余命わずかの患者さんが望む事
死期が迫ると何を後悔し、何を望むのか?
「ありのままの自分で生きたかった」
「仕事ではなく、家族を大切にすれば良かった」
「最後に、愛してる人に愛してると伝えたい」
このような話しは、よく本やドラマで描かれる。
実際に、どんな話しが聞けるのか?
私は以前から興味があった。そのため、看護師として病院で働き始めてから、機会があればそのような話しを聞かせていただいた。
あくまでも、関係性が築けている患者さんで、かつ、普段からよく話をしてくれる方々だ。
彼らとの会話の中で、
「今(または過去に)何でも自由にできたら、何かやりたい事などありますか?」そう尋ねてみる。
口から食べる事が困難になった患者さんは、かすれた声でこう言った。
「ケンタッキーが食べたいよ…」
ケンタッキー…、いや、確かにおいしいけど、違うのよ。もっと、その、愛とか、人生とは、みたいな話に繋がるようなものが聞きたいのよ。
しかし、私の期待に反して、彼らの望みは、すごく些細なことだった。
「つめたーい水が飲みたいっ!」
「トイレに歩いて行きたい…」
「湯船に入りたい」
私は、半ば誘導するかのように尋ねる。
「海外旅行にもっと行けば良かったとかは思わないですか?」
「旅行?疲れるし、いいよ」
そう答える人も多かった。
が、今考えると当たり前だ。終末期の患者さんは、病気や薬剤などの影響で倦怠感や眠気などもあり、そのような状態で過去を振り返っても、そう感じるだろう。
「人生やり直して、こうしたい、ああしたいとかは思わないよ。またやり直すなんて面倒だよ」
そう話す人も少なくなく、過去に囚われているような人はあまりいなかった(もちろん、その返答の背景は様々であることは間違いない)。
ただ、実際こんなものなのかなぁとも思った。
※あくまで限られた個人的体験からの感想です。
ある患者さんは、体調が徐々に悪化していく中、「家に帰りたい」との望みを口にした。
「家に帰って、何かやりたいですか?」
「いや、ただ帰りたい」
その患者さんは、寂しそうな目で遠くを見つめた。
「何でですか?」
「だって自分の家だもん」
その言葉に、何て愚問をしたんだと思った。
住み慣れた家に帰りたい、そんなの当たり前の事だ。その思いに意味や理由などいらない。何も考えず、「何でですか?」なんて聞いた自分が恥ずかしかった。
1か月後、その患者さんの願いは叶わず、病院で息をひきとった。
私が話しを聞かせていただいたのは、高齢の方が多かったが、中には30代の方もいた。
その方も、やはり、自宅で最後を迎えたいと希望されていた。ただ、状態的に自宅はもう厳しいのではないかという声も多数あった。しかし、退院支援スタッフの尽力で、何とか家に退院できる事になった。
退院前、私は、その患者さんに「家に帰ったら、何かやりたい事はありますか?」と尋ねた。
その患者さんの目はうつろで、頬は痩せこけ、病気の影響で皮膚は黄色くなっていた。
「そうですね……、コーラ、飲みたいですね」
か細い声でそう言い、うっすらと微笑んだ。
退院して数日後、退院支援スタッフが、その患者さんが自宅で亡くなったと教えてくれた。
死期が迫ると人は何を後悔し、何を望むのか…
今のところ、まだ、ドラマチックでロマンチックな話しには出会えていない。
食べたい物を食べる、歩いてトイレに行き排泄する、住み慣れた家で日々を過ごすなど……
これらは、多くの健康な人にとっては取るに足らない、当たり前過ぎる事である。だが、私が出会った人々の多くは、それらの事さえも叶わずにこの世を去っていった。
彼らの言葉や姿を通して、ありきたりな言葉になってしまうが、何でもない日常の有り難さというものを実感できるようになった。まるで、当たり前として素通りしていたものが、キラキラと急に美しく輝いて見えた感じだ。
このような学びがあると、まぁ、看護師も色々あるが、やってて良かったとつくづく思う。
……と、悟ったような事を書いたが、普段は、日常の些末な事に落ち込んだり、イライラしたり、もっとこうなればいいのになんて考えたりし、すぐにその気づきも忘れてしまう自分がいる。
ただ、だからこそ、折に触れて思いだす。
大切なその気づきや、それを教えてくれた人たちを。
次の休みは晴れそうだ。さて、何をしようか。
初夏の公園で、ケンタでも食べようか。コーラもセットで買っちゃおうか。
