漢字の宇宙。「際」12-9 際に立つ
生存の場
私たちは、
どこに立って生きているのだろうか。
内側だろうか。
外側だろうか。
あるいは、
そのどちらでもない場所なのかもしれない。
これまで見てきたように、
人はつねに「際」に立っている。
内と外のあいだ。
人と人のあいだ。
触れるか触れないかのあいだ。
越えるかとどまるかのあいだ。
さらには、
別れ際や死に際といった、
存在そのものが揺らぐ場所においても。
私たちは、
片方の側に完全に属することはできない。
どこかに足場を持ちながらも、
同時に別の側へとひらかれている。
そのあいだに立ちながら、
関係を生きている。
際とは、境界であると同時に、場であった。
分けるための線ではなく、
何かが生まれる場所。
そこでは、内と外は対立せず、
むしろ行き交い、変わり続けている。
そしてその中で、
私たちの面は立ち上がり、
関係はかたちをとり、
時間は重なっていく。
しかし同時に、
際は穏やかな場所だけではなかった。
際どさがあり、
崩れそうな緊張があり、
一歩踏み出せば変わってしまう不安定さがあった。
その危うさの中でこそ、
際立つものが現れた。
際と輪郭
輪郭が生まれ、
自分というものが、はじめて感じられる。
際とは、安全な場所ではない。
しかしそこから離れてしまえば、
何も生まれない。
だからこそ、
私たちはそのあいだに立ち続ける。
完全に理解することもできず、
完全に触れ合うこともできないまま、
それでも関係の中に身を置き、
わずかな揺らぎを引き受ける。
際に立つとは、
決めきることではない。
どちらかに完全に寄ることでもない。
むしろ、
決めきれなさの中にとどまりながら、
それでも関わり続けることである。
そこでは、明確な答えは与えられない。
しかし、
その場にふさわしいあり方は、
少しずつ見えてくる。
距離の取り方。
言葉の置き方。
触れ方や離れ方。
それらはすべて、
際においてしか見えてこない。
そしてその積み重ねが、
やがてひとつの生き方となる。
際を生きる
どのように関わるのか。
どのように越え、どのようにとどまるのか。
どのように出会い、どのように別れるのか。
そのすべては、
際において選ばれている。
私たちは、際から離れて生きることはできない。
ならば問われているのは、
どのようにその場に立つのかということ。
恐れて離れるのか。
無理に越えようとするのか。
それとも、
揺らぎを引き受けながら、
そこに立ち続けるのか。
際に立つとは、
不安定さを抱えたまま、
それでも関係にひらかれていること。
そこには、確かさとは別の、
静かな強さがある。
決して固まることのない、
しかし崩れきることもない、
そのあいだの持続。
私たちは、そのように生きている。
そのようにしか生きることができないのだ。
際に立ちながら、
出会い、触れ、
越え、別れ、
またひらかれていく。
その連なりの中に、
私たちの生はある。
そしておそらく、
そのことに気づいたとき、
生きるとは、
どこかに到達することではなく、
そのあいだに立ち続けることなのだと、
静かに理解されていくのだろう。
