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「番外編|熊と彼女と私」

今から20年前。

長野県の山で、
当時付き合っていた彼女と
ハイキングをしていた。

空気が気持ち良くて、
鳥の声しか聞こえないような午後だった。

その時。

突然、
横の茂みからツキノワグマが出てきた。

距離、
わずか2メートル。

普通に目が合った。

時間が止まる、
という表現は大袈裟だと思っていたけど、
あの日だけは本当に止まった。

黒かった。
大きかった。
あと、
信じられないくらい臭かった。

獣臭というやつだと思う。

「あ、これ絶対勝てないな」

人間、
本当に危険を感じると、
頭の中が一瞬で空っぽになる。

そして全身の毛穴が、
一気に開く。

そんな感覚を、
あの日初めて知った。

気がついたら、
僕は全力で山道を走っていた。

人間、
極限状態では
愛より生存本能が勝つらしい。

あと足がめちゃくちゃ速くなる。

とはいえ、
走ると熊に追われるという知識だけは、
緊急時でも頭に残っていたようで、
実際にはオリンピックの競歩選手のような逃げ方だった。

それも、
ゴールドメダリストばりに。

そして途中で、
何かを忘れている事に気づいた。

とても大切な事に。

そう。

『彼女』

幸い、
熊もこちらに興味を失ったのか、
僕たちは無事生還した。

その後、
近くのホテルのラウンジで
彼女にめちゃくちゃキレ散らかされた。

暖かい照明。
静かなジャズ。
湯気の立つコーヒー。

そして飛んでくる、
「ありえないんだけど」
という言葉。

ツキノワグマとは別ジャンルの恐怖だった。

ちなみに、
その彼女とはその後ちゃんと結婚し、
数年後にちゃんと別れた。

人生、
何が正解だったのかはよく分からない。

ただ、
昨今の熊被害のニュースを見るたび、
あの日の事を思い出す。

2メートル先で目が合った時の、
あの絶望感と獣臭。

たぶん、
あれは刃牙でもコナー・マクレガーでも勝てない。

人間って、
本当に怖い時はこうなるんだと知った日だった。

そして、
もし今また同じ状況になったら、
僕はもう同じ過ちは繰り返さないと思う。

今度はちゃんと、
彼女を熊に差し出すはずだ。

確実に。

なぜなら、
熊より怖かったからである。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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