ゼロ戦「無敵神話」の光と影① 今も生きる先の大戦の教訓
第1部
1 今なぜゼロ戦なのか?
ゼロ戦の名が、日本国民に広く知られるようになったのは戦後であり(※1)、創作された偽りの記憶でしかない。戦時中に旧軍戦闘機といえば、加藤隼戦闘隊(陸軍飛行第六十四戦隊)の名とともに、陸軍一式戦闘機「隼」や後に他陸軍戦闘機とともに本土防空戦で大活躍をした、陸軍三式戦闘機「飛燕」が絶大な人気を誇ったことは今ではほとんど知られていない(※2)。


ゼロ戦は、昭和12(1937)年日華事変(※3)の戦闘が激しき折、国の命運を賭け、十二年度試作艦上戦闘機(以下「十二試艦戦」)として開発が開始され、日米開戦前年の昭和15年7月24日、皇紀2600年の末尾の“ 0 ”をとって零式艦上戦闘機(一号一型、後に11型と遡り改称)として制式採用したとされる。

ゼロ戦は、終戦までの5年間、海軍を代表する主力戦闘機であり続け、“Zero Fighter” の名は海外でも知られている(正式なコードネームは“Zeke”)。ゼロ戦の総製造機数は、約10,430機(※4)と旧軍最多の製造機数を誇り、海軍戦闘機の約80%、輸送機及び練習機を除く作戦機の総生産機数でも約40%を占めた。ただし、最も多く製造されたからといって、必ずしも優秀であったというわけではなく、海軍と三菱が後継機ないし代替の戦闘機を早期に開発し得なかった事情が、そうさせたに過ぎない。

かくて、緒戦で無敵とされ、「ゼロ戦1機は、グラマン10機に勝る」などと海軍の誰もが最強戦闘機と信じて疑わなかったとされるゼロ戦も、日米開戦の僅か1年後の17年秋頃には、早くも弱点、脆さが露呈し米軍機に苦戦を強いられるようになった。19年6月、戦艦群は依然として健在であったが、航空母艦(「空母」)と母艦搭乗員の大半が喪われたことにより艦上戦闘機として戦いの場がなくなり、終戦直前までなしうる限りの改修で性能向上が試みられたものの、航空技術の発達はめざましく、本土防空の任務は他機に取って代わられた。行きつく果ては、昔日の面影もなく凋落の一途を辿り、特別攻撃機に転用され散華する悲しき運命をたどり、神風が吹くこともなく、敗戦によって歴史の幕を閉じた。つまり、ゼロ戦は日本海軍を良くも悪くもそのまま映し出したもの、先の大戦の縮図とみることができる。
2 ゼロ戦の開発に至る経緯
昭和12年7月、北京郊外の廬溝橋事件により始まった中華民国国民革命軍と陸軍との間の武力衝突に対して、日本政府は不拡大の方針を決定した。しかし、翌8月海軍は上海で起きた海軍特別陸戦隊に係る事件をきっかけとして、在留邦人の保護と既得権益の擁護の名の下に、第一航空戦隊の空母加賀と鳳翔を上海沖に派遣し初の空中戦を交え、その後、上海市郊外の公太飛行場(甲基地と秘匿名をつけ、虹橋を乙、呉淞を丙、昭和島を丁、江湾を戊、玉賓を巳と呼称した。)に進出させるなど、更なる派兵を行った。すると、中国軍による対日反攻が活発化、同年12月には陸海軍による米英艦艇(パネイ号、レディーバード号)への誤爆、誤射など重大事件が続発し、他国を巻き込みながら、戦火が奥地に飛び火し事実上の戦争へと発展していく節目となった。海軍は、加賀(旗艦は出雲)に搭載した艦上爆撃機(「艦爆」)、艦上攻撃機(「艦攻」)、巡洋艦等に搭載する水上偵察機(「水偵」)などをもって攻撃隊を編組し、白昼低空から首都南京などの都市や華中・華南の飛行場、中国艦艇などへの空爆を開始した。地上の航空機や格納庫を破壊、巡洋艦をかく座させるなどの戦果を収めたものの、速度の遅い艦爆や艦攻は対空砲による被害はもとより敵戦闘機の攻撃に遭い、悪天候時には目標の発見が困難で遭難するなど、大きな犠牲を強いられた。しかも、艦上機が搭載する弾薬量では、地上目標に一度や二度の攻撃では即効果が現れないため、出撃を重ねるうちに、搭乗員の疲労や機体の損傷とともに、機器の故障、不調が加わり損失は累積した。
そこで、海軍は対米艦隊決戦用に開発、前年に制式採用した三菱の九六式陸上攻撃機(以下「96陸攻」)(※5)の約2,800km(1,510NM)という遠大な航続力に期待し、朝鮮済州島から木更津航空隊を、台湾の台北飛行場から鹿屋航空隊を、それぞれ出撃させ、南京、南昌、広徳、杭州などの飛行場、軍事施設を攻撃した。東シナ海を越え、往復最大1,870kmにも及ぶ渡洋爆撃を行ったとの報道は世界を驚かせた。

この際、最新の三菱九六式艦上戦闘機(海軍初の全金属製低翼単葉戦闘機、最大速度は405.6km/h(220kt)、武装は7.7mm機関銃2丁。以下「96艦戦」)の航続力が約1,000km(540NM)弱であったため、戦闘機による掩護(以下「直掩」)無しで96陸攻単独による低高度爆撃(高度500m前後、250kg爆弾2発)を決定した。この背景には、96陸攻の最高速度が約350km/h(190kt)なので敵戦闘機による攻撃は振り切れるはずとの「戦闘機無用論」という考えがあった(※6)。しかし、航空技術は急速に発達しており、96陸攻が実戦投入された頃には、複葉式の戦闘機(ソ連ツポレフ社製Polikarpov I-15、I-152)でさえ、エンジン出力は約800馬力、最高速度は444km/h に達し、96陸攻は爆弾をつり下げたこと、胴体上部の(隠顕式)銃塔を上げたり胴体下部(垂下式)の旋回銃塔をせり出すことによって空気抵抗が増大し、速度は大きく下がった(下部銃塔は後に廃止)。しかも、格納庫などの飛行場施設の爆破や火災、地上の航空機の破壊という戦果に比し、敵戦闘機による被害が予想以上に大きいことに加え、悪天下における遭難や不時着による未帰還も加わった。僅か3日間の戦闘で、保有38機のうち12機を失い、8機が使用不能になるという甚大な被害を被り、もはや戦闘機の直掩が不可欠なのは明白となった。

こうして後継機であるゼロ戦の開発が急がれることになったと説明されることが多いが、実情はやや違う。というのも、96艦戦は航続距離の不足以外の面でも、次のとおり運用上の重大な問題を抱え欠陥機に等しい実情にあり、海軍は対米戦を前に焦りを強くしていた。96艦戦は、680馬力エンジンに換装した最終型(4号)でも、最高速度は435km/hに留まり、陸軍の中島飛行機(「中島」。終戦後GHQの指令で各工場ごとに富士重工業:現SUBARU、富士精密工業(後にプリンス自動車となり日産自動車と合併)などに分社化)の九七式戦闘機と比べると、最大速度(同系エンジン710馬力、高度3,500mで470km/h)をはじめ、上昇力、旋回性能など、肝心の飛行性能の面でも大きく見劣りしていた。特に、後述する防弾(耐弾)、防火性に関しても、後のゼロ戦と同様に全く考慮されておらず、海軍搭乗員は九七式戦闘機をらやましがった。ただし、九七式戦闘機も、航続距離は600km弱でしかなく、これを延長させる落下式の燃料補助タンク(海軍は増槽と称した。)を装備、後に96艦戦も採用するに至り、後に隼、ゼロ戦など全ての戦闘機が標準装備した。これは、中島が昭和7年制式採用の海軍九〇式艦上戦闘機で他社に先駆け考案、基礎技術を確立したもので、三菱では海軍航空廠(15年航空技術廠に改称、以下「空技廠」、横須賀の追浜飛行場に隣接)の技術的支援を得て、愛知航空機(「愛知」。九九式艦上爆撃機、瑞雲、流星、晴嵐などを開発、製造。18年2月愛知時計電機から分離独立、現愛知機械工業の前身)(※7)の九四式艦上爆撃機の爆弾投下機構を参考に技術を修得し、完成にどうにかこぎつけたのであった。

また96艦戦は、ゼロ戦の主任設計技師が速度要求を満足させるため細く仕上げた胴体の悪影響で操縦席内が狭すぎ、無線電話を装備するスペースもなかった上に、艦上戦闘機(「艦戦」)として開発されながらも、離艦のための滑走距離は合成風力10m/sの条件下で136mにも及び(後に98mに改善)、空母での運用に適しておらず、同12年9月上海に進出した際には、11 機が立て続けに主脚を折損する事故も発生していた。そもそも、96艦戦の原型機である三菱の九試単座戦闘機が誕生した際、海軍上層部は、「わが国の航空機工業が世界の一流レベルに追いついた自信を持つに至った」というが、見込み違いも甚だしいものであった。というのも、高速とされた九試単戦の速度性能(450.9km/h)は、速力の要求を満足させるため、鋲打ちで機体外板に生ずる凹部をパテで埋め、厚手の塗装で覆った後に表面を研磨した結果、ようやく達成した性能でエンジンは試作状態で実用性を欠いており、試作機というよりもむしろ実験機に近く、量産段階で上昇力を含め速度性能の低下が露呈した(405km/h)のは必然であった。こうしたことから、量産途中でエンジンの換装と併せ、無線電話を搭載できるよう機体を再設計することになったが、この際に次々と発生する技術的問題についても、同社先輩技師である本庄季郎氏(96陸攻、一式陸上攻撃機などの設計を手がけた。戦後防衛大学校教授、三菱重工技術部次長等を歴任)や航空廠の山名正夫造兵少佐兼東京帝大教授(後技術中佐、彗星、銀河などを設計。戦後明治大学教授)らの助言や指導なりがあったればこそ克服できたのであり、こうした史実もゼロ戦伝説の陰に埋もれてしまった。
その後も、海軍による渡洋爆撃は南京、揚州、蘇州、武漢などに対し続けられたが、これによって日中和平交渉の継続が困難となり、9月2日、日本政府は戦闘が華中にも広がったという事由から、それまでの陸軍が主体であった「北支事変」を、「支那事変(日華事変ともいう。日中戦争のこと。)」と改めるに至った。翌10月、米ルーズベルト大統領は、シカゴでの演説の際(隔離演説という。)、「ばい菌を持つ国々(日独伊を指す)を隔離することが、世界平和のため必要なことである」と米国民に訴えると同時に、武力による制裁という言葉こそ使わなかったものの、経済制裁をほのめかし、日本に警告を発した。このとき、在米日本陸軍武官は、「ルーズベルトのシカゴ演説は、具体策として直ぐに現われることはないが、米国の対日態度(世論操作と敵愾心の萌芽)として日本は十分考慮すべきである」との報告を行
った。しかし、その後は南京陥落による戦勝ムードの高揚にかき消され、親米英的ととかく批判しがちな風潮が生じた影響も加わり、特段の注意が払われることはなかった。以降、日本は独軍の電撃作戦による破竹の勢いに眩惑されながら、外交面でも独への依存心を高めていき、世界情勢全般に関する検討が真剣に行われることなく、自ら進むべき道を見誤ってしまう。翌11月日本政府は大本営を設置、翌13年には国家総動員法を成立させ戦時体制へと移行したことで後戻りできなくなり、後の対米英戦へと突き進んでいくのであった。
同13年12月、海軍は大陸に漢口飛行場を整備すると、重慶(蒋介石率いる国民政府の南京陥落後の臨時首都、片道約800km:430NM、後にゼロ戦で中継の宜昌基地を経て往復約6時間)や成都(片道約1,100km:590NM)などの奥地に退避した中国空軍への攻撃に際し、薄暮又は黎明であれば敵戦闘機による96陸攻の被害は抑えられると判断、侵攻高度3,000~4,000m、60kg 爆弾12発による爆撃を行ったが、高射砲による被害が止まらなかった。そこで夜間爆撃に切り替えたものの、夜間に軍事施設だけを狙うのは現実的に無理があった。今度は、96陸攻の性能向上を機に、高射砲の脅威を避け高度6,500~7,000mまで引き上げ、再度白昼爆撃を行ったが、雲上からの爆撃となり攻撃目標が雲に覆われ細かい照準ができず、どこか分からず爆弾を投じたり、戦果拡大のため焼夷弾を使用したりしたことから事実上の無差別爆撃となった。特に重慶への爆撃は、地上部隊の進撃とは無関係に、抗戦気力を挫折させることにより蒋介石率いる国民政府を崩壊させる目的で行われ、専ら焼夷弾による政治・経済の中枢に対する容赦のない反復攻撃となった。こうした状況で被害が軍事目標のない市街地にまで及び、先述した米英艦艇への誤射誤爆事件などの影響も加わって、日本への批判が急激に高まった。しかも、当初協同で作戦に従事した陸軍が、「軍事的効果が認められず、非人道的な国際法違反」として内部から反対の声が上がり、作戦を直ちに中止したにもかかわらず、海軍は陸軍をよそ目に日米開戦直前の16年9月まで執拗に続けたのであった(※8)。海軍による重慶爆撃は、戦時国際法に定められた軍事目標と民間を区分する原則に明確に違反する行為であり、海軍が重慶など奥地に対して投下した爆弾の総重量は陸軍の約10倍にも及んだ。これは期せずして、都市に対する戦略爆撃とともに焼夷弾の使用に先鞭をつけることになったが、後に米が重慶爆撃を日本本土空襲の口実に利用し、日本が何十倍、否、数百倍にも及ぶ報復を受けることを十分に予感させるものでもあった(※9)。一方の海軍搭乗員はというと、長時間の飛行任務による疲れ、暑さによる寝不足などによるミスが重なり、警戒心が鈍るなどして損失が絶えなくなっていったことも後の対英米戦に大きな影を落とすことになった。
翌14年10月、漢口基地が2日にわたり敵双発爆撃機ツポレフSB-2(米ライト社製サイクロンエンジンを国産化、450km/h 超の高速と高高度性能を有し、防弾鋼板を装備)による奇襲を受け、司令官、司令など主要幹部を含む約50名が死傷、陸軍爆撃機20機を含む約60機が破壊された。戦況は膠着状態に陥り、局地防空任務への対処にも迫られた。このとき96艦戦は前年の制式採用後、量産開始間もなかったが、開発開始からは既に5年が経過しており、速度不足でSB-2爆撃機に追いつけず、火力も貧弱で撃墜できないなど、性能不足が早くも露呈した。替わりの後継機開発が急務となったが、後継機の登場を待ちきれないと判断した海軍は、12~13年にかけ応急策として2機種の外国製陸上戦闘機(独ハインケルHe112と米セバスキーP-35(2PA))を20機前後それぞれ急遽輸入した。しかし、機体そのものの引渡しの遅れや部品の調達などに問題が発生し、いずれも期待した即戦力とはならず、諦めざるを得なかった。
3 設計コンセプトの模索と苦渋
昭和12年5月19日、海軍航空本部から三菱と中島に対し、ゼロ戦の原型機である十二試艦戦の「計画要求書案(軍極秘)」が提示され、10月5日に正式交付された。戦後ゼロ戦の主任設計技師は、「十二試艦上戦闘機計画要求書」(抜粋)は次のとおりであったとし、これが定説となった。しかし、この原文ともいうべき、用途などの記述に関し、全く異なる真正の計画要求書が存在しており、後に詳述する。
① 用途:掩護戦闘機として敵の軽戦闘機よりも優秀なる空戦性能を備え、邀撃闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅し得るもの
② 最大速度:高度4,000m(約13,000ft)で、270kt(500km/h)以上
③ 上昇力:高度3,000m(約9,800ft)まで、3分30秒以内
④ 航続力:正規状態(増槽なし)-高度3,000m、公称馬力(全出力)で1.2ないし1.5時間
過荷重状態(増槽あり)-高度3,000m、公称馬力で1.5ないし2.0時間、
巡航で6時間以上
⑤ 離陸滑走距離:風速12m/s(向かい風、約23kt)の時、70m以下
⑥ 着陸速度:58kt(107km/h)以下
⑦ 滑空降下率:毎秒3.5mないし4.0m
⑧ 空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
⑨ 機銃:20mm機銃2梃、7.7mm機銃2梃
⑩ 爆弾(過荷重):60kg(132lbs)爆弾2個、又は30kg(66lbs)爆弾2個
⑪ 無線機:九六式空一号無線電話機1組、
ク式空三号無線帰投方位測定器1組
⑫ その他のぎ装:酸素吸入装置、消火装置(炭酸ガスボンベ)、夜間照明装置
⑬ 強度:荷重倍数2.0~7.0、安全率1.8
出典:堀越二郎/奥宮正武共著『零戦日本海軍航空小史(初版)』
( )内、は筆者による補足説明
これらを96艦戦との比較に加え、海軍が緊急輸入した、独He112と米P-35
(2PA)が、ともに昭和10~11年の実用化でありながら、最大速度がそれぞれ
510km/hと499km/h に達していたことと照らし合わせば、「速力高度4,000mにて270節(ノット):約500km/h)以上(高力馬力にて)」は、15年頃に実用化する戦闘機としては、ごく平凡な性能値、むしろ最低限ともいえる要求値であった。現に、同12年1月米陸軍の新型戦闘機(P-38)の設計仕様書に記された要求性能は、高度約6,100m(20,000ft)で約580km/h(360mi/h)であった。所望の速度性能を実現できる可能性は、新型エンジンを搭載し、引き込み式の脚(※10)、密閉式風防を採用しつつ、機体形状の工夫や工作技術の向上により空気抵抗の低減と軽構造を図るなど、既存技術の踏襲や延長で比較的容易なはずであった。折しもプロペラについては、昭和9年に住友金属工業が米ハミルトン・スタンダード社から製造ライセンスを取得、翌10年に定回転(恒速)式(※11)の量産にこぎつけていた。しかし、ブレード(翼)の直径が短いことから最大速度が頭打ちになり、ピッチ角の作動範囲も20°(45~25°)と狭く効率が悪い低速機仕様であったため、出力変化に対する追従(加速)も遅いなど、当該技術は米にとって日本に売っても差し支えのない旧式な技術であった。後にろ獲したゼロ戦を調査した米技術者は、「5年以上遅れている」とか、「プロペラだけは20年前のをつけている」と評したほどであったが、ゼロ戦の開発関係者がプロペラに十分な関心を払った形跡は見当たらない。しかも、戦闘機としての性能を大きく左右する機銃や無線機などの装備は欧米に比べ技術の遅れが深刻で、当時の日本ではこれらを自主開発するだけの技術力の蓄積ができていなかった点は、致命的であった。
そもそも、プロペラや機関銃、無線機などはの主要装備品は海軍の場合、官給品であった。これは、海軍がこれ以外のプロペラは使わないと住友との間で約束していたことなどとの関連性があると考えられる(※12)。そうした実情にあったので、要求性能を満足させるのに相応の努力が注がれたことは事実ではあるものの、主任設計技師並びに海軍航空関係者らがプロペラや機銃等の問題に気付いたのは、かなり後のことで、無頓着であったことには変わりない。戦後、曽根嘉年技師(九試単戦、96艦戦、ゼロ戦、烈風など海軍戦闘機の設計に際し主任設計技師を補佐)が保管し続けたメモ(以下「曽根メモ」)に注目すると、17年10月に開催された十七試艦戦(ゼロ戦の後継機、細部は後述)の官民共同研究会で、「最近の高々度の速力が予期通りに出ないのはプロペラ効率に疑問あり」との問題提起があった旨、記されており、このときはじめてこの点が指摘され海軍関係者もようやく認識するに至ったと考えられる。ごく単純にいうと、プロペラの直径を大きくするかブレードの幅を広げるだけでより高い推力を得られるのであり、ゼロ戦の直径が2.9mであったのに対し、同じハミルトン製のプロペラを装備した中島の九七式艦上攻撃機(以下「97艦攻」)の場合、これより大きく3.2mだった。ゼロ戦も、ごく僅かであるが、後に直径を拡大し、ピッチ角の作動範囲も変更した(※13)。またゼロ戦は、プロペラに装着するスピナーキャップでさえ、海軍航空本部からの提言を受け、96陸攻の図面をもらい製作したことも曽根メモから判明している。同様にエンジンのカウリング形状の改修など、オーバーヒート対策も空技廠による技術指導の成果であった。なお、米ハミルトン製のプロペラは、欧米機が装備した電動式のプロペラとは異なり、エンジンの潤滑油を油圧シリンダによりプロペラの作動油として共用し、エンジン回転数に連動してピッチを変化させるやや複雑なシステムであったため、前線では油漏れに悩まされ、風防に油が飛び散って前が見えなくなったり、ブレーキ内に浸入しブレーキが利かないなどのトラブルに見舞われた。いずれも、完全国産化の目途が立つ前に開戦したことにより改良や発展に必要な技術情報、部品の入手が不可能となった影響によるものであったが、航空機の性能はもとより、稼働率の向上も阻まれる大きな一因となった。前述の米陸軍の双発戦闘機P-38は、初期の性能が思わしくなく、やむなく武装が取り除かれ偵察機として使用していたが、量産途中で軍の指示によりハミルトン製の油圧式プロペラからカーチス社製の電動式プロペラに変更したことに加え、後にエンジンを換装、急降下の際に使用する電動式ダイブ・フラップ(スピード・ブレーキ)やエルロン操作に油圧ブースト機能を追加装備するなどして、飛行性能や操縦性を大幅に改善したことから、戦闘機として欧州戦線に投じられ、独空軍に双胴の悪魔と恐れられる存在になった。同様に、米陸軍戦闘機P-47についても、プロペラのブレードの幅を広げたことで上昇性能や高高度性能が格段に向上した事実が知られている。後述する20mm機関銃(旧陸軍では機関砲と称した。以下「20mm砲」)についても、後に技術的問題に苦しめられる点ではプロペラの問題と全く同様であり、この時点では全く考えも及ばなかった。
更に、高性能な航空用ガソリンの製造技術も、重慶爆撃に伴う対日制裁の影響により技術情報が途絶え、日本ではオクタン価87のガソリンの製造にようやく達した段階であった。このため、良質な輸入原油を精製し、イソオクタンを配合したオクタン価91~92が限界となり、後にエンジン運転制限や出力不足、振動など、深刻な問題を引き起こす大きな原因となるが、これも眼中になかった。つまり、同盟関係にある独伊の技術協力に頼る以外、進化し続ける軍事技術を学習(キャッチ・アップ)する途が鎖され、技術的課題は山積みとなり、これらがもとで連合軍機との性能格差が著しく開いていくのに伴い、決定的な戦力差となり、搭乗員の急激な消耗の影響も加わって、戦況は急激に劣勢に追い込まれていくことになるのであった。
特に、ゼロ戦の開発にあって早期に解決すべき技術的課題があると考えられたのは、He112を参考にしつつも、運用実績が無い状況で20mm砲を主翼に装備し、その上で96艦戦に劣らない旋回性能を確保すると同時に、96陸攻の直掩に供し得る長大な航続力を生み出すことであったと考えられる。このため、翼面積の増大(翼面荷重の低下)により運動性を向上させつつ、航続力の延伸に伴う燃料搭載量の増加(翼内燃料タンクの装備)に加え、航法・通信機材なども装備しなければならず、機体の大型化と重量増が避けられなかった。同時に速度向上には、エンジン出力を大幅に向上する必要があり、必然的に大型化、重量大となる上、空冷式エンジンの場合、直径が大きくなる傾向があり速度低下を招く(速度向上を阻む)ことも考慮しなくてはならなかったと考えられる。このような事情下で要求性能を満足するため、十二試艦戦では住友金属が開発した世界初の超々ジュラルミン(ただし、材料入手難で加工困難)の採用に加え、薄板の使用と部材に重量軽減孔を開け、陸海軍機体強度規定により安全率が一律1.8と決められているところ、ゼロ戦は状況に応じ1.6を採用できるよう安全率の変更を上申してまで徹底して軽量化を行った。設計内部においてさえ、「あれはペーパープレーン(紙飛行機)だ」という陰口が囁かれた。機体重量の軽減策としては、戦後主任設計技師が、「(中島の九七式戦闘機が三菱の九試単戦を原型とした陸軍試作戦闘機より)100kg軽く仕上げたのには感服した」と述懐したように、九七式戦闘機のアイディアを取り込み、ゼロ戦も左右主翼(中央翼・外翼を含む)と前胴を一体構造とすることで、これらを結合する金具を廃するなどして極限の軽量化を実現した。しかし、直掩用の遠距離戦闘機ないし局地防空用の戦闘機として扱うならばまだ良かったかもしれなかったが、結果として艦上戦
闘機としての要求に反し分解状態でもかなり大きく、輸送や空母格納庫内での収容の妨げとなった上に、被弾や事故の際に前線では翼単位での交換による修理ができないという問題が発生した。何よりも、こうして徹底的な重量削減を行う一方で、その反面、安全性の確保との両立が最大の課題となった。ノンフィクション作家の柳田邦男氏の一節を引用すれば、「機体は安全限界のギリギリの強度で作られていて、ほとんど強度の余裕がないため、重量が増えると、機体強度を全面的に再検討しなくてはならなかった」、「実戦を繰り返すうちに生じてくる具合の悪い所やパイロットから出される改善要求など、細かい改修作業も少なくなかった」(※14)との指摘のとおり、その後の実用試験や運用の初期段階で問題点が表出する度に、補強などの設計変更を行わなくてはならず、改修改造に取り返しのつかない貴重な時間と膨大なリソース(人、経費、資材などの物的資源)を費やす結果ともなった。
さて、ゼロ戦の設計開始時点では、三菱の「瑞星」エンジンか「金星」エンジンを選択するしかなく、設計陣は出力は劣るものの、小型で着艦の際の前方下の視界が良く、燃費に優れている瑞星エンジンを採用した。試作初号機は、14年3月16日に完成、4 月1日に初飛行、9月14日に海軍に引き渡されたが、振動の問題に加え、速力が491km/h 要求値を下回り成績は良好とはいえず、後述する事故の影響もあり実用化までに1年以上を要した。一時は、横須賀航空隊の格納庫の片隅に埃にまみれで放置され、不吉な前途を暗示したかのようであった。
4 許容の無さが招いた事故の悲劇
同14年5月1日、設計陣は瑞星エンジンから直径は約3cm大きいものの、出力、重量など全ての面で優れた中島の「栄」(12 型)エンジンへの換装を決意(※15)、同時に振動対策の一環で二枚プロペラから三枚プロペラに変更した。事実上のゼロ戦初号機となった試作3号機は、同年12月28日に初飛行、翌15年1月24日海軍が領収した。直後の3月11日には、試作2号機が追浜飛行場でプロペラの過回転に関する原因究明のため、高度1,500mから約50度の降下角度で急降下試験を行った際、約400~500m降下したところ、唸るような音に引き続いて発生した大音響とともに、機体は空中分解して墜落した。奥山真澄職手(元海軍搭乗員、殉職後工手に昇進)は落下傘で脱出したが(※16)、開傘時の衝撃か何かで高度300~400mで装帯(バンド)と金具が外れ殉職した。事故調査によって原因は、「着陸時又は飛行時の衝撃や振動により昇降舵に取付けられたマスバランス取付腕部が振動により金属疲労が発生し折損脱落した」ことが起点となり、その状態で急降下した際、「昇降舵にフラッターが発生、機体に急激な振動を誘発した結果、一瞬にして機体を破壊した」と推定した。同時に主翼の調査も行われ、桁縁材の鋭角部に繰り返し荷重による金属疲労の発生が認められたため、丸みを加える対策を施したが、既に21号機まで量産していたため、空戦時間を50時間以内に制限し、以降は空戦に使用しないとの異常事態となった(※17)。
「(96艦戦では闘えない)1 日でも早く新型機を」との前線からの要求は激しく、通説では制式化直前の15年7月21日、実用実験に供するための十二試艦戦の増加試作機12機が漢口基地に進出したとされる。しかし、この時点でも急降下である機速以上になるとフラッターを起こし空中分解する危険性、不安は解消されておらず、G(荷重)をかけた際の20mm 弾の装弾不良・筒内爆発、7.7mm 弾のプロペラ貫通、増槽が切り離せない、収容後の脚の飛び出し、尾脚の引込み不良・破損、ブレーキの作動不良、タイヤの変形・パンクなど、不具合が絶えなかった。同年9月13日、ゼロ戦初陣の敵は、往復約1,600km(860NM)も離れた重慶基地の中国軍機で、ソ連製のI-15とI-16であった。出撃可能なゼロ戦13機は、漢口基地を出撃後、宜昌で燃料を補給し、偵察機からの情報を得て上空から有利な態勢で戦闘を開始、約30分の後、27機を撃墜したとされる(※18)。


被害はゼロとしながらも、4機が被弾、1機が脚故障によるかく座で大破、機銃の故障・弾の不具合が数機あった。この際、20mm弾の威力が誇張された一方で、残弾があった機体は僅か2機、いずれも残り10発にも満たなかった。この後ゼロ戦は艦上戦闘機という名称でありながらも、陸攻隊が部隊再編のため内地に引き上げたこともあり、中国(華南)の戦線では、攻撃の大半が敵地侵攻の際の飛行場や地上部隊、軍用の車両や列車、舟艇への銃撃となrり、艦戦の本来の役割である洋上での艦隊防空(直衛)や敵艦攻撃時の味方機掩護(直掩)を担うことはなかった。敵機撃破数の60%以上が、ゼロ戦の対地銃撃による戦果となり、緒戦の南方作戦では約80%にも達し、陸攻の爆撃よりもゼロ戦の20mm砲による対地銃撃が敵機等の破壊に有効と見なされた。しかし、20mm砲は、軽量で強度不足な機体に明らかに釣り合いであり、主翼に搭載したことで発射時の反動による命中率低下の懸念があった。また損耗が、10%前後と少なかったため、防弾装備も軽視されるようになったが、細部は後述するものの、防弾装備の欠如は完全な盲点となった。
同15年12月4日、念願の艦上機型の零式一号艦上戦闘機二型(後に21型と改称)が制式採用され、前途洋々に見えたゼロ戦であったが、突如として暗雲が立ちこめた。翌16年4月16日、空母加賀の戦闘機分隊長である二階堂易中尉が操縦するゼロ戦21型(140号機)が、木更津での飛行訓練において高度3,000~3,500mから50度で急降下した際、高度2,000m、機速約593km/h(320kt)で、機首を引き起こしにかかったところ、左主翼にシワができ、突如として左右両補助翼と両主翼外板上面が吹き飛んだ。二階堂中尉は、いったん気を失い、傷だらけになりながらも墜落を免れ無事着陸した。しかし、翌17日この事故原因を調べようとした横須賀航空隊所属の下川万兵衛大尉(漢口に初進出した際の空輸指揮官)が21型(135号機)に搭乗、高度4,000mから55~60度で急降下し1,500m付近で引き起こしに入った際、再び機速約593km/h(320kt)で左右補助翼と尾翼が飛んで無くなり、機体は空中分解して海面に突っ込み殉職した(少佐に昇進)。事故後には撮影したとみられる主翼に発生したシワの写真が何点か遺された。海軍は、直ちに事故調査委員会を設置したものの、原因解明が行き詰まる中、今度は訓練中の21型がスピンに入って墜落し搭乗員が殉職する第三の事故が発生した。この3連続の大事故発生によりゼロ戦の評価は暗い影を落とす事態となった。このとき既に、ゼロ戦は150機程が製造されており(開戦時には300機余り)、96艦戦からゼロ戦への機種更新を行い、早くも対米戦の準備を始め空母での訓練を開始していた。このため、事故原因が究明されるまでの応急対策として、急降下の際の制限速度を計器指示で約463km/h(250kt)(その後約519km/h:280kt、約556km/h:300ktと徐々に引き上げた。)、引き起こしは5G以内との制限を課した。だが、こうした間にも搭乗員からは、垂直旋回などにおいてGをかけると「主翼にシワが発生する。強度が弱い」などの苦情が相次ぎ、急降下時に約556km/h付近で鋲が弾け飛び外板がめくれ上がる、主翼内部にも破孔ができるなどしたため、機体が返納される最悪の事態に発展、部隊からは、「早く何とかしろ」と矢の催促が押し寄せた。事故調査委員会は、一連の事故に関し新しく作製した模型による風洞試験の結果から、「主翼の捻れ振動と補助翼の振れが連成してフラッターが発生した」のが原因と突きとめ、主翼の捻れに対する剛性強化のため、外板の厚みを0.1mm増加し、鋲の経を0.5mm大きくするとともに、補助翼を再設計するなどの対策を決定し、急降下の速度制限を約630km/h(340kt)にまで引き上げた。しかし、米海軍SBDドーントレス艦上哨戒爆撃機でさえ680hm/hであり、機体全体の強度不足に加え、塩害による腐食(それ故塗装技術に優れた。)や応力疲労による亀裂などの不安は最後まで解消されず、研究は終戦まで続けられた(※19)。ゼロ戦の急降下制限速度の要求値は、425kt(約787km/h)であったが、実際には旋回性能や空母での離着艦速度などを重視した影響で、米海軍グラマン戦闘機(F4F、F6F)や米陸軍ロッキード戦闘機P-38はもとより、旧式のP-40米陸軍戦闘機(他国に供与)などと比しても、ゼロ戦が優に100km/h超も劣っていた。「突っ込み(急降下)が利かない」とか、低速向けの大きな補助翼は高速時の操舵が重く、横転(ロール)できないという弱点は、後の米軍調査で明らかとなり、急降下による一撃離脱という不得手な戦いに引き込まれ、命運を劇的に変えてしまう大きな一因となる。ともかくも、ゼロ戦は次期戦闘機としてようやく姿を現したものの、次々と難題が生起するのであった。
限られた条件の中で、設計陣が最善を尽くしたことを否定するものではないが、このフラッターによる事故は、設計上の弱点を突かれたようなものといえる。ゼロ戦の機体強度は、主任設計技師の言葉を引用すれば、「後にも先にも例のない限界ギリギリ」のところで、2~3g 単位で重量を減らす設計がされ、軽量化のため、製造の現場では主翼の桁や胴体の骨組みといった主要構造部に無数の孔を開けるに留まらず、材料節約にもつながると、鍛造や鋳造した部品まで削るという尋常ではないほどに徹底されたが(※20)、製造工程数の増加という新たな問題を生じさせることになった。いわば、ゼロ戦は、欧米に数で劣る日本が軽量化による格闘戦における究極の運動性能と航続力の極限追求で、質的優位を獲得する狙いがあったとも考えられるが、飛行安全(戦力保全)上の観点からは、当時事故調査に当たった技師が指摘
したとおり、性能を幾分犠牲にしても、「設計上の安全率は、余裕のある幅を持たせる必要があった」ことは言うまでもない。更に実用機、作戦機であるゼロ戦は、実戦(生きるか死ぬかの瀬戸際)での機体の耐久性や機銃の信頼性の確保のため、設計者の想定外の状況(教範にはない操縦法)で運用されること、例えば被弾回避のための急激な横滑りを伴う強烈な引き起こしなども考慮しつつ、後のエンジン換装や武装強化などのための改修や生産性の向上を妨げないためにも、設計や製造では理論値や限界を追求せず、生身の人間が扱う現実の幅を持たせること、許容が必要であった。ただし、フラッター(とりわけ尾翼)の問題については、他の旧軍機はもとより、他国軍用機を含め、ほぼ全ての機において共通した問題であり、方向舵の強度不足やマスバランスなどに起因したフラッターと疑われる空中分解事故が続発したことも事実であった。これは、設計時に対策を講じていても製造ミスや誤差、経年変化で操縦索やリンクにガタつきや遊びが生じたり、前線で外板の修理や再塗装した際に重量バランスが崩れたりしたことの影響もあったと考えられる。どの整備兵にも、フラッターの恐ろしさを理解させ、原因となる不具合箇所の点検や適切な修理方法が確立されていたならば、防ぎ得たケースがあったかもしれないのである。
5 見過ごされたゼロ戦の本質的問題
十二試艦戦の計画要求書が策定される前年、海軍軍令部が作成、海軍省に提出した「航空機種及び性能標準」に示された次期艦戦の用途は、「①敵攻撃機の阻止撃攘、②敵観測機の掃討」であり、特性として、「速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること」であった。この時点では、戦闘機の機種は艦戦のみであるため、洋上での運用や対戦闘機戦を考慮してはいるが、次期戦闘機を開発するに当たって防空戦闘機(後の局地戦闘機のこと。「局戦」)としての特性を最重要視していた状況が判る。とりわけ機銃は、「20mm 砲2~1(弾薬包は1丁当たり60 発)、1 の場合は7.7mmを2追加(弾薬包は1丁当たり300発)」としており、20mm砲の搭載ありきの要求であった。真の計画要求書に示された十二試艦戦の用途は、「攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機」であり、内容は同一であった。計画要求書に関する曽根技師の12年12月10日付メモにも、目的は、「攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃討に適する艦上戦闘機を得るに在り」と記され完全に一致しているので間違いない。用途を文字どおり解せば、ゼロ戦の原型機である十二試艦戦は、陸上爆撃機による基地上空への侵攻を阻止、撃退することが主な任務であり、従たる任務として砲戦による艦隊決戦時に観測機(弾着の確認や天候を観測する水上機)や敵の哨戒機を撃墜することを考慮して開発したことになる。つまり、主任設計技師が、計画要求書の用途に記した「掩護戦闘機」と「邀撃戦闘機」なる用語は、海軍では使用されたこともない造語若しくは汎用語であり、戦後に都合よく書き換えられたものであった。また、主任設計技師は、翌13年4月航空廠での十二試艦戦計画審議会において、「速度、航続力、運動性、兵装等の相反する要求を同時に満足することは殆ど不可能であるから」、「航続力、速力及び格闘力三性能の重要順序に就き如何に考えて居られるかお伺い致したい」と質問したところ、源田實少佐と柴田武雄少佐(海軍兵学校同期で後に大佐に昇進)の激しい議論は平行線をたどり結論に達せず、設計・開発は過酷なものとなったと有名な苦労話を披露した。しかし、本物の計画要求書の航続力の項には、「尚計画上余裕がある場合は極力最高速度の向上を計るものとす」と航続力よりも速力や上昇力を優先すると明確に示されていた。曽根技師も、遡ること同13年1月17日航空廠で行われた十二試艦戦官民合同研究会に関する会社への報告で、計画要求書の補足事項として、「性能:要求速力及び上昇力を略々満足せば航続力の向上を計ること」と優先順位に関する具体的指示を記していた。つまり、要求性能は、「速力、上昇力、航続力」の順で明記され、敵戦闘機との格闘戦に重要となる運動性は要求されていなかったのであり、その内容からも局戦としての性格が強い要求であったとみることができる。こうした史実に照らし合わせば、ゼロ戦の長大な航続力も設計時に優先していたわけではなく、敵哨戒機などの侵入を警戒、阻止するための滞空時間6時間の要求に基づいて設計しただけのことであり、細部は後述するが、中島製「栄エンジン」の燃費が優秀であったが故、結果として所望した以上の性能が実現したに過ぎない。
更に艦上機を開発する際、空母へ離着艦する際の速度や滑走距離などの性能の他に設計上厳しく要求されるのが、搭載機数にも大きく影響する機体の大きさである。海軍では、船体内の格納庫の天井までの高さ(4.3m)とともに、飛行甲板との間の移動に使用する昇降機(エレベータ)の寸法(戦闘機が使用する前部が中後部のものよりも幾分か大きいものの、縦横11.5m)で設計が著しく制約されるため、十二試艦戦の真正の計画要求書には、「主要寸度:全幅12.0m、全長10.0m、全高3.7m以内、成るべく小成ること」と厳格に示し、ゼロ戦と開発がほぼ同時期である十三試艦爆の計画要求書にも全幅11m以内と明記していた。曽根メモにも、要求性能の最初の項目に、「主要寸度(全幅12.0m、全長10.0m、全高3.7m)」とあり、補足事項として「主要寸度:機体は10.25 × 2.5以内に収納し得る如く分解可能なること、鉄道輸送可能なること」と記していた。しかし、主任設計技師が戦後に創作した計画要求書なるものには一切記載がない。しかも、海軍は中国戦線での局戦としてのゼロ戦の役割、とりわけ20mm砲の搭載を優先した開発を急いだため、実際は要求自体がなかったに等しい、うやむやな扱いとなり問題解決を後回しにしてしまう。このため、後に海軍はゼロ戦は艦戦に相応しくないとの判断から(※21)、96艦戦の後継機に十四試艦戦の開発を計画したのだが、設計側の人手不足を理由に断られ中止した経緯があり、こうした不都合な事実を覆い隠すため、戦後に十二試艦戦の計画要求書を改ざんし、本物に似て非なる偽物を捏造したと考えられる(※22)。こうなると、いくら好意的に読み返してみても、主任設計技師によるゼロ戦の逸話の数々や、よもやま話は甚だ疑わしいものに映ってしまい、裏に何か真相が隠されていそうで、懐疑的に受け止めざるを得ない。
このように明らかとなった一連の史実から判断する限り、海軍は、96艦戦の実用上の欠陥に焦燥感を抱きつつも、確固たる戦術や技術的な見通しもなく、戦艦の主砲と同様に戦闘機の機銃の口径を大きくし、速力を増すなど攻撃面だけを強化さえすれば、中国との戦争を短期に終らせられるとの希望的観測のもと、暫定的ながら、局戦としての使用を視野に次期艦戦の開発を推し進めたといえる。言い換えると、ゼロ戦は敵戦闘機を相手に戦うようになる後の艦戦としての役割よりも、敵爆撃機の迎撃に加え、対地銃撃を大きく期待され、強力な火力を搭載するよう作られた戦闘機として誕生したのであった。言い換えると、ゼロ戦は名称こそ艦戦であるが、後の真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、従来の砲戦による艦隊決戦に変わり、空母並びに艦上機、陸上機を含む航空兵力が主体となり主力艦に対する爆撃、雷撃(魚雷攻撃)を行い雌雄を決すること、後の珊瑚海海戦やミッドウェー海戦のように互いに相手の姿を見ることなく一弾も砲火を交えないで、空母同士が航空機をもって直接対峙するような近未来の戦闘像をイメージして開発されたわけではないということだけは確かである。
その局戦を開発する場合はというと、艦戦とは異なり、航続力や運動性能を多少犠牲にしても、高高度で侵入する敵爆撃機を迎撃するために速度、上昇力の向上と火力の強化が不可欠である一方、基地飛行場を使用するので、離着陸時の性能や格納時の大きさを考慮せずともよく、後述する双発戦闘機のように設計の自由度は大幅に増す。野沢正『日本航空機総集第一巻三菱篇
(1958 年)』によれば、先述した13年4月の十二試艦戦計画審議会が開催された頃には、「運動性を一義とする艦戦、長距離掩護戦闘機、速度と上昇力を生命とする局地戦闘機の三機種に分つという意見が強く打ち出されていた」というから、艦戦と局戦とを別々に開発しさえすれば、問題解決が容易な上、設計や改修時の混乱を回避し、開発に要する時間や経費も大幅に削減できたはずであった。これに対し、後に求められた艦戦の任務は、艦隊上空の防空(直衛)や敵艦攻撃の際の味方機掩護(直掩)であった。本来ならば、戦闘機1機当たりの交戦時間(攻撃持続力)を最大にする観点からは航続力以上に機銃の弾数を多くすることが極めて重要で、継戦能力確保の観点では容易に養成できない搭乗員を防護する防弾装備が不可欠であったが、ゼロ戦の仕様が著しくこれに反し、艦戦(主力戦闘機)としての適性を欠いたまま、対米戦を前にしていわば未完の状態で早期に戦力化をしなければならない状況となった。しかも、海軍は空母に艦上機を搭載する際、攻撃力の増大という理由に加え、損耗が多いと見積もられる艦攻、艦爆の搭載を優先したため艦戦の搭載が少なかったから、こうした影響は尚更大きかった(※23)。仮に、ゼロ戦の航続力や運動性能が多少劣ることになったとしても、搭乗員の技能や戦技、作戦次第で、ある程度補うことはできたはずであるが、急降下速度や横転性の問題、後述する弾数不足、防弾装備の欠如などは、搭乗員にはどうすることもできず、深刻な事態を招くことになった。
ただし、こうした「攻撃一辺倒」な点は海軍艦艇の設計も似通っており、ゼロ戦に限った性質の問題ではなかった。海軍は持たざる国の軍隊の宿命ともいうべきか、軍縮による劣勢を補うため、限られたトン数の艦に仕上げるべく、小型軽量の艦に多くの兵装を積むとの一貫した方針で建艦したが(「個艦優越」と称した。)、昭和9年新型水雷艇友鶴の転覆事故(※24)などに見られるように、設計思想そのものに重大な欠陥が潜在していることが判明し、大多数の艦艇は船体補強の改善工事に追われ、対空火砲の手当が後手に回ったことが、後に航空機による攻撃の被害を急拡大させてしまう原因ともなった。しかも、この直後の第四艦隊事件の際、船体の鋼板を継ぎ止める溶接が事故原因と疑われ、その使用を禁じ鋲(リベット)接合に逆戻させてしまい(※25)、後にこの際の見通しの甘さがもとで重量増に伴って速力が低下、被弾時に衝撃を受けると鋲が緩み、浸水しやすいという重大な弱点を露呈することになるが、後の祭りであった。溶接の造艦に反対したのは、戦艦や巡洋艦の設計に絶大な影響力を誇った平賀譲海軍技術中将であった。また平賀中将は、船体強化のため艦中央に縦方向の隔壁を設けたが、魚雷や機雷などによって艦の側面が損傷した場合、片舷のみが浸水して、船体が大きく横に傾き、速度が著しく低下するばかりか、砲の射撃もできなくなるという致命的欠陥を招くことになった。神様と崇められるような伝説の設計者、それも提督の見解を否定したり、意見する者など日本の組織、社会にいるはずもなく、開戦後に被害の拡大を受け、マンホール程の穴を開け非水密隔壁としたが、効果はなく抜本的に見直されることはなかった。と同時に、溶接やブロック式による建造技術の導入の遅れは、工作の簡易化による戦時の急造を妨げ、戦局を一層不利なものとしたのであった。
戦闘機を艦戦と局戦、遠距離戦闘機(「遠戦」)、水上戦闘機に分化し、要求性能を個別に定めるという考え方は(※26)、同13年9月30日横須賀海軍航空隊司令が軍令部次長宛に発出した「航空機種及び性能標準案」に初めて認められるが、これを受け軍令部がこの方針案を策定したのは、ゼロ戦の試作初号機が完成する直前の翌14年2月であった。局戦型のゼロ戦(11 型)を制式採用する直前の15年7月15日軍令部はこれをいったん修正し、「航空機種性能標準(修正第一次案)」として策定したが、艦戦も遠戦も実機がない。つじつまを合わせるため、軍令部は艦戦型のゼロ戦(21 型)が誕生した直後の16年に入ってから正式に制定したのであった(※27)。いわば局戦仕様に開発されたゼロ戦を、日米開戦直前に慌てて艦戦化に取り組むことになり、制式採用に伴う改称で表向きを繕ったというのが偽らざる真実であると考えられるのである(※28)。
この時代、海戦の主役は依然として戦艦であって、航空兵力は有力視されつつも主力艦の劣勢を補う兵力としか考えられていなかった。空母を有していても、陸上基地航空兵力の補助的存在であり、艦戦も艦隊決戦の砲戦時に着弾観測などを行う敵観測機の排除を念頭としたものであって、敵主力艦の攻撃時の護衛や艦隊防空を想定していたわけではなかった。何よりも、航空機が将来の戦争にいかなる影響を与え、どのような機種の航空機を開発すべきか、どんな使われ方がされるかなどの実例もなく、研究するにも拠り所がなかったという致し方ない面もあったであろう。実際のところ、制空権下での艦隊決戦ないし戦艦の砲戦による艦隊決戦の前に航空機による撃滅戦を行う構想が各国において姿を現すようになるのは、欧州戦線が始まって1か月ほど経った、日米開戦前年の15年頃まで待たねばならなかった。現に、連合艦隊の訓練方針が従来の艦隊決戦思想から大きく変わり、同時協同攻撃に重点を置いた航空作戦が掲げられるようになったのは同15年になってからであった。つまり、ゼロ戦は黎明期に誕生した過渡的存在の戦闘機であり、海軍が航空兵力の議論が高まらず用兵思想も定まらないまま、次期戦闘機の定見や展望もなく、早期に開発を無理強いしたことに端を発した問題が当初から内包していたのである。
ここに至って、海軍は十二試艦戦の開発が思わしくなかったからか、陸攻の夜間攻撃を単座機で掩護することの無謀さに気付いたのか、13年11月、陸攻による遠距離攻撃を掩護し敵地上空を制空する用途の戦闘機として双発三座陸上戦闘機(「十三試遠戦」ともいう。)を計画した。しかし、三菱が辞退したため(両社の申し合わせの結果ともされる。)、中島による単独試作に決まり、翌14年3月中島に試作が内示された。中島は、当機の他に後述する陸軍戦闘機2機種に加え、エンジンの開発も並行して取り組むことになった。当機に要求された性能は、十二試艦戦を上回る速度(約556km/h:300kt 以上)、96陸攻並の航続力(約3,700km:2,000 浬)、武装は機銃火力大なるものにて敵戦闘機を撃攘(撃退)し得ることというもので、実現できるのかさえ疑わしい無理難題なものであった。いわば、艦戦、局戦、遠戦の特性をあまねく兼備する万能機の如くあまりにも欲張った内容で、かつ、個々の性能は相反する要求で、非現実的であった。三機種分割論は、本機が登場するまでの間は論戦が静まり、問題の先送りとなってしまったが、ゼロ戦とは比較にならないほど極めて苛酷な開発となった。
その後航続力のある十二試艦戦の完成に見込みが立ち、遠戦開発の必要性が薄れたためと考えられるが、15年7月になって軍令部は、「航空機種性能標準(修正第一次案)」において遠距離戦闘機を戦闘機兼偵察機という機種に突如変更した。開発失敗の際の落としどころを早くも探ったようにも見受けられるが、要求値は更に過大なものとなり、速度は約648km/h(350kt)、航続力は約5,556km(3,000浬)、武装は20mm固定銃1丁(90発)、7.7mm 旋回銃2丁(各500発以上)、13mm旋回銃1(300発)で、これを遠隔操作式動力銃架に収めるというものであった。このため、初号機完成は16年3月にもなってしまった上に、偵察機の開発がまたもおざなりになり、ミッドウェー海戦での敗戦を機に本格的な偵察機(彩雲)の開発にようやく着手することになるが、遅きに失した。しかも、海軍は苦労して開発した当機の特性を理解せず、17年2月「戦闘機には不向き」との理由で、二式陸上偵察機として転用した(同年7 月制式採用)。偵察機であっても、武装は7.7mm 固定銃×1、同旋回銃×2としていたはずが、速度が500km/hにも満たなかったため、武装を撤去し製造も早々と縮小してしまった。しかし、ゼロ戦と違い機体は頑強で急降下制限速度は約741km/h(400kt)と初期型のゼロ戦を大きく上回り、防弾型の燃料タンクを備えるなど、双発戦闘機(特に夜間戦闘機)としての活用の途は依然残されていたのであり、この決定は後に大いに悔やまれることになる。
6 ゼロ戦を影で支えた各企業の存在
ゼロ戦最大の長所である航続力は、栄エンジンが小型軽量ながら、遠心式過給器(スーパー・チャージャ)を備え、欧米に肩を並べる約1,000馬力を実現しつつ、80l/h前後の低燃費で片道約930km(500NM)以上、最長10時間近くもの飛行(巡航高度約3,000~3,500m、速度約222~260km/h:120~140kt)を可能とする優れた燃費特性に加え、整備性が高く最前線の過酷な環境でも安定した稼働率を誇ったため、真価を発揮し得たのであり、文字どおり原動力となった。栄には、ガソリンを霧化させ空気と混合する中島製のキャブレター(中島二連降流100甲型気化器)が取り付けられたが、大きな+G や急降下時の0~-Gがかかる際の燃料供給の滞りによる息つぎを防ぐため、バルブ機構で常に一定量の燃料を供給し、背面飛行時には燃料過多で不完全燃焼しないよう逆止め弁を内蔵した。更に、高度の違いを検知し、燃料混合比を自動で調整する機構(AMC)も組み込んだ。つまり、ゼロ戦が長大な航続力に加え、急旋回や急上昇という抜群の運動性を誇った背景には世界的にも優れたエンジン技術があったことに議論の余地はなく、否定しようがない事実である。後述する飛燕の生みの親である川崎の土井武夫技師は、「戦闘機の設計においては、その搭載発動機を選ぶということが、第一の問題である」との言葉を遺したが、航空機性能の大半はエンジンで決まるとの言葉もあるように、栄こそゼロ戦の性能を決定づけた真の立役者であり、現に栄はその優秀性を高く評価され、陸軍大臣から中島の小谷武夫、加藤健次両技師に技術有功章(技術者の金鵄勲章に相当する徽章)が授与されたのであった(※29)。

それもゼロ戦の栄の搭載は、設計当初から狙ったものではなく、主任設計技師が主張したとおりであれば、海軍からエンジン換装を命じられたが故に偶然に得た結果であった。栄の製造は中島の他、川崎航空機(「川崎」)、石川島航空工業(石川島飛行機から分社、現IHI)が担った(※30)。特に中島は、栄(隼も同系エンジンだが、補機類の配置が異なり別称での分類)の設計・製造に加え、ゼロ戦の機体製造をも担ったことから、隼の製造は立川飛行機(現立飛企業)が引き継いだ(※31)。中島でのゼロ戦の製造は、16年12月から終戦までの間に、二式水上戦闘機(通称:下駄履きゼロ戦)約330 機を含め約6,600機であり、エンジンを除いた機体の総製造機数だけでも驚くことに全体の約63%にも達した。一方の三菱は、機体製造においても約32%が下請けによるものであった。こうした当時の状況を裏付けるように、曽根メモには17年7月海軍航空本部が零式艦戦多量生産研究会を開催し、中島の小泉製作所長に作業計画、部品入手計画、工作法、検査法などを三菱に対し説明させるに留まらず、工場視察に加え、翌日には部品関係や組み立て関係の分科会まで行ったことが記されている。しかし、こうした試みも虚しく、17年12月以降月産で両社を比較すると、常に2~3倍の開きがあり、19年12月以降は更にその倍である6倍強の著しい差となった。かくて、こうした各社の協力支援なくしては、ゼロ戦の誕生はもとより、その後の量産もなかったであるから、主任設計技師からの感謝の言葉がなくとも、これらの功績は高く再評価されて然るべきだろう。臆することなく直言すれば、三菱のゼロ戦とはいわれるものの、貢献は主に機体の設計試作であって、ゼロ戦は中島によるエンジンの設計製造はもとより、機体の量産化技術が結実して誕生したものともいえよう。もっとも、曽根技師の記憶によれば、(96 艦戦の後継機として)何百機も製造する予定ではなく、数十機程度の製造が見込まれていたということだから、製造は当初から手作業で行われることを意味していたとも考えられるし、そのこと自体が暫定的な局戦あるいは研究の位置づけで開発をされた経緯を物語っているといえるのかもしれない。
さて、軍用機全般の量産の実情はというと、陸軍機の組立工場である中島の太田製作所の拡張(3倍強)と陸軍機のエンジン工場である中島の武蔵野製作所の建設は、日米開戦3年前の昭和13年4月に終えていたが、海軍機の組立工場である中島の小泉製作所の一部は、太田製作所からの移転で開戦約7 か月前の15年4月(操業開始は同15年末頃)に、海軍機のエンジン工場である多摩製作所は武蔵野製作所の西隣に開戦僅か1か月前に新設したばかりで、生産設備や工作機械はもとより、熟練工など生産体制は整っておらず、栄エンジンは、大正末期に建設された小規模の荻窪製作所(旧東京製作所、陸軍管理指定工場)で細々と製造されていたに過ぎなかった。現に、中島をもってしても16年における製造機数は陸軍約750機、海軍約340機の計1,090 機、エンジンは約4,000基であり、開戦直前になって中島の陸軍機用製造設備を海軍に利用させることになる。しかも、これらの海軍工場は米技術者の指導を受けて稼働したものであって、技術力、製造能力ともに知り尽くされ、米による日本の生産予測は誤差数%とほぼ正確に把握されていた。その上に、欧米の技術情報の他、米に約65%を依存している工作機械や検査器材などの入手も困難になったため、とりわけ工作機械の不足は高度な技術に立脚する航空機製造にとって致命的弱点となった。戦後米戦略爆撃調査団(USSBS:United States Strategic Boming Survey という。米陸海軍士官350名と下士官兵500名、民間人300名で終戦直後に組織された調査機関のこと。)は報告書の中で、「中島の武蔵野製作所の施設と生産技術は太平洋戦争開戦前に出来上がり、十分な戦争継続能力を持っていた。ただ工作機械の増加が生産実績の割合を下回っていた。故に、自動・半自動機器の設備援助が満足に政府から支援されれば、(カーチス)ライト社同様の6倍近い生産は可能であった」と記したとおりの状況であり、国内工作機械メーカー(池貝鉄工所(東京・川崎)、新潟鉄工所(新潟)、日立製作所・工作機械(東京・川崎)、大隈鉄工所(名古屋)、芝浦工作機械(横浜)等)への国による支援も、また十分なものではなかった。一方で流れ作業の導入など、近代的な生産を行ってい
たのは、中島ぐらいで他社は欧米に比し大きく遅れをとっており、中島の技術者は負けるに決まっている無謀な戦争への突入に悲観的にならざるを得なかった(※32)。日米開戦日の当日、航空機の総合研究を行う施設として三鷹研究所の起工を執り行っていた、中島の創業者中島知久平(※33)は開戦の事実を知って愕然とし、周囲に、「これで、日本はダメだ」との言葉を漏らした。その言葉が示すとおり、米一国の戦時生産量が日独伊の合計を上回るのは、開戦後僅か4か月の17年4月のこと、日本の航空各社が航空機やエンジンの増産のため、工場を次々と整備していくのはミッドウェー海戦後の同17年夏から秋にかけてのことであった。(その②に続く)
■ 注釈及び補足説明
(※1) 戦後その名が広く知れ渡ったのは、堀越二郎/奥宮正武共著『零戦(昭和27年出版)』とゼロ戦の撃墜王として知られた坂井三郎著『坂井三郎空戦記録(翌28年出版、後の大空のサムライ)』がきっかけである。零戦の名称が初めて公表されたのは、昭和19年11月23日付の新聞で、「最新鋭機・雷電とともに、新鋭機・零式戦闘機がB-29を大量撃墜した」と報じた海軍による広報記事であった。零戦には「ゼロセン」とルビがふられ、搭乗員が呼び親しんでいるとの説明が添えられていたように、海軍搭乗員の中には当時からゼロ戦と呼んだ者が少なくなかった。
(※2) 隼が、国民の前に披露されたのは、昭和16年9月20日(第一回航空日)、帝都上空を飛行したのが最初であり、日米開戦の約3ヶ月前であった。隼の名称は広報用の愛称であり、陸軍機は開発計画順に機体の頭文字「キ」をとって一連番号を振り、部隊でもキ番号の数字だけで呼称した。このため、開発年度が推定できず、秘匿に優れた。またエンジンは発動機の「ハ」、機関砲は「ホ」を使用した。加藤建夫中佐(昭和17年5月22日出撃時、敵機による被弾で自爆、享年38歳、陸軍初となる二階級特進で少将)が率いた第六十四戦隊は、緒戦の南方作戦に大きく貢献するとともに、同隊は数多くの熟練搭乗員を輩出、その後も大戦末期に至るまで連合国空軍と互角の戦いを繰り広げた。昭和19年に公開された東宝映画「加藤隼戦闘隊」は同隊所属の檜與平中尉、遠藤正中尉が同名の題名で執筆した書籍を元に映画化させたもので、両名の出演はもとより空中戦の撮影では、陸軍明野飛行学校の全面協力で実機の隼に加え、陸軍がろ獲した、P-40とF2A戦闘機が使用された。この他にも、「翼の凱歌(17年)」にはB-17D爆撃機が使用され、これら映画は戦後ゴジラやウルトラマンなどの特撮で世界的に知られるようになる円谷英二氏が特殊撮影を担当していた。とりわけ、「ハワイ・マレー沖海戦」については、特撮技術があまりにも優れていたため、戦後押収したフィルムを見た関係者は、実際の記録映画と信じて疑わなかったという。円谷本人はというと、戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担したとして公職追放により東宝を一時追放された。
(※3) 日本では事変と呼んだが、本質的には戦争であり日本は対英米戦に突入していった。日本が、宣戦布告をしなかったのは、昭和3(1928)年に締結したパリ不戦条約に違反する戦争行為であってはならないため、一時的かつ局所的な武力衝突と主張することで、交際連盟の常任理事国としての立場、体面を失わないよう繕ったものであった。一方の中国側は、米の支援を受けるためには、米の中立法の関係で紛争状態にあると認めるわけにはいかない事情があった。このため、蒋介石政権による日本への宣戦布告は、日米開戦の昭和16年12月8日の翌日となった。
(※4) 下駄履き零戦の愛称で知られる中島の「二式水上戦闘機」は、ゼロ戦11型を改造した機体で、南方方面では飛行場設営までの間の防空戦闘機として、偵察や輸送船団の護衛にも活躍した。日立航空機で272機、海軍第二十一航空廠(大村)で243機、計515機製造された。一方ゼロ戦としての製造機数に含まていない、「零式練習用戦闘機」では、日立は中島からゼロ戦の翼・前胴、エンジンカウリング、フラップ、エルロン、尾翼、後部胴体、燃料タンクの供給を受け製造した。それまでの間、当初ゼロ戦の生産不足から、96式艦戦を母体にした二式練習戦闘機を渡辺鉄工所(後の九州飛行機)が開発を行い、第二十一海軍航空廠が製造した。
(※5) 陸攻は、中攻ともいい、海軍独特の機種であった。ロンドン海軍軍縮条約で、補助艦艇の保有数が制限されたことから、敵主力艦を水雷戦で仕留める巡洋艦や駆逐艦に替わり陸上基地から敵艦攻撃を目的として生み出されたものであった。爆撃機ではなく攻撃機と称したのは、陸上の目標は攻撃の対象ではなかったこと、急降下爆撃が不可能であったからである。その任務は、敵艦艇の撃破、捜索、偵察、所要に応じた陸上機動とされ、専ら雷撃に投じられた。要は、水上艦艇の劣勢を挽回するため、洋上決戦(雷撃)に特化した機体であった。ロンドン海軍軍縮条約に、海軍次席随員として参加し最も強硬に対米7割を主張したのが、後に連合艦隊司令長官となった山本五十六であり、これを機に山本は出世コースを歩むことになる。この後、山本は海軍航空本部技術部長を経て航空本部長となり、陸攻の体制整備を含め航空戦力の拡充に邁進していった。
(※6) 「戦闘機無用論」は、昭和8年頃に横須賀航空隊を中心に台頭しはじめ、12年頃まで影響が及んだ。昭和11年横須賀航空隊(戦技研究や新型機の実用試験などを所掌)では、戦術教官の三和義勇少佐(後に連合艦隊司令部参謀、マリアナ沖海戦で第十一航空艦隊参謀長)が、「戦闘機が攻撃機を有効に阻止できないことは演習で実証されているから、搭載機数に限りがある母艦には戦闘機のかわりに艦爆や艦攻を多く積み、攻撃力を増加させよ」などと講義をしていた。三和教官に向かって、横空の柴田武雄大尉(終戦時大佐)は、「空母を防御するには、多数の戦闘機が必要で、その他の防御法も研究が必要だ」と意見すると、三和教官が、「君は、それでも日本人か」と罵倒するような有様であった。翌12年軍令部部員となった三和少佐は、空母の搭載比率に関し戦闘機を減らし艦攻と艦爆を増加させるとともに、後に戦闘機搭乗員の養成比率を30%以上削減した。中でも優秀な下士官兵の戦闘機搭乗員の多数を(損耗が多い)艦上爆撃機搭乗員に転換したため、昭和15年の時点でも戦闘機搭乗員の養成で、特に指揮官搭乗員に大幅な不足が生じ、開戦準備に間に合わないことになり、じ後の作戦の帰すうに深刻な影響を及ぼした。
(※7) 愛知航空機は、航空機製造に関わる企業としては、三菱(内燃機製造)より2年余りも創設が古く、第一次大戦後の大正7年12月で、創業者は五明良平である。トヨタ系列のアイシン(旧愛知工業、元は東海飛行機:川崎とトヨタが共同出資した陸軍の発動機製造会社)とは異なる会社で、現在は日産の子会社。
(※8) 米政府は、パネイ号事件では日本海軍の故意によるものと断定しつつも、過失を主張する日本政府の陳謝を容認したが、重慶爆撃では教会、病院、学校などの屋根に国旗を記したにもかかわらず、爆撃をされており、中国から米を排除する企て、計画的な攻撃と毅然と主張した。上海の英字新聞が、絨毯爆撃と連日報道し、英による抗議声明や国際連盟による非難決議も発せられた。日本の国会でも取り上げられたりしたが、海軍は、「そのような事実はない」と否定、焼夷弾を使用しながらも、「軍事目標に向けた精密爆撃」などと抗弁した。海軍は、この爆撃で早期に戦闘終結を図り、対米戦を準備する腹積もりであり、「(各国大使館がある)重慶は慎重にやれ」などとも指示していた。重慶爆撃を積極的に推し進めたのは支那方面艦隊参謀長の井上成美であり、このときの海軍大臣は米内光政、次官は山本五十六という海軍三羽烏(ワシントン海軍軍縮条約締結時締結の賛成派)であった。昭和14年8月、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官となった山本五十六中将は、翌15年4月支那事変における功に依り功二級金鵄勲章旭日大綬章を授与された。昭和15年5月、第一航空戦隊司令官の山口多聞少将は、搭乗員に対して、「断じて市街地に爆弾を落としてはならん」と訓示、絨毯爆撃を主張する第二航空戦隊司令官兼参謀長の大西瀧治郎少将と激しく対立した。あるときには、陸攻隊単独の攻撃による被害を顧みない強気な山口司令官に対し、大西が新鋭機のゼロ戦が到着するまで攻撃の中止を主張、山口が思いとどまる一幕もあった。両名は、同期生であるという他に、少佐以上は実戦機に搭乗しないとの慣例を破り、陸攻に搭乗して自分の目で見て判断する豪傑なリーダーシップに加え、「俺もあとから行くぞ」との部下との約束を守り、自ら処断した数少ない提督という共通点があった。翌14年7月、海軍は海南島を占領、海軍が主体となり資源開発に乗り出し、軍との関わりが深い財閥系企業(日本窒素海南興業株式会社など)が進出をした。これに対し、米は日米通商航海条約の廃棄を通告したのを機に、航空用ガソリン、潤滑油、特殊工作機械等の対日禁輸を次々と実施していった。戦後、海南島占領は強制連行など、歴史に暗い影を落とすことにもなった。
(※9) 艦上爆撃機搭乗員(当時十三空分隊長)として華中の爆撃に参加していた高橋赫一海軍少佐(戦死後大佐に特進)の場合、昭和17年3月出撃を前に両親と妻に対し、「今度の戦争では、やがて日本中の都市が爆撃されるだろう。まず軍事基地、工場、大都市がやられる。〇〇は小都市だから、大丈夫だろう。ここに住むのが良い」などと伝え、遡ること昭和16年夏には、戦争ごっこをしていた息子に対し、「お前たちは、チャン〇〇などと言って、バカにするが、中国人は決して弱いのではない。本当に弱いのなら、負けたと言って直ぐに降伏するのだが、いくら負けても後退して抵抗する。だから、本当は強いのだ」と諭すなど、戦争全般を冷静に見通すことができる軍人も少なからずいた。
(※10) 日本で初めて引き込み脚を採用した機体は、96陸攻開発の元となった八試特偵であり、三菱の本庄季郎主任設計技師が国産化した技術であった。ゼロ戦は、引き込み脚を採用する際、本庄技師のチームから加藤定彦技師を引き抜いた。また、ゼロ戦の主脚オレオは、96艦戦の脚折損事故と同様に亀裂の不具合が続出したが、この改造設計についても病気療養中の主任設計技師に代わり本庄技師が行っており、強度が向上するとともに重量が軽減され製造時間も短縮されたのであった。同様に飛行性能を大きく左右するエレベータとエルロンの翼弦長比も、本庄技師の一式陸上攻撃機(以下「1式陸攻」)の技術を応用したものであった。空母艦上機として日本で最初に引込脚を採用したのは、中島の九七式一号艦上攻撃機(後に栄に換装し三号艦攻として採用され、愛知で製造)であり、この際競争試作に臨んだ三菱の九七式二号艦上攻撃機は依然としてむき出しの固定脚であった。中島製とともに制式採用されたというものの、航続力などが劣っていた上に、エンジン換装の見込みもなく、空母では使用されず陸上機として基地に配備され少数生産に留まったが、制式採用されたこと自体が不可思議な決定であった。
(※11) ピッチ角を、飛行高度や姿勢角に応じて自動的に変化させ、一定回転速度で回転するよう制御する機構を備えたプロペラのこと。
(※12) もともとは、中島がハミルトン社のライセンスを取得し、金属製のプロペラを製造していたが、海軍が住友金属(大阪桜島にアルミ精錬工場を建設)に陸海軍機のプロペラ製造を一手に引き受けさせるよう主導して移転をさせた。陸軍機も隼を含めて、ゼロ戦と同じハミルトン式のプロペラを採用したが、製造は日本楽器(現ヤマハ発動機)が行い細部で仕様が異なった。なお、同社の技術者で陸軍九七式戦闘機のプロペラなどを担当した佐貫亦男氏は、戦後東京大学教授などを務めた後、作家、航空評論家として活躍した。
(※13) ゼロ戦は21型までのプロペラ径は、2.9m、32型以降では3.05mに拡大し、プロペラのピッチ角も、昭和18年7月からは46~26°に、以降49~29°、51~23°に変更した。海軍機最速を誇った偵察機「彩雲」は3.5m、紫電・紫電改は3.3mであった。また、これらの機体はともに独VDM社製の電動式プロペラ(68~43°、昭和17年から住友がライセンス生産)の採用したが、オリジナルの電動機構を国産化できず、ハミルトン製の油圧式機構をとりつけたことなどもあって重量200kg超に及んだ。一方、同じ誉エンジンを搭載した疾風のプロペラ径は3.1mとさほど大きくなかったが、仏ラチェ社製(日本国際航空工業が昭和15年からライセンス生産、17年秋ピッチ変更速度の向上のための改造を施し、ペ32と呼称した。前身は南海電鉄が昭和12年に神奈川県平塚市に設立した日本航空工業株式会社)で、電動モータ式のピッチ制御であった。本体が185kgと軽く、ピッチ作動角が32~60°(作動範囲が28°)と大きい上、作動速度も早く(米P-40の1.2度/毎秒に対し、6.6度/毎秒となる5倍強)エンジン出力を効率的に推力に変換できるため、加速性に優れたが、不具合も少なくなかった。このため、後に日本楽器が独ユンカースの油圧式技術を導入したものの、実戦に間に合わなかった。これらはいずれも、米が開戦直前に武器禁輸措置としてカーチス社の電動式プロペラやハミルトン社のプロペラ製造用の工作機械などを禁輸したことに対する苦肉の策であった。
(※14) 柳田邦男氏の著書『零式戦闘機』には、十二試艦戦の設計における重量管理について、「『気狂じみている』と、チームの者が言うほど徹底していた」とある。特に、引き込み脚は尾輪まで収納する拘りようであったが、空気抵抗の軽減による速度性能の改善は微々たるものであり、却って製造に手間がかかり、操作が煩雑になる、故障が生じるなど、デメリットの方がはるかに大きかった。後に、ゼロ戦の主任設計技師が開発に携わった海軍局地戦闘機の雷電では、尾輪の支柱が着陸の際の衝撃で曲がった状態で引き込まれ、昇降舵の操作索と干渉し、作動不能となって機首が急激に下がり墜落する事故が発生、搭乗員(帆足工大尉)が殉職した。ゼロ戦では、機体重量が大幅増となった52型丙を開発する際、構造の強化が改めて必要になった。昭和17年後半から翌18年はじめ頃、海軍航空本部は、尾輪について、「戦闘機・偵察機以外は、工作に手のかかる引込式尾脚をやめよ」との通達を出したほどで、陸軍の飛燕(Ⅰ型乙以降)、独のBf-109などは早々と固定式に変更していた。またゼロ戦では、着艦フックのカバーを廃止したことに加え、脚位置指示装置(主脚が降りていることを目視確認できるよう主翼上に棒状のインジケータが突起して現れる仕組みとなっていた)も部品数と工数削減のため、後に簡略化が検討されたのであった。
(※15) ゼロ戦の栄エンジンへの換装については、戦後直後に主任設計技師が出版した自著『零戦』の中で海軍の命令であったと主張し、これが定説になっている感があるが、これを裏付ける記録や証言の類などは見つからない。三菱の本庄季郎元技師は、「あのころのエンジンは中島の方が評判が良くてね。三菱でも戦闘機の方なんかは、そのへんを冷静にというか、性能本位の判断して、中島のものを使っていた」と異なる見解を語ったが、主任設計技師が十二試艦戦開発の際に瑞星の設計側に改造の要望を出していた事実を踏まえると、こちらが真実と考えられる。
(※16) 職手・工手は、軍属(民間人)であり、当該操縦士は海軍下士官を退官したテストパイロットであった。中島の技師であった前川正男氏は、「テストパイロットは、終戦で生き残った人もいたが、ほとんどは墜落して死んでしまった」、「朝、家を出るときパイロットの奥さんは心配のあまり、必ず夫婦喧嘩になってしまうといっていた」、「(AT旅客機の)全備重量試験のとき、たまたま会社の幹部が大勢乗ったことがあり、そのとき運悪く飛行機が墜落し、幹部多数を一度に失った」ことなども記した。
(※17) これは、機体の耐久性(寿命)の問題を示す兆候であったが、解決
されなかった上に、戦後もこうした不都合な事実が明らかにされること
はなかった。
(※18) 中国側の調査では、戦死10名、負傷8名、損失13機、被弾による損傷11機であり、実際の撃墜は半数程度とみられる。
(※19) ゼロ戦の撃墜王として知られた坂井三郎氏(故人)は、自著『続・大空のサムライ(1970年)』の中で、「300kt(約555km/h)を超えると、急降下からの引き起こしは、よほど慎重にしないと機体全体が危険に感じられた」と述懐していた。
(※20) 柳田氏の著書『零式戦闘機』には、ゼロ戦の設計陣は主任技師から、「強度に問題がなければ、1本か2本減らして、(鋲を)もう少し疎く打てないか!この打ちつけには3.5mmの鋲は要らないだろう。3.0mmのもので大丈夫ではないのかね!」、「0.8mm厚のジュラルミンの板ではなく、0.6mm厚を使いなさい!」などと具体的に指示されていた様子が克明に描かれた。
(※21) 昭和15年1月24日の3号機の領収飛行覚書並びに所見には、「局地戦闘機として実験に移し差し支えなきものと認む」との評価が記してあった。戦後、当機を領収した真木成一氏(当時大尉、後大佐)は、「艦戦機として、合格という表現は用いなかった」と改めて語った。こうした発言を裏付けるように、昭和15年7月に海軍航空本部が作成したゼロ戦の仮取扱説明書には、一号一型(後に11型と改称)は、局地戦闘機と類別されていた。
(※22) 海軍出身の作家である生出寿氏は、柴田武雄元大佐が、「堀越二郎・奥宮正武共著『零戦』に示された十二試艦上戦闘機計画要求書の用途(「掩護戦闘機として…、迎撃戦闘機として…」)は、戦後に零戦の実績に基づいて書かれたものであると指摘し、両氏にこの点を問いただすと、「なぜ原文と違うものになったか誰が書いたかわからないと答えた」との史実を記しつつ、生出氏自身も、「フィクション(作文)は、だれが何の目的で書いたのだろうか」と疑問を投じた。正真正銘の計画要求書(昭和12年9月18日、海軍航空本部技術会議第一分科会による決定)は、原勝洋編(防衛庁防衛研究所図書館協力)『零戦秘録』(2001年)に収録された。これを本文中で引用した堀越・奥宮両氏の『零戦』や戦史叢書に示された「計画要求書」なるものと比較すると、用途からして、「攻撃機の阻止撃攘を主とし、尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」、とあり、内容が全く違うことが分かる。最大の相違点は、①上昇力:3,000mの他に5,000mを5分30秒以内②航続力:尚計画上余裕がある場合は極力最高速度の向上を計るものとする。③主要寸度:全幅12.0m、全長10m、全高3.7m以内、成るべく小なることと明確に要求されていたことである。特に寸度は、空母搭載の艦上機の設計に欠くことのできない重要な要件であり、要求書に関する官民合同研究会(昭和13年1月17日)でも具体的に提示された事実が分かっており、計画要求書とされたものに記載がないのは極めて不自然で意図的に削除したのは事実とみて間違いない。また、20mm砲は1銃につき60発、7.7mm機銃は1銃につき450発と明記され、装備する計器等の重量はキログラム単位の小数点2桁以下(10グラム単位)で示してあり、エンジンは、「昭和12年9月迄審査終了ノ発動機」とあった。更に興味深いことは、①~③は後述する「仮称零式二号艦上戦闘機(二号零戦:32型)」の改善点として引き継がれたことであり、これは推測ではあるが、この型のゼロ戦こそ当初から目指していた完成形に近かった可能性が高い。
(※23) 海軍空母の機種別搭載比は、ミッドウェー作戦までは、艦戦2、艦攻3、艦爆3又は均等であったが、以降は、艦戦3、艦攻3、艦爆2に改められた。
(※24) 重心位置が高くなり復元性が不足したのが原因とされ、生存者13名が救助されたものの、艦長以下100名が殉職した。昭和10年の駆逐艦初雪と夕霧の艦首切断事故(第四艦隊事故)も同様に設計強度の不足が原因であった。なお、事故発生の3か月も前に兆候と見られるシワが甲板上に発見され報告もされていたが、上層部は事実を隠蔽した。
(※25) 伊号級の潜水艦で約25万本、駆逐艦で約60万本の鋲打ちを必要とした。大戦中期には、海防艦や輸送艦には電気溶接が採り入れられ、工期は三分の一に減少した。
(※26) これらの分類と並行して、昭和18年からは対戦闘機用の甲戦闘機(甲戦)、対爆撃機用の乙戦闘機(乙戦)、夜間戦闘用の丙戦闘機(丙戦)の名称も便宜的に使用された。
(※27) 昭和15年7月15日、海軍軍令部が作成した「航空機種性能標準(修正第一案)」では、艦上戦闘機(十六試艦戦のこと、ゼロ戦の後継機)の機銃が、13mm×2(各300発以上)及び7.7mm×2(各800発以上)であったのに対し、局地戦闘機は、20mm×2(各60発以上)及び7.7mm又は13mm(各300発以上)となっており、20mm砲は爆撃機の迎撃を想定した兵装であった実情が分かる。
(※28) ゼロ戦が制式化される昭和15年7月前後に製造された増加試作機の中には主翼両端の折り畳み機構を追加した艦上戦闘機型の改造機(6号機、27号機)が含まれ、その他に当該機構がない艦上戦闘機型の改造機(28号機)があり、前述の仮取扱説明書には艦載実験機と類別された。
(※29) 有功章制度発足の背景には、米による技術封鎖があり、陸軍は民間技術者、大学の教員、研究者らを受賞対象に加え、技術力の底上げを図った。副賞は当時1万5千円、現在の貨幣価値に換算して3,000万円前後であり、名実ともに名誉ある章であった。
(※30) 栄の製造は、約3万台(中島2万1千台、川崎6千7百台、石川島2千3百台)であり、海軍機では九七式艦上攻撃機(中島)、二式陸上偵察機(後に夜間戦闘機「月光」として用途変更、中島)の他、陸軍機では隼(中島)、九九式双発軽爆撃機(川崎)等が同系エンジンを搭載した。
(※31) 隼の総生産約5,800機のうち、中島は約3,200機、立川飛行機(砂川工場、立川工場でⅡ型、Ⅲ型甲を製造)は約2,500機、残りの約100機は陸軍航空廠による生産であった。
(※32) 栄21、誉の各エンジンを設計した中川良一氏は、TBS番組ディレクターの島津愛介氏の取材に対し、「馬鹿じゃないかというのが素直な受け止め方です。誉を決戦機(のエンジン)と称して、その開発に全力をあげさせながら、それがまだ一台もできていないのに、戦争をはじめたわけですからね。決戦機がなくては戦にならないはずですし、正直なところ、『こりゃ敗けた』と思いました」と語った。
(※33) 明治44(1911)年、中島知久平海軍機関大尉は、「飛行機に魚形水雷を搭載して攻撃すれば、どんな大きな戦艦でも撃沈できる」との内容の論文を書いて周囲を驚かせた。大正元年(1912)年、知久平は欧州の航空事情視察から帰国後、設計主務者として横須賀海軍工廠長浦造兵部にて国産第一号機を完成させた。大正6年海軍を退官した後、飛行機研究所、日本初の民間航空機メーカである日本飛行機製作所を経て、大正8年に中島飛行機を創設した。昭和5年、知久平は群馬県選出の代議士となり社長を退いたが、社員は親しみを込め大所長と呼んだ。知久平の蔵書は、6万点にも上ったとされ、こうした状況で、中島の技師たちは、スイス経由で送られてきた航空雑誌などから、ミッドウェー海戦で空母4隻を失い完敗した事実などを知っていた。
■主要参考文献等①
堀越二郎/奥宮正武『零戦』学研M文庫(2007年)(初出1953年1月日本出版協同) /『零戦の遺産』光人社NF文庫(以下「NF文庫」)(初出1963~64年雑誌「丸」) / 『零戦その誕生と栄光の記録』角川文庫(2012年)(初出1970年3月光文社)
坂井三郎『坂井三郎空戦記録上・下』講談社α文庫(初出1953年日本出版協同)/
『大空のサムライ(正・続)』光人社(初出1967,1970年) / 『大空のサムライ戦話篇』光人社(1981年) / 『写真大空のサムライ』光人社(1993年) / 『零戦の運命』講談社(1994年) / 『零戦の真実』講談社α文庫(1996年) / 『大空の決戦』光人社(2005年)
坂井三郎高城肇『大空のサムライ完結篇』NF文庫(2013年)
高城肇『六機の護衛戦闘機』中央文庫(1990年)
岡村純ほか『航空技術の全貌(上)(下)軍事科学技術の真相と反省』原書房(1976年)(初出1953,54年)
野沢正『日本航空機総集第一巻(三菱篇)』出版協同社(1958年) / 『日本航空機総集第二巻(愛知・空技廠篇)』出版協同社(1959年) / 『日本航空機総集第三巻(川西・広廠篇)』出版協同社(1959年) / 『日本航空機総集第三巻(川崎篇)』出版協同社(1960年) / 『日本航空機総集第四巻(中島篇)』出版協同社(1963年) /
『日本飛行機100選』秋田書店(1972年) / 『戦闘機零戦』廣済堂(1981年) /
『日本の軍艦100選』秋田書店(1971年)
秋本実『日本の戦闘機(陸軍篇)』出版共同社(1961年) / 『日本軍用機航空全史(第一,二,三,四,五巻)』グリーンアロー出版(1995年)
秋本実編『伝承零戦(第1~3巻)』光人社(1996年)
羽切松雄『さらばラバウル』山王書房(1967年) / 『大空の決戦』朝日ソノラマ(1994年) / 『大空の決戦零戦搭乗員空戦録』NF文庫(2001年)
吉村昭『零式戦闘機』新潮社(1968年) / 『深海の使者』文藝春秋(1973年) /
『戦史の証言者』文春文庫(1995年)
小高登貫『あゝ青春零戦隊』光人社(1969年8月)
横山保『ああ零戦一代』NF文庫(2005年)(初出1969年10月光人社)
横山保ほか『海軍戦闘機列伝』NF文庫(2016年)
マーチン・ケイディン(加登川章太郎訳)『零戦日本海軍の栄光』サンケイ新聞社出版(1971年)
マーチン・ケイディン(矢島由哉訳)『双胴の悪魔:P-38』朝日ソノラマ(1983年)
柳田邦男『零戦燃ゆ①~⑥』文春文庫(1993年)(初出1971,72年) / 『零式戦闘機』文春文庫(1977年)
柳田邦男/堀越二郎『零戦よもやま物語』NF文庫(1995年)(初出1982年9月光人社)
岩本徹三『零戦撃墜王』NF文庫(1994年)(初出1972年今日の話題社)
森史朗『海軍戦闘機隊1 開戦前夜』R出版(1973年) / 『海軍戦闘機隊2 進攻作戦』R出版(1973年) / 『海軍戦闘機隊3 空母出撃』R出版(1976年) / 『海軍戦闘機隊4 日米対決』R出版(1979年) / 『零戦の誕生』文春文庫(2005年) / 以下、文春文庫 / 『敷島隊の五人』(2003年) /『運命の夜明け』(2006年) /
『特攻とは何か』(2006年) /『暁の珊瑚海』(2009年) / 『零戦7人のサムライ』文藝春秋(2015年)
小福田晧文『指揮官空戦記』NF文庫(1994年)(初出1978年光人社) /
『零戦開発物語』NF文庫(1996年)(初出1980年10月光人社)
岩井勉『空母零戦隊』文春文庫(2001年)(初出1979年今日の話題社)
『艦隊航空隊』/『続艦隊航空隊』今日の話題社(1977、1978年)
高橋定『飛翔雲(安全月報別冊51空研指-安-52-12)
海上自衛隊航空集団』(1978年)
日辻常雄『大空への追想(安全月報別冊51空研指-安-55-12)海上自衛隊航空集団』(1981年)
海空会・日本海軍航空外史刊行会『海鷲の航跡』原書房(1982年)
ロバート・C・ミケシュ著・渡辺洋二訳『世界の偉大な戦闘機① 零戦』河出書房新社(1982年)
『破壊された日本軍機』三樹書房(2014年)
渡辺洋二『零戦戦史(進撃篇)』グリーンアロー出版社(2000年) / 『彗星夜戦隊』図書出版社(1985年) /以下、朝日ソノラマ/
『本土防空戦』(1982年) /『大空のエピソード』(1990年) / 『大空の戦士たち』(1991年) /『大空の攻防戦』(1992年) / 『大空のドキュメント』(1994年) /『彗星 夜襲隊』同左(1997年) / 以下、文春文庫
『重い飛行機雲』(1999年) /『異端の空』(2000年) / 『死闘の本土上空』(2001年) /『未知の剣』(2002年) / 『遙かなる俊翼』(2002年) / 『雷電』(2005年) / 『液冷戦闘機「飛燕」』(2006年) /『特攻と海と空』(2007年) /
『双発戦闘機屠龍』(2008年) /『必中への急降下』(2009年) / 『決戦の蒼空』(2010年) / 『異なる爆音』(2012年) / 『日本の海軍機』(2014年) / 『埋もれた蒼穹』文春ネスコ(2004年) /
『空の技術』NF文庫(2010年) / 『ジェット戦闘機Me262』NF文庫(2012年)
いいなと思ったら応援しよう!
誠にありがとうございます。大変恐縮しております。ご期待にお応えできますよう引き続き頑張って参ります。ご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。