見出し画像

ゼロ戦「無敵神話」の光と影 ⑥ 今も生きる先の大戦の教訓

1 欧米との格差を縮めた現場力と限界

 米陸軍のP-40ウォーホークは、F4Fと同様にゼロ戦より劣る性能であったとよく評されるが、真珠湾攻撃の際、急遽駆けつけた米パイロット2名が当機で出撃し活躍を果たした(※1)。というのも、電動スタータを有しており(F4Fは火薬カートリッジ式)、コクピット内のボタン操作一つでエンジンの始動が可能であり、12.7mm機銃の威力と弾数に加え、防弾装備を備えていて撃たれ強く、頑丈で急降下での急激な引き起こしなど手荒い操縦にもよく耐えたことなどの点が大きかった。そもそも、駄作機なら13,000機以上が製造され中国をはじめ他国に供与されるはずがない。しかも、プロペラピッチの作動は電動式であったので油漏れにも悩まされず、エンジンの点火プラグもメンテナンスフリーで汚損が発生しないことに旧軍の搭乗員と整備兵は羨んだ(※2)

米陸軍カーチスP-40ウォーホーク

 なぜなら、旧軍では点火プラグの品質も次第に悪くなり、10~20時間ほどで交換しなければならず、14気筒の栄エンジンは点火プラグが28個なので、一、二度出撃するたびに何個か交換が必要となったほどであったからである。点火プラグは被り気味になるので、取外して火をあてて乾かしてから取付け直したり、更には分解して洗浄を行ったり、電極のギャップを調整したりもした。燃料の質もさることながら、潤滑油の質も悪いので、気温が低いときはエンジンがかかり難くなるため、整備兵は油を抜いて缶に集め火で温め入れ直してから始動させた。これらの作業は最初に始動を失敗すると、更にプラグに燃料が被り始動し難くなったり、エンジンが停止するなどの不具合の発生に備えた予防整備であった。また頻繁に発生する油漏れの原因は、耐油性の合成ゴムが製造できず、配管のパッキンに皮や紙、絹糸を使用したこと、接ぎ手の材質が粗悪で加工不良があったことなどにあったが、整備兵は注意深く点検し、漏れが少なくなるようナットの締め付け具合を調整し、故障発生の未然防止に取り組んだ。マニュアルもなかった時代、交換部品もなく器材や工具の不足にも苦慮し、暗がりの中、夜明けまで作業が及んだものの、欧米軍に引けをとらないほど良好な稼働率を保持した背景にはこのような職人気質による工夫があったが、それ故に部隊ごとの格差が大きかった(※3)。一方米軍の整備はというと、入隊以前は自動車の整備やラジオなどの修理を行っていた者も少なくなく、点検用チェックリストや整備マニュアルが完備された教育訓練システムのもと、部品や工具などの不足に悩まされることもなく、チーム力で漏れのない効率的な整備を行った。
 ソロモンなどにおける海軍の前線飛行場では、敵の空襲に際し、対空レーダーがないため、眼や耳で敵機を認めから戦闘機のエンジンを始動したが、その際も予め暖機運転が必要であった上に、人力でクランク棒を回さなくてはならなかった。また滑走路が1本の場合が多く、離陸時には砂塵が舞い上がり後発機の離陸が妨げられるなど、迎撃が間に合わないことも多く(※4)、夜間運用に至っては施設が整っていなかった。旧軍はラバウルやトラック島、ニューギニアのウエワクには辛うじて対空警戒レーダーや高射砲を設置し、敵機が編隊であれば空襲約30分前に、距離にして約100km遠方で探知することも可能であった。しかし、国産の真空管は輸送による振動や衝撃に弱く、取り扱いが難しい上に、タングステンなど資材不足の影響を受け、実用に適するものが10%にも満たなかったといわれるほど信頼性が低く、球切れで運転が度々中断した他、錫片の散布による妨害を受けたりした。このため航空機を空中に避退させ被害を防ごうにも稼働率が低いことから、思うようにならなかった。したがって、19年2、3月にトラック島、パラオ島が米機動部隊の奇襲攻撃により海軍機計約600機を一挙に失ったように、空戦による被害よりも、はるかに多くの機体が落下傘付きクラスター爆弾や機銃掃射によって地上で撃破された。そこで、陸軍は何十機もの機体を速やかに離陸させるため、始動車(スタータを搭載した国産トラック)を使用した訓練や競技会を行い、練度向上にいち早く取り組むとともに、開戦当初に攻略した連合軍飛行場から航空機の防護対策を学び、ソロモンのムンダ、ニューギニアのウエワク、ブーツなどの各飛行場に掩体や分散場を整備、偽装網も使用した。更に修理不可能な廃飛行機から部品を回収した後、空襲被害を避けるため偽飛行機(デコイ:囮のこと)として残置使用したり、再利用不可能な部品、残骸は爆破粉砕の後、滑走路の弾痕補修に利用した。一方海軍では、デコイなどを設置せず、後に厚木や横須賀(追浜)、小松などではコンクリート製の掩体を整備したが、こうした面での取組みが遅すぎた(※5)。また、海軍では機体を分散移動する際に炎上被害を局限するため、燃料抜きを行い木々や葉で掩蔽したりしたが、燃料抜きにしても特別な装置があるわけでもなく、格納場所は人力で押して行くにも飛行場から数キロ離れており、整備兵の負担は大きく、宿舎に帰ることもままならないので、翼下で仮眠して翌朝の出撃に備えることも少なくなかった。当然だが、整備の質は低下し、技能レベルの相対的低下と相まって、ミスが益々増えていくことになった。

2 タテ割り航空行政の破局

 果たして同じような機体を軍種別に開発する必要性がどこにあったというのであろうか。というのも、海軍の雷電と陸軍の鐘馗はもとより、紫電・紫電改と疾風、月光と屠龍を含めゼロ戦と隼も艦上機と陸上機の違いはあるにせよ、課せられた任務、求められた特性、性能は概ね同じであった(※6)。そもそも欧米に比べ技術者の数も少ないにも関わらず、陸海軍がいがみ合って対立し、驚くほどの試作機や改造を手がけた。驚くことに、海軍だけで30機種、そのうち実用化は僅か6%、残り94%は失敗であった。このため、ゼロ戦の主任設計技師をはじめ、造船技術者を含む多くの技術者が過労や病で倒れ、長期療養を要する者、命まで落としてしまう者が現れ、その度に開発の進捗が遅れ製造現場が混乱した。18年6月にもなってようやく陸軍と海軍の間で似通った機種の試作に関する要求性能の摺り合わせが行われた(陸海軍協同試作機種及要求性能標準)が、あまりにも遅すぎた。資源小国で技術後進国であった日本が、国家総力戦といいながら、愚かにも軍種ごとに、その組織内においても船だ飛行機だと予算や物資に留まらず、人員さえも絶えず奪い合った。その熾烈極まる抗争劇は、当時軍需省航空兵器総局総務局長であった大西瀧次郎海軍中将が、「日本海軍は全力を挙げて日本陸軍と戦い、余力でもって米軍と戦っている」と評したほどであった。このように旧軍の確執による縄張り争いは航空各社に無理な負担をかけ続け、技術者が忙殺され、開発や製造を著しく阻害するなど、事態が深刻であったにもかかわらず、海軍が見込みがない開発中の試作機を整理、統合するなど、戦力形成の焼け太り的構造を改めるのは、翌19年7月であり、陸軍はもう少し早く同年4月であったが、既にその前年には同盟国の一国である伊国が降伏していた。戦後米国は、『日本の科学情報調査報告書』の中で、「日本は、優れた技術者を有しながら、人的資源を有効活用できなかったのは、軍部の独善と過信によるものだった」と結論づけたのは、当然であった。つまるところ、海軍は国家間の争いである戦争を、こともあろうに各軍個別の戦闘にしてしまったどころか、つまらぬ勢力、権力争いに戦争を悪用した面さえあったのだ。
 また旧軍は大本営と称しながら、その実体は陸軍が参謀本部を市ヶ谷台に、海軍が軍令部を霞ヶ関に置き、大本営陸軍部と海軍部に名称を変えたに過ぎなかった。時折参謀が互いに行き来するものの、意思疎通は簡単ではなく、むしろ互いに反目して組織や装備品の名称ですら統一ができず、戦争指導は個別指導で事実上無いに等しかった。海軍では、陸軍との共同による航空作戦はもとより統合作戦も関心の埒外で、陸軍の提案による空軍の創設は米内光政海軍大臣を筆頭に陸軍に取り込まれると警戒し、賛同しなかった。非効率きわまりないその状況については、12.7mmM2機関銃を陸海軍がコピーする際の経緯、互換性がなかった点などは既に言及したとおりであるが、7.7mm機銃の際も同様に、陸海軍ともに英ビッカース社製の同じ型式の銃を国産化したものであった。陸軍はM2開発の際と同じく、海軍に8年も先行して国産化に成功しており(昭和2年ライセンス契約を取得、4年制式化)、薬莢の底部分の形状を変更した新弾を使用していたが、海軍は旧式な英仕様そのままとしたので、薬莢の差異があり弾を流用できなかった。このときの反省、教訓がその後に全く活かされないのが、日本のお国柄ないし海軍の体質なのであろう。当然、兵器の開発や製造に係る資源を共有する協議などは容易であるはずがなく、陸軍四式重爆の飛龍が後述するように海軍からの魚雷の供給を受け雷撃に任じたり、97重爆を現地で改修し海軍の三号爆弾を使用したりとか、逆に海軍が陸軍の一〇〇式司令部偵察機を借用したことなど、出来合いのものを他軍種が現場で工夫して使用することさえ甚く珍しいことであった。一方の米は、陸海軍海兵隊が軍用機搭載火器の規格統一を機に、開戦前から航空機の座席、車輪、ブレーキ、部品や材料に至るまで標準化し(※7)、低コストで大量生産した。このようにして、日米の国力に桁違いの格差がある上に、各軍が手を携え向かってくる米のみならず、各国が連携し総力戦で挑んでくる連合軍を相手に、旧陸海軍がそれぞれ単独で立ち向かったわけで、もとより勝てるはずもなかった。開戦時三菱(大江)のゼロ戦はいったんバラバラに分解し、各務原飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)までの約48kmを陸路で運び再度組み立てた。しかも、1機につき牛の荷車3台で時速3km、休憩を含め約24時間をかけ、人目につかないように夜間に運んだが、電柱を移動させたり看板を取外したり道を譲ってもらったりと、地元の人々にとっては半ば公然の秘密であった(※8)。これは、三菱、愛知、川西(姫路)の海軍系各工場には中島の太田製作所(陸軍機体組立工場)のように隣接する会社専用の飛行場(※9)は勿論のこと、鉄道の引き込み線や道路もなく、完成機が空輸も輸送もできなかったからだが、戦時にもかかわらず、飛行場や道路、鉄道、港湾施設すら整備できないのが日本社会の特異性であった。これに比し米では、昭和8年大統領に就任したルーズベルトが、世界恐慌に伴う不況対策としてニューディール政策を掲げ、ダム建設の他、戦時下での動員を想定し飛行場や道路の整備を推進したのであった。
  ゼロ戦と隼が搭載した栄(陸軍名ハ25、ハ115)も同系エンジンではあったが、補機類の取付位置などが異なりそのままでの載せ替えは不可能で、19 年末から翌20年はじめ頃、未使用のハ115が400台余り軍需省の倉庫に放置されていたとのエピソードは、こうした現状を如実に物語るものである。こうした問題を打開する試みもあった。18年11月日本政府は戦時生産を強化するため、生産管理を行う軍需省を設置し、航空兵器総局の下で航空行政を統合調整する役割を期待した。翌12月には独DB601エンジンを国産化した川崎のハ一四〇と愛知のアツタ三二型の生産を統一する研究会が開催され標準化を目指したまではよかったが、プロペラや減速機、排気管の各取付位置をはじめ、重心位置、過給器の大きさ(ハ一四〇が大きい。)、水メタノール噴射装置や混合気調整装置の有無(いずれもアツタはない。)、更に燃料の違い(ハ一四〇は92オクタン、アツタは95オクタンを推奨)など違いがありすぎ、結果両機は空冷エンジンに換装する運びとなった。誉(陸軍名ハ45)もまた同様で、当初は同寸であった部品も各軍からの要求によって次第に仕様が異なるようになり、互換性は失われ生産性向上が大きく阻まれた。こうした中で、超大型爆撃機の「富嶽(中島の自主開発で当初Z機と称した。)」(※10)や局地戦闘機の「秋水(キ200)」(※11)の開発で実際に協同試作、共用化が試みられたことは注目に値することであったが、陸軍キ87遠距離戦闘機(三菱)の場合を除いて、実用化に至った機体はなかった。

局地戦闘機「秋水(キ200)」(プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館HP)

 このとき中島は、これ以前に三菱とは比較にならないほど強大な企業規模となっていたが(※12)、軍需省から「これまでの設備を使って二倍増産せよ」と命令され、道路一つ隔て塀で仕切られた陸海軍のエンジン工場(武蔵野、多摩両製作所)を統合し、新たに武蔵製作所として発足させた。人員増と大量生産の流れ作業方式の大規模な採用によって、僅か4か月後に月産台数を2倍に増産したことは特筆すべきことであったが、開戦前から政府が指示して取り組ませていたらと、悔やまれてならない。こうした点は輸送に関してもいえ、海上輸送を受け持つ逓信省と陸上輸送を受けもつ鉄道省を合併し、運輸通信省に改編(後に運輸省に再編)、20年5月大本営に設置した海運総監部が、運輸通信省、陸軍省、海軍省の海上輸送業務を一元化したことなども同様であった。ただし、陸海軍の監督工場の区画であるとか、原材料や燃料を獲得するための、陸海軍による無意味な謀略戦は終戦まで脈々と続き、戦後もロッキード事件などを筆頭に政財界の黒い人脈となって引き継がれた。
 実現こそしなかったが、陸軍は太平洋方面での作戦に必要ならばと、海軍に対し、自軍航空機との交換や供給、情報提供などを条件に水上機、艦攻、艦爆の譲渡又は供給、情報提供などを求めたことは正に異例である(※13)。更に陸軍は、老練な搭乗員が多数生き残っており、機上警戒機(探索レーダー)と電波探知機、電波高度計を開発、四式重爆「飛龍(三菱製、部隊配備当初は靖国とも呼ばれた。)」に装備したことで闇夜でも敵艦の発見と高度30m以下の降下が可能となった。このため、見込み薄の海軍機に代わり、海軍(連合艦隊司令長官)の指揮下に入り、海軍航法士を乗せ通信も海軍式とし魚雷(九一式改五、三菱製)の供給を受け、19年10月以降フィリピン、台湾、硫黄島、九州沖航空戦、沖縄戦において照明弾投下による夜間雷撃で
戦果を上げた。意外にも、完成間際の飛龍に対する陸軍の期待は芳しくなく、海軍の陸攻と同様に双発爆撃機として宿命的な機体の脆弱性、心許ない爆弾搭載量では有効な作戦は不可能との現場からの厳しい意見を受けていた。同19年3月陸軍では海上交通防衛を新たに担う部隊(西部軍直協飛行隊)を創設し、対潜哨戒、船団護衛、洋上航法の実地教育を海軍航空隊から受けるなどしたこととも関連し、(夜間)雷撃の用途に変更し量産化を決定したという経緯があった。また陸軍は、18年春からレーダー対策として欺瞞紙(アルミ箔を紙に貼り付け長細く裁断)を空中散布する戦術を開発、飛龍や隼などが投下して米艦艇のレーダを混乱させたり、一〇〇式司令部偵察機が強行偵察の際に使用したりしたが、海軍(横須賀航空隊)が錫や銀で実用化に成功したのはもう少し後になってからで、天山、銀河、彩雲などに搭載し本格的に使用したのは20年2月硫黄島航空戦の頃からであった。海軍は、陸軍九七式司令部偵察機(三菱製)を海軍仕様に改造し九八式陸上偵察機として使用したり、ラバウルや本土防空戦で厚木三〇二航空隊が陸軍一〇〇式司令部偵察機(三菱製)を借用したなどの例はあるが、プライドが許さなかったのか、三菱に気兼ねしたからなのか、陸軍のような試みは認められなかった。しかしながら、作戦に供する航空機はもとより搭乗員にも欠いた状況であったから、取り組み次第で戦局の様相は違った可能性があったのではないか。まともな数の偵察機さえも有しなかった事実からも、海軍は敵戦力の分析を行わず、ガ島での航空撃滅戦をはじめ後の特攻も行っていたことが分かるというものだ。この頃、既に海上補給路を断たれ物資不足に陥った日本は木製の航空機やコンクリート製の貨物船を試作する苦境に立たされており(※14)、生活が逼迫した国民から金属製品を拠出させたが、むしろ資源少国であるからこそ、資源豊富で町工場でも工作可能な木材を、開戦前から積極的に利用すべきであった(※15)。しかし、実際にはアルミの在庫が当初十分にあったため、木材を進んで利用しなかった面があり、陸軍では17年後半からとはなったが、機種ごとに専用品であった金属製の増槽タンクを木製の統一型に改めたが、ゼロ戦が統一型に改めたのは19年8月であった。更に陸軍は、20年2月塗料節減のため、陸軍機の下面色を伝統の灰緑色から海軍と同一規格の灰色に変更した。そうした一方で海軍艦政本部では、戦争終盤に
あっても艦船用の砲身に使用するためのニッケルを大量に保有していたという話があるから、驚かされるというか、実に馬鹿げている。総じて海軍は、平時のなれ合い感覚のまま、戦闘機や機関砲、艦船や魚雷などの開発製造を一社に独占をさせたツケが回ったとしかいいようがなく、利益誘導と疑われても不思議ではない状況であった。海軍出身であった作家の阿川弘之氏は、「海軍は何か都合が悪いことがあると、それを極端に避けていたきらいがある」と指摘したが、海軍関係者は政界と結びついた巨大企業に口出しをしにくかったのか、ゼロ戦の後継機開発に際しても要求や計画を示すだけで任せ
放しにしたため、人員不足を理由とした問題の先送りを容認するより他に為す術がなかった。一方の大企業も意思決定は遅くなりがちになるため、ゼロ戦の改修を他社に請け負わせること(技術移転を含む。)、雷電の生産縮小と紫電改への生産転換、烈風の開発中止などを決断できなかった。
 また海軍は、大企業の技術・生産力を過大に期待するが余り、中小企業の活用も不十分であった。戦争末期にもなって、栄エンジンや練習機などの製造を請け負わせていた数社に対し、ジェットエンジンの製造をはじめ、前例のない哨戒機や高高度戦闘機などの開発、製造を次々と指示したが、名も知られていないベテラン技術者が、独創的な発想や斬新な設計で数々の試作機を創り出した。これらの試作機は、実用化されず幻に終わったものも少なくないが、それは設計上の問題や性能不足だけが原因ではなく、これを戦力化する時点での戦局も大きく影響しており、実用に足る機体、実戦に生かせる技術が多々あったのも事実である。それだけに陸海軍が協調し、もう少し早く完成をさせていればと惜しまれるが、いささか個性的であったが故、保守的な日本人には受け入れ難かった面もあったかもしれない。陸軍機のプロペラを製造していた日本楽器の元技術者で戦後東京大学教授などを経て作家となった佐貫亦男氏は、「長所を発揮するためには、短所をある程度は忍ばなくてはならぬ。日本人はそれができないために自滅した。これからもあることだ」と示唆に富む指摘をしたが、けだし人の扱いも同じであろう。こうした当時の状況は、今日の大企業が社会の変化に柔軟に対応できず経営に苦しむ中、小回りが利く中小企業やベンチャーが顧客ニーズを的確に捉え、定年やリストラで退職したベテラン技術者を雇用して、大手にはないスピード感ある商品開発で競争力に富む製品を次々と送り出し成功している状況と大変似通っている。
 一方、ゼロ戦の設計陣30名の平均年齢は24歳で、このうち7名が10代であった。若さ故の経験不足、強気、融通性のなさ、優秀と自負するが故のプライドなどが禍したり、自信過剰に陥ったりしたことはなかったのだろうか。あるいは開発や改修に際し、自分の目や耳で確認し搭乗員らに直接意見を聞くなりしたのであろうか。ゼロ戦の主任設計技師と同級生だった木村秀政氏(※16)は、「彼は自信の強い男」、「自分が思い込んだら、どこまでもその主張を貫き通そうとする強い性格」だったと顕示欲や自己主張の強さを語った。ゼロ戦の設計では、96艦機の成功に満足し後継機争いでも他社に容易に勝てるとでも慢心したのか、安易に先例を踏襲し既存技術の延長の限りを尽くしてはみたものの、搭乗員の評価や製造現場の意見に対しては、何故なのか頑なに耳を傾けず、自らの考え、態度を改めようとした様子は認められない。その後搭乗員を次々と失う事態に際しても、彼らに歩み寄ることはなく、小手先の改修に終始し抜本的対策を先延ばしたことでゼロ戦の優位は急速に失われていった。その後の雷電と烈風の開発が立て続けに失敗したのも、海軍が主任設計技師の意見の突出なり、営利本位の企業倫理による主張を許し続けたことが背景にあった。善意に解釈すれば、ゼロ戦の主任設計技師が敵機と実弾で戦う状況を想定しようにも、明治以降に日本人が経験した戦争で負けたこともなければ、米国民と同様に本土が巻き込まれたこともなく、内地にいる限り国民の大半はB-29による空襲を実体験するまでは現在と同様に戦争の実態を知らなかった。このため、限られた範囲内での想像力に頼らざるを得ず、見識不足に原因があったとしても致し方ない面があり、その意味では用兵側の責任が大きいといえなくもない。しかし、技術者としての気質が強すぎるあまり、戦闘機の設計に際し飛行性能第一に傾き防弾装備が疎かとなった上に、飛行試験にも立ち会わず、安全性、信頼性、整備性、生産性など実用面への配慮が希薄となって被害局限(戦力保全)を阻んだともいえ、技術上の評価ばかりを常に気にして現実を見ず理想ばかりを追求する姿勢は、戦後初の国産旅客機であるYS-11の開発でも変わらなかった。一方の中島は、中島知久平が海軍を退官して設立した、非財閥系の新興企業であったので軍との係わりは至って対等であり、技師たちもMI海戦での空母喪失やガ島攻防戦、B-29による日本本土空襲の切迫など、機宜にわたる情報も知り得ていた。知久平の強烈なリーダーシップのもと、戦況の変化にいち早く対応するなど、比較的恵まれた環境であったため、疾風の誕生などにつながったと考えられる。20年4月、中島が第一軍需工廠に、同年7 月に川西が第二軍需工廠にそれぞれ移管され民有国営工場となったが、これは、「敵空襲下における航空機の生産維持、培養のため航空機工場に対する緊急措置要領」という閣議決定に基づくものであったにもかかわらず、三菱の経営陣はこれを拒み結果として戦犯を免れた。一方中島の経営陣、従業員は全て官職に就かされたことから、戦後は戦犯扱いとなった。戦争が終われば、国有化が解除され再び飛行機を製造できるとの約束をされ、これを信じた知久平ではあったが、陸軍の存在とともに、中島の存続、再建を恐れたGHQは、各工場ごとに強制的に分社化し、弱体化を図ったのであった。

3 「第二の敗戦」といわれる現在との類似点

 戦後日の丸家電メーカは、1980年代中頃までを頂点に飛躍的発展を遂げ、日本経済復興の象徴として世界から賞賛された。しかし、これを境に先の大戦での償いの気持ち、あるいはある種の優越感から日本企業が生産技術や品質管理などの手法を教授した韓国や中国の同業他社にシェアを奪われはじめ、いつの間にかトップの座を明け渡し、今では逆に買収される現状に至った。こうした事態に陥った背景には、消費者ニーズを踏まえず他国製品と比較検証をしないまま、高機能高品質な日本製品は売れ続けるはずとの過信、驕りがあった。この状況は、海軍が真珠湾以来の連戦連勝で、「南雲艦隊は無敵」と慢心し、MI作戦の際は、米機動部隊など「鎧袖一触」と侮り、非科学的な現実無視ともいえる勝利の観念に支配され、浮かれた世情(戦勝病という。)が蔓延した当時と酷似しており、現在の国情は、「第二の敗戦」と呼ばれる。「精鋭無比の皇軍(は不敗)」と標榜しながら、ガ島で惨敗した陸軍も五十歩百歩ではあるが、国家に危機が訪れるときは、おおよそ過去と似通ったものになるのだろう。山本長官らが必勝の信念で臨んだMI作戦では、米機動部隊の撃滅に成功した後ハワイを攻略し、日米講和の機会を窺う腹づもりであったが、そうした考え方自体が慢心以外の何物でもなく、緊張感、警戒心の無さが索敵の失策に如実に現れた。「敵ラシキモノ10隻見ユ・・・0428」と敵艦を最初に発見したにもかかわらず、米機動部隊の発見が遅れたとして、惨憺たる敗北の全責任を押しつけられた感のある、零式水上偵察機(巡洋艦利根4号機)の発進の遅れはカタパルトの不調によるものであったが、原因はピン1本が外れていたためといわれており、点検ミスも重なったと見られる。本当のところは、他の索敵機が報告した敵艦の位置(距離)が実際より50~90NM(約100~170km)誤っていたことによる作戦への影響の方が大きかったが、搭乗員に伝えられた出発位置そのものが誤っていた可能性の指摘があり、そもそも索敵を命じた針路から大幅に外れているのであるから、報告を受けた側が索敵ミスに即気付くべきであった。しかも、機長は前月に転属してきたばかりで実戦経験もなく、導入教育も不十分であった。南雲司令部も他機が敵を発見していない焦りから、「艦種知ラセ触接ヲ持続セヨ」、「帰投待テ」と指示することで精一杯であった。むしろ、他の水上偵察機が米機動部隊上空を飛行した際、雲が多いので雲の下を索敵すべきところ、手抜きをして雲上を飛行したため、見落としたばかりか、周辺空域で米艦上機に出くわし一戦を交えたにもかかわらず、MI島からの出撃機と安易に考えたのか報告をしなかったことこそ、基本を逸脱した緊張感に欠く行為であり、作戦に重大な影響を与えた。たしかに利根4号機は遅れて発進し針路も誤ったが、それ故に米機動部隊を偶然にも発見できたのであり、人間であるが故の不可避なミスの発生を予期し、二重の確認を義務づけるなど事前に備えたり、相手があるからこそ起きる予想外の事態に柔軟に対処できるか、要は司令部活動をいかに正常に行い得るかがより重要であった。
 この頃、南雲司令部はMI島に対する第一次攻撃隊から、「ワレ攻撃終了帰途ニツク効果不十分第二次攻撃ノ要アリト認ム0400」との電報を受け、各空母に発光信号で、「第二次攻撃隊本日実施待機攻撃機爆装ニ替ヘ(0415)」と下令し、米機動部隊攻撃のため魚雷や対艦用徹甲爆弾を搭載し待機させていた予備機の兵装を陸用爆弾に改めさせた。これは結果論でしかないかもしれないが、指揮官機の無線電話が被弾により使用不能にならず、上空で敵戦闘機による待ち伏せ攻撃に遭ったこと、空中待避後のためか地上に敵機の姿がなかったことなどが正確に報告できていれば、南雲司令部の混乱を招くこともなかったであろう。この対艦兵装待機は、空母を誘出して撃滅するとの山本長官の意図を受け、連合艦隊司令部参謀長の宇垣纏少将が南雲司令部参謀長の草鹿龍之介少将に予め口頭で指示したものであった。しかし、作戦計画上の文書による命令にはなく、南雲長官は山本長官との折り合いが悪く、コミュニケーションが図られていないこともあり、更には米空母による本土再空襲を阻止するにはMI島を占領し航空機を配備するしかないとの焦り、6 千人もの陸軍攻略部隊が乗船した輸送船団がMI島から出撃した航空機により攻撃を受けていたことも気がかりであったと考えられ、結果として山本司令部からの指示に反し、MI島への攻撃を優先する格好となった。その矢先のこと、先の「敵ラシキモノ10隻見ユ・・・0428」との電報が届いた。(南雲司令部の暗号翻訳は0440頃)。このとき南雲長官は、源田航空参謀に任せきりで、驚くべきことに旗艦赤城の操艦を行っていた。不測事態の発生に心なし狼狽したのか、「0445 敵艦隊攻撃準備攻撃機雷装そのまま」という先の爆装への転換命令を取り消すかのような中途半端な命令を下し、現場が錯綜した。この状況は、2ヶ月前のインド洋作戦において、南雲艦隊旗艦空母赤城が兵装転換作業中に英空母艦上機による攻撃を受け沈められそうになったときと全く同じであった。すると、これと前後して、MI島から出撃したB-17による水平爆撃、B-26やTBFによる雷撃などの散発的な攻撃がはじまり、これが0530頃まで続き、更に米潜水艦による魚雷攻撃も加わった。このため、被弾回避の転舵による艦の大きな傾きによる影響に加え、整備兵も対空戦闘の弾薬運搬などの作業に割かれ兵装転換を中断せざるを得なく、暗くて狭い格納庫の中で危険を伴う作業は遅々として進まなかった。しかも、敵襲の合間を縫って、整備兵は艦隊上空を直衛するゼロ戦の発艦準備も行わなくてはならならず、兵装転換は一向に捗らない。こうした間も、米機動部隊は南雲艦隊の間近に迫っていたのだ。
 0520 頃、この事態を見かねた、山口多聞第二航空戦隊司令官(空母飛龍に坐乗)は南雲司令部宛に、「(現装備のまま)直チニ攻撃隊(艦爆36機)発進セシムルノ必要アリ(ヲ至当)ト認ム」との発光信号を二度にわたり送ったが、南雲司令部は攻撃を受けつつも被害がないこともあり、「信号了解」と返信しただけであった。その直後のこと、利根4号機から、「敵ハ、ソノ後方ニ空母ラシキモノ一隻ヲ伴ウ0520」との電報が届いたが、こうした間にも今度は第一次攻撃隊が帰艦して母艦上空を旋回しはじめ待機をしており、収容作業を優先せざるを得なくなった。このとき、偶然にも米軍機の攻撃が一旦途絶えたこともあり、南雲司令部航空参謀の源田實中佐は、第一攻撃隊の洋上不時着による搭乗員の損耗を避けつつ、直衛のゼロ戦も収容した後に、陸用爆弾では心許ないため、兵装転換を終えた艦攻による雷撃を中心にゼロ戦の掩護を伴う正攻法による攻撃がよい、その方が無難でより大きな戦果が期待できる(母艦を含む機動部隊の移動も後回しにする)と判断した。草鹿龍之介参謀長は、この源田中佐の提言に基づいて各艦に対し、『在空のミッドウェー攻撃隊を先ず収容し、しかる後、第二次攻撃隊を発進せしむるを可とす』と命じ、先の山口司令官の進言を押しのけた。0540頃から第一次攻撃隊の急速収容を開始したが、兵装転換の作業が後回しとなり、攻撃隊の発進はもとより直衛のゼロ戦の収容や再発進の準備もできなくなった。当時を振り返って、草鹿元中将は、「南雲長官及び大石先任参謀は、もともと航空に関してはいわば素人であったので、私はじめ源田参謀らの躊画(計画のこと)を万事頼りにして、真珠湾以来の作戦を指揮していた(属人化していた)のが実際であった。その間、多少の遠慮のあったことも事実である」と語ったのであった。0617頃、米機動部隊の雷撃機が来襲した際、直衛のゼロ戦による餌食となり、どうにか難を逃れ、この戦闘を目の当たりにした乗組員の歓喜の声が沸き艦内は安堵に包まれたが、高角砲や機銃は低空で侵攻する雷撃機に向けられ、水平位置に下げられたまま放置されていた。この混乱の中、ゼロ戦は早期の弾切れで直ちに着艦が必要な状況にあり、兵装転換作業は依然中断のまま、魚雷、爆弾は無造作に放置され、飛行甲板上には被弾した機体、甲板下の格納庫内には給油・給弾作業中の機も含め様々な状態の機体が入り乱れていた。全ての機の収容が終了したのは0719頃、第二次攻撃隊は7時半から8時頃には発進可能であるかのような南雲司令部の期待に添う報告もされたが、依然現場はほど遠い状況にあり、こうした間も南雲機動部隊は米機動部隊が潜伏する北方に向け航行し続けていた。
 この間、山本司令部は空母発見の報に接した際、黒島亀人先任参謀は、「しめた。敵が罠にかかったぞ」と驚喜し、対艦兵装の攻撃機を待機しているはずなので、南雲機動部隊は必ずや米空母を沈めるものと勝利を確信した。軍令部では、祝杯の準備を整えていたが、一向に攻撃隊が発進したとの報告が無いまま、0750頃、3空母大火災との急報が入った。連合艦隊司令部内には気まずく重苦しい空気が流れ南雲司令部に対する不信感が急速に広がった。もともと確執があった山本長官と南雲中将の関係も更に悪化しかねない最悪の事態となったが、山本長官が直接指揮を執ることはなかった。飛龍1隻を残して3隻の空母を同時に失う運命となった、米急降下爆撃機40 機前後の来襲は、0723~0730頃、直衛のゼロ戦が再発進しはじめた直後の僅か6分間程の攻撃であったが、戦後に草鹿龍之介元中将らがまことしやかに書き記し映画でもそのシーンが描かれた、米の攻撃があと5分遅ければ(全機が発艦でき我が方の勝利であったという状況(いわゆる運命の五分間)にはなく、現実にはその可能性を全く期待し得ない、あと1時間遅ければというのが真相であった。つまり、敵発見の第一報から3時間近くが経過した後も攻撃隊を発艦せず、格納庫内にあったことが空母の死命を制した。ありもしなかった状況を創り出して悲運だったと言い訳するのではなく、予期しない状況にも山口司令官の意見具申を採用するなどして柔軟に対応すべきだったと猛省すべきではなかったか。さすれば、攻撃隊の発艦により誘爆による被害を局限しつつ、米空母を撃沈できないまでも、飛行甲板は海軍空母と同様に木製であったので(甲板に装甲が施されたのは翌18年11月竣工のエセックス型から)、発艦を封じることで航空攻撃を一部回避できたかもしれず、戦局が大きく変わった可能性がある。仮に半日程度で応急修理が可能な小中破であっても、この間に決戦は片が付くし、その後の米空母追撃は巡洋艦が行えばよかったはずである。しかも、このときの山口司令官の進言は、インド洋作戦時の兵装転換作業中における南雲司令部(赤城)への緊急信号、「攻撃隊発進の要ありと認む」とほぼ同一であったのだから、驚き入るというか呆れる他ない。しかも、MI作戦前に、山口司令官が同作戦での苦い教訓を基に兵装転換に要する時間を実地に検証した際、97艦攻の場合、雷装から爆装に替え、再び兵装転換で元の雷装に戻すには、少なくとも3.5~ 4.5時間が必要であることが判っていたのである(※17)。更に山口司令官は、山本長官列席のもと行われたMI作戦の事前研究会において、「従来の艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成し、空母の周辺には戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の来襲に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべき」との意見を述べ、南雲司令部に対しては索敵の不足を指摘していた。元海軍中佐の奥宮正武氏(昭和12年米パネー号事件の際の艦爆隊指揮官の一人。戦後空自に入隊、元空将)は、「MI作戦は客観的に見て、つきが悪かった、あるいは運がなかった。主要指揮官や参謀の健康状態が悪かった」(※18)などと臆面もなく評したが、直言すれば海軍は、運とは無関係に怠慢により敗れるべくして敗れたという事実に尽きる。万が一にでも、MI海戦で空母の喪失を免れ得たとしても、別の海戦で同じような結果になったに違いなかった。それほどまでに、海軍の作戦は拙劣で、敗因は根深いといえた。連合艦隊司令部並びに南雲司令部が勝利に驕り、インド洋作戦と珊瑚海海戦を詳細に分析することによって獲得し得たはずの戦訓を戦術ないし技術開発に反映することを怠ったが故に、日本海軍始まって以来の大敗北を喫したとの誹りは免れない。また、たとえ3空母が被爆した最悪の状況下でも、その時点で山本司令部がMI攻略部隊(空母1、戦艦2、巡洋艦8、駆逐艦10)ないしアリューシャン作戦に従事していた第二機動部隊(空母2、巡洋艦2、駆逐艦3)にでも、米機動部隊の追撃を命じていれば、形勢逆転の可能性が僅かでも残されていたかもしれなかったが、その指示は残り1隻となった空母飛龍が被爆した2時間後のことであり、決断があまりにも遅すぎた。しかも、山本司令部から望みを託されたMI攻略部隊は、勝利への執念が足らず敗北で浮き足立ってしまい、巡洋艦同士が深夜に衝突事故を引き起こし、うち1隻はMI基地航空隊による爆撃で沈没、その写真は米国民の士気を鼓舞するところとなった。
 もともと、MI作戦の発想自体が、奇襲攻撃により米機動部隊を誘出するという思惑に基づくものであり、手の内を読まれ待ち伏せに遭うなどは想定外で対応を深く考えなかったことが、いかにも日本人らしい。判断の根底には根拠がないにもかかわらず、「あっては困ることは起きない(想定外)」、「大したことはない。絶対に大丈夫(安全神話)」など、今日でも様々な事故、災害の場面で見られるような日本人気質、日本社会の特質による影響が顕著に認められる。特に「軍紀は軍隊の生命なり(海戦要務令)」と教えていたにもかかわらず、行動の秘匿もできないほど規律が弛緩した状況は、乗組員(水上機隊)宛の郵便物の転送先を6月中旬以降はMI島とする事務手続きの電報を発信したところ、米に解読されていたという通説以前に、同島の占領を前提に郵便局員など多数の文官を艦隊に帯同させていたのだから、情報漏洩を招くのは至極当然のことであり、海軍の納入業者はもとより芸妓や床屋にまで同島の名が広く知れ渡っていたなど枚挙にいとまがない。むしろ、機密が多少漏れた方が敵が出てくることになり却って好都合なのではないかとさえ考えていた(※19)。これらは、「ここだけの話」と言って、秘密を易々他人にと明かしてしまう日本人特有の慣習なのか、正に軍紀破れ艦破れるである。このような作戦体質が問われる事柄だけではなく、上層部の言動からして戦闘員としての気概、緊迫感が全く窺われない(※20)艦内では話題に飢えており、これらの噂が拡がり下士官兵に伝播しないはずがない。規律は、いったん緩めたら、以前のように引き締めるのは困難である。一般に批判されることが少ない緒戦の作戦指導にこそ問題が多いが、真珠湾攻撃の戦果の影に隠れ、表面化しなかっただけのことであり、その後同じ問題を次々と起こすことなった。戦後ニミッツ提督は、「参加した日本艦艇の艦長たちが知っていた程度のことは、私たちも知っていた。情報の勝利だ」と述懐、チャーチル元英首相は『回想録』の中で、「日本の秘密漏洩の恐るべき結末が明白となった」と記した。これは、米軍の暗号解読は米MI島守備隊が水が不足していると故意に平文で通信させたことによって日本の攻撃目標であるAF(※21)を特定したという戦後の俗説とは違い、それ以前に海軍の保全(防諜)にこそ問題があり、英による諜報活動の協力と相まった成果であった可能性を示しており、今では御前会議の内容までが関係者から在京英大使館を通じ流れ出ていた史実が判明している。特に、MI作戦直前の4月下旬から5月はじめに行った大規模な人事異動は、開戦以来の連戦で先送りしていた定期異動であったが、作戦参加艦艇の士官乗組員の半数が入替ったとされ、情報漏洩などを引き起こす最大の原因となった(※22)。米軍は日本本土を空襲する際、航空偵察による事前の情報に加え、捕虜の尋問や日本兵の日記、放置された書類などから戦力配置や軍需工場など攻撃対象の分析を積み重ね、攻撃の効率、効果を高めた。米軍に救助され捕虜となり、戦後に生きて帰還した海軍将兵は12,000人以上、焦土と化した日本に立ち、空襲の戦災被害などに苦しむ人々の存在を知るに、教わらなかったこととはいえ、勿論海軍に限った話ではないが、同胞が敵に易々と語った内容が引き起こした責任の大きさを、どのように感じたのであろうか。
 MI海戦で惨敗した海軍は、本来ならば関係者を集めて行う作戦研究会(反省会)をやらず、6月20、21日、大和艦上で山本長官列席のもと、代わりに「空母改良意見研究会」(※23)を行いお茶を濁した。その理由として、「突けば穴だらけであるし、皆十分な反省をし、その非を認めているので、今更突いて屍に鞭を打つ必要がない(黒島亀人大佐)」との言葉どおり、関係者の責任について問わなかった。南雲長官と草鹿参謀長を予備役にすることもなく、壊滅した第一航空艦隊に代わって新編した第三航空艦隊に横滑りさせ全幕僚を入れ替え、真相を握りつぶした。敗因の追究は、山本長官の引責や人事など組織の問題を問うことになりかねず及び腰となり、戦訓調査に関する報告書のとりまとめを淵田美津雄中佐(※24)(当時横空教官兼海大教官)らに命じただけで、教訓を次の作戦に生かそうともしなかった。つまり、最も重要なことが一番不徹底になり後遺症を引きずるという失敗の連鎖を自らの手で招いた。しかも紳士、リベラルとされていた海軍が、後述する富岡定俊作戦課長らの指示で戦傷患者に留まらず、無傷で生還した搭乗員までも九州各地の基地に分散隔離し、まるで敗残兵か伝染病患者かの扱いをして1か月余りも軟禁した上、肉親に会うこと連絡さえも禁じた。海軍に従属した報道班員も、「上陸禁止」や「通信禁止」を命ぜられた。海軍は、国民にMI海戦の真相を知られることを恐れ、まさに執念で完敗の事実を隠蔽したのであった(※25)。その後も、搭乗員らを南方に配属させたりして徹底して覆い隠したが、士気や練度を低下させ戦力を弱めただけであった。しかもバツが悪いことに、このとき政府は真珠湾攻撃に成功した山本長官に勲一等旭日大綬章と功二級金鵄勲章を授与することになっており、従来生存者には叙勲しないことになっていたものの、例外扱いとし政府が取りやめることも本人が辞退することもなかった。同17年6月10日、海軍軍令部は海軍省報道部の提案で、損傷艦名を公表せぬまま、「空母喪失は1隻、MI作戦は延期」と発表、翌7月編制改正の際は実在しない空母の艦名も平然と名を連ね、国民の目を欺いた。以降、大本営発表(正確には海軍部発表)は虚偽の代名詞となった。関係者にしてみれば、保身による責任回避や重圧からの逃避、どうにかしてでも戦況を楽観視し、一刻も早く安堵したい気持ちがあったであろう。特に責任が重い人ほど、戦局が悪化するほどこうした心理状況に陥りやすく、上層部がそうなると、下々は顔色を見て判断、忖度するようになる。こうしてピラミッド組織の中で無数に積み重なると、とんでもない思惑の違いが生じる。陸軍は敗北の事実を知らされず、海外のラジオ放送で事実を知ったものの、海軍を慮り、責任の所在をうやむやにした。一方の米海軍は、帰還を果たしたパイロットから戦闘の実情や問題点を聞き出し改善策を講じるとともに、真実を包み隠さず国民向けに報道(広報)するなど、国民性、民主主義の国家体制の違いは歴然で、やがては技術力、生産力などの面で大きな国力差となって現れた。
 逆に大敗の全貌を日本国民に公表したら、米が真珠湾攻撃を受けた際のように引き金となり、日本は奮起し大転換を図ることができた可能性がありはしなかっただろうか。 現に、米海軍のトップであった合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長のアーネスト・ジョゼフ・キング大将(後元帥)は、MI海戦後の6月8日ラジオでの声明発表に続けて、アメリカ側が、真珠湾の痛手とミッドウェーの勝利のいずれも、戦争指導の手段(プロパガンダ)として、最も効果的に活用しているのに対し、真珠湾の成功では慢心油断を助長し、ミッドウェーの敗戦では戦果を糊塗するばかりで、真相を告げて奮起を促すことをしなかった日本の指導者たちは、その後も何ら国民を納得させるに足る措置を講じなかった」とコメントしたが、まさにそのとおりではなかったか。というのも、日本では航空機増産の切なる要請が民間会社に十分に理解されず、昭和16年には陸海軍で約8,000機、翌17年には約10,000機(米は約48,000 機:4.8倍)とほとんど増加が見られなかったところ、18年には16年度比の約2.3倍となる18,000機(米は約86,000機:4.8倍)に向上、19年には16年度比の約3.4倍となる約27,000機(米は約97,000機:3.6倍)と過去最高(月産最大約2,900機)を記録したからだ。こうした背景には緒戦で大勝利の発表が相次ぎ、企業は航空機の生産力を拡大しすぎると、戦争終結後、株価の急落や経営規模の縮小など、後始末に困るとの不安があったとされ、三菱では18年7月を境に僅かに増加に転じ、12月に月産130機に達したところでほぼ横ばいとなった。その後は度重なる機体改造が禍し減少した月もあり、19年12月以降は震災の影響もあり減産の一途をたどった。監督官庁も、三菱に対しては開戦以来の低い生産性について何らの指導もしなかったし、一方で中島や川崎などが献身的奮闘を続けていても、手を差し伸べることもなかった。戦後米戦略爆撃団による調査分析でも、真珠湾攻撃により開戦した16 年12月に比し、翌17年6月のMI海戦の際には、僅か10%しか増加しておらず、「安易な勝利による誤った安心感に騙されて、日本の航空工業は戦争の最初のこの時期に、開戦時と同じ生産水準を惰性で維持していた(勝敗は開戦半年で既に決していた。)」ことに言及、中でも三菱は、「(国家の)危急存亡のときにあたって、このような数値(18~19年のゼロ戦製造機数は中島の半数にしか及ばなかった。)(※26)しか出していなかった。三菱に敗戦の責任が大であった」と厳しく指摘した。たしかに数字だけを見れば、18 年以降は米との製造格差が縮まりつつあり、米が太平洋と欧州とで兵力を二分しなくてはならないことを踏まえれば、取組み次第では勝てる要素もあったといえなくもない。しかし、戦果に酔いしれたのは何も企業ばかりではなく、海軍も同じであった。現に「海軍内でも戦争はもうすぐ終わるという空気があり」、15年10月から一時中断していた海軍大学校(※27)も、17年12 月に再興したのであった。また逆に、戦争を早期にやめるとして、MI海戦での負け戦を契機として軍が攻勢を止められたか、政府が戦争終結のため不利な条件でも構わないとの覚悟で和睦を申し出たとして、果たして国民は納得し得たかについても、今なお問われなければならない歴史的な研究課題に値するであろう。連合軍が、これに本気で応じたかどうかは別としても、大陸の権益は失われ同時に戦備も大幅に削減され、米内光政海軍大臣らが恐れたとおりに国内に大きな混乱、騒動が起こったかもしれないが、敗戦するよりははるかに多くの命を救ったであろうことに疑念の余地がないからだ。
 俗に航空機減産の原因かのようにいわれるアルミの原材料であるボーキサイトの不足は、19年暮頃から徐々に影響が出始めたのであって終戦まで底を突くことはなく、生産低下は主に召集による熟練工の欠員や空襲による工場被害であった。軍が航空機不足から戦況不利に陥っても、使用されずに余ったアルミは、横流しをされ弁当箱などが大量に生産されていたとの話があるように、経営者の中には政府から資材配給を受けながら、軍からの製造要求に応じず民生品を闇で売ったりして荒稼ぎする者も現れた。勤勉とされる日本人も実は欠勤者が15%前後に上り徴兵忌避者も多く、役人の中には戦時下における地位、特権を利用し、収賄などによって私腹を肥やす者、高騰する生活物資を公正価格で入手し、高値で売りさばき贅沢な生活を営む者もいた。当然これらの罪悪は、内地におけるそれよりも外地が甚だしく、結託する軍人も少なくなかった。高木惣吉元海軍少将は、「中には甚だしく海軍の伝統的精神に背く行為を犯す者が続出したことが、私信の検閲や託送品の検査で明るみに出たこと、しかもそれが軍事教育の足らない設営隊員とか軍属ならともかく、立派な海兵出身の潜水艦隊司令や若い軍医科士官などにまで及んでいることに一番悲しい打撃を受けた」と自著の中で切実に語っている。戦後も国が戦時中に国民からかき集めた物資を軍人や役人が隠匿、横領し、資産家や警官などが結託してヤミ市に流し公定価格の約30倍という高値で売りまくった。まさしくGHQの内部文書が、「旧軍が保有していた全資産の約70%が跡形もなく消え失せた」と指摘したとおりで、覚醒剤の代名詞となったヒロポンなどは旧軍にあった大量の在庫が終戦の混乱で持ち逃げされ市場に出回って蔓延し、大きな社会問題となり闇社会を急拡大させる一因となった(※28)。これらの全てが国民に対する重大な裏切り行為、極めて悪質な組織的犯罪であった。戦争といえば、悪質な横行は見逃されるとでもいいたげに、道徳観を著しく欠いた行為は枚挙にいとまが無く、戦後日本の国際的信用の低下、官公職に対する日本国民の不信などにもつながった。こうした点は、日本人の物の見方、考え方など、思考・行動の特性を抜きに考えることはできない。
 戦後淵田氏はMIの報告書をもとにした前出の奥宮正武氏との共著『ミッドウェー(1952年)』の中で、「国民性の欠陥」と題し、次の点を指摘した(※29)、今でも何も変わっていない現実に改めて気付かされる。
 「合理性を欠くわが国民性は、やることなすことが行き当たりばったりで、相互の間に理屈が合わない。セクショナリズムの国民性は、物を見る視野が狭く、やる事が独善的である。因襲から容易に抜け切れない国民性は、気がついても、直ちに一八〇度転換の進歩的革新を行うことができない。熱しやすく冷めやすい国民性は、すぐ思い上がって相手を見下げる。かと思うと自主邁進の希薄に乏しい日和見的な国民性は、他力本願になりやすく、卑屈な事大主義ともなる。合理性を欠くため、希望と現実を混同して漫然と臨み、敗れて後はじめて名論卓説を述べる」と。

4 本土防空戦の実像と無敵海軍の虚像

 戦後の日本では、隼は全ての点でゼロ戦に劣るというのが、支配的な見方のようだが、こうした論評の多くは主観的で根拠がなく、ゼロ戦にまつわる疑問点の多くも依然残されたままである。米海軍の『日本軍機の性能評価』や米陸軍の『日本機識別帳(書)』では、「隼は旧軍機で防弾タンクを装備した初めての機体の一つで、抗堪性はゼロ戦より高い」「隼Ⅱ型はゼロ戦32 型と同程度の速度性能を有し、上昇力と加速力は勝っている」と評価していた。このように、作戦や人物像などの評価が日米で相反することは(※30)、日本人の特質、社会の特異性が色濃く反映しているとともに、戦後に造られた歴史観が強く影響した結果である。例えば、戦後に欧米の戦車や小銃と比較して時代遅れの旧式装備にばかりに目を向けられ、歩兵主兵主義、白兵銃剣(突撃)主義などとあげつらい酷評される陸軍も、航空機に関する限り海外の先進技術や情報を海軍よりもいち早く取り入れ自分のものとし、欧米並みの近代化を実現していたことはこれまで概観したとおりである。終戦直後、第二海軍省史実調査部員に補職され米軍の対日戦史調査に協力し、先の大戦史に関する骨格造りの大きな一翼を担ったのは、堀越二郎氏の『零戦』の共著者でもある前出の奥宮正武氏であった。奥宮氏は、ガ島の航空作戦や本土防空作戦、海上護衛作戦の航空主務参謀であったが、自著の中で、「海軍では、作戦の全責任は指揮官にあったので、参謀長以下の人々の責任が直接に問われることはなかった」、「わが陸海軍の上層部の近代戦、特に航空戦についての認識がおどろくほど浅薄であった」と言い自らの責任には触れないでいて、「日本軍の作戦を大きく左右したのは航空部隊であった」、「海軍機は、速度、旋回性能、搭載兵器などの面で、陸軍機よりもかなり優秀であったばかりではなく、航続力や航法能力の面では著しく優れていた」などと自説を披露した。奥宮氏は、続けて、隼は洋上での実戦にほとんど役立たなかった。航続距離が短い上に、洋上航法力が著しく不足していたからであった。同機はわが陸海軍の運命を大きく左右したガダルカナル戦、あ号作戦、レイテ作戦ではほとんど存在価値がなかった。だから零戦が多くの場合、孤軍奮闘を余儀なくされた」、「零戦の後継機を適時につくることができなかったのは、わが国力の不足」などと恣意的な論評を執拗なまに行った。これに留まらず、「海軍では、艦船の編隊航行では指揮官先頭で、『者ども続け』であるが、陸軍では、指揮官が後にいて、『前に進め』と言っているかのようだった」、「陸軍軍人のほとんどは、陸上に勤務していたので、海のことはよく知らなかったばかりでなく、中には海を恐れている者さえいた」などと陸軍を一方的に蔑むような偏向極まる著作群を世に残した。晩年は防衛大学校教授陣が発表した『失敗の本質(1984年)』について、批判的研究や学術的論議さえも封じるかのように、「史実と異なる」、「誤りがある」、「甚だしい誤解がある」、「当時のことをよく知らない」とか、「歴史観が乏しい」などと酷評した。海軍陸攻搭乗員の巌谷二三男氏は、「苛烈な航空戦を作戦指導する参謀の誰一人も、又只の一度も、自ら海軍機に乗って実戦に臨んだ話は聞かなかった」と毅然と批判したが、奥宮氏はどのように答えることができたというのであろうか。果たして史実は、本当にどのようなものであったのか。
 
陸軍では、航空兵操典で戦隊長たる大佐、中佐、少佐(後に大尉も任命)の指揮官は空中戦闘においては直接指揮が原則であって、自ら先頭に立ち部下を鼓舞し、直率して出撃する『指揮官率先』は当たり前、いわば伝統でもあり、中には飛行団長の少将までもが戦隊を指揮したり、時には戦隊長が単機で敵機に立ち向かったなどから、後に戦隊長の出撃を控える命令が出されたほどであった(※31)。一方海軍では、飛行長である少佐以上ともなれば地上指揮が原則であり、編隊を率いて出撃するのは分隊長である大尉止まりであった上に、空戦場上空では直接戦闘に加わらず全般指揮に当たるのが慣行となっていた。また海軍は多数機撃墜者として個人に感状を授与し、18年6 月以降は個人の撃墜記録を中止したとされるが、その影響もあってか、日米双方の証言があるとおり敵戦闘機への闘志を顕わにし必要以上に追いかけ、友軍攻撃機の掩護や敵爆撃機の邀撃(投弾阻止を含む。)といった本来の任務が二の次になっただけでなく、不本意にも多くの搭乗員を失う結果となった。勿論米英軍はこれを十分承知の上で、海軍の攻撃機と戦闘機を切り離すことを空戦の定石とした。陸軍では、個人の撃墜数の発表を厳禁とし部隊の戦果として公表し、部隊に感状を授与することで功名心や手柄争いを固く戒め無用な損失を防いだ(※32)。特にB-17やB-29などは一撃必墜は困難な場合が多く、2、3機の攻撃による撃墜が常であったという事情もあったからだ。加藤隼戦闘隊長は、機体に撃墜マークを描くことも禁じ、日頃から、「個人の功に走るな」と訓示する一方出撃を一度も欠かすことはなかった。攻撃隊掩護の任務に就いた際のこと、部下搭乗員が本分を忘れ敵戦闘機の撃墜に向かったことに対し、加藤戦隊長は攻撃隊隊長の前で詫びつつ、「(敵戦闘機)1機の戦果があることも悲しい。撃墜された重爆隊3機のことを考えれば、胸が裂ける思いだ」、「任務に外れている」と部下を厳しく叱責した。更に陸軍では、開戦当初から組織戦闘を重視し、帰投後は中隊長からの解散指示があるまで編隊行動などの批評を全員の前で行うことを常とし、同時に無線電話機を辛抱強く使い続けることで信頼性向上に努め、これらが本土防空戦で大いに役立った。特に度重なる戦闘で、一人また一人と熟練搭乗員の消耗が余儀なくされるとき、こうしたチームワークを重視する独伝来のロッテ戦法こそ的を射たものであったが、海軍は開戦前に陸軍から教示されながらも、試行こそすれ源田實大佐率いる三四三空の例外を除いて本格的に採用しなかった。陸軍では、悪天候で作戦中止となれば、激戦の最中にも敵パイロットを含め慰霊祭を行う一面もあった。現に、終戦間際の20年8月1日の戦隊創立記念日には、各地に散らばっていた搭乗員を終結させ合同慰霊祭を執り行ったし、日本本土にある旧軍墓地もどこも陸軍のものばかりで、海軍墓地を見かけることはない。しかも、海軍搭乗員の士官と下士官は、数キロも離れた別々の宿舎(士官は個室、下士官兵は大部屋か天幕張りの幕舎)に居住し、待機場所も別であったので事前に話し合う機会も、じ後の反省を行う場もなかった。出撃前に訓示を受けることはあったが、帰投後に戦闘の詳細について聴取されることはなかったと証言する者が大半で、搭乗員割も作戦の難易、実績や技量等は考慮されず常に不合理的な建制(階級)順であった(※33)。これに加えて、士官と下士官兵は食堂の別はおろか、食事の内容、食材や調理場まで異なっていた上、搭乗員は機上で食する弁当まで違っており、軍艦内の居住区は士官室、第一士官次室(英国流にガンルームと呼称した。)、第二次士官次室、准士官室、先任下士官室などに厳格に区分され、両者の間は完全に隔絶していた。英とは社会構造が異なり、士官も下士官兵ともに同じ階層の出身であるにもかかわらず、上陸の際に出入りする料亭まで区別を徹底し、更には料亭を「レス(レストランの略)」、芸者を「エス(シンガーのアルファベット)」などと称した。これらの士官のみが使用する隠語の存在や士官だけが長髪を許されたりしたことなどは(陸軍は士官でも丸坊主であった。)、先進国の軍隊とはかけ離れた海軍の異質な組織体質を浮き彫りにする典型的なものであり、これにより上層部の純血同族傾向が強まる一方で,誤りに気付きにくい傲慢で独善的な組織へと変貌してしまっていた(※34)。
 
18年4月「B-29試験飛行中墜落」の情報を入手した陸軍(航空本部)は、B-29に関する情報収集を精力的に行い、同年末には最高速度、上昇力などの基本性能をほぼ正確に把握するとともに、B-29は既に量産体制に入っており、翌19年6月以降、ウェーク島以北の線から日本本土爆撃を行う可能性があると判断した報告書を作成、関係先に配付したが、米の作戦意図を察知できていない海軍軍令部は依然として南方作戦でのB-17の対策に躍起となっており、この情報に見向きもしなかった。同時期ラバウルでは、今村均陸軍大将が山本長官の夕食に招かれた際、「席上長官が私が陸軍飛行隊に夜間発着の飛行練習をさせていることを賞賛してくれた。そして海軍にも早速同じことを命令したといった」と記した。陸軍では早くも来る本土防空戦に備え、陸軍次官を委員長とし、陸軍省、参謀本部、航空本部、兵器行政本部等の関係主要課長を委員とするB-29対策委員会を設け、新型の高射砲、射撃管制レーダーなどを新規に開発するとともに、台湾や朝鮮、満州などで搭乗員を養成しつつ、ろ獲したB-17に日の丸をつけて使用し、接敵要領、射距離の判定などの迎撃訓練と照準部位(致命部)などの研究を実施した(※35)。同時に、戦闘機搭乗員を養成する明野飛行学校の分校を水戸に設立し、防空戦闘の教育研究(高高度戦闘と夜間戦闘)を行うなどの対策を取り急ぎ講じた。そもそも陸軍では、単座戦闘機といえども夜間出撃は当たり前のことで(※36)隼から5式戦に至る全ての戦闘機の主翼前縁に「夜間着陸灯」を装備しており、一部は夜戦時の機銃発砲に伴う火炎を抑える消炎管を追加装備していた(※37)。こうして陸軍ではレーダー、照空灯、戦闘機、高射砲の各部隊、各機能を充実発展させ、地上通信、無線電話により戦力を組織的に連携させ、24時間連続待機でB-29を待ち構えた。戦後第100飛行団長の秋山紋次郎元陸軍大佐は、「各部隊は、与えられた飛行機で最善を尽くすため、高高度の訓練に精進し、19年頃には、9,000m附近で部隊戦闘を実施し得るようになった」、「高射部隊は当初主として7cm高射砲で装備されていたが、その威力圏及び破壊力は所望の域に達しなかったので、同19年初頭から逐次8cm、ついで12cm高射砲で改装された」と記した。一方の海軍では、同19 年3月に新編した厚木の三〇二航空隊(※38)と各鎮守府(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)の所在地を除き、軍港を含む海軍関連施設がない地域には防空の戦闘機隊を配置しなかった。しかもこれらの航空隊は、陸軍防衛総司令部の指揮下に入り基地上空以外の防衛にも当たることとされていたが、内地の「防空は陸軍の担当」として艦艇や艦上機の攻撃にしか目を向けず(※39)、厚木と横須賀(追浜)の一部を除けば、B-29の空襲を受け続けても、三四三空を筆頭として迎撃に戦闘機を積極的に振り向けた形跡は認められない(※40)。むしろ、搭乗員の養成で精一杯であったというのが実情で、翌20年6月には当面の沖縄戦に従事中のものを除いては、艦上機に対しても積極的な攻撃は行わず、努めて温存するよう陸海軍ともに指令が出されるに至った。こうした背景の一つには、高高度並びに夜間に迎撃可能な防空戦闘機(局戦)の開発が後れをとっていたことがあり、陸軍もほぼ同じ状況であったが、既存機の改修と搭乗員の技能で対処したのであった(※41)。一方海軍は、戦闘機を実質上ゼロ戦だけに頼り熟練搭乗員の多くを失い、なけなしの搭乗員を特攻に使用したことで、B-29を迎撃するだけの技量を有する搭乗員は既に底を突いており、無線電話で空中・地上との連携もとれなかったから、無理な相談といえた。操縦員を育成しようにも機体はおろか、燃料や教官さえも欠く状況にあったから尚更であった。海軍での夜間出撃は、厚木の月光や彗星、銀河の複座機が出撃したに過ぎず、ゼロ戦は離着陸においてフラップ、脚の操作で油圧の切替えを伴うことはもとより、燃料消費に伴う燃料タンクの切替えなどの操作が煩雑であり、陸軍機が標準装備した「夜間着陸灯」すらなく、発進した基地への帰還はもとより接地もままならなかった。離着陸操作はもとより、視界が悪く操縦も難しい雷電ともなると、昼間においても敵戦闘機との交戦では空中避退を命ぜられるような有様であった。そもそも艦艇出身者が支配的な海軍上層部は、搭乗員らの現場の意見に耳を傾けず、空戦や特攻の実態を積極的に理解しようとしなかった(※42)。陸軍が行った夜間戦闘は、機上レーダーがなく、周りに対象物がないため、距離の遠近や方向性をつかみにくいことなどもあり、空中接触の危険性はもとより、B-29のような超大型機でも照空灯で照らし出されたとしても、照空灯の光や眼下の火災に眩惑され100m先からでも容易に発見できないばかりか、友軍高射砲による被害も後を絶たなかった。とりわけ航法・通信など独りで行う単座戦闘機にとってはかなり高度な技術を要し、初級者は飛行姿勢の保持にも苦労するなど、陸軍の夜間飛行訓練や夜間検閲では事故が続発し熾烈を極めた。これは海軍が実戦さながらに実施した水上夜戦演習も同様で(※43)、精到な訓練の実施と安全確保のふん合を図ることが容易ではないことを示すものであったが、こうした取組みの差がB-29撃墜数の歴然な差となって現れた。米軍の記録によれば、B-29との交戦は、飛燕が32%と圧倒的に多く、次いで鐘馗、屠龍、海軍の月光、ゼロ戦(ただし、隼の誤認を多く含む。)の順であった。一般に専門家と称する人たちは、配備機数や出撃回数などの多さをもって、本土防空戦でのゼロ戦の活躍を描こうとするが、実際に会敵できなければ、単なる飛行訓練と何ら変わらない。撃墜できなければ全て同じかというと、そうではなく、投弾を誤らせたり断念させるだけでも意義がある。さて、この中に疾風の名がないのは、戦局による影響や燃料のオクタン価の制約があり、海軍の紫電と同様に主戦場が比島や中国など外地、沖縄であったことが大きく影響している。B-29の搭乗員らが、日本本土への爆撃行きを、「死の行進」と呼んでいたことからも、陸軍航空隊の奮闘振りが窺えよう。しかしながら、本土防空戦における陸軍航空隊の勇戦奮戦は、戦後海軍関係者らによってゼロ戦、大和、連合艦隊などの伝説(心地よい俗説)が描かれる度に光が向けられる一方、陸軍機は戦力にもならなかった、隼は火力不足といった風評であるとか、飛燕や疾風のエンジン稼働率の低さなど不当な悪評がもとで影となり隠され、国民の記憶はもとより歴史からも消し去られてしまった。しかし実際のところ、陸軍航空隊は19年半ば以降も、1対13という圧倒的な劣勢下でありながら、ビルマ、蘭印、仏印、フィリピン、中国、台湾などでの防空戦において最新鋭のP-51や英スピットファイアなど強豪相手に互角ないし、それ以上の戦いを繰り広げていた。日本の降伏文書調印に伴う署名に先立ち、ニミッツが東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上で、「この島国の帝国が装備の良い陸軍と大航空兵力を保有しながら、ほとんど海軍力を失って本土侵攻作戦の決行を前に降伏したのを見届けた」と語ったこと、あろうことか海軍代表の豊田副武軍令部総長(前連合艦隊司令長官)が出席を拒否し姿を現さなかったことが、日本帝国海軍の無様な敗北を如実に示してはいまいか。こうなると、戦後海上自衛隊が、海軍艦艇の命名や軍艦旗としての旭日旗(陸上自衛隊の自衛隊旗も本質的に同じであるが。)などを伝統として他国と言い争ってまで頑なに継承し続けようとしていることに、積極的な意義を見出すことは容易ではない気がしてくる。
 前出の奥宮氏は、「海軍航空部隊という片手で戦っていたのだから、連合国の航空部隊に勝てる道理がなかった」、「敗戦を決定づけたガダルカナルの攻防戦に陸軍機が一機も参加しなかった」などと史実を歪曲し(※44)、まるで陸軍航空隊が何らの働きをなかったかのごとく目の敵にし、敗戦の責任さえもなすりつけた。同じくMI作戦時南雲機動部隊の参謀長で、「運命の五分間」などと史実を脚色して語った草鹿龍之介元海軍中将も、その後はソロモン方面に転戦、マリアナ沖海戦~サイパン陥落~沖縄戦に至るまで連合艦隊参謀長兼ねて海軍総隊参謀長として作戦に従事したが、自らの責任を棚上げしておきながら、「陸軍飛行機は全戦線にわたりほとんど何もしていないことは事実であった」とやり玉にあげた。本書で幾度となく引用させて頂いた高木惣吉元海軍少将も甚く残念だが、陸軍航空隊並びに陸軍機の子細を調べぬまま、「日本では海上が飛べず、輸送船攻撃もできない航空機に、貧弱な資材の半分を使っていた」、「海軍側の資材増量が必要だった」と半ば感情的に陸軍をののしった。その一方で、彼らは旗艦に坐乗する司令長官が安全なところに身を置いて先頭に立って戦わず、航空機や潜水艦だけを命がけで先に行かせる、「ものども進め」という情けない号令ばかりであった事実に目をつむるばかりか、山本長官ら敗軍の将を殊更に名将など祭り上げるに留まらず、奥宮氏は、「国民に戦争の継続を支持させた」、「当時米国の責任者たちは、原子爆弾をそれまでの爆弾の威力が増したものと考えて、使用したのではないかと想像されるから、原子爆弾の性格がよく判った後に、当時の米国の責任者たちを不当に責めることは適当ではない」などと国民の悲痛な想いを逆なでするかのような無責任で粗雑な主張をしたが、戦争の犠牲となった人々の魂は浮かばれない。そもそも、真に艦隊決戦で日米の雌雄を決するつもりならば、大和や武蔵、長門を戦艦らしい戦闘に従事させず、連合艦隊司令長官と司令部員の居住施設として手元で遊ばておくのではなく、第一線部隊の作戦に直接使用できるよう司令部を通信設備が整った陸上施設に移すべきであったし、あくまで大和、武蔵を旗艦として司令部を置くならば、逃げ回るようなことはせず東郷大将のように陣頭指揮して、旗艦を先頭に、「ものども続け」と号令すべきであったのではないか。あまりにも無様すぎる。
 戦後国土は灰燼と化し、住む家もなければ、食う物もなく、国民の憎悪は旧軍人に激しく向かった。戦時中の政府や軍部の横暴にも大きな原因があったとはいえ、軍人と見れば、見境無く白眼視するか侮蔑の言葉を容赦なく投げつけるか、特攻隊の生き残りだと知られれば、かつての軍神は犯罪人扱いとなり袋だたきに遭いかねなかった。戦後、加藤隼戦隊長の二人の小学生になるご子息は通学にさえ肩身の狭い思いをしたという。陸軍は、戦中にあっては海軍から、「陸助、陸州、陸式」と不当に蔑まれ、戦後は、「海軍は善玉、陸軍は悪玉だ」として、いわれのない差別をされ、戦争責任を一方的に負わされた。日本人自らが戦争責任を追及する機会が与えられていたならば現在とは違った状況になったかもしれないが、東京裁判による陸軍関係者に偏った判決や連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が製作したNHKラジオ番組(「真相はこうだ」、後の「眞相箱」も同じ。)などの影響、効果が大きかった。こうした中、何かにつけ風当たりが強い、陸軍軍人の多くは辛酸を舐め尽くし、心ない非難や中傷を恐れ、「敗軍の将、兵を語らず」との思いもあってか、戦後の長きにわたり胸の奥にしまい込み沈黙した。戦後は影を潜めたが、戦中は、「愚直な陸軍、悧巧な海軍」、「陸軍が粗暴なら、海軍はずるい」、「無知な陸軍、弱い海軍」などの言葉があり、海軍での従軍歴を有する作家の阿川弘之氏は、「(海軍は)入港の時以外、陸に近づくことを嫌う傾向があった」と言及した。海軍の一部は、勇敢な話で人々に敗戦とともに失われた日本人としての誇りや自信を取り戻させ、美談で夢や希望を与えようとしたのかもしれないが、これらを基に権威ある技術者や専門家、著名な作家が無批判に是認し便乗して書き連ねた内容に、近視眼的報道が輪を掛け、思い込みが激しく熱しやすい国民性の弊害とも相まって、史実は半ば恣意的に歪曲された。酷な表現になるが、『零戦日本海軍航空小史(日本出版協同1953年)』をはじめとする海軍関係者らによる書籍群が人気を博し、様々なメディアにこぞって露出し発言力を増していったことが、生き長らえた海軍軍人の社会復帰を早々に許し、自衛隊入隊、業界進出の呼び水となり、更に立身出世や特定の企業を宣伝する道具として使われた面がなかったとは言い切れない。当然、関係者や事情をよく知る者は困惑し反発した。周囲からの指摘や批判を受けた当人らは、「何をいまさら、結果論だ」などと反駁し、弁護する者は、「歴史に、もしもは禁物」の常套句で議論を断ち切ろうとした。しかし、これは自分の非を認めたくないあまり過去を顧みようとしない、人たちにとって都合の良い免罪符となっているとしか思えず、現代日本社会の無責任体制につながるものでもあり、日本の将来を危うくするばかりである。当時の史料や記録でさえも、いつ、誰が、どのような背景や意図をもって書き、証言したものか調べずして鵜呑みにすることは危険きわまりないことであり、猪口力平(元海軍大佐、戦後詫間と改姓、海自に入隊)・中島正(元海軍中佐、空自に入隊、将補)共著の『神風特別攻撃隊(日本出版協同1951年)』などは、その顕著な例だろう(※45)。これなどは、日本民族の賛辞や特攻の美化を殊更に誇張した偽善的内容に終始しており、海軍上層部の思惑に沿ったとも考えられなくもないが、自己保身のため事実を覆い隠し罪を免れようとしたばかりか、反省の気持ちの表れは微塵もなく、特攻戦没者への弔い、遺族に対する謝罪の言葉もなかった。しかも、戦後にもなって、彼らは特攻隊員遺族のもとを訪れては、遺書を回収するなどして真相を黙殺するなど、死者の魂までをも冒涜した。だが、中島少佐(当時)らがフィリピンでの特攻作戦において、隊員に直接命令を下した際の非道な言動の数々は、いつまでも隠しとおせるものではないし、史実は永久に消えてしまうものではない。
 大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮会議での対米戦艦保有比60%を、欧米列強による日本の迫害、政府の外交的不手際の象徴として巧みに悪用し、偽りの愛国心を焚きつけ、敵対的な政策を主張しつつ、陸軍をはるかに凌駕する膨大な国費(大和、武蔵を除き長門をはじめとする戦艦10隻が完成した、大正10年海軍予算は歳出比31.6%、陸軍と併せて41.1%、実に陸軍の3 倍にも達した。)を投じた。無敵海軍と大言壮語しながらも、国民の期待には全く応えられず、日露戦争における日本海海戦の歴史的勝利から僅か40年のうちに、海軍は国民の前から夢の如く姿を消してしまった。祖国防衛の責任を果たすことなく日本を敗戦に陥れた罪は大きく、「海軍が戦争をやると思わなかった」などというような他人事では決して済まされない。いうなれば連合艦隊を亡ぼしたのは米軍ではなく、紛れもなく日本海軍自身であったのであり、戦争による悲劇を二度と繰り返さない国造りのために不始末をもっと深く顧みる必要があったのではないか。この点はゼロ戦も同様で、進攻作戦での一時の戦果を除けば、搭乗員を含め国民を敵機の攻撃から守るという戦闘機としての重要な任務をほとんど果たせずして、真の意味で活躍した戦闘機であったといえるのか。そもそも多くの国民が命を捨ててまで、あるいは犠牲となってまで守るよう命じられた日本という国とは何であったのか、改めて考えてみる必要がある。『軍人に賜りたる勅諭』に「日本の軍隊は天皇の軍隊である」と諭され、軍艦の艦首や小銃に菊の御紋章をあしらえた旧軍が、国民のための真の軍隊であったのかも甚だ疑問で、敗戦時に菊花紋章を削れとまで命令したのであり、ポツダム宣言の受諾を前にして、「天皇の国家統治者としての大権を侵害するいかなる要求も含まれないとの了解のもとに(同宣言を)受諾する用意がある」と国体護持だけしか念頭になかった日本政府が、国民の安全を第一に考えていたとは到底承服できるものではない。ここに敗戦最大の原因があったのではないかとさえ思える。これらを通じて感得せられるは、淵田氏が指摘した国民性の欠陥は、海軍の組織体質そのものであったということであり、「敗れて後、はじめて名論卓説を述べる」とは、海軍関係者による戦記や回想録が懐旧の念や弁明に偏り、反省の弁はおろか、空や海に憧れ青春を捧げた多くの若き搭乗員や乗組員を勝算無き死地に追いやった責任をも免れ、死を悼み哀れむ心さえも無きことに、嘆き、憤り、自らの反省と自戒の念を込め、たしなめようとした表現ではなかったかということである。しかも、そうした祈りは仲間だけではなく、空襲で無念にも亡くなった国民はもとより、戦禍に巻き込まれた全ての国々の人々に向けられるべきだであると、淵田氏は自らの行動をもって示すべく、キリスト教伝道者となって渡米し、戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断つことなどを訴え続けたと考えられるのである。同様に、ドーリットル空襲で捕虜となったデシェーザー伍長も、日本軍による苛酷な虐待を受けながらも、帰国後キリスト教の宣教師となって再び来日し、30年間にわたり布教に努め、淵田氏との親交を深めたが、そうした想いは同じであったであろう。
 
 5 旧軍航空隊の総括

 下図は、先の大戦における海軍の航空機損失原因の内訳である。

旧海軍機の損失原因内訳

 全損失機数は約27,200機で、このうち「戦闘」による損失は全損失数の僅か35%(約9,500機)にしか過ぎない(※46)。また本人や家族、部隊の名誉のため、事故死を戦死と偽った報告も少なくなかったとされる。一方、「事故」による損失は43%(約11,700機)で最も割合が多い(※47)。残りの22%(約6,000機)は、輸送中又は駐機中の被害などを含む、「その他」の損失で、これらの合計は実に65%(約17,700機)となり、戦闘以外の事故等での損失が圧倒的に多かった事実を物語る(※48)。日米開戦~(翌年6月MI作戦を経て)~同17 年12月までの1年間における海軍の製造機数(練習機を除く。)に対する損失比率は、約90%、3,000機であり、損失が製造機数をやや下回っており、この時点では、太平洋戦線における日米航空戦力は、ほぼ均衡していた。しかし、ガ島、ソロモン、ニューギニア方面での戦闘を経た18年には、同比率が205%、約6,300機(内訳は、戦闘被害32%、地上被害等52%、空輸など作戦以外16%)と急激に悪化した。一方陸軍は、同時期107%と際立って少ない損失に留まった(※49)。ここに至って、海軍は陸海軍を空軍本位に再編成し、海空軍重点主義に移行すべきとの主張をしたが、今更身勝手な考えが通るはずもなく、製造手段も資材も依然折半のままとなった。航空機損失原因の内訳は、陸軍でも海軍とほぼ同様の比率とされているが、全損失機数が約16,000機と、海軍よりも約11,000機も下回った上に、海軍の終戦時の残存機が約5,000~ 6,000機(うち特攻機約3,000機:内訳は練習機約2,500機、桜花500機。残る作戦機2,000~3,000機のうち主力は厚木319機、横須賀108機、木更津130機、三沢100機、大村206機)であったのに対し、陸軍は約9,000機(特攻機3,000機を含む。)と作戦機の数で2~3倍と圧倒的に上回り、しかもその大半が戦闘機であり生存搭乗員の数、質はそれ以上の差となった(※50)。この差は海軍航空隊が所要に満たない戦力を逐次投入したり、燃料・弾薬を徒に消費し無用、不要な戦力の損失を重ねた一方、陸軍が航空機の質的向上に加え、戦力発揮のための基地機能の整備とともに(※51)、戦力保全の取組み、後方地域で練成訓練を積み重ねたことによる結果と考えられる。ちなみに終戦時の米軍の残存機は107,000機であった(うち米海軍機は40,900機)。なお米海軍の旧軍機撃墜(実質的に海軍機)に対する損失率は、16年12月8日~翌17年にかけ1:3.2(米:日)であったが、18年では1:5.3に拡大し、19年は1:15.4に、終戦の20年には1:21.6となり、その凋落ぶりは栄光とはいい難い日本海軍航空隊の戦闘実態を示している。
 第二次大戦における米軍の航空機損失原因の内訳は、下図のとおり戦闘による損失割合が43%であったのに対し、事故による損失が56%とこれを大きく上回った。

米軍の航空機損失原因内訳(戦時)

 総じて、日米双方とも戦時における航空機損失に占める事故等の割合は、戦闘被害よりも大きい現実が裏付けられるが(※52)、米パイロットの大半が救出をされ再出撃を果たした点が決定的に異なる。
 先の大戦では、日米が太平洋を主戦場としたため、戦局のすう勢は海軍航空隊の消長(航空優勢の帰すう)によるところが大きかった。それだけに、国民が海軍に寄せる期待とは裏腹にその結果の落差、失望があまりにも大きかった。しかし、これは個々の搭乗員の勇気や敢闘精神などとは全くの別問題である。当時は皆が最善を尽くしたつもりであったであろうが、今日的視点ないし航空作戦に関する当時の欧米の基準から見れば、短期決戦主義(思想)であった旧軍、とりわけ海軍は、整備・補給・輸送・施設などの後方支援にほとんど関心がなく、情報、通信、管制、気象、衛生、教育研究など各機能の重要性も十分に認識しないまま、戦線の急拡大による影響が重なり、航空機の大半を、作戦レベルに応ずる技能、練度に達した搭乗員とともに所望の時機、場所に機動集中できなかったことに直接の敗因がある。勿論、背景的要因として研究開発の遅れ、生産基盤の脆弱さ、資源の不足など、国力と敗戦の因果関係は決して無縁ではないが、その根幹には海軍が口先だけは総力戦を唱えながら、実際には日本海海戦方式の砲戦による艦隊決戦に固執し場当たり的な施策しか考えてこなかったから、そうなったといえ、人事や教育研究の問題も少なくないと見て差し支えないであろう。特に国力の観点でいえば、輸送船の喪失により戦争の継続どころか、経済活動や国民生活を支えられなかったのが実情であり、資源小国の日本は昔も今も原材料、食料など物資の輸入に頼りつつ、技術に立脚して他国と競争し、海外に商品を輸出することでしか生き残り得ない宿命にあるのであって、長大なシーレーン防衛を一国の海軍力だけで、それも戦闘の片手間で行うこと自体に無理があったと糾弾せざるを得ない。そもそも(大)日本帝国海軍という軍隊は何だったのかということに尽きるのであり、そのこと自体が問われるべきであろう。この点については、続編として詳らかにする。
 2019(令和元)年8月宮内府並びに宮内庁で長官を務めた田島道治氏が残した資料の中から、昭和天皇が戦後側近らに戦争を語った際に作成したとみられるメモが発見され、その一部をNHK が公開した。この中で、軍の最高司令官である大元帥閣下であった昭和天皇は敗因として、「精神に重きを置きすぎ科学軽視」、「陸海軍不一致」を挙げつつ、「マリアナを防備すればよかった。戦争済んだつもりで防御撤去した」、「ガダルカナルを捨てニウギニア、ポートモレスビーを攻撃した方がよかった。両総長きかず」などと具体的な作戦についても、ご発言をされていたことが記されていたのであった。総じて、考えたくはない過去の戦争を、当時の時代背景や現在の国際環境とは異なるとして顧みず、苦々しい真実から目をそらすようなことがあっては同じ惨事を再び繰り返すことになりかねない。航空事故が、航空機の性能や機能が向上しているものの、人の能力と特性は変わるものではなく、教育や訓練によってエラーの発生頻度を減らすことは可能であるが、ゼロにはならないのと同じで、どれだけ科学が発達しようが、戦禍は簡単にはなくならない。時代背景は違えども、過ぎ去ろうとする戦争の尊い経験から教訓を学び後世に伝え、未来へ生かしていく重要性が、こうした点にある。

6 おわりに

 淵田、奥宮氏の共著『ミッドウェー』と『機動部隊』、猪口(詫間)、中島氏の共著『神風特別攻撃隊』が出版されたのは、昭和26(1951)年サンフランシスコ平和条約締結により米占領下の日本が再び主権を回復し(ただし、奄美諸島と沖縄を除く。)、航空(設計製造)禁止令が解除された年であった。この好機を狙ったように、翌27年夏、和田操元中将の強い奨めで、堀越・奥宮両氏が『零戦日本海軍航空小史』を、奥宮氏(中島氏の説もある。)の紹介で坂井三郎氏が『坂井三郎空戦記録(後の「大空のサムライ」)』を、ドラマチックな物語(ストーリー)に書き上げた。堀越氏は、著者の言葉とした巻頭言で、和田中将からは、「私はただ持ち合わせの生の資料(技術経過資料)を出し、執筆及びそれ以上の調査の労は奥宮正武氏がとるという条件」であったとか、「私はただ資料提供及び奥宮氏の原稿を通読し助言するだけ」と記しており、十二試艦戦の計画要求書の改ざん、ねつ造は奥宮氏によるものか、堀越氏自身によるものか、あるいは「全般的に和田さんの助言がある」とも述べているので、さもなければ和田元中将の指示ないし助言に基づく3人の共謀ということになろうか。同時に堀越氏は、「戦時中一度海軍報道関係者によって企てられ(「技術の海軍」)、会社に資料提出を求められたことがあった」、「戦後知人あるいは知人の紹介によって二、三回同様の申し込みや示唆があったが、その都度断ってきた」とも言及しており、上記の出版物が陸軍関係者に先んじて全て同一の出版元から続けざまに出版されたことも併せて考えると、その背後には海軍の際立った組織力ないし影響力が垣間見え、醜悪な意図が窺える。海軍関係者、とりわけ高位にあった者、いわば戦争責任者が都合よく言い訳し、史実を歪曲した、膨大な数の出版物は後に公刊戦史(「戦史叢書」)を編纂する上で障害に他ならなかった。堀越氏が、海軍航空技術推進の中心者として最大の賛辞を贈った和田元中将は本人の喧伝によるものなのか、零戦に20mm砲を採用させた人物としても知られているようであるが、桜花の設計を命じた責任者としての別の顔を持ち、昭和29年にかつて桜花の主翼や尾翼の製造にあたった航空機メーカの副社長に就任した。戦後国民はこうした経緯や背景を知らないまま、情報不足と文字の渇望も加わり、熱しやすい国民性と世相とが相まってゼロ戦や大和のブームが沸き起こった。その後も、ゼロ戦と堀越技師は、新聞、雑誌、書籍などで繰り返し特集され、テレビや映画などでも度々取り上げられ伝説となり、今もって狂信的信者というべき一部のマニアックな人たちを意識してか、表立った批判はタブーに近いものを感じる。戦史研究者ないし軍事専門家と自称する人たち、作家、これを支える出版関係者も、ゼロ戦について異口同音にして批判的論評を加えることはほぼない。同様に関係者の証言を軸に体裁を整えた零戦本も、著者がこれこそが真実だとばかり声高に叫んでみても、戦後40年以上経った後のものでは、残念なことながら、関係者の記憶も正確さが失われ、じ後他者からの情報などによる影響も避けがたく、既に変容してしまっている面がある。現に当人でさえも著書や過去の発言との食い違い、矛盾が生じていることに気付かず語っている場合も少なくないのが実情で、いつの間にか事実からかけ離れた内容が、真実として語り伝えられるようになる。言い換えるなら、身びいきもあって本機の実力、実績以上に過大に評価され問題点は埋没し、多くの神話が造られるに至っている。
 例えば、バトル・オブ・ブリテンで独メッサーシュミットBf-109の代わりにゼロ戦を投じていたらとの例え話の類いは雑誌の特集記事などでも頻繁に目にしたりするが、「こうあって欲しい」という願望による強引な曲解がそうさせるのであって、仮に英上空で30分以上の空戦が可能であっても、弾を直ぐに撃ち尽くしてしまうといった点や防弾装備の皆無、ガ島攻防戦と同様の長時間飛行による疲労の蓄積、英防空管制システムの脅威など、何ら戦闘の実相を踏まえていない誇張、迷信に過ぎない。烈風がもう1年早く戦力化されていれば敗勢を若干なりとも挽回し得たという仮説なども全く同じで、現実味のない空想、妄想である。昭和40年代後半漫画家の松本零士氏は、「戦場まんがシリーズ」で、20mm弾が下方にタレて当らない、被弾すると簡単に火を噴くなど、従来の伝説とは異なる、むしろ史実に近いゼロ戦の姿を克明に描き出した。かつての私もこの作品に刺激を受けた一人であった。終戦の日の特別番組では、米パイロットが日本の船舶、列車、学校、家屋などに向け地上掃射を執拗に行う様子を捉えたガンカメラの映像が繰り返し流されるが、ゼロ戦搭乗員も中国戦線では同様の作戦に従事していた事実がすっかり忘れ去られている。これまで言及してきたとおりゼロ戦は何も特別な存在ではなく、単に技術力を誇るべき優秀機として評価するのであれば、本文中で言及したようにゼロ戦以外に相応しきものは多々ある。今後は日本技術力の象徴的存在であるかのように神格化し、信仰の如き対象とするのではなく、同時代の他機と同列に扱われるか、むしろ搭乗員の安全を軽視した設計や特攻を象徴する負の遺産として、隠された側面がより多く語り継がれるべきではないかと考える。
 ゼロ戦と同様に山本五十六をカリスマ的存在として崇め、連合艦隊、海軍を礼賛する傾向が依然根強い。米内光政、嶋田繁太郎、永野修身らの副官を務めた、吉田俊雄氏によれば、山本長官は、「人を好き嫌いで区別し」、「心を許した友以外には心を開かない」、「己の内心を語りたがらず、ついて来る者のみを好む傾きがある(黒島亀人先任参謀や渡辺安次戦務参謀、三和義勇参謀などが典型)」、「口が重く、説明や説得を嫌い、結論しか言わない」という面を有していたと伝えられる。現に山本長官の永野総長、南雲中将嫌いは有名で、もとより関係も悪く、真珠湾作戦、MI作戦でも直接話し合った形跡がない。しかも、MI作戦では南雲中将以下各指揮官、参謀は、連合艦隊司令部に出頭するよりも先に、軍令部において同作戦の説明を受けてしまっていた。つまり、時間的猶予の無さもあって、南雲中将は山本長官の真意を図りかね、軍令部の命令(大海令)に示されたAF(MI島)攻略なのか、
連合艦隊司令部の作戦要領にある敵艦隊の捕捉、撃滅なのか判断の迷いにつながったと吉田氏は指摘した。そもそも、作戦を計画する側の軍令部として見れば、作戦目的として不確実な敵空母の出現を期待するような命令を起案することを躊躇したとしても不思議ではない。あるいは、真珠湾作戦での第二撃、MI作戦での対艦兵装待機機の陸上爆弾への兵装転換など、山本長官による南雲中将への指示の不徹底、言い換えるなら山本長官の意に添わない失策の数々は、コミュニケーション不足に起因する南雲中将の独断専行あるいは面従腹背の可能性も否定できない(※53)。そもそも自分の意図を部下に正しく理解させ徹底させることは、上官として重要な責務の一つであり、間柄がよくない場合、理解させることは容易ではないが、その際も自分の考えを相手に伝える工夫を行い、納得させる努力を怠ってはならない。これは指揮官として重要な能力であるにもかかわらず、喋ろうさえとしないのだから長官が務まろうはずもない。高木惣吉元少将や吉田俊雄氏によれば、米内光政大将も、「口数が少なく、説得力を欠いていた」、「口下手で、いろいろ上手に話すことは無理」だったというから、両名はいずれも不適格者だったということになりはしないだろうか。一方ニミッツとスプルーアンスは、もとは司令官と参謀長という関係にあったが、この際、真珠湾のフォード島にあるニミッツの官舎で起居し勤務はもとより、食事、運動に至るまで行動を共にして意思疎通を図ったことで知られる。スプルーアンスは、その後に機動部隊指揮官となった以降も、甲板上を毎日何時間も散歩する同じ習慣を続け、士官を一緒に歩こうと誘ったというが、質問をして独学の機会として利用していた面もあったようだ。ゼロ戦の防弾装備が不徹底となった背景的な要因も、堀越技師の技術者としての我の強い個性に端を発した軍関係者とのコミュニケーションの断絶にあったと見ることができる。これらは、個人の特性が勝敗に大きく影響したことを示す貴重な教訓だが、同時に避け難い人の特性でもある。時間の制約、人的物的な不足、精神的肉体的疲労、生命の危険を感じる過酷な状況下で、個人の特性によって生じる上級者のミスは、危機的事態へと発展しやすい。しかも、リーダーの誤った判断や指示によって甚大な被害を被るのは今も昔も変わらず、立場が弱い下士官兵、いわば第一線(現場)で勤務する人間なのである。戦後80年が経とうとする今日でも、これらの敗因の多くには現在と何ら変わることのない様々なヒューマンエラーが存在しており、われわれに貴重な示唆を与えてくれているのであり、それらの国民的記憶を呼び起こすような作品が続くことを期待したい。
 特に海軍の作戦は、アリューシャン作戦と同時並行で行われたMI作戦がまさしくそうであったように、軍令部と連合艦隊司令部が互いに主導権を競い、目的が曖昧になったり、計画が巧緻を極め複雑化した上に、戦域が広範囲に及び無線封鎖や通信不備(電報の不着・延着)、技能練度の低下なども加わり、個々の戦闘現場では連携がとれず役割を度々見失い、錯綜した状況を招いた。一貫した方針のもと何を目的とする作戦なのかを明確に理解させ監督指導を怠らなければ、目標や手段の選択を間違えないことはいうまでもないが、戦闘では過労、傷病、恐怖など肉体的・精神的困難を伴うに加え、航空機等の損壊、人員及び物資の不足、通信の途絶など、不安全、不確実、不明瞭、不信感などが増す状況変化とともに、冷静さを欠いた軽率な判断や行動とが相まって壊滅的な事態を引き起こしやすくなる。捷一号作戦(レイテ沖海戦)における栗田健男中将の反転後退(謎の反転)はその典型例であり、通信技術も未熟な昭和の海軍に成功する見込みなどなかった。つまり、クラウゼヴィッツやリデル・ハートが語ったとおり、事故と同様、戦闘では錯誤の連続(ヒューマン・エラーの連鎖)が生じるものであり、致命的なミス(錯誤、エラー)がより少ない側が勝者となる。MI作戦は、その最たる戦例の一つであると同時に、海軍の組織体質がありのままに現れ、失策の集大成と称すべきものがあり、「彼を知りて己を知れば、百戦殆うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一敗す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」という孫子の兵法を立証したかのような作戦経過であった。同時に海軍航空隊は、戦闘以前に事故などで戦力を大きく損失したが、その背景には救命装具装着や捜索救助の不徹底、悪天候下又は体調不良での飛行、基準から逸脱した燃料弾薬の搭載など、多くの不安全行為が看過されており、施設や衛生の不備、教育訓練の怠慢など様々な要因も深く関わっていた。これら安全の規則や基準、組織の気風も、当時の社会制度・技術・文化などが相互に影響し、有事と平時の区分なく平素から培われ、戦時に引き継がれたものであった。しかしながら、結果は死傷者の膨大な数となって現れたのであり、今日の状況に照らし合わせ、検証ないし考察する価値が十分にあると思われる。現職自衛官も、教範や教科書による受け身の学校教育に止まらず、従来のイメージに囚われず自ら学び、平素の実務、社会活動と関連づけ身につけるよう自ら学ばなければ、本番で、あるいは現実の社会で役立たないことを理解、認識すべきであり、自衛隊が、旧軍の前轍を踏むようなことがないことを願うばかりである。         (番外編へ続く)

■注釈及び補足説明

(※1)    ケン・テーラー中尉とジョージ・ウェルチ中尉は、燃えさかる飛行場
  の中、友軍誤射の危険を顧みずP-40で出撃し、瞬く間に8機を撃墜し
  た。驚くことに二人とも徹夜のポーカー明けだった。こうした果敢な反
  撃に遭い、日曜朝礼拝の時間を奇襲した第一次攻撃隊でもゼロ戦9機を
  含む9機を損失、未帰還搭乗員は55名、損傷は70機超にも上った。ま
  た、昭和19年4月5日南寧飛行場での空戦では32機のゼロ戦が、レーダー
  の捕捉により緊急発進した僅か5機のP-40による攻撃に遭い9機が撃墜さ
  れたが、一方P-40の被撃墜はたったの2機であった。
(※2)    陸軍では、立川市のテルコと横川電気の2工場が点火栓の製造を指定
  されていたが、急増産されるエンジンの台数に追随するのがやっとであ
  ったという。
(※3)    陸軍飛行隊第四七戦隊(成増、通称かわせみ部隊)の鐘馗60機は、
  隼の稼働率が60~70%のところ、昭和18年以降も87%という高稼働率を
  維持した。刈谷政志少尉(整備小隊長)が提唱した整備方式の効果によ
  るもので、新受領機の受入検査を厳重に行った上で、20時間ごとに予め
  定めた点検整備項目を実施する、いわばチェックリストに基づく予防整
  備といえるものであり、エンジンの重整備や構成品の修理は専門の小隊
  を編組して行った。同戦隊は、主翼の機銃を40mm(ホ三〇一:ロケッ
       ト推進砲、左右各10発)や20mm砲に換装した鍾馗Ⅱ型乙、丙を有し
  た。同隊は、昭和19年11月から翌20年1月までの間に、B-29を19機撃墜
  した。
(※4)    脚上げに要する時間も重要であり、紫電改では8秒に短縮されたが、
  ゼロ戦は16秒もかかったため、整備兵は少しでも離陸を早めようとエン
  ジン始動後に尾部を持ち上げ機体を水平にするなど工夫した。
(※5)    百里原の海軍航空基地では、昭和20年4~5月に入ってからである
  が、下吉影の松林の裏に丘の斜面を利用して半地下壕式の兵舎を、応急
  待避壕とともに設営した。航空機は、飛行場周辺から1~2km離し、林
  や民家を利用し分散して隠蔽した。これらの施設整備は、土浦航空隊の
  予科練2,000名の手によって完成したが、地主、村長らの協力も大きか
  った。当基地には、関東最大の六〇一空が所在し、ゼロ戦80機を有し
  た。
(※6)    英国では、陸軍戦闘機のスピットファイアを艦上戦闘機仕様に改造
  し、シー・ファイアとして実戦に投入していた。つまり、克服すべき課
  題はあるかもしれないが、着陸制動用のフックを装備した試作機50機を
  製造していたこともあり、隼を艦戦仕様に、元は海軍の急降下爆撃機の
  試作機であった九九式襲撃機を艦爆仕様に改造することも、比較的容易
  であったのではないかと考えられる。隼の試作機が装備したフックは、
  陸上移動式着陸制動装置ケー1(KX)と陸上移動式飛行機射出装置ケー2
  (KY)を使用するために、制動フックとカタパルト台車搭載用の金具を取
  り付けたもので、昭和19年3~9月までの間に改修された。
(※7)    MILスペック、AN(米陸海航空規格)とNAS(航空宇宙規格)などの標準
  化システムに発展した。
(※8)    事由は、小牧・犬山の街道は未舗装なので、トラックで運ぶと機体が
  傷ついてしまうことであった。三菱は、海軍機については昭和18年頃か
  ら運搬船で数キロ先の名古屋飛行場に運び、鈴鹿飛行場に空輸するよう
  改めたが、輸送効率は依然として悪く、大幅な増産は期待できなかっ
  た。陸軍97重爆は大型機であるが故、離着陸に必要な滑走路の距離が足
  りず、愛知航空機と同様に、その後も各務原まで牛で運搬した(双発機
  は荷車13台が必要)。生産機数の増加に対し、関係者が牛の頭数を増や
  すべく高値で買い集めたところ、公定価格違反の罪で有罪にされた。戦
  争は、国外で行われるものという観念から、このように戦時における法
  律も未整備であった。川西は、陸軍伊丹飛行場を借用(船で大阪湾を渡
  り、トラクターで牽引)し、紫電7号機以降は後に整備した鳴尾飛行場
  を使用した。
(※9)   太田飛行場といい、竣工は昭和16年2月15日、滑走路は幅70m、長さ
  1,300mで、小泉製作所との間で共用した。
(※10)   米本土を爆撃する構想で中島が設計したエンジン6発機で、B29より
  一回り大きかったが、小型機の製造を優先にする遠藤三郎航空兵器総局
  長の反対により、試作直前で中止に追い込まれ、完成しなかった。昭和
  18年5月、陸軍は4発爆撃機として川崎にキ91の開発を命じ、翌19年4月
  にモックアップが完成したが、20年2月に戦局の悪化や資材不足などを
  理由に開発を中止した。陸軍は、これとは別に立川に対し遠距離偵察機
  キ74の発展型としてⅡ型(双発爆撃機仕様)の開発を命じた。これらの
       機体のうち、唯一キ74Ⅱ型だけが19年3月初号機が完成、5月初飛行を行
  い、14機が製造された。翌20年7月、八日市飛行場で飛行訓練が開始さ
  れ、9月1日にマリアナ攻撃、12月に米本土片道爆撃などが計画されてい
  たが、避難先の山梨県甲府市の玉幡飛行場で終戦を迎えた。2機を残
  し、全てスクラップ処分され、立川飛行機の2機を加え、調査のため米
  にこのうち2機が送られたが、用済み後スクラップ処分され、現存して
  いない。キ74の開発は、14年で、当初の完成予定は16年夏頃であった
  が、朝日新聞社による東京-ニューヨーク間の無着陸飛行を可能とする
  興行を企画した長距離連絡機A-26(キ77とも称する。)の開発が割り込
  んだため、計画が大幅に遅れた。この影響がなければ、航続距離約
  8,000km、最大速度570km/h、爆弾1~1.5トンという性能面を含め、与
  圧キャビン、排気タービン、防弾タンクなどを装備していたこと、飛行
  試験の実績などからみて、米本土空襲を実現する可能性が最も高い機体
  であった。特に、当機にはろ獲したB-17の自動操縦装置とノルデン爆撃
  照準器のコピー品(四式照準器)が搭載されていたことからも、その期待
  の大きさが分かる。また軍需省は、川西に対し超大型の4発爆撃機
  (TB)の開発を発注したが、計画に終わった。海軍による米本土空襲
  は、昭和17年9月9、29日、伊25潜の零式小型水上偵察機(大型潜水艦
  の収容筒に収納するため、主翼やフロートを艦上で着脱可能な複座の単
  葉機)によるオレゴン州ブランコ岬南南東70~80kmの山 林(ホイラー
  ・リッジ)に対する爆撃による森林火災(76kg×2:焼夷弾520発入り)が
  最初で最後となった(二撃目の投弾地点は不明)。米本土への砲撃は、
  昭和17年2月23日伊17潜がカリフォルニア州サンタバーバラ近郊の油槽
  所を、同17年6月20日伊26潜がカナダのバンクーバー島の無線局を、同
  年6月21日伊25潜がオレゴン州アストリア市の陸軍基地を、それぞれ攻
  撃した例がある。これらは、いずれも心理的動揺を狙ったものであった
       が、機雷を敷設したり、輸送船を攻撃することはなかった。
(※11)   独Me-163Bロケット戦闘機を参考に日本が自主開発したものであ
  る。吉川春夫技術中佐と巌谷英一技術中佐は、独航空省から手渡された
  ジェット戦闘機Me-262AとMe-163Bの資料を日本に持ち帰る際、安全を
  考慮し、別々の潜水艦で帰国することを決意した。吉川中佐が乗艦した
  U1224(呂501)は、昭和19年3月30日キール港を出発、5月13日大西洋上
  で米駆逐艦の爆雷攻撃により沈没、同19年翌4月16日仏ロリアン港を出
  港した伊二九潜も、7月26日台湾とフィリピン間のバリンタン海峡を浮
        上航行中、米潜水艦による魚雷攻撃により沈没したが、遡ること7月14
  日シンガポールに寄港した際、帰国を急ぐ巌谷中佐は零式輸送機で羽田
  に向かい3日後の17日に帰国していた。持ち帰った200頁ほどの資料は、
  エンジンの原理、燃料の成分、燃焼概念図などシステムの概略が示して
  あるだけで、機体の取扱説明書、外形の三面図、配置図、使用材料など
  も数値が記されていなかった。機体の開発は、三面図と航空技術廠の空
  力データを基に、三菱の高橋己治郎技師を主務(課長)のもとに、事実
  上の責任者である疋田徹郎、富田章吉、原田金次、楢原敏彦、蝦名勇、
  土井定雄、今井功、中村武、富岡隆憲、磯部保文、小佐弘、定森俊一ら
  各技師が補佐し試作を行った。ロケット(陸軍名称特呂二號、海軍名称 
         KR-10、仕様は細部で異なる。)の開発は陸軍が分担し、本体は三菱名
  古屋発動機研究所の持田勇吉技師が、燃料は三菱長崎兵器製作所がそれ
  ぞれ開発に携わった。機体の製造には、三菱(小松、嶽南)、日本飛行
  機(富岡、山形)、富士飛行機、日産飛行機(鳥取)が加わり、当初計
  画では21年3月までに3,600機を製造する計画であったが、完成機は三菱
  と日本飛行機山形工場で4ないし6機(完成間近が他に6機)、エンジン
  は三菱、広工廠、陸軍兵器本部、ワシノ精機、新潟鉄工などで生産に着
  手したが、完成は3基、完成直前の2基に留まった。20年6月、初号機が
  完成し、翌7月7日追浜(当初は木更津を予定)で初の試験飛行が行わ
  れ、滑走距離220mで離陸成功、高度10mで後述する車輪の落下に成功
  したが、上昇中、燃料を1/3だけ積んだ状態であったため、急上昇   
   (27度)によってタンク内で薬液が片寄り吸い込み口に空気が入り込ん
  だことから、1~2分でエンジンが停止、高度500mから墜落した。こう
  した事態に備え、洋上に不時着水すると決められており、救助艇も待機
  していたが、水上機出身の犬塚豊彦大尉は機体を持ち帰ることで必死で
  あったとみられ、機体は原形を留めたが、犬塚大尉は頭蓋骨骨折で殉職
  した。事故後、空技廠で開かれた査問委員会では、会社側それも一技師
  のミス(急発進や上昇の際、タンク内にしきり板のようなもので燃料が
  寸時固定されるようになっていなかったこと)に責任があるされたが、
  そもそも事故の直接原因は、試験飛行する状態にないと反対する開発陣
  を航空隊司令の柴田武雄司令が押切り、「エンジンは2分持てば良い、
  機体は強度試 験の零号機で良い」と試験飛行の強引に決定したことに一
  番の問題があった。このため、地上滑走の試験も行われず、いきなりの
  試験飛行となったことに加え、事故発生直前にエンジンを起動した際、
  停止する不具合が何度も繰り返し発生していたにもかかわらず、不具合
  の兆候が無視されることになった。高度10,000mまでの上昇速度は3.5
  分、最大速度は約900km/hという夢のような飛行性能に軍首脳が飛びつ
  いたのは分かる気がしないわけでもないが、在空時間は僅か6~7分、行
  動半径も約60km四方で他基地への機動展開も不可能であった。独で
  は、昭和16年夏頃には既に初飛行を行い所望の性能を達成し、19年秋実
  戦配備がされたにもかかわらず、燃料不足も相まって見るべき戦果がな
  かった。特に、燃料切れの後の下降着陸はグライダーと同じ滑空で、着
  陸態勢に入ると姿勢を大きく変えられず、駐機中も自力滑走できないた
       め、独では敵戦闘機の好餌となった。更に、離陸後は車輪が切り離さ
  れ、着陸時は150ktを超える速度で胴体下部に収納したソリを使用する
  構造であったため、不安定であった上に、爆発しやすく腐食性が高い特
  殊な化学燃料(甲(T)液:濃度80%の過酸化水素溶液と乙(C)液:57%の
  メタノールに猛毒のヒドラジンを30%添加、この両液を10:3.6の混合比
  に調整し、接触する際の化学反応で生ずる1800℃を超える燃焼ガスの噴
  出により推力を得る。)を使用しており、離着陸は危険を極め独では事
  故が続発、日本でも試験飛行直前に爆発事故が起きていた。一度の飛行
  に2トン近くの燃料を要するが、過酸化水素などを製造するにも電気分
  解を行う際に希少な白金の電極や多大な電力を要し、燃料を保管するに
  も専用の材料を使用し特殊な構造を有する施設の建設が必要で、燃料確
  保の見込みも立たなかった。秋水を配備する東京近郊の基地周辺では、
  巨大な薬液タンクの工事や貨物輸送のための引込線の敷設が進められ、
  三菱化成、日本窒素などが大規模な生産プラントを建設しはじめたとこ
  ろで終戦となったが、こうした地上施設も敵に容易に狙われるのは必定
  であった。なお搭乗員の養成は、海軍では百里原基地で、陸軍(特殊兵
  器隊といい、隊長はフィリピンで飛燕の戦隊長であった荒蒔義次少佐)
  は柏基地で、それぞれ行われ、特殊滑空機(木製羽布バリ張りの軽滑空
  機:秋草と無動力未兵装で重量約1トンの重滑空機の2種、三菱が50~
  60機余りを製造)が使用された。在空時間が短い秋水は、目標への的確
  な誘導と帰投が不可欠であるので、射撃管制用レーダを使用したシステ
  ム(敵の進路、高度、風速などのデータを入力すると、秋水の発進のタ
  イミングが表示される。)の制作が進められ、高高度航空服(試製航空
  与圧面及び胸部加圧用腹帯)も生産された。武装は、5式30mm機銃で、
  初速750m/s、発射速度は350発/分であったが、同じ口径の独MK103は
  初速が940m/s、発射速度は420発/分であり、性能不足は否めなかっ
  た。秋水の配備は、名古屋、岡崎、大村、諫早の各海軍基地が予定され
  ていた。秋水の現存機は、昭和36年に日本飛行機杉田工場の造成中に土
  中から発見、航空自衛隊岐阜基地で屋外展示された後、修復・復元さ
       れ、三菱重工大江時計台航空資料室に保管、展示されている。
(※12)   昭和17年6月には愛知県に半田製作所(海軍機組立)を、翌18年3月
  には埼玉県に大宮製作所(多摩の分工場、エンジン)を、同18年4月に
  は静岡県に三島製作所(銃架類)と浜松製作所(陸軍エンジン)、翌々
  19年1月には栃木県に宇都宮製作所(陸軍機組立)などを稼働させ、工
  場は北は岩手、福島から西は愛知、三重、北陸に及び、19年末には製作
  所12、工場分工所56という規模にまで拡大した。旧軍戦闘機の製造機数
  だけに限っても、昭和12~20年までの総製造機数約31,000機のうち、
       中島は約17,000機(約55%)、三菱は約5,100機(約17%)であった。
(※13)   昭和17年以降陸軍は、海軍の零式水上偵察機の供給を、一〇〇式司  
  令部偵察機との交換を条件に、艦艇攻撃のため天山(200機)の譲渡
  を、隼の供給との交換条件に、海軍の彗星と疾風との情報交換などを、
  それぞれ申し出ていた。
(※14)   疾風(キ106、立川飛行機が昭和18年9月に試作開始)や川西の大型
  輸送飛行艇蒼空などがある。木製化の疾風の初号機は、昭和19年10月10
  日黒江保彦少佐(戦後航空自衛隊に入隊、第6航空団司令在職中に不慮
  の事故死)により福生(現在の橫田基地)で初飛行を終え、翌20年1月
  に飛行試験による審査が完了、操縦性と安定性は疾風とほぼ同じであっ
  た(ただし翼内銃は未装備)。接合部がリベットではなく、接着剤であ
  るが故、機体表面が滑らかになり、最高速度は580km/hに留まったが、
  板材で厚みが増すため、自重で477kg、全備重量で260kgが増加し、上
       昇力は5,000mまで1分以上が増加し7分30秒に低下した。着陸速度も鐘
  馗と同じ150km/hであった。計10機程が製造され(立川岡山工場6機、
  王子製紙苫小牧工場:王子航空機3機、呉羽紡績富山工場:呉羽航空機3
  機)、北海道飛行第54戦隊に4機が配属された。戦後、2機(試作2号
  機、量産1号機)が米軍に引き渡された。この他に、アルミを鋼板など
  代用材料に置き換えた疾風(キ113、王子航空機)、エンジンを金星に
  換装した疾風(キ116、満州飛行機)も存在し試作中に終戦を迎えた。
(※15)   1938年登場の英戦闘機のモスキートは、総重量の50%、ソ連戦闘機
  のYak-3は30%、Yak-9は43%が木材(シベリアのリスナと呼ばれる樹木
  を使用)であった。これは薬品処理を行った特殊な材木に、専用の接着
  剤を使用したものであったが、日本ではこの種の基礎研究に関心がなか
  った。日本では、合板に樹脂を浸透させた木材を使用した例として、九
  九式艦爆の木製化(明星、大阪市の松下航空機が試作を担当)があり、
  特に強度が必要な桁材には熱と圧力を用いて製造する積層圧縮材が使わ
  れ、外板には合板の上に羽布を樹脂接着剤とともに貼り付け補強した。
(※16)   昭和3年に東京帝大を卒業後、昭和7年に航研機の製作に参加した。
  戦後同氏は、堀越技師と同様に、雑誌や書籍に航研機の苦労話を書いた
  ことから、マスコミは航研機の生みの親とまで讃え、現在も事実かのよ
  うに定着している。戦後を象徴する話であるが、現実は若手助手の一員  
  にすぎず、担当した脚の設計も満足に完成できず、富塚清教授が担当し
  たことが、柳田邦男著『続フェイズ3の眼(1985年)』の中で、富塚教授
  への取材で明らかにされている。戦後日本大学教授となり、昭和41年の
  B737全日空機羽田沖墜落事故の際、調査団団長を勤め、事故直後から   
  根拠のない操縦ミス説を主導したことから(B737導入の立役者でボーイ
  ング社と昵懇の関係にあった。)、調査団員の山名正夫明治大学教授
  (海軍航空技術廠所属の技術中佐兼東京帝大教授、艦上爆撃機彗星や陸
  上爆撃機銀河を設計)と対立、辞任に追い込んだことでも知られる。
(※17)   ミッドウェー海戦の敗因の一つに、兵装転換が取り上げられるが、
  これについては、南雲艦隊が僅か2か月前のインド洋作戦(セイロン沖
  海戦)で二度にわたる兵装転換で3時間も要し、攻撃隊の発進が遅れた
  こと、英艦上攻撃機(ソードフィッシュ雷撃機)と交戦し、「この付近
  に敵空母存在の算大ナリ」と判断しておきながら、索敵をしなかったこ
  とまで酷似した状況があった。このとき、英軍は海軍の暗号を解読して
  おり、南雲艦隊を待ち伏せしたが、現れないため引き揚げ、ベンガル湾
  に停泊させたところ、英空母1隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦1隻が撃沈され
  たのであったが、これは作戦が当初の予定から5日遅れたことが幸運を
  もたらしたものであった。兵装転換については、後に山口多聞少将が実
  地検証を行い、司令部に報告書を提出したにも関わらず、結果的に同海
  戦に勝利したことで、ミッドウェーの大敗北を予兆するかの問題点は認
  識が不十分となり戦訓は共有されず作戦に反映されなかった。航空魚雷
  の搭載については、安定器(筐板)の取り付けや塗油、ナットの締め付
  けの他、落下試験、ジャイロや推進装置の作動確認、敵艦艇の大きさに
  応じた深度の調整をする必要がある上に、爆弾を搭載する金具も異なる 
  ため、取り替えなくてはならなかった。しかも、800kgもある魚雷や爆
  弾を航空機に搭載する運搬車の数が保有機の半数にも満たない上に、暗
  く蒸し暑い空母格納庫の中で中腰になって行わなくてはならず、何も問
  題がない場合でも作業完了に2時間余りを要した。97艦攻の場合、次の  
  とおりであった。
   ① 雷装 → 250kg爆弾2発:2.5時間
   ② 雷装 → 800kg爆弾1発:1.5時間
   ③ 爆装250kg2発 → 雷装:2時間
   ④ 爆装800kg1発 → 雷装:2時間
  興味深いことに、豊田穣氏は、山口司令官が坐乗する飛龍では、司令官
  の意図を察してなのか、「どうせ敵空母が現れれば、また雷装になるん
  だ。ゆっくりやれ」などと言う搭乗員などもいて、再転換の指示が来た
  とき、艦爆の大部分には艦艇攻撃用の爆弾が取り付けられてた状態であ
  ったとの証言があるとした。
(※18)   奥宮正武氏は、MI作戦では、淵田中佐は虫垂炎による盲腸の摘出手
  術で病床にあり、源田中佐も肺炎による発熱で体調が万全ではなく、山
  本長官も蛔虫が原因でひどい腹痛を起こしていたなどと、草鹿龍之介元
  中将らとともに、不運説を繰り返し主張した。ただし、山本長官につい
  ては、宇垣纏参謀長が6月9日付の『戦藻録』に、「長官の腹中異変は、
  結局回虫の作用なりしこと判明、虫くだしとともに憂い消散」と記して
  いるので、事実のようにも思われる。しかし、当の本人はというと、母
  艦が攻撃を受けている最中、戦務参謀の渡辺安次中佐と将棋をさしなが
  ら、母艦沈没の報告を聞き、「ほう、またやられたか」と言ったとも伝
  えられている。これは、日露戦争で露軍の機雷により戦艦2隻が沈んだ
  との報告を受けた際に、東郷長官が、「そうか」とだけ言い超然として
  いたことを想起して意識して真似たのかもしれなかったが、撤退の決断
  の後は、宇垣参謀長に敵艦の追撃を任せると、長官私室に引きこもり数
  日間で出こなかったことだけが客観的史実としてある。この頃を境にし
  て、『戦藻録』の文面、記事が生き生きとした内容に変わっており、司
  令部内の様子、特に参謀長とその他(平)参謀との人間関係に大きな変
  化が認められ、大変興味深い。
(※19)   MI作戦の行動中、5月30日~6月3日までの間、ミッドウェー、ハワ
  イ方面で敵飛行機、潜水艦の活動が活発で、緊急信号が多数認められる  
  ことから、連合艦隊司令部は米側が日本の行動を既に察知していると判
  断していた。現に、6月3日宇垣参謀長は、「わが(陸軍の)輸送戦隊を
  発見せるものとすれば、敵の備うるところとなり、却って獲物ますます
  多かるべし」と陣中日記『戦藻録』に書き記していた。
(※20)   ミッドウェー作戦の直前、山本長官は愛人に宛て、検閲で墨で塗り
  つぶされないのをいいことに、「(5月)29日にはこちらも早朝出撃し
  て、三週間ばかり洋上に全軍を指揮します。多分あまり面白いことはな
  いと思いますが、今日は記念日だから、これからが峠だよ」などと記し
  機密漏洩も甚だしかった。一方ニミッツが、妻に宛てた手紙には愛情を
  示す言葉はあれど戦況が窺える文面は一切ない。更に同じ頃山本長官
  は、部屋に閉じこもり、内地からの慰問品に対する返礼の手紙を書くた
  め、真珠湾攻撃の計画に関わるなど、旧知の間柄である大西瀧治郎中将
  でさえも扉の外で数時間も待たせ、激しい失望と怒りをかった。また、
  スプルーアンスは、米メディアの評判は悪く、新聞記者から、その点を
  指摘されると、「私の仕事は戦争に勝つことで、人気取りをすることで
  はない。私が人気取りのために判断を誤ったら、兵士が死ななければな
  らない」と言い返したとのエピソードが残されている。このようにあま
  り語られることのない山本長官の振る舞いは、当時の海軍に如何に真の
  将師が欠けていたかを立証するに余りある。
(※21)   海軍は攻撃目標を示す場合、地点を符号化した。米領の太平洋諸島
  は接頭記号がAで始まり、AIはハワイのオアフ島、AFはミッドウェー、
  AOはアリューシャン列島、接頭記号がBで始まるものは英領であり、一
  見無作為に見えて、相応の規則性があった。このため、ロシュフォート
  海軍中佐らの暗号解読班では、昭和17年2月の段階で、無線傍受の分析
  から艦艇や部隊、指揮艦の略号とともに、Aの接頭記号の意味はもとよ
  りAAがウェーキ島、AKが真珠湾を指していることを突き止め、翌3月に
  はAFがミッドウェー島であると強く疑っていた。
(※22)   南雲機動部隊旗艦赤城の艦長青木泰二郎大佐の異動は昭和17年4月25
  日付、副長の鈴木忠良中佐は5月10日付の発令であり、MI作戦の出撃直
  前であった。人事異動は、通常年度末の11月と4月、11月の異動は大規
  模で、幹部の大部分が異動する性質のものであった。開戦の年の昭和16
  年は、8月下旬に大異動が行われていた。
(※23)   研究会の終わりに、山本長官は、「艦政本部員は、建造中の空母に
  変更を考えているようだが、計画変更があれば、完成時期に影響せずに
  は済むまい。私は、いかなる脆弱な空母でも、これを使いこなす自信が
  ある。完成期日に影響するような計画変更は行わず、一日も早く完成す
  るよう希望する。責任は私がもつ」と発言した。この時の山本長官の態
  度を、当時の技術士官は、「自信過剰、傲岸不遜だった」と評した。
(※24)   真珠湾攻撃の際の空中部隊指揮官として知られ、海軍兵学校の同期
       に源田實、柴田武雄がいる。戦後は、「山本五十六は凡将」と一刀両断、
  「最大の失敗はミッドウェー作戦」と批判した。
(※25)   昭和19年8月の疎開輸送船對馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃により沈没
  (沖縄児童等約1,500人が犠牲)した際も、護衛に当たった駆逐艦と砲
  艦の2隻は、児童らを救助もせず海域から全速力で脱出した。かろうじ
  て、漁船などに救助された搭乗員や乗組員の階級章や名札を取り上げる
  などして、MI海戦と同様に事実を隠蔽し続けた。
(※26)   三代一就元海軍大佐は、戦後海軍反省会の席上、軍令部作戦課航空
  主務部員として航空機の増産を依頼した際、「中島はすぐ引き受けた
  が、三菱辺りは損するから嫌だと断られた」と述懐した。現にMI作戦の  
  翌7月、中島はゼロ戦の製造で三菱の月産数を既に上回り、同年12月に 
  は早くも2倍の格差となった。
(※27)   戦時にもかかわらず、平時と同様に大尉、少佐の時代に試験で同期
  学生のうち20%程を選抜し、2年間の教育を行っていた。
(※28)   海軍は、昭和18年11月頃から恐怖感の払拭や疲労回復に効くとし
  て、除倦覚醒剤(覚醒剤)を搭乗員はもとより工員などに対しても使用
  した。
(※29)   陸軍参謀本部情報参謀であった杉田一次元大佐は、『情報なき戦争
  指導』の中で、将来の戒めと題し、国民性の問題を次のとおり指摘し
  た。
   ① 理想や抽象的理論に走り、ついつい実際より遠ざかる。
   ② 他力本願的根性が強く、国民上下に自主性が乏しい。
   ③ 独善的となり、心おごる傾向が強い。
   ④ 主義に溺れて、不均衡な一方的な主義や主張に毒されやすい。
   ⑤ 国家指導者(政治家)をはじめとし、無責任なところが多すぎる。
(※30)   日米で評価が分かれる人物例としては、昭和17年11月30日夜ガ島へ
  の駆逐艦によるドラム缶輸送中、レーダーを備えた米重巡洋艦に出くわ
  し、水雷戦で巡洋艦1隻を沈没、3隻を大破させたルンガ沖海戦(米軍名
  タサファロンガ戦)の完勝に導いた田中頼三中将が典型である。ニミッ
  ツは戦闘報告書の中で、日本将兵の勇気、砲術、魚雷戦の優秀さを評価
  するとともに、勇敢で決然とした田中中将の行動を賞賛、戦後米海軍公
  刊戦史の著者で知られるサミュエル・エリオット・モリソンも不屈の猛
  将と高く評価、軍事評論家ハンソン・ボールドウィンも「太平洋戦争に
  おける日本の名将の一人(もう一人は、陸軍牛島満中将)」として賛辞
  を送っている。しかし、海軍はこの戦いの翌月、田中中将を水雷戦隊司
  令官の職から解任、舞鶴鎮守府付に左遷、戦況が厳しい折、指揮官を欠
  く中にも、田中中将は洋上で戦う機会が二度と与えられることはなく、   
  ビルマで終戦を迎えた。かねてから、田中中将が、「空軍の協同なしに
  は行けない」と駆逐艦による輸送を反対していたことなどが背景にあっ
  たと考えられるが、戦後になっても戦史叢書では、「適切な戦闘指揮
  (指揮官先頭)を行わず、各隊、各艦ごとの戦闘であった」と酷評し
  た。田中中将は、同17年2月のスラバヤ沖海戦における自らの苦い経験
  をもとに、実戦でその教訓を活かしたともいえ、米軍であれば抜擢され
  たであろう。田中中将と同期で、同じ駆逐艦乗り(水雷専門)であった
  木村昌福中将の場合も同様で、翌18年7月のキスカ撤退作戦(陸海軍守
  備隊約5,000名を敵に覚られず救出)に際して、優れた決断力と忍耐力
  を発揮し活躍したが、日米の軍関係者、研究者から高い評価を受け、知
  られるようになになったのは、戦後になってからであった。このように
  合理的判断力と勇気ある決断力を備えた名指揮官は、どちらかといえば
  人事的に傍流で冷遇された感のある駆逐艦の司令官、艦長などに多く見
  られ、海軍は人材の活用不足の感がどうしても否めない。
(※31)   加藤隼戦闘隊(第六四戦隊)の加藤部隊長は、チームワークによる
  総合戦力の発揮を方針とし、自らの戦果を減らすことはあったが、他の
  陸軍飛行隊長と同様に、一度も出動を欠かすことはなかった。陸軍の撃
  墜王に相当する搭乗員の1/3は、飛行隊長(代理を含む。)の少佐又は
  大尉で、全員が20機以上の撃墜数を有し、合計で10名以上に及ぶ。中で
  も、第六四戦隊の中隊長だった黒江保彦少佐は、陸士出身の将校なが
  ら、実に30機以上の撃墜数を誇った。
(※32)   陸軍第六四戦隊は終戦まで計8回の感状を授与され(うち1回は、戦
  隊長の加藤建夫中佐の個人感状。加藤戦隊長の個人撃墜数は不明ながら
  も、少なくとも20機前後に上ると見られている。)、部隊の総撃墜数は  
  500機以上にも及んだ。一方の海軍は、昭和18年以降行動調書に個人ご
  との撃墜数を記録するのを改め、分隊ごと一括記入する方式に切り替え
  る部隊が出始めた(個人撃墜数の記録を中止した)。
(※33)   海軍航空隊では、3機編隊で右翼に位置する3番機(三角点機)が周
  囲に味方機がいない上に、左旋回を通例としており、敵機に一番大きな
  機動を見せることになるため、狙われやすいにもかかわらず、技量未熟
  な最下級の搭乗員が、序列を理由に、この一番危険な位置とされた。
(※34)   ソロモン・ニューギニア方面で激しい死闘が繰り返されている中、
  大和がトラック島に進出した際、長官と参謀の昼食は、40人編成ともい
  われる軍楽隊の演奏付き(昭和18年3月末での中止を公表した。)のナ
  イフとフォークを使用した本格的な洋食のフルコース、夜は刺身付きの
  豪華な和食(一か月当たりの食材費は約35円)で、来客があれば、シャ
  ンパン、ワイン、ビール、スコッチウィスキー、日本酒が振る舞われ、
  英国貴族のような贅沢三昧であった。17年に辻政信陸軍中佐が大和を訪
  れた際、宇垣参謀長が接待したが、刺身、エビフライ、牛肉のステー
  キ、ビールと日本酒が振る舞われ、大和ホテル(長官室は超厚手の絨
  毯、紫檀の机にタンス、著名な画家の絵画が飾られていた。)とはよく
  言ったものだと皮肉った話はよく知られている(同型艦は、武蔵旅館と
  呼ばれた。)。ラバウル海軍基地でも、羊羹、チョコレート、サイダ
  ー、キャラメル、アイスクリーム、タバコなどが豊富で、内地と比べる
  とはるかに恵まれていた。しかも、海軍では銀蝿(酒のつまみを炊事場
  や倉庫からくすねること)の慣習に加え、搭乗員は増加食を食べきれな
  いと捨てていた。マレー沖海戦では、戦闘中に山本長官が三和参謀と戦
  果についてビールを賭け、MI作戦をはじめ、19年6月のマリアナ沖海戦
  に至っても、艦内では「酒保開け」の号令で酒、ビール、缶詰、菓子な
  どで宴が催され、先制攻撃の一報の際には旗艦大鳳や木更津停泊中の軽
  巡洋艦大淀内の連合艦隊司令部でも、作戦成功の祝杯のビールが用意さ
  れた。このように海軍は、国民感覚からかけ離れた異質な存在であっ
  た。前18年2月頃重巡洋艦鳥海では、兵食が煮魚、大根、麦飯という質
  素な中、士官は豪勢な洋食のフルコースであったが、これでは一緒に戦
  えないとして、若手士官の発議で、艦長了解のもと、皆が兵食を食うこ
  とになったものの、1か月余りで取りやめとなった。空母蒼龍でも、柳
  本柳作艦長は自ら兵食を口にし、同艦に坐乗する山口多聞少将が気遣っ
  て、柳本大佐を司令部の食事に誘うも、頑なに受けつけず、結果副長以
  下艦橋士官もやむを得ず従ったことがあった。海軍では、潜水艦だけは
  同じ飯であったというが、食事代は士官は自費、下士官兵は官給であっ
  たことが、その最たる理由であった。しかし、戦時であれば意味がなさ
  ないどころか、悪弊であることが分かっていなかった。陸軍では搭乗員
  を除けば、将官の飯も兵食より少し白いだけで基本的に同じであり、特
  攻隊員が唯一の例外であった。敗戦に伴う武装解除の際、倉庫を検査し
  た豪州士官は、「日本には軍隊が二つあるのか」と尋ね、通訳が、「い
  や、日本軍は一つです」と答えると、「先の(陸軍)食料倉庫には粗末
  な物しかなかったが、この(海軍)倉庫には、米は勿論、肉類の缶詰、
  野菜の缶詰、調味料、酒類、嗜好品(タバコなど)まで沢山あるのはな
  ぜか」といぶかったという実話があるほど、まるで違っていた。先の大
  戦では陸軍60~70万人が餓死したとされるが、海軍餓死者の記録は見当
  たらず、糧食だけでなく、嗜好品にも雲泥の差があった。海軍では、下
  士官に精神注入棒(バッター)による下級兵への制裁(殴打)を制度で
  あるかのように公然と認めていたが、実態は殴る蹴るのリンチともいう
  べき悪辣さで、負傷はもとより死者が出る深刻な事態となっており、私
  的制裁を禁ずる通達が出されるほどであった。18年6月に停泊中の戦艦
  陸奥が謎の爆発事故で沈没したが、イジメによる自殺や放火など乗組員
  によるものと疑われており、同様に上官に対する恨み、不満が原因とみ
  られる爆発事故により数多くの戦艦、巡洋艦などを、多数の死傷者とと
  もに失った。
(※35)   陸軍はろ獲した3機のB-17D/Eを調査、自動操縦装置とノルデン爆撃
  照準器をコピーした後、教材機として飛行させ、海軍搭乗員を含め対爆
  撃機戦闘(迎撃)訓練を実施、機内に搭乗した分隊長が攻撃動作を監督
  指導した。ノルデン爆撃照準器は、ジャイロを応用し姿勢を水平に保
  ち、高度や機速などの飛行諸元を入力することで、照準角度を修正でき
  る機能を有しており、米軍が日本への技術情報の流出を最も警戒した装
  備品の一つであった。陸軍がろ獲した機体は、戦闘機だけでも、F2A、I-
  16(モンゴル人パイロットによる亡命機)、P-40B/E、ホーカーハリケ
  ーンMKⅡB、スピットファイア、P-51Cなどがあり、現地で部品を集め
  修復した後、飛行性能試験はもとより徹底した調査が行われるととも
  に、一部は作戦機や練習機など実用機として使用する傍ら、立川の陸軍
  航空技術研究所、後には陸軍航空審査部飛行実験部に送られ、調布、
  柏、下館、伊丹、大正などで一般展示を行った他、三重の明野飛行学校
  では対抗戦による巡回指導、防空演習などで使用した。フィリピンで
  は、ろ獲した2機のP-40を利用して、紅白戦を演練し索敵、攻撃回避要
  領など、対戦闘機戦技の研究が行われた。P-51Cは、国内で黒江保彦少
  佐が対戦闘法の巡回指導に使用したが、後に電気系統の故障で飛行不能
  になった。
(※36)   夜間戦闘ができれば、技量甲が認定され、一人前の空中勤務者とし
  て認められた。技量乙は、技量甲のうち、教官、助教などで飛行任務を
  離れている者をいい、技量丙は昼間のみの戦闘を可とする者をいう。海
  軍にはこうした技能管理もなかったことを含め、夜間戦闘を組織だって  
  取り組むことはなかったことは明らかである。所沢の飛行第53戦隊(屠
  龍)は夜間戦闘専門の部隊として新設されたもので、ふくろう部隊、猫
  の目部隊と呼ばれた。空中勤務者は、3日に1日は午後に起床、夕刻日没
  前から訓練(夜間離着陸(単機・編隊)、夜間編隊、照空灯に照射された
  仮想敵機への攻撃)を開始し、夜明けに暗室内で就寝するという日課
  で、日中外出をする際はサングラスを着用した。また瞳孔を大きくする
  ビタミンA剤(み号剤)を服用した。
(※37)   一方、ゼロ戦52型が速度増大を図るために取り付けた単排気管は、
  排気炎が明るく夜間飛行の妨げとなった。
(※38)   厚木基地は、2,000mと1,800mの主滑走路2本の他、6本の補助滑走路
  を有しており、隣接する高座海軍工廠で生産された雷電は地下道を通じ
  て基地内に搬入できるようになっていた。地下10mくらいのところに修
  理工場、部品倉庫、燃料タンクなどの軍事施設に加え、兵員2,000~
  3,000人を収容できる居住施設、病院、炊事場、酒保など生活関連施設
  までもが全て地下に収容されていたことに加え、米や野菜をつくり、
  鶏、豚、乳牛などの飼育も行われていたという。
(※39)   海軍は、「本土防空任務協定(大正12(1923)年)」を根拠に全般の防空
  は陸軍の担当とし、軍港、要港、所在地及びその附近の防空のみを担当
  することとなっていると主張していた。
(※40)   源田司令は、三四三空の編成に当たり、「いいか、目標はあくまで敵
  の戦闘機だぞ。たとえ、爆弾を抱いていても、爆撃機にかかっちゃあい
  かん。戦闘機を全滅させれば、爆撃機は自然に出てこなくなる。分かっ
  たな」と訓示し、「ほかのものには目をくれるな」と厳命していた。
(※41)   日米開戦当時、福生の飛行実験部所属し屠龍などの実用試験に従事
  した荒蒔義次少佐(陸軍機のみならず、海軍飛行艇まで操縦した操縦士
  として航空史に名を残した。)は、高高度戦闘機及び夜間戦闘機の開発
  の必要性を訴え、「今からやっておかないと間に合わない」と力説して
  いたが、周囲は耳を貸さず2年近くが無為に経過してしまった。
(※42)   巌谷二三男著『海軍陸上攻撃機』の中には、次の記述がある。「少
  なくとも、ソロモン海戦以来、艦隊または戦隊の航空主務参謀が、戦場
  の実体を知る目的で攻撃機とともに電爆撃戦を視察、体験した例を知ら
  ない。(中略)いやしくも長官、司令官を援けて戦闘を指導する任務を持
  つ参謀たちが、すぐれた作戦を案出計画するためには、敵を知り己を知
  ることが根本要素をなすものであるから、戦が困難になればなるほど、
  一層正確にその真相を洞察していなければ、1日といえどもその職に耐
  えられるものではない。(中略)戦が苛烈になるに従って、司令部と実施
  部隊との離反の傾向が見えて来たことは、悲しい現実として回顧反省さ
  れることである」と。
(※43)   昭和2(1927)年島根県美保関沖で夜間無灯火の演習中に軽巡、駆逐艦
  が多重衝突が発生し、百数十名の命が奪われた。軍法会議による判決前
  日、巡洋艦神通艦長水城圭治大佐は自決した。水城艦長は、訓練におけ
  る砲音の影響で耳が遠くなっており、駆逐艦が接近していると航海長が  
  報告したものの、聞こえていなかった。指揮官の加藤寛治連合艦隊司令
  長官は、責任を問われなかった。昭和4年4月22日山本長官は、赤城艦長
  勤務時、演習時の悪天候による航空事故で、数機を除く大半を洋上の不
  時着水により喪失、4名の殉職者を出した。
(※44)   戦後、奥宮正武氏の指摘によって陸軍航空隊が洋上飛行ができなか
  った例として取り上げられるようになったのが、昭和18年4月17日トラ
  ックからラバウルへ移動中の飛燕の編隊が燃料切れなどにより27機中11
  機が不時着した事故である。しかし、これは新機種として量産後間もな
  いため、翼に取り付けられた弁の摺り合わせの工作が悪く、空気抜きの
  穴から燃料が吸い出されたことによる燃料漏れが主たる原因で、無線の
  不具合も重なった影響が大きく、奥宮氏が指摘した陸軍搭乗員の技量不
  足には当たらない。現に第六十八戦隊の飛燕5機や南京の独立飛行隊八  
  三中隊の九九式襲撃機12機が、島づたいに給油しながら、ニューギニア
  のウエワク基地への全航程6,000kmを、1機の損失もなく、10日間で到
  着したケース、第63戦隊の隼28機が第62戦隊の97重爆9機とともに、明
  野飛行場からニューギニアのホランジャまで全航程8,000kmを1機の損失
  もなく、14日間で到着したケースなどがある。一方で飛燕は、エンジン
  の気化器吸入口から砂塵が混入するというトラブルに予想外の不調を抱
  え、現地で対応を迫られたのも事実であった。
(※45)   戦後第一航空艦隊首席参謀の猪口(詫間)力平(源田實と海兵同
  期)・中島正共著の『神風特別攻撃隊』によって、昭和19年10月20日猪
  口力平中佐が、「神風特別攻撃隊」の名称を提案し、大西瀧次郎中将
  が、「敷島隊」以下の隊名をつけ特攻隊を編成したと記したことから、
  特攻の創始者は大西瀧次郎中将であるかのような通説が定着した。更に
  軍令部第一(作戦)部長の中澤佑少将が、大西中将が内地を出発する前
  に「大慈に基き航空機を以って必死体当たり戦法を採る以外に現状を打
  開することは不可能」として特攻の了解を得るため、及川軍令部総長の
  官邸を訪ねた際、及川大将が、「よく分かった(戦死者の処遇は考え
  る)が、決して命令はしてくれるなよ(搭乗員の発意でやるのなら差し
  支えないが)」と念押ししたとして、大西中将が特攻の創始者であるか
  のように回想録の中で語ったり、講演会などでふれ回ったりしたことで
  あたかも事実かのように語り伝えられ定説となった。しかし、中澤少将
  はこのとき前線におり、その場にいなかったと考えられる上、及川総長
  が病没(昭和33年5月)した後の発言であったため、周囲からも様々な
  指摘があったが、知らないと逃げとおした。こうして、大西中将が自決
  し、軍令部など上層部が皆、口を堅く閉ざしたため、特攻神話がまるで
  動かしがたい史実かのように広まった。
(※46)  米側の発表では、米海軍(海兵隊を含む。)の旧軍機撃墜総数は、
  9,282機(地上撃破を含む。)
(※47)   陸軍の大戦中の航空事故数は、計9,860件(昭和16年以降:610、
  980、1,810、3,650、2,810)で、損失機数の61%、殉職者は約1,800名
  であった。
(※48)   昭和19年、海軍航空隊は航空機の乱造、器材の粗製、燃料の粗悪な
  ど様々な悪条件が重なった上に、陸軍以上の搭乗員不足で、飛行訓練は
  日々激しさを増し、低練度の操縦員に過度な負担がかかり、事故が続発
  した。このため、航空事故に限り検死手続きが簡略された。昭和19年10    
  月、海軍第二五二飛行隊では、九州鹿屋基地から沖縄小禄飛行場に進出
  する際、23機中、6機が搭乗員の技量未熟、整備不良で脱落した(到着
  は74%)。ちなみに、昭和19年10月の海軍搭乗員(搭乗整備員を含
  む。)の練度は、尉官の87%が、下士官兵の51%が要練成対象者であっ
  た。
(※49)   陸軍の搭乗者損耗数(事故等を含む。)は、昭和19年が1,188名、昭
  和20年が993名である。
(※50)   終戦時の陸軍搭乗員生存者は、残存作戦機数をやや上回る約7,000~
  8,000人、戦死者数は明らかではないものの、2,000~3,000人とみられ
  る。海軍戦闘機搭乗員は、終戦時約3,700名が残存したが、大半が急速
  練成中の搭乗員であり、実戦に必要な技量を有した搭乗員は1,000人に
  満たず、開戦当初からの戦闘機搭乗員のうち、約90%(4,330名)以上
  が戦死したとされる。このうち、ゼロ戦搭乗員は約3,600名にも及ぶ。
(※51)   陸軍は、前線飛行場に参謀本部直轄の航空部隊を、航空保安、気
  象、燃料補給、給養、宿舎、警備等の面で支援する兵站部隊(通称風部
  隊)を配備した。
(※52)   朝鮮戦争の戦闘被害が目立って多いのは、米軍でも事故死を戦死と
  偽って報告したからであるが、これは遺族の補償を考えた個人的配慮だ
  ったとされている。
(※53)   高木惣吉元少将の見解によれば、海軍でいうところの独断専行と
  は、本来、抗命、命令違反あるいは半ば公然に無視することとは違い、
  次の3つの要件がある場合に限り、それも作戦行動中のみ許されるもの
  であったという。
   ① 動機の純粋性、結果に対する引責の勇気のあること。
   ② 個人的利害、局部的利害によって不利益を無視しないこと。
   ③ 情報、判断、前提条件の変化を的確に掴むこと。
   この基準に照らし合わせれば、南雲中将のMI作戦における対艦攻撃へ
  の兵装転換は、③に関し重大な影響を与える情勢の変化があったわけで
  はないと考えられるため、独断専行には当たらず命令違反の疑いがあ
  り、指示を出した側の過失の問題を除けば、更迭などの処分を科すこと
  も可能であったことになる。

■主要参考文献等⑥

平間洋一『日英同盟』PHP新書(2000年)
E・バートレット・カー『東京大空襲』NF文庫(2001年)
太佐順『本土決戦の真実』学研M文庫(2001年)
平塚柾緒『パールハーバー』学研M文庫(2001年)
兵藤二十八『パールハーバーの真実』PHP研究所(2001年)
兵藤二十八、別宮暖朗『技術戦としての第二次世界大戦』PHP文庫(2007年)
佐藤晃『太平洋に消えた勝機』光文社(2002年)
吉田一彦『暗号戦争』日経ビジネス人文庫(2002年)
神田恭一『横須賀海軍航空隊始末記』NF文庫(2003年)
小谷賢『イギリスの情報外交』PHP新書(2004年)  /
           『日本軍のインテリジェンス』講談社(2007年)
辺見じゅん『男たちの大和』ハルキ文庫(2004年)
大内建二『護衛空母入門』NF文庫(2005年)
斎藤睦馬『激闘ラバウル高射砲隊』NF文庫(2005年)
吉田満・原勝洋『ドキュメント戦艦大和』文春文庫(2005年)
岩間敏『石油で読み解く完敗の太平洋戦争』朝日新書(2007年)
徳田八郎衛『間に合わなかった兵器』NF文庫(2007年)
永沢道雄『戦艦大和と日本人』光人社(2007年)
秋元健治『戦艦大和・武蔵』現代書館(2008年)
松本喜太郞ほか『戦艦大和開発物語』NF文庫(2009年)
山口九郎右衛門『太平洋戦争は勝てる戦争だった』草思社(2009年)
戦争と空爆問題研究会『重慶爆撃とは何だったのか』高文研(2009年)
小林英夫『ノモンハン事件』平凡新書(2009年)
林えいだい『重爆特攻「さくら弾機」』NF文庫(2009年)
鈴木勘次『特攻からの生還』NF文庫(2010年)
佐山二郎『日本陸軍の火砲高射砲』NF文庫(2010年)
コンスタンティン・プレシャコフ『日本海海戦悲劇への航海』
NHK出版(2010年)
読売新聞取材班『検証・日露戦争』中公文庫(2010年)
左近允尚敏『ミッドウェー海戦』新人物往来社(2011年)
樋口晴彦『レイテ決戦』NF文庫(2011年)
永末千里『航空自衛隊員誕生す』NF文庫(2012年)
石井正紀『陸軍燃料廠』NF文庫(2013年)
米国戦略爆撃調査団編纂『太平洋戦争の諸作戦(第2巻)』
出版協同社(1956年)
高木惣吉『太平洋海戦史[改訂版]』岩波新書(1959年)  /
              『私観太平洋戦争』文藝春秋(1969年)  /
              『自伝的日本海軍始末記』光人社(1971年)  /
『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社(1979年)
高木惣吉写稿・実松譲編『海軍大将米内光政覚書』光人社(1988年)
レスリー・R・グローブス『私が原爆計画を指揮した』恒文社(1964年)
C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社(1966年)
富岡定俊『開戦と終戦人と機構と計画』毎日新聞社(1968年)
実松譲『情報戦争』図書出版社(1972年)
           『真珠湾攻撃までの365日』光人社(1982年)  / 
           『米内光政書記官の回想』光人社(1989年)  /
           『日本海軍英傑伝』NF文庫(1994年)



いいなと思ったら応援しよう!

keen 誠にありがとうございます。大変恐縮しております。ご期待にお応えできますよう引き続き頑張って参ります。ご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。