縄文の風~神武の東征は経済戦争! 神武はターミネーターではなく タフネゴシエイターだった! 海の縄文人の本領発揮(クロシアンの優しい統合)!
今朝、起きたときふと、私の日本古代史におけるいくつかの疑問が氷解し、いい気分です。
一つ目は、なぜ倭国大乱であれだけ殺しあった倭国が、大和王権成立過程の150年において、大きな戦乱の考古学的エビデンスがないのか?出雲の国譲りを含め、なぜ大きな戦闘なく大和連合は成立したのか?
二つ目は、なぜ神武天皇は浪速からの進撃に失敗し、神のお告げやヤタガラスの先導で、熊野から進撃したとしたと書かれているのか?
三つめは、なぜ、神津島の黒曜石が、日本中に広がっているのか?
四つ目は、なぜ列島東端の鹿島が早くから歴史に登場するのか?
答えは、すべて、私の大好きな海の縄文人クロシアン(黒潮に乗って、縄文時代に、南方から日本に流れ着いた、海洋民族を私はクロシアンとよんでいます)でした。
もちろん、神武の東征とは、自称天孫勢力(以下天孫)が150年かけて日本を統一したプロセスの集合名詞で、神武天皇というのはこの統一のシンボルとして理解してます。
私はこの天孫勢力は、倭国大乱の2世紀には筑紫平野にあった奴国ではと考えています。奴国(なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて九州に存在したとされる国。『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』に倭人の国として現れており、現在の福岡市や春日市など福岡平野一帯を支配していたとされています。海神族(漁労民)と天孫族(農耕民)が衝突・共存した地として葦原中国であると主張している海人族研究者もいらっしゃいます。
『後漢書』東夷伝には、建武中元二年(紀元57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬を与えられたという記述があり、江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていました。
私は、神武の東征とは、この奴国海軍が150年かけて奈良盆地に大和連合を設立したことだと考えています。ですから、基本的に陸上での、大きな殺し合いは発生せず、ゆっくり経済・物流を強化しながら出雲系の国を含め徐々に統合を進めたのではと考えています。響灘から、瀬戸内、紀伊水道、熊野灘、伊勢湾、伊豆半島から鹿島に至る広大な沿岸を支配し、鹿島の鉄や伊勢や瀬戸内の朱鉱石や神津島の黒曜石まで支配したのではないかと思います。極東のカルタゴ?
ですから神武の東征は激しい殺し合いではなく、優しい経済戦争だったのでは?
なぜ当初、神武東征軍は浪速からの進撃に失敗し、神のお告げやヤタガラスの先導で、熊野から進撃したとしたと書かれているのか?真相は、熊野の紀氏や伊勢の尾張氏の勢力を活用しての奈良盆地の先住王国である物部/ナガスネ王国への降伏勧告だと思います。鉄器文化の近代的海人勢力が古くからの出雲ネットワークの銅鐸勢力を倒した瞬間でしょうか?
神津島の黒曜石は古代から有名だったと聞いていますが、誰が流通させていたのか?常陸風土記によれば、七世紀には鹿島の砂鉄と鉄剣鋳造は有名であったようだが、誰が近畿や西日本に運んだのか?
そう、目から鱗です。4世紀には尾張氏等海人ネットワークは既に、太平洋側沿岸の海上交通・物流を支配していたのですね。

記紀に、尾張氏や海人系ネットワークについて触れている部分が、ほとんどなく見落としてしまいました。記紀の編纂目的が天智系の正当性の強化と、有力豪族の外戚政治の排除と考えると、大海人皇子の素性とその有力支持者の尾張氏については、意図的に抹消する必要があったのですね。当たり前のロジックですね。
でもよかったです。優しい縄文の風は古代でも吹いていたんですね。
「風が吹いている」
時代はいま、変わっていく僕たちには願いがある
この涙もその笑顔も、すべてをつないでいく
風が吹いている、僕はここで生きていく
晴れわたる空に、誰かが叫んだ
ここに明日はある、ここに希望はある
・・・・・・・・・・・・・・・・・
優しい歌、聴こえている背中を押す言葉がある
このいのちよ、この一瞬よ、誰かの光になれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しき日々はここにある・・・・
風よ吹いていけ君と夢をつなぎたい
愛しあえるだろう、つくりあえるだろう
この時代を、僕らをこの瞬間(とき)を
