【小説】バースデー・ゴースト
シャワーヘッドから流れる冷たさに、私は裸のまま絶望していた。
諦めて服を着直し、リビングのヒーターをつけた。どれだけ考えても最後にガス代を払ったのがいつだったか思い出せなかった。督促状は部屋のどこを探しても見つからない。さらに絶望が押し寄せる。
社会人になって五年が過ぎていた。ひとつ仕事を覚えるたび、プライベートをひとつ疎かにした。その繰り返しがあの冷たさだ。
コンビニに行くのすら億劫なのに、他の何をする気になれるはずもなく、私は皺の多いシーツに身を沈めた。
*
翌朝、私は駅前の公園にいた。いつもは子連れの家族が多いところだが、今日はアンティークイベントが開かれているからかお洒落な若い女性が目立つ。私はスッピンをマスクとキャップで隠しながら歩いていく。
アンティークイベントと言っても基本はフリーマーケットの形式で、ブルーシートや原色のラグの上に棚やハンガーラックを並べて商品を展示していた。クラシカルな古着屋や陶器の置物、年代物の食器。店と店の境目も曖昧で、どこか異国に迷い込んだような雰囲気だった。
「あなた、探し物があるんでしょう」
声をかけてきたのは青いケープを着た五十代くらいの女性だった。アンティークショップの店主というよりも占い師に見た目が近い。
女性の圧に押し負けて「ブローチを探しているんです」と答えると、女性は奥から木箱を持ってきた。ガラス蓋を開けると、黒い天鵞絨にいくつものブローチが並べられていた。シルバーやゴールド、陶器に石をつけたものなど様々だが、そのどれもが気後れするほどに華やかだった。
母が誕生日に譲ってくれたのも、確かこんな感じだった。
そう漏らすと「お母様にプレゼント?」と尋ねられた。曖昧に首を振ると、女性が何かを察したようにぐにゃりと口角を上げた。
「人間はね、生まれたときから両親と過ごせるタイムリミットが決まっているのよ。悪いことは言わないから、どうかお母様にもプレゼントしておあげなさい。きっとお喜びになる、いいえ、喜ばない母親なんていないと断言するわ」
興奮した口調で木箱を差し出しながら、空いた手で私の右手首を握った。色の悪い爪先が皮膚に食い込む感触に、すっと手のひらが冷たくなる。私は女性の真似をして、歪に口角を上げてみた。
「喜んでくれるでしょうか。まだ幼かった私に、夫の、私にとっては父親の浮気の証拠をもってこいって言うような母親でも、喜んでくれますか」
女性の手が滑り落ちるように離れた。目の中にわかりやすく動揺が浮かぶ。
「まあ、そういうこともあるのかしらね」
パタン、と木箱の蓋を閉じると、女性はラックの奥に引っ込んでしまった。
*
一年前に死んだ母親はブローチ集めが趣味だった。若い頃に訪れたイギリスで購入して以来、古着屋やアンティークショップを覗いてこつこつ集めていると言っていた。
そういった話ができるのは特別調子の良い日で、それ以外の母は大抵憤るか悲しむか、もしくは魂が抜けたように呆然としていた。「私の人生がめちゃくちゃなのはこの人達のせいだ」と両親の写真を見ながら何時間も泣き続けたり、ガスの支払いを忘れてお湯が出ないと金切り声を上げたりしていた。高校生になってバイトができるようになった私は、母より先に郵便受けから払込書を抜き取ってスクールバッグに入れていた。その方が平和だったからだ。
社会人になって母のいるアパートには寄り付かなくなった。そのうちに母が急死し、単身赴任をしていた父親が喪主を務めた。なにか手伝うことはあるかと尋ねたが、お前は出席だけすれば良いとの返事だった。それらしい体裁を整えた見送りが終わり、一ヶ月後には母のアパートは解約され、当然のように荷物はすべて処分されていた。父親に怒鳴り声をあげたのはそのときがはじめてだったと思う。
「あんたに何がわかる、年に一度も帰らなかったあんたに」
荷物の中には母にもらったプローチがあるはずだった。唯一と言ってもいいプレゼント。父は「持って家を出なかったのなら、大していらないものだったんだろう」と言って取り合わなかった。
私は自分がなにに憤っているのかわからなくなった。外に女を作った上に無造作に母の遺品を捨てた父親になのか、それとも母親らしいことなどほとんどしなかったあの人になのか。そのどちらも違うとわかると、私の中は永遠に膨張して破裂を待つだけの風船のようになった。
取り戻したいわけではなかった、もう失われたものに権利を主張したって、得られるものなどない。私は母がくれたブローチが何色だったかすら覚えていないのだ。
公園からの帰り道、空腹を感じてコンビニに入った。レジ前でトートバッグの中を探っていると、底から一枚のハガキが出てきた。赤い文字が印字された督促状。
「ご一緒ですか」
店員の問いかけを聞きながら、私はハガキを握りしめたまま動けなかった。
本作は『第二回すべて失われる者たち文芸賞』に参加しています。
