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[4] あのときの手の動きは、誰から受け継いだのだろう

小さいころ、祖母の横で台所に立っていた記憶があります。
大根を切る音、水の流れる音、食器の音。それらの合間に、
手が自然と動いていたことを、私はなぜか今でもよく覚えています。

教わったわけではないのに、器の持ち方や包丁の使い方が、
いつの間にか自然と身体に馴染んでいた。
あれはきっと、「手が覚えていた」んだと思います。

手の記憶、わざの記憶

わざには、「教えられたこと」ではなく、「いつの間にか知っていたこと」があります。
それが、身体が継ぐ知、手に宿る記憶です。

言葉ではなく、見て、なぞって、重ねて、触れて──そうして身体のどこかにしみ込んでいたものが、ある瞬間にふと立ち上がる。

職人の世界では師匠の背中を見て盗めと言われるように、
わざは、関係の中で生きられ、手から手へと継がれるものです。

身体の知

こうした身体の知は、実は現代のAIや技術の世界でも、大きな課題になっています。
なぜなら、今のAIは「数値化できる知識」は得意でも、
人が身体で感じている“間合い”や“重み”、“気配”のような知性は、まだうまく扱えないからです。

たとえば、道具を渡すときの“手渡しの呼吸”、
相手の動きを見ながら“ずらして調和する”感覚──
そんな触覚的で非言語的な判断が、人のわざには宿っている。

わざの在り処(ありか)

わざとは、「わかる」ことではなく、「応える」ことかもしれません。
それは誰かとの関係の中で初めて生まれ、繰り返しのなかで手に宿っていく。

だから私は、「手が覚えている」という言葉の背後に、
祖母の気配や、誰かの背中、あの日の空気を感じるのです。

あなたの手には、どんな記憶が残っていますか?
それはきっと、誰かとの関係が、静かに継がれてきた証なのかもしれません。


この文章は、「わざと技術──身体知の未来」というシリーズでも発展的に綴っています。
関心のある方は、こちらのマガジンもぜひのぞいてみてください。
マガジンへのリンク
『わざと技術──身体知の未来』|鈴木晶子|哲学・教育・技術倫理|note