能登半島地震による介護職員派遣
第一話 日常
「明けましておめでとう」
2024年1月1日。
兄弟や甥っ子からのLINEで新年の挨拶を交わしながら、近況を話す。
「正月はいつ集まる?」
いつもの新年、いつもの会話。
それが、その日の朝の日常だった。
夕方、ニュース速報が流れた。
能登半島沖で地震。
震度の情報はすぐに出たが、状況は分からない。
自分はお雑煮を食べながら、
「遠い場所で大変なことが起きたな」と、どこか他人事のままコタツに入っていた。
1月2日
救出の映像、津波のニュースが次々と流れる。
画面の中だけが現実で、
コタツの中は変わらない日常のままだった。
そのギャップに、少し戸惑いながらも、
この時の自分は、ただ無事を祈ることしかしていなかった。
夕方には実家に帰り、家族との時間を過ごす。
それもまた、いつも通りの正月だった。
正月が明け、職場に戻る。
新年の挨拶を交わし、普段と変わらない業務に入る。
そんな中で、一通のメールが届いた。
石川県の能登半島地震により、高齢者施設のライフラインが途絶していること。
受け入れ先を探していること。
そして、現地には福祉避難所が設置され、介護職員の派遣が求められていること。
ここで、初めて「遠い場所の出来事」だったものが、少しだけ近づいた。
第二話 相談
派遣のメールを見たとき、
「ああ、困っているんだな。行こう」
それだけだった。
後から思えば、簡単に決めたつもりになっていただけで、
実際にはそんなに単純な話ではなかった。
介護の現場は、常に人が足りていない。
自分の職場も例外ではない。
県外への派遣となれば、移動を含めて一週間近く空けることになる。
現実的に考えれば、簡単に「行きます」と言える状況ではなかった。
上司に相談した。
「今はまだ状況が安定していない。行くのは待ちなさい」
安全を考えれば当然の判断だった。
それでも、自分の中では「今だからこそ行くべきじゃないか」という思いがあった。
話しているうちに、相談は少しずつ交渉のようになっていった。
最終的には、上司が折れてくれた。
派遣は申請を出し、マッチングが成立して初めて決まる。
すぐに行けるわけではない。
それでも、自分は先に申請だけ済ませた。
決まるまでは、家族にも職場にも何も言わなかった。
日常は変わらず続いていた。
——その最中に、ふと思い出すことがあった。
阪神・淡路大震災のときのことだ。
当時、自分は京都で学生だった。
四畳半の部屋でテレビを見ていた。
映像の中の神戸は、火に包まれていた。
見慣れたはずの街が、別の場所のように変わっていた。
余震で揺れる部屋の中で、不安はあった。
それでも、自分には逃げる足があった。
あのとき感じた恐怖はいつ自分の身に降りかかるか…目に見えぬ恐怖は本物だった。
けれど今思えば、それは
「自分はまだ動ける側にいる」
という前提の上にあった。
今回の地震で避難している高齢者は違う。
自分の力では動けない人もいる。
その場で支えている人たちも、限界に近いはずだ。いや、すでに限界を超えているはずだ。
……何かできるなら。
最初は軽かったはずの気持ちが、
少しずつ、理由のあるものに変わっていった。
第三話 決定通知
申請から一週間ほど経った頃、県から派遣決定の通知が届いた。
2月上旬から5日間。
移動を含めて7日間。
画面に表示された日程を見ても、どこか現実味がなかった。
決まった、というより、決まってしまった、という感覚に近い。
上司はその間も情報を集めてくれていた。
現地の状況、受け入れ体制、移動手段。
滞在できるホテルまで探してくれていた。
当初は、避難所近くの施設で雑魚寝になると聞いていた。
それを思えば、十分すぎる環境だった。
「無理はするなよ」
そう言われたとき、
何をもって無理なのか、自分でもよく分からなかった。
職場では、不在中の仕事を引き継いでいく。
いつもと同じように利用者と接し、
いつもと同じように一日が終わる。
その繰り返しの中で、
自分だけが少し先の予定を持っていることに、妙な違和感があった。
準備も少しずつ進めていく。
着替えや日用品、仕事で使うもの。
何が必要なのか分からないまま、とりあえず思いつくものを鞄に詰めた。
テレビでは、被災地の映像が流れ続けていた。
倒壊した家屋や、避難所での生活。
それを見ながら準備をしていると、
自分がこれから向かう場所が、同じ現実の中にあるとは思えなかった。
家族には、「少し出張に行ってくる」とだけ伝えた。
行き先は言わなかった。
詳しく話せば、止められるかもしれないと思ったわけではない。
ただ、わざわざ言う必要もない気がしていた。
自分の中では、もう決まっていたからだ。
もし反対されても、たぶん行っていたと思う。
その理由を、うまく説明することはできない。
正義感でも、使命感でもなかった。
ただ、行ける状況にいるのに行かない、という選択のほうが、
どこか落ち着かなかった。
だから行く。
それだけのことだった。
それでも、出発の日が近づくにつれて、
少しずつ実感のようなものが追いついてくる。
変わらない日常の中に、
確実に違う時間が差し込んできていた。
第四話 避難場所入り
出発の日は、普段と変わらない朝だった。
特別な気持ちになるわけでもなく、
いつも通り家を出て、空港へ向かった。
搭乗手続きを済ませ、保安検査を通る。
周りには旅行や出張と思われる人たちが多く、普段と変わらない雰囲気だった。
自分もその中に混ざっているが、行き先だけが違う。
そう思いながら搭乗した。
機内では、特に変わったことはなかった。
スマートフォンを見ている人や、寝ている人もいる。
客室乗務員の案内もいつも通りだった。
離陸してしばらくすると、窓の外は雲だけになった。
移動しているはずだが、近づいている実感はあまりなかった。
小松空港に到着すると、外の空気は冷たかった。
雪が残っており、足元は滑りやすくなっていた。
タクシーで金沢市へ向かう。
道路の端には雪が積み重なっていて、除雪された跡が残っていた。
気温も低く、車内との温度差がはっきりしていた。
道中、運転手から地震当日の話を聞いた。
揺れの大きさや停電、しばらく続いた混乱のことを、淡々と話していた。
その話を聞いて、少し緊張が出てきた。
……被災地に来ている。
それまではどこか遠い出来事のように感じていたが、
実際に体験した人の話を聞くと、現実として受け取らざるを得なかった。
金沢市内に入ると、街は普段通りの様子だった。
店も開いており、人通りもある。
ニュースで見た光景とは違い、チェーン店やコンビニも並んでいる。
地元と変わらない日常に見えて、少し安心した。
その一方で、
この場所に自分が来る意味はあるのか、とも思った。
ホテルに到着し、荷物を置いたあと、避難場所へ向かった。
受付で名前を伝え、登録を行う。
簡単な説明を受け、その場でシフトが決まった。
夜勤が続く予定だった。
日程が具体的に決まったことで、
ようやく自分がここで働くことになるのだと実感した。
……身体がもつだろうか。
そんな不安が、遅れて出てきた。
第五話 避難所
避難所は、もともとスポーツセンターだった。
様々な競技に使われる施設で、その中の体育館が避難所として使われていた。
一階に入った時点では、全体の様子は分からなかった。
人とテントが多い、という印象だけが残った。
話し声や足音が重なり合い、どこか落ち着かない空気があった。
今夜から夜勤に入る以上、全体を把握しておきたいと思い、二階に上がった。
上から見て、全貌が見えた時は愕然とした。
入り口から奥まで、避難用のテントが並んでいる。
碁盤の目のように区切られていて、その数はすぐには把握できなかった。
通路は確保されているが、人がすれ違うには狭く感じた。
……これを、何人で見るのか…。
最初に出たのは、その考えだった。
しばらくその場に立ったまま、下を見ていた。
一つひとつのテントの中に、人がいる。
それを意識すると、数として捉えていたものが急に重く感じられた。
一階に降りて、トイレの場所を確認した。
車椅子対応のトイレは二か所。
一般用は複数あったが、テントからはどこも距離があった。
移動に時間がかかることはすぐに分かった。
体育館の端には医療のブースがあり、
何かあればここで対応し、必要なら搬送になると説明を受けた。
ミーティングまでの時間、施設の中を一通り見て回った。
段ボールで仕切られた乳児のスペースでは、小さな泣き声が聞こえていた。
メッセージボードには、家族や知人に向けた言葉がいくつも貼られていた。
充電スペースには、スマホを手にした人たちが静かに並んでいた。
それぞれが必要に応じて作られていることは分かるが、
全体としては、その場で積み上げられたもののようにも見えた。
到着してからずっと気になったのは、揺れだった。
最初は気のせいかと思った。
周りの人たちは特に反応していない。
それでも違和感があって、天井を見上げた。
大きな照明が、ゆっくりと揺れていた。
自分の足元も、わずかに揺れている感覚があった。
地面が安定していないような、不思議な感覚だった。
歩いていると、わずかに体が持っていかれるような瞬間がある。
立ち止まると、それがはっきり分かる。
その揺れは断続的に続いていた。
ここではこれが普通なのかもしれない。
そう思いながらも、体は慣れなかった。
気持ち悪さが、しばらく残っていた。
第六話 ミーティング
集合時間になり、介護ブースへ向かった。
すでに何人か集まっており、会話をしている人たちもいた。
初対面のはずだが、どこか慣れている様子にも見える。
一方で、自分と同じように場に馴染めていない人もいた。
後で分かったことだが、派遣は「日勤何人、夜勤何人」という形で集められており、顔合わせはこの場が初めてだった。
まず、夜勤リーダーが日勤リーダーから引き継ぎを受ける。
続いて医療職からの情報共有。
内容は最低限だったが、この状況ではそれ以上求めることもできないのだと思った。
引き継ぎが終わると、夜勤リーダーが声をかけた。
「本日来てくれた方、名前をお願いします」
順番に名乗っていく。
簡単な挨拶を交わすが、名前までは覚えられない。
今夜はこのメンバーで動くことになる。
応援を頼む場面を考えると、せめて姓だけは覚えておきたかった。
手元にメモを取りながら、顔と名前を結びつけていく。
申し送りが始まった。
ケアが必要な人についての説明だったが、名前ではなく、テントの番号で伝えられていた。
入口に貼られた番号で管理しているということだった。
一人ひとりを把握するには、それしか方法がないのだと思った。
さらに、感染症の話が続いた。
新型コロナウイルス、ノロウイルス、インフルエンザ。
いずれも館内で発生しているとのことだった。
事前には聞いていなかった情報だった。
どの段階で広がったのかは分からないが、すでに複数の対応が必要になっていた。
「夜間は交代で休憩を取ってください」
休憩時間は二時間とされた。
ただ、横になれる場所は特にない。
二階の椅子で体を休めるしかないと説明を受けた。
装備の支給が始まる。
インカム、マスク、フェイスシールド。
感染対策として必要なものだったが、すべて装着すると負担は大きかった。
耳にかかる重さだけでも、長時間耳への負担が大きいと想像できた。
準備が整う。
このメンバーで、今夜の業務が始まる。
第七話 夜勤
夕方から翌朝までが夜勤だった。
この避難所は1.5次避難所とされており、施設での生活が必要な人はすでに近隣県へ移動していた。震災から1か月で受け入れが進んでいることには驚いた。
見回りをしながら、テントの入口に置かれている歩行器や杖を確認する。歩ける人が多く、介護度としては比較的軽い印象だった。今夜は大きな混乱はないかもしれない。そう思っていた。
実際は違った。
この場所には高齢者だけでなく、身体に障害のある人、子ども連れの家族、一般の避難者もいた。介護として派遣されていたが、寄せられるのは生活全体に関わる相談だった。
同性介助を求められる場面もあったが、女性職員は限られており、すぐに対応できないこともあった。順番を待ってもらいながら説明を続けるしかなかった。
夜泣きを気にする母親を体育館の端へ案内する。
家族を探している人と一緒に館内を歩く。
相談は途切れなかった。
トイレ誘導はあらかじめ決められており、時間ごとに声をかけながら対応した。
深夜0時頃、インカムで応援要請が入った。
車椅子トイレへ向かうと、外には列ができていた。中に入ると便器が詰まり、汚物が水と一緒に溢れていた。認知症の方が尿パッドを流してしまったようだった。
このままでは使えない。待っている人もいる。
手袋越しに便器へ手を入れ、詰まりを引き抜いた。
水が一気に流れ出し、床を清掃し、消毒する。
終わったと思った直後、またインカムが鳴った。
感染症対応の要請だった。
指定されたテントの前には印が貼られており、装備を着け直して中に入る。汚れたシーツや衣類をまとめ、決められた場所へ運ぶ。
同じように動くスタッフが周囲にいた。スタッフらの名前はまだ覚えていないが、それぞれが役割を理解して動いていた。
気づけば時間が過ぎていた。
朝に近づくにつれ、最初の緊張は少しずつ薄れていった。
外は夜に降った雪が止み、日に照らされ雪景色が美しく感じた。
朝食の準備が始まる。全国から届いた物資の中から、おにぎりやパン、果物を並べる。
歩ける人は自分で取りに来る。
難しい人にはテントまで運ぶ。
なぜか梅のおにぎりを選ぶ人が多かった。
他のスタッフに聞いても同じだった。
食事をその場で食べず、袋に入れて残している人もいた。
回収の指示は出ていたが、簡単には手放してもらえない。
「あとで食べる」
「家族に渡す」
「昼に食べる」
それ以上は聞かなかった。
中にはこの避難所が開かれてからずっと暮らしている方が居るのだ。
明日の食料への不安…。
確保する理由であろう。
並べられている物資の中に、温かい食べ物はなかった。
第八話 夜勤明け
朝食の片付けが終わっても、すぐに避難所を離れることはできなかった。
決められた時間で上がるようには言われていたが、現場はまだ動いていた。
夜勤リーダーも帰らず、相談対応を続けていた。
昨夜、巡回中に一人の高齢女性が介護ブースに来ていた。
夫を探している、という話だった。
昨夜は一緒に歩きながら探したが暗闇だったから直ぐに帰られたのだが、朝になり相談に来たのだろう。
どう対応するべきか迷い、「県の担当に伝えましょうか」と声をかけたとき、
インカムから声が入った。
その方の夫は震災で亡くなっている。何度もブースに相談に来ているということだった。
言葉が出なかった。
目の前にいる本人に、その事実をどう伝えるのか分からなかった。
結局、その場では何も言わず、話を聞くことしかできなかった。
同じ話を何度も繰り返しながら、女性はしばらくしてブースを離れていった。
気づけば、予定の時間を過ぎていた。
初日の夜勤を終えたという実感と、
それとは別に、まだ終わっていないような感覚が残っていた。
避難所の外に出ると、雪は止んだが北陸の空気は冷たかった。
体の奥にまで冷えが入り込むような感覚があった。
ホテルへ戻るため、タクシーを呼ぶ必要があったが、
入口には同じ夜勤を終えたスタッフが何人か立っていた。
すでに手配しているが、なかなか来ないという。
立ったまま待つ時間が長く感じた。
足の疲れがそのまま残っているのが分かる。
公衆電話の横にはタクシー会社の名前が並んでいたが、
見慣れないものばかりで、どこにかければいいのかも分からなかった。
後から聞くと、他の避難所からの要請も多く、ドライバーの数自体も減っているとのことだった。
結局、ホテルに戻れたのは昼を過ぎてからだった。
強い空腹を感じていた。
何を食べるか考える余裕はなく、近くの店に入り牛丼を注文した。
特別な味ではない。
それでも、普段と同じ味を口にしたことで、少しだけ落ち着いた。
気づけば、滞在中は同じものばかり食べていた。
非日常から現実に帰るには必要な味だったのだろう。
ホテルに戻り、靴を脱いだとき、足の重さをはっきりと感じた。
そのままシャワーを浴びる。
温かい湯に触れたとき、ようやく身体の緊張がほどけた気がした。
昨日、小松空港に降りて移動しホテルから直ぐに避難所行き夜勤である、ずっと緊張したままだったのだ。
職場へ簡単に報告を入れ、ベッドに横になる。
考える間もなく、意識が落ち深く眠れた。
数時間後、目が覚めればまた夜勤がある。
そのことだけは、分かっていた。
第九話 二回目の夜勤
滞在中のメンバーは、私より早く現地入りしていたが、派遣終了日は同じだった。
全国から集められた即席のチームだ。
夜勤リーダーは山口県から来ていた。
この男、凄まじいイケメンである。
同じ介護ブースに私と並んでいたら、まず間違いなくこの男に相談が集まる。今後はイケメンとすり。
東京・新宿から来た元エンジニア。声は小さく、話す内容は東横だの下世話なものばかりだが、高齢者の前に立つと別人のように柔らかい。
紅一点のピエロは、夜勤中でもサーカスのような調子で挨拶をする。だがその軽さの奥で、人の心の隙間に入り込むのが妙に上手い。
そして気の合ったエリアマネージャー。大阪で複数の会社を束ねる中間管理職。
この仲間たちと、助け合い、時にやらかしながら日々を回していた。
二回目の夜勤になると、緊張は少しだけほどけていた。
イケメンから申し送りを受け、それぞれ配置につく。
インカムが鳴る。
「○○番号のテント、人がいるか確認してほしい」
フロアリーダーと駆けつける。
テントの中には、段ボールベッド。
小さなリュックサック。
折り畳みのテーブルには、倒壊した家屋の写真が散らばっていた。
ハンガーには男性用の上着。
確かに、ここで誰かが生活していた形跡がある。
フロアリーダーが中に入ろうとした瞬間、私は手を伸ばして制した。
ここは仮でも“家”だ。
不在をイケメンに伝えると、「県の職員が来るから待機」と返ってきた。
数分後、職員が来るなり迷いなくテントに入り、リュックの中身を確認し始める。
「勝手に上がっていいんですか?」
フロアリーダーの問いに、職員は淡々と答えた。
「テントが足りないんです。戻らない方の場所は、空けないといけない」
写真には、崩れた木造家屋。室内、室外、あらゆる角度から撮られていた。
ここに戻る場所が、もう無いことだけは分かった。
その人は、滞在中ついに戻ってこなかった。
家族を探しに行ったのか。
次の住まいを見つけたのか。
それとも
……考えるのをやめた。
深夜、インカムにピエロの声が割り込む。
「応援お願いしまーす」
向かうと、すぐ理由が分かった。
テントの両隣から響く、凄まじいイビキ。
若い女性が、その間に挟まれて横になっていた。
ピエロはすでに女性に声をかけ、状況をやんわりと受け入れさせていた。
気配りが半端ない…。感心しながら
テントの移動を手伝う。
二日目の夜勤は、そんな小さな出来事を積み重ねて過ぎていった。
休憩時間。
二階のベンチで夜食を口にする。
照明が、ゆらゆらと揺れている。
眼下には、無数のテント。
どこもかしこも、誰かの生活の残り香で満ちている。小さな灯りが点いていたりボソボソ人の会話。
箸が止まったまま、しばらく眼下の光景を眺めていた。
第十話 夜勤三回目
夜勤に入ると、まずメンバー同士で少しだけ談笑をした。
皆、近くの温泉施設で寝泊まりしているという。疲れは取れないまま、それでも笑いながら三回目の夜勤に入る。
ここに来た理由も、それぞれだった。
「誰かは来ないといけないから」
「会社の指示で」
「普段の仕事より、自分にはこっちの方が合っている」
その中で一人、「自分が来るしかないと思った」と言い切ったのは、あの元エンジニアだった。
下世話な話をする人だが、その言葉だけは妙にまっすぐに聞こえた。
巡視をしていると、毎晩同じ場所に立っている若い男性たちがいることに気づいた。
声をかけると、県外から来ている県職員だという。
避難所の運営は、介護だけでは回らない。
物資の搬送、管理、相談対応。目に見えないところで、多くの役割が動いていた。
話の流れで、彼らはホテルに宿泊していると聞いた。
少し意外だった。
自分も上司の配慮でホテルに泊まれていたが、周囲の派遣スタッフは温泉施設で体を休めている。
その違いに、どう言葉を返していいのか迷った。
「この話は、あまり他では言わない方がいいかもしれない」
そう伝えると、彼らは少し不思議そうな顔をしていた。
何が違和感なのか、その時はうまく説明できなかった。
夜勤は、この日が最後だった。
眠れない人たちは中央のテーブルに集まり、同じ新聞を何度もめくっていた。
読むというより、手に持っていることで時間をやり過ごしているように見えた。
何人かと話をする機会があり、出身地などを簡単に伝え合った。
その流れで、今夜で任務が終わり、自分は地元に戻ることも話した。
その瞬間、場の空気が少し変わった。
「帰る場所があるって、いいな」
その一言で、自分の言葉の軽さに気づいた。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
代わりに返ってきたのは、
「来てくれてありがとう」
「遠いところから助けに来てくれて、感謝しかないよ」
という言葉だった。
そのやり取りが、余計にこたえた。
「はい…」
それだけを、小さく返すのが精一杯だった。
その夜は、インカムが鳴り続けていた。
応援、応援の繰り返しで、気がつけば朝になっていた。
二階に上がり、天井の照明は揺れていたが気持ち悪さはもう無くなっていた。
ただ、しばらくその場を動けずボンヤリと過ごしていた。
第十一話 派遣処理
小松空港を離れてから、すぐに日常へ戻る気にはなれなかった。
身体はまだ夜勤のリズムのままで、どこか覚醒した状態が続いていた。
眠ろうとしても眠れない。現場にいるときの感覚が、そのまま残っている。
飛行機の中で、ようやく少しだけ眠った。
地元の空港に着いたとき、不思議とあの数日が遠く感じられた。
無数に並んでいた避難テント。
即席で集まったメンバー。
避難者との会話。
どれも確かに自分がいた場所のはずなのに、少し現実味が薄れていた。
自分がどれだけ役に立てたのかは分からない。
ただ、一つの経験として、確実に自分の中に残っている感覚はあった。
翌日からは通常業務に戻った。
仕事の合間に、派遣報告の手続きを進めていく。
報酬の申請もその一つだった。
滞在は五日間。
その日数で申請を出したが、数日後、修正の連絡が入った。
夜勤が三回だから、支払いは三回分になるという説明だった。
現地では、日勤か夜勤かを自分で選ぶことはできなかった。
結果として、日勤よりも報酬は下がる形になるらしい。
金額そのものに強い不満があったわけではない。
ただ、この仕組みのまま次の派遣者が同じ状況になることには、違和感が残った。
現地では感染症が広がっていたが、その情報は事前に十分共有されていなかった。
宿泊についても、「ホテルはない」とされていた一方で、県職員がホテルを利用している場面もあった。
いくつかの点が、うまく噛み合っていないように感じた。
その後、報酬は時給計算に変更され、情報共有についても見直しが行われると説明を受けた。
派遣が続く以上、現場に合わせて調整していく必要があるのだと思う。
非常時の中で、すべてを整えるのが難しいことも理解はできる。
それでも、現場に入る人間にとって、事前の情報と条件は少ないほど不安になる。
日常に戻ってしばらく経っても、あの場所の感覚だけが、少し遅れてついてくるようだった。
足元が揺れないということに、何度か違和感を覚えた。
帰ってきたはずなのに、自分の感覚だけが、まだ能登に置き去りのままだった。
あとがき
今回のお話を書くにあたり、被災された方々への配慮を考え、書くべきではないのではないかと何度も迷いました。
派遣から戻ったあと、しばらく現実に戻ることができませんでした。
それほどまでに、現地で見たもの、感じたものは強く残っています。
現地に向かったのは、私だけではありません。
不安を抱えながら送り出した上司や同僚、家族がいて、同じように迷いながら現地に入った多くの医療・福祉職員がいました。
その人たちが何を見て、何を感じ、何をしていたのか。
それを、偽りなく残したいと思いました。
この文章が、誰かを傷つけてしまう可能性があることも理解しています。
それでも、あの時そこにいた一人として、記しておくべきだと判断しました。
最後に、被災された方々が一日でも早く穏やかな日常を取り戻されることを願っています。
そして現地で尽力されたすべての方々に、心より敬意を表します。
森村征爾
