:ロシア、イギリス、フランスも東アジアへ進出していました。アメリカが来なくても、日本が永遠に従来の体制を維持できたとは考えにくいでしょう。
――それでも、外国が来ることと、大砲で要求することは別問題です。
ペリー:その批判は受け入れます。時代背景は行動を説明しますが、正当化するとは限りません。

幕府は無抵抗だったのか

――日本では、幕府が黒船に驚いて、すぐ屈服したように語られることがあります。
ペリー:実際の日本側は、そこまで単純ではありませんでした。浦賀奉行所の役人は船へ乗り込み、交渉場所を長崎へ移すよう粘り強く求めました。幕府は国書を受け取っても、その場で要求を承諾せず、回答を翌年に持ち越しました。
――一度時間を稼いだのですね。
ペリー:ええ。私が帰国を急いでいると思ったのかもしれませんが、私は翌年戻ると伝えました。
――しかも、予定より早く戻ってきた。
ペリー:ロシアなど他国の動きを警戒していました。先を越されては困りますから。
――日本側には、迷惑な納期前倒しです。
ペリー:国家間競争では、相手の準備期間を親切に確保する義務はありません。

幕府は国中に意見を求めた

――ペリー来航後、老中首座の阿部正弘はどのように対応しましたか。
ペリー:幕府は大統領の国書を諸大名に示し、対応について意見を求めました。従来、外交は幕府中枢が独占してきた問題です。広く諸侯に意見を求めたことは異例でした。(国立国会図書館デジタルコレクション)
――民主的になったのでしょうか。
ペリー:直ちに議会政治が始まったわけではありません。幕府だけでは決断の責任を負い切れないほど、問題が大きかったという面もあるでしょう。
――相談した結果、意見がまとまったのですか。
ペリー:むしろ、開国、通商反対、攘夷、時間稼ぎ、軍備強化など、さまざまな意見が表面化しました。
――聞けば聞くほど決められなくなる。
ペリー:会議とは、結論を得るための仕組みであると同時に、意見の違いを発見する仕組みでもあります。
――現代の会議にもよくあります。
ペリー:蒸気船は進歩しても、会議の速度はあまり変わらないようですね。

日本は戦わなかったのか、戦えなかったのか

――幕府は、なぜ艦隊を攻撃しなかったのでしょうか。
ペリー:戦えば大きな被害が出ると判断したのでしょう。日本にも砲台や兵士はいましたが、蒸気軍艦を中心とする近代的な艦隊と正面から戦う準備は整っていませんでした。
――弱腰だったのではなく、現実を見ていた。
ペリー:アヘン戦争で清国が敗れたことを知りながら、同じ方法で戦うのは賢明ではありません。戦争を避け、時間を確保し、その間に軍備を整える。これは一つの戦略です。
――戦わないことで、近代化の時間を買った。
ペリー:そう見ることもできます。
幕府は黒船に勝てないと判断した。しかし、それは日本が永遠に勝てないと認めたことではなかった。

日本の軍備強化

――実際、日本はすぐに防衛体制を変えていますね。
ペリー:幕府は品川沖に台場の建設を始め、大型船の建造を禁じていた従来の方針を改めました。ペリー来航から約3か月後には大船建造の禁を解き、西洋式船舶の建造や購入を進めています。
――海軍教育も始めた。
ペリー:1855年には長崎海軍伝習所が開かれ、オランダ人教官から航海術、砲術、造船、機関などを学びました。1857年には江戸に軍艦教授所も設けられています。
――日本の対応は速かったと思いますか。
ペリー:驚くほど速い。普通、外国の技術を導入するには、制度、教育、人材、資金のすべてが必要です。日本には、蘭学や海防論を通じて西洋知識を受け入れる土台がすでにありました。
――黒船がゼロから近代日本を作ったのではない。
ペリー:黒船は火をつけました。しかし、燃える材料までアメリカが持ち込んだわけではありません。

日米和親条約は、通商条約だったのか

――1854年、ペリー艦隊が再来航し、日米和親条約が結ばれます。これによって、すぐ自由貿易が始まったのでしょうか。
ペリー:いいえ。日米和親条約では、日米間の平和、下田と箱館の開港、アメリカ船への水や食料、石炭などの供給、漂流民の保護、アメリカ領事の駐在などが定められました。全面的な自由貿易を始める条約ではありません。
――つまり、日本側は通商開始を先送りした。
ペリー:そのとおりです。幕府の交渉担当者は、救助や補給には応じながら、本格的な貿易については簡単に譲りませんでした。
――日本側の全権は林復斎でしたね。
ペリー:林復斎を中心に、井戸覚弘、伊沢政義、鵜殿長鋭らが交渉しました。彼らは礼儀正しく、しかし粘り強かった。(横浜市公式ホームページ)
――黒船に震えて、言われるまま署名したわけではない。
ペリー:交渉には軍事的圧力がありました。しかし、条約の内容は一方が口述し、他方がそのまま書き取ったものではありません。
――本格的な通商条約は1858年。
ペリー:日米修好通商条約です。私ではなく、総領事タウンゼント・ハリスの交渉によって結ばれました。

日本の交渉は巧みだったのか

――日本側は、どのような交渉をしたのでしょうか。
ペリー:日本側は、すべてを拒絶して戦争になることも、すべてを受け入れることも避けました。遭難者の救助や補給は人道上の問題として認める一方、貿易については国内制度や国法を理由に慎重な姿勢を取りました。
――要求を分解した。
ペリー:そうです。「開国するか、しないか」という一問一答ではなく、国書の受領、補給港、漂流民、領事、通商という問題を分けて交渉しました。
――全部拒否すれば戦争、全部受け入れれば主権を失う。
ペリー:その間にある狭い道を探したのでしょう。
幕府は黒船を追い返せなかった。しかし、黒船の要求をすべて受け入れたわけでもなかった。

ペリーは日本人をどう見たのか

――実際に接した日本人を、どのように見ましたか。
ペリー:日本人には強い好奇心がありました。私たちが持ち込んだ電信機や蒸気機関車の模型、武器、時計などを熱心に観察していました。
――贈答品として小型の蒸気機関車も持ってきましたね。
ペリー:技術力を示す外交でもありました。大砲だけでは「怖い国」ですが、通信機や機械を見せれば「学ぶ価値のある国」にも見える。
――飴と鞭ならぬ、機関車と大砲です。
ペリー:どちらも蒸気で動きます。
――日本側からは力士が登場した。
ペリー:米俵を軽々と運ぶ姿を見せてくれました。アメリカが機械の力を示し、日本が人間の力を示したようで興味深い。
――文明の展示会のようです。
ペリー:交渉の場では、条文だけでなく、「自分たちは何者か」を互いに演出します。

なぜ日本は短期間で近代化できたのか

――開国後、日本は短期間で近代国家へ変わっていきました。なぜ可能だったと思いますか。
ペリー:第一に、教育と識字の広がりです。第二に、幕府や各藩に行政組織があり、人材を集めて命令を実行する能力があった。第三に、蘭学、医学、天文学、砲術などを通じて、西洋知識を学んできた人々が存在しました。
――黒船を見て、初めて世界の存在に気づいたわけではない。
ペリー:そのような説明は、日本人を過小評価しています。幕府はアヘン戦争を知り、海外情報を集め、英語学習も始めていました。ペリー来航時の交渉は主にオランダ語を介して行われましたが、翌年の交渉では英語に通じた通訳も活躍しています。
――準備は不十分だったが、基礎はあった。
ペリー:そうです。外圧が来たとき、何もない国は混乱するだけです。日本は混乱しながらも、学習を始め、制度へ変換する力を持っていました。
――ただし、その過程で幕府は倒れます。
ペリー:外圧は既存の政治制度の弱点を明らかにします。誰が外交を決めるのか、幕府か朝廷か、諸藩か。開国問題は、徳川政権の正統性そのものを揺さぶりました。

黒船は幕府を倒したのか

――ペリー来航が明治維新の原因なのでしょうか。
ペリー:一つの大きな契機ではありますが、私一人が幕府を倒したというのは、歴史を単純化しすぎです。
――ペリーが来なければ、江戸時代が続いた。
ペリー:そうとも言えません。ロシア、イギリス、フランスなども接近していました。国内では財政問題、農村の不安、諸藩の成長、朝廷の政治的浮上など、複数の変化が進んでいました。
――黒船は原因というより、加速装置だった。
ペリー:それが適切でしょう。
黒船は日本の時計を動かしたのではない。すでに動いていた時計の針を、急激に早めたのである。

日本を目覚めさせたという表現

――「ペリーが眠っていた日本を目覚めさせた」という表現をどう思いますか。
ペリー:アメリカ人には気分のよい表現でしょう。しかし、正確ではありません。
――本人が否定するのですか。
ペリー:眠っている国は、私の来航前にアヘン戦争を研究したり、西洋砲術を実演したり、外国船への対応方針を変更したりしません。
――では、ペリーは何をしたのでしょう。
ペリー:日本に選択の期限を突きつけました。
――「いつか考える」を許さなかった。
ペリー:そうです。開くのか、戦うのか、備えるのか。日本は決断を先送りできなくなりました。
ペリーが日本を目覚めさせたのではない。日本が起き上がらざるを得ない時刻を、黒船が強制的に告げたのである。

開国は日本にとって正解だったのか

――結果として、開国は日本にとってよかったのでしょうか。
ペリー:歴史の結果には、利益と損失が同時に存在します。海外の技術や知識が入り、貿易が拡大した一方、国内経済は混乱し、物価が上がり、政治的対立や外国人襲撃も起きました。
――不平等条約という問題も残りました。
ペリー:後の通商条約では、領事裁判権や関税自主権の制限が問題になります。日本は、それらを改正するために長い外交努力を続けることになります。
――開国すれば自動的に豊かになるわけではない。
ペリー:港を開くことと、国を強くすることは別です。市場を開けば、強い国や企業が入ってきます。自国の制度、産業、教育を整えなければ、利益を得るのは相手だけかもしれません。
――日本は開国後、制度づくりを急いだ。
ペリー:だからこそ、植民地化を避け、列強と交渉できる国家へ成長したのでしょう。

黒船は日本を脅したのか

――改めて聞きます。黒船は、日本を脅したのですか。
ペリー:はい。軍事力を背景に要求した以上、脅威であったことは否定できません。
――では、日本を目覚めさせたのですか。
ペリー:結果として、日本の政治、軍事、教育、産業の改革を加速させました。しかし、それは私が日本のために近代化を贈ったという意味ではありません。
――日本自身が対応した。
ペリー:日本人が危機を認識し、学び、船を造り、人材を育て、制度を変えたのです。
――黒船は目覚まし時計だったが、起きて動いたのは日本人。
ペリー:ただし、その目覚まし時計には大砲が付いていました。
――ずいぶん迷惑な時計です。
ペリー:国際政治には、音量調節のボタンがありません。

ペリー来航が残した問い

1853年の黒船来航を、単純な善悪だけで説明することは難しい。アメリカには捕鯨船員の保護、補給港の確保、中国貿易の拡大という現実的な目的があった。一方、その要求を軍艦の威力によって受け入れさせようとしたことも事実である。
幕府は無策のまま屈服したわけではない。国書を受け取って回答を延期し、諸大名に意見を求め、交渉では通商を先送りし、その裏側で台場を築き、大船建造を解禁し、海軍教育を始めた。
日本は黒船に敗北したのではない。戦わずに時間を買い、その時間を使って黒船を持つ側へ回ろうとした。
その選択は、やがて幕府を揺るがし、明治維新へと続く大きな政治変動を引き起こした。しかし、日本の近代化をすべてペリーの功績とするのは正しくない。
黒船が持ち込んだのは、近代国家の完成品ではなかった。
それは、国際社会から突きつけられた厳しい問いだった。
「世界が変わったとき、国は従来の常識を守るのか。それとも、自らを変えて生き残るのか」
――最後に、現代の日本へ一言お願いします。
ペリー:外国から圧力を受けてから、慌てて準備を始めるのは遅いでしょう。
――黒船が見えてから、船を造るなということですね。
ペリー:黒船は、いつも黒い煙を上げて来るとは限りません。新しい技術、経済力、情報、資源、規格という姿で現れることもあります。
――現代の黒船を見分ける必要がある。
ペリー:そして、ただ恐れるのでも、ただ歓迎するのでもなく、相手の目的を調べ、自国の弱点を知り、交渉しながら準備することです。
――幕末の日本から学ぶべきことは、開国そのものではない。
ペリー:危機を、学習と改革の速度に変えることです。

いいなと思ったら応援しよう!